アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

923 新シリーズ  令和に巡る京の神社    第34番 地主神社(清水寺内)

2022-06-13 10:10:48 | 日記

第34番 地主神社

所在地    京都府京都市東山区清水1丁目317

主祭神    大国主命 素戔嗚命 奇稲田姫命 足摩乳命 手摩乳命など

創建       不詳

例祭       5月5日(地主祭り)

余りにも有名になっているので、違うルートでお参りする方法を紹介する。通常、清水寺に拝観料を払って清水の舞台を鑑賞し、その奥の「地主神社」に向かうのが通常だ。あたかも地主神社の拝観料込みのように思うが、実は、神社は無料で行ける。因みに、清水寺も舞台以外は無料である。今回は、歌中山清閑寺方面からのルートをお伝えする。5条通り東大路を山科方面へ東に向かうと峠の手前に将軍塚などに向かう三叉路がある。ここまではバスやタクシーが便利だ。歩いて行くなら東大路のやや南の渋谷通りから登って行く。

地主神社から奥の院を眺める。

三叉路を左に折れると見えてくる。清閑寺は高倉天皇の悲恋の物語「小督局」ゆかりの寺だが、維新の前夜、西郷隆盛と勤王の僧月照との密会の場でも有名だ。実は、幕末の清水寺は勤王・討幕の志士たちの拠点でもあったのだ。清水の舞台下の茶屋2軒(忠僕茶屋・舌切茶屋)とも勤王の志士の生き残りの子孫が経営している(経緯は複雑なので後日へ)。その清閑寺の前を南西方向に散歩道路が清水の裏手まで整備されている。徒歩10分ほどで、清水の域内に入る。遊園地によくある回転式ドアがあるが無料である。そこから子安の塔、奥の院、阿弥陀堂などゆっくり鑑賞し、音羽の滝もゆっくり見学し奥の院の舞台から京都市内の眺めも堪能し地主神社に向かう。

地主神社は、神社の由来や歴史的意味から離れて、縁結びの神様として有名だ。「恋占いの石」から目をつぶり向こうの石に辿り着けば恋は成就するという話が広まり、いつ訪れても女性たちが目をつぶり両手を突き出し前方を目指す。大きな笑い声と嬌声で賑やかなものだ。コロナ前は、中国語・韓国語・英語・あらゆる言語がない交ぜになり混乱の極みであった。地主神社とは、まさに地主(じぬし)神社であり、大きな寺院の建設地の守り神の事である。清水寺の敷地にあるこの神社は、大国主命を主祭神とし神仏混交の時代には一体的に存在して来た。平安の昔より桜の名所でもあり、嵯峨天皇が余りの美しさで3度お召車を引きかえさせたという「御車返しの桜」(地主桜)が有名だが、今では世代も変わりどれがそれかは不明だ。

以下に現在の境内の摂社などの紹介を書いておく。

祓戸社 - 祭神:祓戸大神

恋占いの石 -縄文時代の祭祀遺物である。

拝殿(重要文化財) - 寛永10年(1633年)に徳川家光により再建。

撫で大国 - 撫でると御利益があるという大黒天。

水かけ地蔵 - 水をかけて祈願すると御利益があるという。

おかげ明神 - 一願成就の守り神で女性の信仰を集める。

いのり杉 -江戸時代に「丑の刻参り」に使われたという。五寸釘を打ち込んだ跡が残る。

総門(重要文化財) - 清水寺の舞台裏に直結しているが、今は閉じられている。

良縁大国 - 縁結びの神。

栗光稲荷社 - 商売繁盛の神

色々摂社や神様が祀られているが、ひたすら恋の成就を願う神社だ。小生も齢60歳を大きく越えているが、密かに思いを告げておいた。


922 新シリーズ  令和に巡る京の神社    第33番 出世稲荷神社(左遷された?)

