相互批評の饗宴――幻想史学と仲間たち

 これは幻想史学の提唱から15年経った仲間たちとの相互批評と詩と写真による饗宴である。

昭和・平成の隠れた“女工哀史”

2013年01月04日 | 書評
[書評]
昭和・平成の隠れた“女工哀史””
――橿日康之『織姫たちの学校―大阪府立隔週定時制高校の40年』(不知火書房)
 
 隔週定時制高校という学制が、つい最近まであったことをご存知だろうか。本書は、この「隔定」(以下、隔週定時制高校をこう呼ばせてもらう)で四十年間教師を勤めた著者の決して短くはない教師人生を振り返ったものだが、普通見かけるような回顧録と全く趣きが違うのは、この本がそうした自己史に向け批評的な視線を終始貫かせることで、戦後高度経済成長期のこの国の陰の部分を、底辺からリアルに捉えた異色の時代批判ともなっている点だ。
 ここに登場する「隔定」は、大阪府泉州地域の繊維企業の工場で働く女子工員を対象にして1966年(昭和41年)に開設され2006年(平成18年)まで存続した。学校数は全部あわせて貝塚、和泉、泉南、横山の四校。つまりは女子を対象にした非全日制の高等学校である。通常の定時制高校とも違って、「隔定」は「先番(早番)」と「後番(遅番)」が一週間ごとに入れ替わる、この業界特有の二交替制の勤務シフトに合わせてカリキュラムが組まれていたのが特徴だった。「先番」が月の一週目と三週目に当たれば、その週は登校して午後三時過ぎから七時半まで授業を受け、また「後番」となる二週目と四週目は週に三日間、朝九時から十一時半までを他の高校の通信制のスクーリングとして授業を受ける。その後に、生徒達はまた仕事に就くという変則の時間割が採用されていた。「隔定」という呼び名の由来は、この定時制と通信制が隔週でまわる“定通併修”のスタイルから来ている。
本書の構成は、なかで大きくふたつに分かれる。Ⅰ部は「隔週定時制高校の四十年」という通史で、この部分は著者が勤務した貝塚隔週定時制高校の記念誌『かがやき―貝塚隔定40年のあしあと』に寄稿されたものの、その後、資金提供企業からの意向で割愛された文章がもとになっている。またⅡ部は「教師失格の記」という著者の四十年間にわたる教師生活におけるさまざまなドキュメントによって構成されていて、そのどれもが実に泣かせる内容なのだ。告白すると私はこれらを、世間でこれまでほとんど知られてこなかった「隔定」を舞台にした、戦後日本の得難いひとつの陰の物語―いわば“昭和・平成の女工哀史”として読んだ。
「泉州の織物業で働きながら高校卒業資格を!」といううたい(・・・)文句(・・)で、厳しい労働環境下、安い労働力を求めていた当時の繊維業界は、地方の中学卒業の子女をおあつらえの“金の卵”として大挙募集した。それに応じた彼女らの大半が、戦後日本の経済的豊かさに取り残された遠隔の地方からの出身者で、多くの場合、彼女らは自家の貧しい家計を助けるために、企業側から支払われる違法な「支度金」を代償に、遠い大都市の工場に働きに出たのである。こうした生徒達は十五歳で親元を離れてからは、来る日もくる日も分刻みの時間に追われるような生活環境のなかで、それぞれのアドレセンス期を送ることになる。だが、著者が伝える彼女らの面影は決して暗いばかりのそれではない。「彼女らは貧しさゆえに働きに出たが、なんとか高校に進学し、さらに短大や看護学校に行きたいと意欲満々であった。隔定はこうした意欲的な生徒たちの熱気と活気に溢れ、各地の方言が飛び交うにぎやかな坩堝となっていた。」(30頁)―こう著者が述べているように、文面から伝わってくる「隔定」の日常の様子は、十代後半の娘たちが織りなす学校というコミュニティが普遍的に持つ微笑ましい側面をも伝えている。だが、十五歳の青春盛りに田舎から初めての大都会に出てきて、世間もまだろくに知らないなかで働きながらの寮生活。しかも親に仕送りしたり、自分でも貯金して経済的にまがりなりにも自立しているとすれば、そこに付け入られた故のさまざまな私生活上の問題が起こらない方がおかしい。特に異性間で発生するあれこれなどは、最も多く教師の側にも心配の種を播いたであろうことは想像に難くない。
