革でゆるりとカバンでも作ろ

革の職人の日記。革の手縫いのこと、ものづくりのこと、日頃思ういろいろなこと。
小さな町家の工房からお送りします。

誰かを幸せにするということ

2010年02月05日 10時33分35秒 | Weblog
卵が先か?鶏が先か?と誰かが言った。

幸せにすることと幸せになること、ということについて。

でも、それは違う。

幸せになることだけを優先して、誰かを不幸にしている人を僕はたくさん見て来た。

自分が不幸せなら誰かを幸せに出来ないのだろうか?

そんなことはない。

自分がたとえ不幸せでも人を幸せには出来る。

それが不幸せだと言えるかどうかは分からないけれど。


誰かを叱ることや批判することが必ずしも誰かを不幸せにすることになるかは分からない。

誰かを幸せにするための叱り方もあると思う。


僕たちものづくりをする人間は、

必ず誰かを幸せにすることを目的にしなければならないと思う。

「ものづくり」自体が必ず人を幸せにするとは限らない。

時には誰かを深く傷つけたり、誰かを不幸にすることもある。

だからこそ僕たちはいつも自分に向き合わなくてはならない。


もしもそのクライアントの目的が誰かを不幸にすることであったり

誰かを傷つけるために仕事を頼んで来たら

断る勇気も必要だと思う。


核兵器を売るための広告は作らない。

戦争を正当化する本は書かない。

それがものづくりをする人間の人としての良心であってほしい。


自分を幸せにすることと誰かを幸せにすることは

卵が先か?鶏が先か?という問いかけではない。

優先するべきことは「誰かを幸せにする」ことであって

「自分を幸せにする」ことではない。


もちろん「誰かを幸せにすること」で「自分が幸せになる」のであれば良い。

でも「誰かを幸せにすること」より「自分が幸せになること」を優先することは

間違った選択だと思う。


何か「ものづくり」をする時、

その指先や心の中に「誰かを幸せにしたい」という思いがなければ

ものづくりに携わる理由など何もないと僕は思う。

明日のこと

2010年01月29日 08時24分27秒 | Weblog
そういえば、カウンセラーの先生にいつも「明日はどうされますか?」と聞かれた。

心療疾患の患者はいつも過去を振り向いていることが多い。

僕はプランナーという仕事をしていたので

未来のことを考える訓練をしていた。

あの街はどうすれば、どうなっていくのか?

この商品はどこでどんな人たちが買っていくのか?

だから未来のことを考えるのは得意だった。

そのことはとても幸運だったのかも知れない。


未来のことを想像して、それが現実になるとは限らない。

今の僕はどうだろう?

