神社の世紀

 神社空間のブログ

湧泉信仰の語り伝え(1/2)【粒坐天照神社(兵庫県たつの市龍野町日山)】

2012年12月13日 21時54分09秒 | あまてるみたま紀行

 先日、久しぶりに遠出して神社めぐりをしてきたが、その折りに念願かなって、兵庫県たつの市にある粒坐天照神社(いいぼにますあまてらす神社)の旧社地を訪れることができた。この神社は播磨国揖保郡に登載ある式内明神大社で、天照国照彦火明命を祭神としている。初めて訪れたのは一昨年だったが、真夏の頃とて、猛暑をかいくぐっての参拝だった。西側にあった高い地点から社殿を撮影していると、拝殿と本殿をつなぐ短い渡り廊下の端に、水を容れた平皿が供えてある。その床しさがとても印象に残った。


粒坐天照神社
Mapion


社殿


供えられていた水

 そもそも当社は水と関係ぶかい。神社が発行している『粒坐天照神社のしおり』には「湧泉信仰の語り伝え」として次のようにある。 

 「神霊降臨の地、天津津祀神社[★当社の創建の地]は山頂近くにもかかわらず、傍らに常に清水のわいている小泉がある。昔から神道祭祀には水が欠かせないものである。また古宮神社[★当社の旧社地]の囲りにも絶えず湧泉がありこの水は肌のあれや、疣に特効があって、地元民はこれを喜び信仰の対象とし、その偶像として境内の巨岩に注連縄を張っている。また日山の現在地では本殿の西に湧泉があり、雨が降り続いても溢れず、千天が続いても涸れず、いつも澄んだ清水を湛えている。農業の守護神である天照国照彦火明命は農業に不可欠の水も併せて守られている証しとされ、湧泉信仰の対象の神とも信じられている。天津津祀神社がアマガミサマと呼ばれているのも故あることである。」


社殿西側の湧水舎


湧水

 当社の祭祀が湧水と関係ぶかいことは『式内社調査報告』や『日本の神々2』にも指摘されており、就中、後者には「当社を含めて三社ともに傍らに清水が湧いていることは、遷座するにあたってそういう土地が選ばれた可能性を示しており、当地では天照国照彦火明命がかなり古い段階から湧泉信仰と結びついていたことを物語るように思われる。p76~77」とある。確かに本殿の西側には湧泉舎というものがあって、石組みの中に湧水が見られる。あるいは、あの供えられていた水もここから汲まれたものかもしれない。そしてこの時は時間が無くて行けなかったが、今回、当社を再訪したのは、それぞれに湧水が見られるという当社の旧社地、天津津祀神社と古宮神社を参詣するのが目的だった。

 まず、日山にある本社の粒坐天照神社を参拝。ふきんは歴史を感じさす趣ぶかい古い家並みが残り、「播磨の小京都」の異名をとる市街地で、散策に来た観光客らしい人たちを何組も見かけた。また、裏山の白鷺山では紅葉を見物に来た人たちの車が細い道にあふれかえっていたが、これに対して神社の境内は終始、無人であった。そういえば立派な石垣があっていかにも地域の名社といった風格を誇る当社なのだが、前回、訪れた盛夏も気が遠くなりそうな静寂につつまれていた。


再訪した晩秋の当社


同上


同上


絵馬殿


社殿


本殿
今回は水が供えられていない

 つづいて小神にある古宮神社を参詣。


古宮神社、社頭のふんいき
 


同上
 


入り口には山から猪が下りてくるのを防ぐゲートがある
 

 ここで粒坐天照神社とその旧社地、天津津祀神社及び古宮神社の関係について説明しておく。
 天津津祀神社は粒坐天照神社創建の地で、的場山の中腹にある。この山は現社地北方の、山塊の中の一峰である。そして応永の乱による兵火にかかって全焼したたため、この神社を山麓の小神に遷したのが古宮神社である。ところが、文明三年(1471)になってこの古宮神社の社殿が炎上したため、広い社地を求めて日山に遷座した。これが現社地である。しかし、当社の火難はさらにつつき、その2年後にまたもや火災に遭ったため、再び古宮神社の地に還ったという。やがて天正九年(1581)、龍野城主だった蜂須賀小六によって再び日山に戻された当社は、それ以降、ずっと現社地に留まっている。いっぽう、今でも天津津祀神社と古宮神社の地には社祠が残され、境外摂社としての祭祀が続いており、とくに後者は地元民の崇敬があついという。 
 


古宮神社々殿

Mapion


同上


ふんいきある境内です
 


同上
 

 さて、古宮神社では『しおり』にあった磐座はすぐに見つかったが、社殿の近くにあるという湧水が見つからない。どこにあるのだろう。  


古宮神社の磐座
近くの山でいくらでも目にするような、わりとありふれた岩
 


石垣の下をのぞき込むと水たまりが
 

 一応、石垣の下をのぞき込むと不自然な水たまりがあり、それが湧水と言えば言えるだろうが、しかしこれでは社殿の周囲で湧いていることにはならない。となると、さっき引用した『しおり』などにある記事はいささか誇張されたものではないか、などと考えていたところ、雨水処理用にしては不自然な感じのする側溝が社殿から延びているのに気がつく。  


社殿から延びる側溝
 

 もしや、と思って石製の瑞垣の中をのぞき込むと、本殿の周囲が濠のようになっていて、あまつさえ拝殿との間には小さな石橋が渡してある。これには驚いた。  


本殿周囲の濠
 


同上
 


同上
 


同上
 


同上
 

 「瑞垣」とはそもそもこれが語源だったのではないか、という疑いを生じさしめるほど見事な「みず垣」である。残念ながら現在では水が見られず、濠の底には湿った落ち葉と泥があるだけだが、かつては周囲から湧き出る清水が常時ここを満たし、それによって社殿を結界していたのだろう。『しおり』には「古宮神社の囲りにも絶えず湧泉があり」とあったが、「囲り」という言い回しもこれを見れば腑に落ちる。 

 この発見に気をよくして、天津津祀神社にもがぜん興味がわいてきた。当社創建の地にあるこの神社にも古い祭祀遺跡らしい湧水が傍らにあるというのだ。しかしそこ行く前に、的場山の遠景を撮影することにしたい。  

湧泉信仰の語り伝え(2/2)」につづく