 ところで「隔定」が設立され、完全にその役目を終えるまでの1966年から2006年までの40年とは、わが国にとって果たしていかなる時代だったか?大局的には高度経済成長からオイルショック、ドルショックを経て、バブル経済の膨張と崩壊、さらに90年代の「失われた10年」、そして2000年代に入ってからは「構造改革」の名のもとでの構造的な不況が慢性化する紆余曲折のプロセスだった。これは、わが国が貧しかった「戦後」を脱して以降、ふたたび成長の見えない「戦後」後に足を踏み入れるまでの期間にほぼ該当すると言っていいだろう。この間、一時は隆盛だった泉州地方の繊維産業も安い外国産品に押されて斜陽になり、「隔定」に生徒を送りこんでいた企業側にも倒産したり工場を移転させる会社が多発、また2001年には中卒女子の採用を政府補助金が出る中国からの研修生に切り替えるところが出るに及んで、「隔定」を取り巻く環境は大きく暗転していくのだが、私にはこの間、「隔定」という小社会の辿った道筋が、その後わが国が追随することになる道程の縮図のように思えてならなかった。
 社会の矛盾は、その底辺にある一番弱い部分にもっとも集約的に現れる。恐らく著者が本書を著すにあたって最後まで手放さなかった批評的な観点の背後には、こうした矛盾にさらされた弱者の姿を、「隔定」で自分が担任として受け持った女生徒たちの上にもくっきり投影させていたという姿勢があったのは間違いない。その証拠に、著者が彼女たちに注いできた視線は突き放すようなそれではなく、おしなべて言えばむしろ慈愛に溢れているからだ。「織子」や「女工」と呼称された繊維業界の女子労働者を、教育者としての著者は一貫して「織姫」と呼ぶ。本書のタイトル『織姫たちの学校』という素敵な語感も、著者の彼女らを慈しむこうした感性が結晶化したものだと言えよう。
 著者は自らを恐らくは幾分かの自嘲もこめて「教師失格」と規定しているが、果たしてどんなものだろうか?私は教育界の常識というものをまったく知らないが、本書のどの部分をどの方向から読んでも、そこに失格教師の横顔を見出すような要素は見出せなかった。むしろそこには、自己保身や出世意識をまったく度外視し、自分の生徒達それも順調に卒業していった生徒より多くの教師が顧みなかった様々な事情で屈折した生徒に対して、通常の接し方いじょうの踏み込んだ対応を、教師としてよりも一個の人間として示し続けた著者の生き様こそが鮮明である。例えば、とても印象的なエピソードがある。生き別れた父親と大阪で再開し、仕事も学校も辞めていった生徒がいた。本人の転校の手続きをするために、後日連絡をとったところ、教えられた連絡先の電話番号は父親の勤め先の“一流商社”ではなく、ドヤ街にあるアパートだった。著者はそこに乗り込んでいって、自分の生徒のほかに三人の少女を救出するという離れ業までやってしまう。その娘の父親は、彼女らを風俗まがいの仕事に就かせていたというのだから、驚きだ。つまり著者は、とても普通の職業意識ではそこまでやらない(できない)所作を、自らのやむにやまれぬ思いからこうしてつい実践してしまうのだ。職業上の分限を超えて、みずからの責任範囲外の行動を取ってしまうことは、確かに職業人失格なのかもしれない。しかし、人間としての責任感から、著者がこのような行動に出たであろうことは行間からも容易に読み取れる。誰から褒められることもなく、自分にも何の得にもならないのに、それでも絶対にやらなければならないと決心する瞬間が、このように人間にはあるのだ。本書が体現する独特なドラマ性のそれが本質なのだと、全体を読み終えてからしみじみと思った。
「隔定」という現代日本の隠された物語に初めて日の光を注ぎあてた本書の意義は、決して小さくない。
 (添田 馨・そえだかおる/詩人・批評家)