いくつかの未来は実現したかも知れない。

とにかく大きかったのは「お店」をオープンさせることが出来たこと。

それはとてつもない幸運で、

巡り会いやタイミング、気持ち、機会を得られたから

本当に偶然に突然実現してしまった。

でも手に入れられない未来もたくさんある。

「お店」を持つことで以前より何倍もお客様に対する責任が重くなった。

でも「技術」は偶然や幸運では手に入れられるものではない。

そのことを僕はデザイナー時代の20年間で嫌というほど知ってしまった。

それに若かったあの頃、景気も良く華やかな都会に住んでいた環境とは今は違う。

記憶力や肉体が衰える中で

まわりに教えてくれる人は少ない。

それでも人よりも何倍も努力して「技術」を手に入れなくてはならない。

今の環境が気に入らないわけではない。

それでも職人としての腕を磨くには難しい環境ではある。

やさしい環境は時に人を弱くし、甘えさせる。

そのことを知っているから、外に出る機会を多くする。

優秀な人たちといつも交わる。

病気が重い時、全てを失ったから、

今は一からやり直さなくてはならない。

もちろんそれまで生きて来た40年以上の人生が無駄だったわけではない。


今持っている技術だって

過去にして来たことの土台の上に立っている。

考え方なんか全く同じ。

でも技術というものには「修練」という要素が必要。

それに、きちんとした「技術」というものは

実は細かな「理論」の上に成立っている。

その「理論」はかなり数学的なものだったりする。

そのことを知るためには「勘」だけでは出来ない。

誰かにそれを伝授してもらうしかない。

なにせ「革」の世界には教科書がない。

これまで多くの職人さんがそのことを残して来なかったからだ。


最近僕の周りでそれを「残す」ために動きはじめている人たちがいる。

ありがたいと思う。

たぶん僕にも残せるものがある。


人の未来と誰かの未来はつながっている。

今年はそのつながりを見つめ直す年になるのだと思う。

こんな夜には

2010年01月08日 10時08分35秒 | Weblog
ひとりで膝を抱えて

うつむくこんな夜には

いつもあなたのことを思うよ。

そのやさしい笑顔やあたたかい指先。

深い闇に包まれて、

涙を流すこんな夜には

いつもあなたのことを思うよ。


高い空の下で息をひそめて

瞳を閉じてただ立ちすくむ日々を

震えながら手探りで歩く

曲がりくねった道を悲しいと感じる日々を

いつか地平にゆらめく柔らかな光を

見つけることが出来るその時が

この私にも来ると信じて

ただこんな夜にはあなたを思うよ。

きっとそれだけで

2010年01月06日 10時14分54秒 | Weblog
強さを失った日から、

守ることが出来なくなった。

どんなにやさしさを返しても、

強くない自分が悲しかった。

笑顔を振りまいても

やさしさを溢れさせても

本当の強さがほしいと思っていた。

その強さをください。

そのほほえみをください。

今少しこの私に強さがあったら

きっと踏み出せるのに。


同じ月を見ていても、

きっと感じることが出来る。

同じ星を見ていても、

きっと守ることが出来る。

その大切なものをいつまでも…。


ふれあったり、

抱きあったり、

語りあったり、

見つめあったり。

それだけで強くなれるのに。

そのあたたかさをください。

そのやさしさをください。

きっとそれだけで強くなれるのに。

変化する時

2009年12月28日 08時29分19秒 | Weblog
時間とともにいろいろなものが変化する。

環境も、

感情も、

人も、

自分自身も。


自然に変わるもの。

自分で変えてゆくもの。


僕はいつも何年かに一度大きな変化を迎える。

来年はおそらくそういった年だ。

乗り越えなくてはならないことが沢山。

自分を見つめ直して、

自分にとって最善の道を探っている。

簡単には答えは見つからない。

でも考え続けることが大切。

今年流行った言葉「Yes we can」。

そのcanのあとに続く言葉。

それはきっと「change」。

変化出来るとまでは言わない。


でも変わること、変えることは沢山ある。

それはある意味「帰る」ことでもあっったりする。

もう一度自分の原点に変える。

震える夜に

2009年12月02日 09時51分36秒 | Weblog
本当は淋しいのです。

本当はそばにいてほしいのです。

子猫のように震えた身体を抱きしめてほしいのです。

たとえ明るい月に照らされた空で繋がっていたとしても、

受話器の向こうから聞こえる声がどんなにやさしくても、

その指先に触れていたいのです。

そのわずかな瞬間にわたしは救われるのです。

そのかすかな余韻にわたしは生かされるのです。

だからこの独りぼっちの夜にわたしはあなたを想います。

だからこの永遠の夕暮れにわたしはあなたを感じます。

子猫のように震えながら。

ただあなたのことを想うのです。

何をしたいのかわからない。

2009年11月11日 07時49分04秒 | Weblog
若い学生の子たちや、実際に働いている人たちから相談を受ける半分以上は

「何をしたいのかわからないんです」という言葉。

でも、聞き返さないといけません。


「何をしたいのか?」ということを

あなたは本気で考えたことがありますか?


「何をしたいのか?」ということよりも先に

世の中には「何があるのか」知っていますか?


僕は最初グラフィックデザイナーになる時

クリエイターという仕事にはどんな分野があるのか

自分で調べました。

その時の自分の気持ちをノートに書いて、

自分自身が何をどう考えているのかを整理してみました。


図書館で本を読んで、本屋さんで必要な本を買いました。


クリエイターを目指している学生たちに聞いても

専門書を読んでいる人はごくまれです。

なぜなんだろう?

自分が将来就くかもしれない仕事に興味がないんだろうか?

「なぜ専門雑誌を読まないの?」と聞くと

大抵の人が「値段が高いから」と言います。

そりゃ普段買ってる雑誌よりは高いでしょう。

でも1500円~2000円位って服やアクセサリーには使うのでしょう?

2ヶ月に1度、それだけの金額払えないわけがない。

自分の将来に関わることにそのぐらい投資しても良いと思うけど?


