最終回のテーマのひとつが「不在」です。ものがあることは目に映り当然認識できるものです。しかし,我々の思考や心理構造において大切なのは,ホントは「不在」の概念です。
恋人同士は一緒にいるときよりも,デートが終わり別れるときに,又はあえないときにこそ相手を強く意識するのです。
郷ひろみも歌ってました。「逢えない時間が愛(を)育てるのさ,目をつぶれば君がいる・・・」(古かったですね(笑))
阿久津先生が病気で入院している,学校辞めさせられるんじゃないか,実際に休職したときに真矢は皆の心の中に生き生きとしたイメージで浮かんできたのだろうと思います。
「死」が人間の限界を現す事柄であるなら,不在は死ほどに限界を感じさせないまでも,いるはずの者がいない,あるはずのものがない・・・そんなときに僕らは「どうして?何故?」と一旦立ち止まって考えるのです。
クリニックでは親御さんがどう思うかは別として,できれば子どもの診療は平日に学校を休んできてもらうようにしています。
この子が半日または数時間学校を休んだことで,先生も生徒も口にしないけれど,持ち主のいない座席を目にします。
「不在」を見るのです。そう,不在は考えることです。何故あの子は学校休んでいるんだろう?教師も生徒も考えます。
現代社会では「不足」が不足しているので,考えることや工夫することが無くなってきてるのかもしれません。
あまり神経質になることはないのですが,いつまでも親が面倒をみてくれるはずがない,いつまでも学校で教師が保護してくれるわけではない,当たり前と思っていたことは,いつか当たり前で無くなってしまいます。
それも喪失または不在です。そのときに初めて自分で考えるのです。
教育委員会の視察で自分は現場から引き離されるかもしれない,そんなことは真矢には分かり切ったことでした。
だから,自分がいない間にもきちんと生きていきなさいとメッセージを残したのです。
また阿久津先生が不在の間に,仰げば尊しを歌おうと考えたのでした。
生徒と阿久津先生がしばしの再会はありましたが,それは子どもがみる番組なので,ストーリーとして仕方ないかとは思います。
ただ卒業証書授与は阿久津先生自身はおこなえずに,パソコンでひとりひとりのデータを消去していくことで別れを告げていました。これも「不在」を象徴しているのではないでしょうか。
そして生徒たちは「不在・・・完璧でない事柄」を自分の心の中に受け入れていくのです。
ここで言う不在は世の中で思ったようにいかないことや不安と言い換えてもいいでしょう。
離れていても自分の心の中に存在するといってもいいし,完璧でないモノを心の中に受け入れていく=不安を抱えながら生きていくといってもいいです。
天童先生と阿久津先生の思想の違いは,そんなところでしょう。自分の不安が解消できない天童先生は生徒に不足したモノを与え続けようとします。それはキリがない世界です。一方阿久津先生はあなた達に不足しているモノはこれだと間接的に提示しています。それを得るために生徒は努力し自分のモノにしていくのです。
「自分が思うように生きていくのなら,家を出て行くか,親を説得するしかないわね」真矢は何も和美ちゃんに与えませんでした。
和美ちゃんのお母さんも,こんなにあなたのことを思って一生懸命やっているのに分かってくれない!と不満を述べてました。
お母さんは,新藤さんたちが初めて和美ちゃんの家に遊びに来たとき,帰って!と追い返してしまいました。
大切なモノを奪った瞬間でした。そのときに和美ちゃんは母へのこれまでの疑問や不満が噴き出てきたのです。
一体どうなっているのだろう・・・怒りと抑うつ・・・でもその経験こそが親子が成長する過程で必要だったのです。
新藤さんのテーマは自分のせいで友人が死んでしまったトラウマでした。(まさに喪失をまだ心の中で受け入れることが出来ずにいたのです。)
由介のテーマは親が自分を置き去りにしたトラウマです。喪失が彼のテーマでした。(真矢はこのケースでは母を与えることが出来ました。今までにない阿久津先生のやり方です。でも彼らの7年間は決してすぐに埋め合わせが出来ることはないでしょうが)
皆さんが考えているように与え続けることが決して子どもの成長に大切なのではなく,不在・喪失・不快ふだんマイナスのように考えている事柄こそ,子どもの発達段階でタイミング良く提供されるべきことなのです。
番外編2 トルシエの教室 サッカーの話へ続きます。
恋人同士は一緒にいるときよりも,デートが終わり別れるときに,又はあえないときにこそ相手を強く意識するのです。
郷ひろみも歌ってました。「逢えない時間が愛(を)育てるのさ,目をつぶれば君がいる・・・」(古かったですね(笑))