『季報 唯物論研究』121号より転載→http://kiho-yuiken.jimdo.com/

『織姫たちの学校』への招待状

2012年10月12日 | 本の紹介
『織姫たちの学校』(橿日康之著)への招待状

 60年の安保闘争が終わり、大衆消費社会が始まる70年代を前にした1966年に、大阪は泉州に紡績・織布企業に働く二交替制の中卒女子労働者に高校資格を与える隔週定時制高校4校が大阪府の肝入りで開校された。
 それは低賃金・過酷な労働で知られる繊維企業に人が集まらないため、企業側が大阪府に泣きつき設立を見たものである。それはこれまで二交替勤務にある繊維企業にある女子労働者に高校卒業資格を与えることで、全国の中卒女子生徒を泉州に集め、繊維企業の生き残りをはかるものであった。
この企業側の作戦は図に当たり、それから40年した2006年3月に最後の卒業生7人を貝塚高校が送り出すまでに、1万有余の中卒女子生徒が、大阪府立の泉南高校、貝塚高校、和泉高校、鳳横山分校(後に横山高校)に併置された隔週定時制に沖縄から北海道に至る全国の中卒女子生徒が押しかけた。
 彼女らは3月末(後半は4月初旬)に出征兵士のごとく故郷を見送られ泉州に到着すると、二交替勤務に合わせ、先番と後番に分けられ、次いで寮の各部屋が割り振られ、先輩の部屋長の指導下に入る。そして先番の生徒は翌日には朝4時半にけたたましいサイレンに叩き起こされ、5時から45分の休憩を挟む8時間の立ち労働に刈り出され、湿気と綿ほこり舞う職場で慣れない仕事を先輩の指導を受けつつ汗びっしょりになって働く。ようやく13時45分に仕事を上がり、風呂で汗を流し遅い昼食を取ると、14時30分に会社を出て15時過ぎに始まる隔週定時制に通うのだ。そこから5限の授業を19時30分近くまで受け、8時近くに会社に戻り遅い夕食を取り、22時の消灯までに細々した仕事を済まし、就寝につく。
 後番の生徒は朝8時半までに朝食を済ますと。9時過ぎに始まる通信制3限の授業を11時30分近くまで週3日受けると,急いで会社に戻り、昼食を取ると先番と交替し、持ち場につきそれから45分の休憩を挟み8時間の立ち仕事に就く。そして22時30分に上がり、風呂で汗を流し24時の消灯までの残された時間に日常の仕事をこなし、ようやく床につく。
 これが泉州の繊維企業に就職し、隔週定時制に入学した中卒女子生徒の15歳の春を等しく襲う、それから4年止むことのなく吹き荒れるのだ。さらに恐ろしいのは先番と後番が一週間ごとに入れ替わることだ。それに順応しないと疲れているのに眠れず、睡眠不足で危ない現場に立つため、時に指を挟まれ、髪の毛が巻き込まれ死に至ることもある職場である。隔定卒業生徒が入学者の半数に近いのは、この過酷な日常に心身がついて行けずに脱落するからである。しかし、それにも関わらず、毎年、4年間皆勤の生徒があったことは驚かされる。
 しかし、これら勤労生徒を苦しめるのは、厳しい労働と時間ばかりではない。同輩、先輩との間で、また上司との間で、また登校した学校の級友との間で、悩ましい人間関係のもつれに悩まされる。それを嫌い町での気晴らしは、また思わぬ異性関係を生じ、彼女らをさらに追いつめる。
こうして万余の生徒それぞれの4年間に生じた事件は数知れず、それらとりどりのハードルを乗り越え、生徒一人一人の卒業があった。
 彼女らの傍らを昭和・平成の「昭和元禄」や「バブル経済」が通り過ぎる中で、地方出身の中卒女子生徒が全身汗まみれになって働き、卒業して行った。これはその泉州の繊維企業の語られることのなかった織姫たちの学校物語が、ここにある。

『織姫たちの学校』 の目次
はじめに
1 隔週定時制高校の四〇年
2 昭和・平成の織姫物語
 序 /高塀の向こう側 /織姫の一日 /織姫の父/織姫の母/ 織姫の支え/無償の善意/織姫殺人事件/官星多発の織姫/失業する織姫/家庭訪問/出産する織姫/出産する織姫/末期癌の織姫/組合教員の傲り/心を病む織姫/駆け落ちする織姫/技能員と織姫/校長と日の丸/「あかんたれ」の経営感覚/リストカットする織姫/汚れた教師
解説――十五の春にのしかかるものーーー藤野光太郎
あとがき

読みたい人の申込先――――不知火書房
電話 092-781-6962
FAX  092-791-7161
住所 810-0024 福岡市中央区桜坂3-12-78
 



『倭国とは何かⅡ』への招待状1       室伏志畔

2012年08月09日 | 現代詩
           

 待望久しい『倭国とは何かⅡ』が不知火書房からようやく発刊を見た。ここ二〇年にわたる九州古代史の会の会誌に掲載を見たより抜きの三十二論文が、多くの写真と図表がふんだんに盛り込み、松尾紘一郎の写真が花を添えている。すでにこれまで会誌はCD化されてきたとはいえ、本としてまとまって読めるのはまた格別である。何よりも会を長年にわたりリードしつつも想い半ばにして倒れた灰塚照明、相良祐二、片岡格、淵江順三郎の論がまとまって読めるのは嬉しい。その執筆者個々についての高橋勝明の行き届いた紹介がまた素晴らしい。編集に当たった兼川晋・加茂孝子・恵内慧瑞子・高橋勝明のこよなく会を愛することなしにこれはありえない成果に深く感謝しつつ、これに劣らぬ会誌の発行についての責任を感じざるをえない。これはその『倭国とは何かⅡ』への招待状である。