「自分が何をしたいのかわからない」と言う前に

まずは「今、自分が何をしているのか?」を考えてみませんか?

もどかしい夜

2009年09月01日 09時09分07秒 | Weblog
何かに向かって進もうとしても

まるで濁った水の中を歩くように漂っている。

一歩踏み出そうとしても

川の流れの中を遡るように前に踏み出せない。

心が元気になればなるほど

自分の無力さを思い知る。

環境を嘆いたり,

病気を哀れんだり、

自分で自分を悲しんだりすることは無意味で、

今ある自分を受け入れるしか方法はない。

以前の自分を知っていて

そこに戻ろうとするのではない。

今の自分を愛してあげて

今の自分が出来ることをやれば良い。

時間が残されているか、残されていないかは問題ではない。

今の自分に残せることを自分なりの方法で残してゆくしかない。

長ければ長いなりに、短ければ短いなりに。

自分らしくあり続けよう。

でも、この残してゆきたいものたちを伝えるには

今の言葉だけでは足りない。

あとは受け取った君たち次第。

もどかしい夜は今日もやってくる。

つばさ

2009年08月20日 13時18分27秒 | Weblog
傷ついて折れたつばさを

痛みに耐えて羽ばたいてみる。

飛ぶことは出来ない。

でもほんの少しだけ風をおこせるかもしれない。

破れて穴の空いたつばさを、

おそるおそるそっと震わせてみる。

空に浮かぶことは出来ない。

でもゆっくりと足を踏み出すことは出来るかもしれない。

大空を自由に飛んだ記憶は

心の片隅にそっとしまい込んで、

今あるそのつばさで出来ることを考えよう。

傷ついて空から落ちていく私を

その瞳に焼き付けながら

それでも懸命に私のつばさをはためかせ、

その断崖から踏み出そう。

ここは死の淵ではない。

ここは悲しい闇ではない。

その背中からのびる光はつばさという名の希望なのだから。

変化

2009年08月10日 19時01分32秒 | Weblog
変化するものと、変化しないもの。

一昨年の春に僕を苦しめて「うつ病」を引き起こした出来事。

その人の行った事に対する悲しい気持ちはいまでも変わらずにこの胸で疼いている。

その人を心から信じてやまない信頼もやはりこの胸の中で息づいている。


以前はその人の事を考えるだけで

気持ちが萎え、生きる気力を失った。

自己矛盾を引き起こし、悲しみと憎しみと絶望と自己否定が同時に渦巻いて

僕をうつ病へと引き戻した。


今はどうなんだろう。

やはり彼女の間違いと自分の間違いに心が揺らぐ。

でも死に近づくほどの自己否定はしなくなった。


この地にたどり着いた時と同じく

今でも「ここで野タレ死ぬ」つもりでいる自分がいる。

いつも心の底で「死」を受け入れようとしている。

一刻も早く「死」が来ないか待ち構えている。

でも、今は自分から「死」に向かっていこうとしてはいない。


この地での癒しや温かさに触れて、

少しだけ未来にも踏み出した。

でもそれは人が思うほど積極的な歩みではない。

ここで小さく息をするだけのほんのわずかな試みでしかない。


それでもたぶん、変化はしている。

痛みは薄れ、和らいでいる。

その人に対する痛いほどの焦燥感は消えた。

それでも伝えたい事はある。

わかってほしい事はある。

彼女が言うように「すぐにはわからない」のかもしれない。

でもやはり「すぐにわかるべきだ」と感じる。

独りよがりな言葉だと感じているのかもしれない。

でもきっと独りよがりなだけではない。

人として。子供として。親として。

わからなければならない事だと思う。

それは今も変わらない。

FahMoh

2009年08月07日 08時47分18秒 | Weblog
FahMohという名前。

農夫のファーマーではなく、

Father's hand & Mother's Heart.

という言葉の略。

最初にブランド名として何が良いか考えた時に

いろんな名前を浮かべた。


込めたかった思いは「人と人のつながり」ということ。

ものづくりの姿勢は「誰か」を「幸せにする」ということ。

世界の人々の共通の深い愛情を示す言葉。

そしてその全ての思いは受け継がれてゆくということ。


だから

Father's hand & Mother's Heart.