2022-06-07 13:59:57 | 日記

 

第33番 出世稲荷神社

参道

所在地    京都府京都市左京区大原来迎院町148

主祭神    宇迦之御魂命

創建       天正15年(1587年)

例祭       4月8日

稲荷社

出世の象徴である神社が、左遷された。

このような神社を紹介する。誰でも知っている出世頭と言えば、太閤さん豊臣秀吉。彼は稲荷信仰が篤く、天下平定の象徴として営んだ聚楽第の中に、稲荷社を勧請して祀った。時の天皇(後陽成天皇)が行幸した折にここに参拝し正式に「出世稲荷」と号した。そのままのネーミングである。聚楽第は甥の豊臣秀次の滅亡とともに破却されたが、稲荷社は残った。当時の所在地は現在の千本通二条あたり、旧の平安京の応天門のあった場所とされる。明治以降も訪れる人は多く、秀吉にあやかって出世や事業の成功を祈った。近代になり千本通が映画館や芝居小屋などの繁華街になった為、牧野省三や尾上松之助などの映画・芸能関係者が鳥居を多く寄進した。そのように神社も出世したのだが、平成の時代になり界隈の荒廃や神社自体の老朽化の波に勝てず、大原の地に移転することになった。まさに出世から都落ちの左遷である。

旧の神社(石碑・扁額は転用している。?)

なお、筆者が京都で飛び込み営業をしていた頃には立派に存在していたはずで、「出世稲荷前」というバス停もあった。その頃にちゃんとお参りをして出世を祈願しておけば良かった。反省しても遅い。因みに、移転後もしばらくはバス停もそのまま「出世稲荷前」であったはずだが、改めて調べたら今は「千本旧二条」となっている。このように歴史の痕跡が跡形もなくなっていくのである。神社はなくとも「旧出世稲荷前」で良いではないか。

尾上松之助などの名前が見える。

大原の現在地にお参りして見たが、すでに出世を実現してもらえそうに思えなかった。

大原の里が一望できる。

青紅葉が良い。出世も良い。


921 新シリーズ  令和に巡る京の神社    第32番 新日吉神社

2022-06-06 13:11:55 | 日記

第32番 新日吉神社

所在地    京都府京都市東山区妙法院前側町451-1

主祭神    日吉山王七神  後白河天皇

社格等    旧府社

創建       永暦元年(1160年)

本殿の様式           流造

例祭       10月16日

全国に約3,800社ある日吉・日枝・山王神社の総本社である日吉大社より山王七社(上七社)を勧請した。目的は後白河上皇が院政をする法住寺殿の鎮守社とする為である。同時に、平清盛から贈られた蓮華王院(三十三間堂)を鎮守寺。新熊野神社をその鎮守社としている。新日吉は「いまひえ」と読む、新熊野も(いまくまの)と読む。しかし今熊野観音寺も(いまくまの)と読むが(今)と書く。さらに日吉大社は(ひよし)と読むが、今日吉は(いまひえ)と読む。東京に行くと、日枝神社と書く。いずれも比叡山麓を源流にする山王信仰の流れである。ここまで、比叡、日枝、日吉と、いずれも(ひえ)について書いた。自らと読者の頭を混乱させた。

新日吉神社は、東大路通の七条を上がって東に折れる。秀吉の御廟である阿弥陀峰や京都女子大学のある付近に鎮座する。鳥居の向こうに鮮やかな朱の門がまず目に入る。広々とした境内に人影はなく、摂社・末社には秋葉神社や天満宮もある。本殿前の両脇には狛犬にあたる猿の石像がこちらを睨んでいた。魔除けに欠かせない「神猿」は(まさる)と読む。鬼門の丑寅(うしとら)に対して裏方向にあたる未猿(ひつじさる)で防ぐのである。

さて、御祭神には後白河上皇が合祀されていることを聞いてやって来た。このあたり、三十三間堂を中心に後白河上皇ゆかりの寺社が集中する。院御所を営んだ法住寺、鎮守社の新熊野神社や上皇の御陵など見どころが多い。残念ながら向かいの京都女子大学のキャンパスは、休講かコロナ禍か。女子大生の健康的な笑顔と笑い声が聞こえず寂しい思いが募った。ナンパしたくても女子がいないと話にならない。