阿久津先生が病気で入院している,学校辞めさせられるんじゃないか,実際に休職したときに真矢は皆の心の中に生き生きとしたイメージで浮かんできたのだろうと思います。
「死」が人間の限界を現す事柄であるなら,不在は死ほどに限界を感じさせないまでも,いるはずの者がいない,あるはずのものがない・・・そんなときに僕らは「どうして?何故?」と一旦立ち止まって考えるのです。
クリニックでは親御さんがどう思うかは別として,できれば子どもの診療は平日に学校を休んできてもらうようにしています。
この子が半日または数時間学校を休んだことで,先生も生徒も口にしないけれど,持ち主のいない座席を目にします。
「不在」を見るのです。そう,不在は考えることです。何故あの子は学校休んでいるんだろう?教師も生徒も考えます。
現代社会では「不足」が不足しているので,考えることや工夫することが無くなってきてるのかもしれません。
あまり神経質になることはないのですが,いつまでも親が面倒をみてくれるはずがない,いつまでも学校で教師が保護してくれるわけではない,当たり前と思っていたことは,いつか当たり前で無くなってしまいます。
それも喪失または不在です。そのときに初めて自分で考えるのです。
教育委員会の視察で自分は現場から引き離されるかもしれない,そんなことは真矢には分かり切ったことでした。
だから,自分がいない間にもきちんと生きていきなさいとメッセージを残したのです。
また阿久津先生が不在の間に,仰げば尊しを歌おうと考えたのでした。
生徒と阿久津先生がしばしの再会はありましたが,それは子どもがみる番組なので,ストーリーとして仕方ないかとは思います。
ただ卒業証書授与は阿久津先生自身はおこなえずに,パソコンでひとりひとりのデータを消去していくことで別れを告げていました。これも「不在」を象徴しているのではないでしょうか。
そして生徒たちは「不在・・・完璧でない事柄」を自分の心の中に受け入れていくのです。
ここで言う不在は世の中で思ったようにいかないことや不安と言い換えてもいいでしょう。
離れていても自分の心の中に存在するといってもいいし,完璧でないモノを心の中に受け入れていく=不安を抱えながら生きていくといってもいいです。
天童先生と阿久津先生の思想の違いは,そんなところでしょう。自分の不安が解消できない天童先生は生徒に不足したモノを与え続けようとします。それはキリがない世界です。一方阿久津先生はあなた達に不足しているモノはこれだと間接的に提示しています。それを得るために生徒は努力し自分のモノにしていくのです。
「自分が思うように生きていくのなら,家を出て行くか,親を説得するしかないわね」真矢は何も和美ちゃんに与えませんでした。
和美ちゃんのお母さんも,こんなにあなたのことを思って一生懸命やっているのに分かってくれない!と不満を述べてました。
お母さんは,新藤さんたちが初めて和美ちゃんの家に遊びに来たとき,帰って!と追い返してしまいました。
大切なモノを奪った瞬間でした。そのときに和美ちゃんは母へのこれまでの疑問や不満が噴き出てきたのです。
一体どうなっているのだろう・・・怒りと抑うつ・・・でもその経験こそが親子が成長する過程で必要だったのです。
新藤さんのテーマは自分のせいで友人が死んでしまったトラウマでした。(まさに喪失をまだ心の中で受け入れることが出来ずにいたのです。)
由介のテーマは親が自分を置き去りにしたトラウマです。喪失が彼のテーマでした。(真矢はこのケースでは母を与えることが出来ました。今までにない阿久津先生のやり方です。でも彼らの7年間は決してすぐに埋め合わせが出来ることはないでしょうが)
皆さんが考えているように与え続けることが決して子どもの成長に大切なのではなく,不在・喪失・不快ふだんマイナスのように考えている事柄こそ,子どもの発達段階でタイミング良く提供されるべきことなのです。
番外編2 トルシエの教室 サッカーの話へ続きます。
私の周りも・・・。質問やアドバイスを求める姿勢が変わり中心点(核心)を明確にできるようになったようです。自分で考えるようになるのですね。感謝しております。
「不足」が不足している そんな日本語は変だと言われそうですが、文章の流れとしては分かりやすく書いたつもりです。
ポイントは成長する上で 与えることが中心の場面と、不在・不足が必要になる場面があることを理解して頂けたらと 思ってblogにしました。
個人的なトルシエの教室が力作だと思ってます(笑)
DVDも出ているようです。
きっとスペシャル版が放送されると思います。その前にDVDレンタルでも見ておかれることを勧めます(笑)