「お父さんの手とおかあさんの心」=FahMoh

という名が生まれた。

そしてそれらを生みだすための小さなお店がもうすぐオープンする。

時間

2009年07月27日 08時14分11秒 | Weblog
前ほど早く進めなくなった。

いや、今のスピードが本来の早さかもしれない。

都会に住んでいたときは普通に思えていた速度に

今は追いつくことが出来ない。

たまに街に出て人の流れに巻き込まれると

その圧倒的な量と速度に驚かされる。

でも今はこのわずかばかりの小さな街と緑に囲まれて

ゆっくりと進むことが心地よい。

ゆるやかに進んでいると、今まで見えなかったものに出会える。

世の中にはすぐに守らなければならない約束がたくさんあると思っていた。

でも本当はもっと人の心には時間が残されていて、

その中を漂うことが出来る。

ゆるされる時間はもっとたくさんある。

それを知らずにいたら焦りと脅迫で壊れてしまう。

だからゆっくり歩こう。

自分をゆるしてあげようと思う。

ブラインド

2009年06月19日 12時08分08秒 | Weblog
ブラインドを下げると何も見えなくなる。

でも、本当はその先にさまざまな風景が見える。

自分の心にブラインドを下ろすと、人の心が見えなくなる。

ブラインドの多くはプライドや羞恥心。

自分を守ろうとする気持ち。

それが作り上げた自分だけの世界。

人はそれぞれ違った世界を持って生きている。

そのことを忘れてしまったら、

自分の世界の中にその人を見つけ出すことは出来ない。

自分の世界感に共鳴しようとする人しか見えなくなってしまう。

誰かを理解しようとする時、

誰かに寄り添ってあげようとする時、

まず最初にブラインドを上げよう。

瞑って見えないまぶたを開こう。

その人が持っている喜びも悲しみもその目で向き合おう。

その人の心の全てが分かるなんておごりは捨てよう。

それでもブラインドを上げれば分かることはたくさんある。

そのことが分かれば

自分のプライドや羞恥心が些細なことに思えて来る。

だからブラインドを上げよう。

受け継ぐもの

2009年06月02日 07時51分33秒 | Weblog
誰かに叱られたり、
何も出来ない自分に手を差し伸べてくれたり、
あるいは闇雲に突き進む僕をたしなめる人がいたり…。

単に正しいとか間違っているとかではなくて、
どうして生きていけばいいのかわからない時に
ほんのわずかなヒントを与えてくれる人がいる。

なりたい自分になれないでいる自分を悲観したり
自分が抱えている問題を手放せず
いつも絶望に打ちひしがれていたりすることを
本当はそうじゃないんだと教えてくれる人がいる。

でもその人たちは僕を引き上げてくれるわけじゃない。
手を引いて連れていてくれるわけじゃない。

ただ「君は何をしたの?」と問いかけるだけ。

何をしたんだろう?
自分に聞いてみる。

いつも与えられることだけを待っていて
自分は何をしていたのだろう?
誰かに問いかける前に考えただろうか?
どこかに連れて行ってもらう前に
自分からどこかに足を踏み出しただろうか?

僕たちが受け継ぐもの。

それは自分の力で踏み出すこと。
自分の力で考えること。

出来る、出来ないじゃなくて、
やってみること。
そこからしか何もはじまらない。

君に手を差し伸べる全ての人たちは
そこにたどり着くまでに何をしたのだろう?
君に語りかける全ての人たちは
君に巡り会うまでに何を考えてきたのだろう?

それが僕たちが受け継ぐもの。

君に受け継いでほしいもの。

責任

2009年05月22日 12時36分29秒 | Weblog
私は責任を負いたくない。

そう思う人は沢山いるだろう。

でも僕は若い人たちにいつも言っている。

「責任はどんな人にもついてくる。どんなに逃れようとしても、
必ず責任は全てに人についてまわるものです」

たとえば専業主婦になったとしても

その人に子供がいたなら、その人には子供に対する責任が生じる。

仕事をして役職につかなかったとしても

いつか部下や若い子に対して責任が生まれる。

仕事にも就かず結婚もしなかったとしても

あなたが年齢を重ねれば、

あなたを慕う人やそばにいる人、あなたと会話を交わす人に対して

あなたには責任が生まれる。

責任から逃れることは出来ない。

なのに人は責任から逃れようとする。

私には何の責任もないという人は気づかないでいるだけだ。

自分には責任がある。

たくさんの責任を負っている。

見失ってはいけない。