      一.自立した会形成と情況

 齊の太史(正史の記述者)は、崔杼という権力者がその君・荘公を殺したことを、「崔杼、荘公を弑す」と記したがために殺された。それを継いだ次弟も同じくそう記したところ、また殺される。三弟もまた同じくそう記したが、さすがにその太史を殺すことを崔杼は躊躇したという。この話を武田泰淳は『司馬遷―史記の世界』の自序に書きつけ出征した。そこに中国における史家の気概を武田泰淳は見、匈奴に敗れた李陵を擁護し、宮刑にあった『史記』の著者・司馬遷の行為が、その第一義に重なるものとしたのである。そのように史書は真実を語ってこそ何ものかであった。しかし、この島国では史家とは名ばかりで、権力の思うがままに曲筆を弄する者だけが史家の名を今もほしいままにしている。それが『日本書紀』以来の正史記述で、現在、通説として行き渡り、この国の歴史を偽り、日々、学校教育を通じて子女を今も洗脳し、現在及び明日を歪めている。
 この記紀以来の大和中心の皇統史に異議を呈し、大和朝廷に先在する倭国を説く、九州王朝説が内外文献を整合さす中で、古田武彦により一九七〇年代初頭に提起された。それは一三〇〇年にわたる記紀史観の皇統一系のドグマからの解放で、王朝交代論として一世風靡したが、九〇年代を潮目に、偽書論争にマスコミを巻き込んだ謀略に足を取られかつての勢いを失った。
 本書は、この九州王朝説に同調する中で八〇年代の終わりに誕生した本会が、九〇年代の九州王朝説への逆風の中で、それに呼応するように生まれた原理主義的反動に抗し、九州王朝説を手放すことなく、「主人持ち」の会からの自立をはかり、師説以上に「徹底して倭国を研究する」ものへ深めた会誌に掲載を見た会員の二〇年に及ぶ論文撰である。
それは一九八九年の「市民の古代」九州支部の設立に始り、一九九四年に「多元的古代研究会・九州の会」と名を変え、さらに一九九八年の「「倭国」を徹底して研究する-九州古代史の会」へと、三度、会名を変更し、二〇一〇年七月の一五二号までの会誌からピックアップされたものである。
七〇年代後半から九州王朝説を中心ににわかに全国的に簇出した、市民による歴史研究運動の幾多の会の一つとして本会も誕生する。そうした中で、この論文撰が貴重なのは、通説に対し地方からの異議申し立てと、九〇年代の逆風の中で多くの会が大和中心史観にお里帰りと古田説への原理主義的回帰かという二者択一をとった中で、唯一、反動化も「主人持ち」の会にもなることなく、民主的に開かれた会として自立した形成を行ってきたところに、他会に真似できない成果を生んできた。つまり九州王朝説を手放さずに、自立を目指す第三の道を選び、師説以上に会員が九州王朝説を手探りで深める新たな提起へ躍り出たところに本会の意義があった。そこに「徹底して倭国を研究する」ことを期した九州魂が躍動していたと云えようか。
本会会員の特徴は、定年組が中心となり壮年層を組織したことは、他会が青壮年の若気の至りを免れない中で、大人の会としての風格を持ち、また、諸々のしがらみから自由なのびのびしたものに会を暗黙に位置づけた。そのことは、九〇年代以後の九州王朝説の反動期の中で他会にない自立精神の砦の形成を促す。その一方、七〇年代以後の大衆消費社会と高度情報社会の転換に遅れを取ったことも否めない。会結成から二〇年ほどして息切れするのは、その中心が高齢化し、論文撰に名を連ねる一四人中で、四人がすでに鬼籍に入っていることでもそれは知れる。執筆者の肩書きは、警察官1、民間テレビ勤務者2,教職員2、公務員3、銀行員2、医者1,会社員2、不明1と、公務関係と民間がほぼ同数で、男女比率は12:2であったことは、フォローする女性陣の苦労を窺わせる。この雑多な寄り合い集団の八〇年代終焉からの二〇年の成果を見定めたい。

   二.灰塚照明と古田九州王朝説
        
一九八九年一〇月の「市民の古代」九州支部の設立に始まった本会が、翌九〇年一月の第一回例会に引き続き、三月に「市民の古代」本部主催とはいえ、シンポジウム「倭国の源流と九州王朝」の九州開催の舞台回しを多元的古代の会の九州支部である本会が引き受けたことは、九州王朝説の激流に一気に身を投じるもので、役員はきりきり舞いする忙しさの中で意識改革は一気に進んだかに見える。
九州王朝・倭国の中央機関としての太宰府の表記の復権要求は、通説が大和朝廷の地方機関名とする大宰府の官製表記の押しつけに対する反発は、荒金卓也の「だざいふは「太」宰府だ」を狼煙に、九州歴史資料館への申し入れに至る多くの論を生んでいる。それは畿内中心主義に対する基本的な疑問で、多くの太宰府論が本会で生まれたのは当然であった。おそらく九州王朝説の一斉風靡は、この畿内中心主義の押しつけによる地方蔑視に対する反発にあった。しかし、それに先立つ本誌七号で灰塚照明が「「天一根」大分県姫島説への疑い」は、その後の本会のあり方を暗示する一歩ではなかったか。それは天孫降臨の故郷・天国(あまくに)を、出雲、九州、韓国への三降臨地から古田武彦は、それに囲まれた対馬海流上の島々としたのは、それらの島々がそれぞれに天を頭にもつ別名を持っていたことによる。その中の天一根の別名をもつ姫島を古田武彦は国東半島沖の姫島に比定した。それは通説に重なる。この古田武彦の一連の比定を画期のものとした灰塚照明は天孫降臨地の糸島半島横にある姫島に気づく。現地調査し、縁起書に伊弉諾尊と天一根が祀られているのを確認し、これこそが記紀記載の姫島でないかと異論を呈した。それに一時、同調した古田武彦が近年、自説に復帰し、灰塚説を蒸し返した私をフォローする論を書いた高橋勝明に対し反論を本誌に寄せたのは記憶に新しい。しかし、この灰塚説の延長に相良祐二が、九八年に「「天国」はどこか」を書き、古田武彦が天両屋を沖の島近くにある両子島としたのに対し、糸島水道で半分に分かった志摩郡こそがふさわしいとする論を結果したことを思えば、二人がこれら島々の比定を天孫降臨事件に関連させ比定したことは明かである。天孫降臨事件は天国から糸島半島への直接侵攻ではなく、松浦半島経由の迂回路を取るカムフラージュ作戦として姫島の陰から糸島水道を一気に陥れ、金印国家・委奴国の中枢を襲ったことを古田武彦は見ていない。ここにある問題は古田武彦が天国を対馬海流上の島々とし、九州侵攻である天孫降臨を南九州の日向から糸島半島の日向(ひなた)に奪回した不朽の業績を踏まえてあった。しかし、その細部に至る島々の比定に現地認識を踏まえての異論を、古田武彦は年を重ねるにつれ、度し難いものとして排除したところに、「多元的古代研究会九州支部」であった本会が、「「倭国」を徹底して研究する―九州古代史の会」と会名を改め、古田説と一線を画さざるをえない理由も胚胎したのは見やすい。
なぜなら、我々は古田武彦の九州王朝説に多くを教えられながら、誰の信徒でもなく、自由に自立した思考をもって古代史に対していたからだ。出雲国を島根と呼ぶ由縁が、今は宍道湖を成す水道の前にあった島に、天国の根を海人族が見たところにあったことを思えば、天一根とする別名をもつ姫島が、天孫降臨の足がかりを国東半島沖の姫島に見ていたとは思えない。
私は、このとき大阪の「古田史学の会」にあって会誌交換で手にした灰塚説に注目し、「九州には『点と線』の鳥飼刑事以上の、てごわい刑事コンビでおるからな」と、今一人の痩身の鬼塚敬二郎を想いつつ、その線上での思考を壱岐・対馬に向けていた。それはシュリーマンのトロイの発見を踏まえ、現代ではその下層に本来のトロイの町を比定するに至ったとしても、それはシュリーマンの発見を受け継ぐ進展で、その名誉を決して傷つけるものではないと確信していたからである。
しかし、『東日流外三郡誌』を巡り、季刊誌「邪馬台国」の編集長・安本美典の「偽書疑惑」キャンペーンに乗せられたマスコミ報道に、「古田武彦と共にある」はずの「市民の古代」幹部の多くが浮き足立ち、ついには屈折し、多数派を形成し、会を奪取する事態が、これを前後して起こっていた。これに対し「古田武彦と共にある」ことを当然とする者は、「多元的古代研究会」を立ち上げ、本会もその九州支部に名を改めたのが九四年の五月であった。
この新たな市民の歴史研究運動の再編に際し、本会が、会としての意向を全体で確かめつ民主的手続きを取り進んだのに対し、他会は古田武彦の意向を優先させる「主人持ち」の会としてあることをアプリオリに会幹部が選択し、それを会員に押しつけることに何の疑問ももたなかった。この違いは決定的であった。なぜなら、戦後、幾多の会が政治的な「主人持ち」の会に堕したため、会員から遊離し、戦後革命をおシャカにしたことへの反省を他会は想いもしなかった。また自身の意向を市民組織に押しつけることに、「偽書疑惑」報道で追いつめられ、依拠した「市民の古代の会」を失った古田武彦に顧慮する余裕はなかった。
ここにおいて古田説に対する部分的修正を説いた灰塚照明の異論は政治化する危険性をもった。古田武彦の業績の顕彰することを目的とする「古田史学の会」やそれに同調した「多元的古代研究会」関東支部は、古田説の原理主義的な行き方にとって、古田説を検証する異論に神経質になった。このことはさらに灰塚照明より一歩、踏み込んだ提起である相良祐二の一九九八年の両子島・志摩郡説は大阪ではまったく無視された。私は古田武彦はいま、自説をどこまで修正する必要があるかが問われているように、その支持者は主体的に自説を古田武彦の顔色を窺うことなく展開できるかが問われていると思う。
なぜなら、灰塚照明がそれから一〇年して放った「「比田勝」――それは比田方だった」は、古田武彦が天孫・瓊瓊杵尊を比田勝の海軍長官としたが、比田勝は比田方(比田潟)で、万葉集の歌にも載り、宗上野介茂久が宗賀茂の叛乱をそこで斥け、その勝利を記念し比田勝と改めたと『新対馬島誌』にもあったからで、それは古田論証の瑕疵を正すもので、その論証は糸島沖姫島説のそれとちがうものではなかったからだ。それら異論への目配りなしに九州王朝説は師説にある瑕疵を含め化石化させる「古田史学の会」等の親衛隊の在り方に私は危惧を覚えていた。

    三.「古田枠」と九州シンポジウム

この「九州古代史の会」の古田説を踏まえてのさらなる主体的な提起と反対に、「市民の古代」の畿内説への復帰派とは別に、「古田武彦と共にある」ことからさらに、その顕彰に進んだ関西の会の組織者は、会名を「古田史学の会」とし、機関誌を古田本『邪馬壹国の道標』のサブタイトルそのままの「古代に真実を求めて」と臭い選択をした。そこにあった私は、古田武彦が倭国主神(大神)を日本国の主神である天照大神に同値したのを疑い、そこにあるねじれから、高皇産霊命の尊崇した月読命こそが倭国主神にふさわしいとする『伊勢神宮の向こう側』(一九九七年)を刊行した。今から思えばそれを北馬系史観内での限界思考で、私はその出版に際し、古田武彦の異論に対する寛容度が知りたく、序文を求めたところ、それに快く応じてくれた古田武彦に大人(たいじん)の風格を見て、私は危惧を取り下げた。しかし、次著『法隆寺の向こう側』(一九九八年)で「倭国の別顔」を書き、筑紫と豊前を二中心とする倭国楕円国家論を提起したあたりから、にわかに雲行きがおかしくなった。それは九州王朝・倭国傍流の神武による畿内大和への東征に始まる大和朝廷の成立という、記紀史観に接続した「歴史的枠組み」を提起しつつあった古田武彦にとって、そのヤマト朝廷の成立を豊前に見る倭国楕円国家論の提起は、部分的異論を越え、古田枠の変更を迫るものであったことによろう。そうした中、私はその豊前王朝説の提起者・大芝英雄の話を聞く必要があるとし、水野孝夫会長も了承し、「古田史学の会」に大芝英雄を招請した。このとき別府から堺に戻った大芝英雄の会での発表は、あいにく私が当日、体育祭前日の準備に重なり、出席できない中、行われたが、怒号で発表が進まないまでに古田原理主義に染まった会員の拒否反応に遭ったという。その一九九八年は、本会が古田武彦との軋轢が激化し、「九州古代史の会」に名を改めざるをえなかった年に重なったのは偶然でない。
この三年後の二〇〇一年に灰塚照明は「「比田勝」は‥‥「比田方」だった」を書いたわけだ。それまでに発表を見た「接尾語(ら)は海神であった」(一九九五年)や「葺不合命の生育地と生誕地」(一九九六年)も、古田説を一歩進める刮目すべき論であったが、比田方論は、古田武彦が『古事記』に日高番能邇邇芸命とあるところから、対馬の比田勝を日高津と解し、邇邇芸命をその海軍長官にしたのを、灰塚照明は現地調査し、比田勝は元、比田潟での戦いの勝利を記念して比田勝と改められたので、『万葉集』にも比田潟の歌があることを例示し、古田武彦が邇邇芸命や天照大神を対馬に結びつけた幻想に疑義を呈した。その論証は先の姫島糸島沖説や一連の論証とちがったものではなく、糸島沖姫島説を否定するなら、この比田方説を否定する勇気があるかを私は問いたい。すでに私は先の『伊勢神宮の向こう側』で、壱岐の志原こそが邇邇芸命の出自地とし、古田武彦の対馬出自説を改めたが、それは古田武彦に叛旗を掲げるものではなく、その瑕疵を指摘するのは灰塚照明とて同じであった。
この灰塚論稿の発表された二〇〇一年の秋に、私は灰塚照明から来年(二〇〇〇二年)の九州シンポジウム「「磐井の乱」とは何か」への招待を受けた。そのとき、私は先に述べた筑紫と豊前に二中心を置く倭国楕円国家論を踏まえ、もっと豊前へ目を向けるべきとし、「古田史学の会」幹部との軋轢を深め、ついに私の会費納入を会は拒否することで、私は自動的に退会を余儀なくされた。
ところで、これまで磐井の乱は、大和朝廷に対する九州豪族・磐井の反乱とする通説に対し、古田武彦は九州王朝・倭国王・磐井に対する大和朝廷の継体の反乱と逆転させたが、畿内と九州の土俵を疑うことはなかった。しかし、倭国楕円国家論かを取るなら、原大和を豊前に置く大芝英雄や私にとって、磐井の乱は筑紫の倭国王統に対する豊前の倭国皇統の継体側のクーデターとするほかないのは、もはや自明であった。
そのとき、本誌で兼川晋は埋まらぬ誌面を埋めるため「「磐井の乱」を考える」を書き継いでいた。それは行きつ戻りつするところがあって、私はそれを途中から読むのを投げ出した。しかし、九州訪問の際に、それを書き直した優に一冊の本になる『「磐井の乱」を考える』の原稿を預かった。そこで、兼川晋は、倭国楕円国家論に百済王統論を持ち込み、伽耶問題に絡む因縁が磐井の乱の背景にあるとする、複雑に混戦した糸をねばり強く解きほぐし、継体年代の再編を試み、通説に一三年遡行する継体年代を隅田八幡宮の人物画像鏡からし、磐井の乱を五一五年とし、「二中歴」の継体に始まる九州年号開始の意味を解き明かしているのを見て、私は磐井の乱を畿内対九州の土俵から、豊前対筑紫の九州域内の内部葛藤として活写されているのを見て、兼川晋が新たなパラダイムを拓きつつあるのを見た。
その兼川晋の論の進展の中に、通説や古田説の枠組みを越えた展開を重く見た灰塚照明は、九州シンポジウムの開催を決意し、大芝英雄や私に参加を呼びかけた。それは「偽書疑惑」以後、停滞した九州王朝説の新展開を、古田一国枠を突き抜け韓半島に橋架ける提起となっていた。私はこの灰塚照明の意気に大いに共鳴し、その基調報告で、磐井の乱を九州域内における内部対立として取り上げることは、通説にも古田説にもできなかった画期の意義を有するもので、それが「九州古代史の会」が取り上げたことが、「どんな大きな意味をもっていたかが、必ずや振り返る時があるだろう」と言祝いだ。
この九州シンポジウムの開催と成功を前後して、「東京古田会」の編集長であった飯岡由紀雄の編集した次号冊子の原版を印刷所から持ち去る事件が起こり、飯岡由紀雄と福永晋三と私は、そこから退会を決意し、東京で「古代史最前線」の発行を企画し、関西で私が「越境としての古代」を立ち上げ、一定の読者層を獲得するのは、九州王朝説が「古田枠」に納まりきれないことを如実に示すものであった。しかし、それは灰塚照明と「九州古代史の会」のこのタイミングでの、九州シンポジウムの呼びかけとその成功なしにそれがあったとは思えない。

『倭国とは何かⅡ』への招待状2      室伏志畔

2012年08月09日 | 現代詩
       四.本会の倭国論の進展と欠如

思わぬことに、このシンポジウムを置きみやげに灰塚照明が突如、逝く。それを予感しての呼びかけであったかのごとく私に印象されるのは、これを契機に本誌の展開は、白名一雄が述べたごとく古田枠を越え、大きく展開したことにある。その先頭に立ったのが、磐井の乱論を展開した兼川晋であったのは当然で、それに裏打ちを与える百済論は、「越境としての古代」に展開され、二〇〇九年に『百済の王統と日本の古代』(不知火書房)にまとめられる一方、百済や伽耶・新羅への旅が本会で実行され、かつての勇ましい江上波夫の騎馬民族征服王朝説が、百済王統論を通して具体的な展開を九州で見ることになった。
この自説の発展とは別に兼川晋は、他説への目配りを忘れなかった。大芝英雄の豊前王朝論が本誌を得て再展開される一方、「呉の太伯の後」を倭とする平野雅曠の見直しが始まったのは本誌と「古代史最前線」と「越境としての古代」を通してであった。それらを踏まえて、日本古代史を東アジアの民族移動史に開く、私の黒潮に乗りやってきた南船系王権と韓半島経由の北馬系王権の興亡とする南船北馬論が展開され、「越境の会」主催の畿内で「大和を見直す旅」や豊前での「原大和を訪ねる旅」に本会が協賛し、大和の見直しと九州の原大和の発見に手を貸してくれたことを私は忘れまい。
ところで、これらいくつかの修羅場を潜り抜ける中で本会は、二〇〇三年に九州シンポジウムの成果をまとめた画期的な『「磐井の乱」とは何か』(同時代社)を発行し、二〇〇六年に古代史論集『「倭国」とは何か』(同時代社)を発行している。後者については、古代天皇十年在位説を取る安本美典を批判する松中祐二の論を嚆矢とし、大芝英雄の豊前王朝論を百も合点した上での庄司圭次の淡海批判論、「誰が国分寺の制度を創ったか」と従来の聖武天皇説から脱却する、倭王二人にその淵源を見る庄司圭次の論に加え、佃収の論を踏まえての兼川晋の「二中歴」の九州年号の制定者を、磐井の乱以後の九州の政権主義者に見る論は、いずれも目を瞠るポレミークな論の展開であった。
それに続く今回の本書は、この激動を潜り抜ける中で、逝った故人の業績を顕彰し、九州を地理的区分けする論文構成を行い、この二〇年の集大成にふさわしい、初心の平常心に立ち返る編集を行う、兼川晋・加茂孝子・恵内慧瑞子の三人の有徳を偲ばせる穏やかな出来映えとなっている。
その上で、第一章―肥前(対馬 松浦 佐賀)、第二章―筑前(糸島)、第三章―筑前(福岡、糟屋)、第四章―筑前(太宰府)、第五章―筑後、第六章―豊前、第七章―その他の構成を改めて見るとき、肥後への視点が欠落しているのが見てとれる。それは記紀が熊襲を朝敵として排斥し、古田武彦が九州王朝を北馬系の天孫王朝として南船系の「呉の太伯の後」の委奴国を排除した時代的枠組みに本会もあったことを示すものである。そこを本会会員であった平野雅曠が『倭国王のふるさと 火の国山門』を書き、その孤立した営みを通して穴埋めされたことを我々は忘れてはならぬ。それを踏まえて、本会会員と重なった「越境の会」が『井真成を和姓に奪回せよ』(同時代社)によって、遅まきながら補ったことを記しておきたい。
その上で改めて全論文を見回すとき、灰塚照明の大きさを思わないわけにはいかない。私の誇りは大芝英雄の豊前王朝説と兼川晋の百済論を本にしたことにあるが、無念は灰塚照明の本をまとめられなかったことにある。本書がその灰塚照明の八論文を収録してくれたことを感謝せずにはおれない。それは今読んでも、どれ一つとして色褪せていない。その一つ「葺不合命の生育地と生誕地」は、通説が架空とした神武一族の生誕地についての、かつてない特記すべき発見なら、それに続く兼川晋の「天孫降臨地の解明について」は、現地の天孫降臨地の住人の土地勘からする解明で、この二つをもっと本会は喧伝して、地方会員に見学会を開き、もっと啓蒙をはかるべきではないかと私は常々思っている。
その上で云うなら、その天孫降臨地の糸島は、ほかでもない金印国家・委奴国の先住地で、そのことへの言及がないことは惜しまれよう。それは記紀が割愛し、古田武彦が排除した「呉の太伯の後」の流れに倭国王統を見ずに、古田説の天孫王朝に本会の思考が流れたことを如実に示すものである。しかし、委奴国の流れに邪馬壹国→倭の五王→俀国の流れがあったからこそ、朝敵・熊襲として排斥される悲劇も生まれたのだ。その天孫降臨地にある井原遺跡は、その天孫族の侵攻によって征服を見た委奴国王墓で、委奴国の井(倭)氏に関係しても、それが岩羅に由来するとはとても思えない。

   五.とりどりに躍動する執筆者

ところで、灰塚照明死後、会をリードした兼川晋の主張は『百済の王統と日本の古代』にまとめられたこともあって、本書には先の天孫降臨地についての言及を除き、比較的軽い論が載るが、それは全体への目配りと後輩の育成への配慮にあったかに見える。そうした中から、次代を背負う片岡格や松中祐二や庄司圭次が頭角を現したが、その片岡格は、本書ではその大成の片鱗を窺わせる「松浦の官衛と古代官道」一編を残し急逝する。一方、松中祐二は太宰府について近年の条坊制都城についての踏み込みもさることながら、私は「ホントかいな?」を買いたい。それは通説からする指摘にことごとく疑問を呈しているのは、いつまで九州倭国が畿内大和説によって歪められ語られるかという、会員の憤懣を代表しよう。しかし、大宰府から太宰府への奪回一つですら思うに任せない現況は厳としてあり、その奪回が記紀史観の終焉とパラレルな長期戦にあることを思わなければならない。それまでは、松中祐二がしているように「ホントかいな?」を会員個々が連発し、向こうが折れるまで反証を普段に突きつける持久戦に我々は堪えて行く必要があろう。ところで、庄司圭次も筑後の国府が太宰府政庁より大きな倭の五王にふさわしいものとする提起や、隋書の方角の九〇度のズレについて、鋭利な分析を本書でくれている。しかし、私には前著『倭国とは何か』での「誰が国分寺の制度を創ったか」が余りに鮮やかで、彼はその絶頂のおいて,やむを得ない家庭の事情でその才能を自らに封印したなら、松中祐二は医業の内にその才能を埋める選択を取り、片岡格を失ったこともあり、兼川晋は次世代へのバトンの預け先を見失ったかに見える。歴史の展開の多くが我々の想いの外にあるように、小さな会の明日もはかりがたいのだ。そしてその負担が陰日向で、灰塚照明や兼川晋を支えた加茂孝子と恵内慧瑞子に負わされる中で、本会の第一期は終焉を迎えたかに見える。
その中での恵内慧瑞子の奮闘を語るのが、本書での大作「「王城神社縁起」の語るもの」である。これはそれについての最初の試論と云うべきもので、この縁起は倭国皇統の起源を成す神武の事跡に北馬系の九州王朝の起源に関わる事跡が錯綜した縁起に私には思え、一筋縄ではかたづくとはとても思えない複雑なものである。その意味で恵内慧瑞子の今回の提起は一つのパンドラの箱を開けたことはまちがいなく、それを途絶させることなく、本誌での連載を越えて一結論を求めた不知火書房の米本慎一の編集方針も凄いが、それに応えた恵内慧瑞子も天晴れで、史論はこうして生まれるという見本がここにある。また加茂孝子は、「「だざいふ」は太宰府だ」という素朴な疑問に始まった古代史との関わりが、15年して伊野皇大神宮について言及するところに、本会の古代知が個人を含めてどれだけ深化したかを窺わせるもので、その言及は福永晋三の発見を引き継ぎ、壬申の乱後に大和朝廷を開朝した天武が畿内大和で倭国(王統)を再興し、その天武の伊勢神宮や斎宮構想の起源が九州にあったことを示すものとして興味深い。
その上で、普段、書くのではなく裏方として努力を惜しまなかった淵江順三郎の九州の紫宸殿についての小論に呼応して、会員歴の長い中村忠勝の高良山麓からの大裏についての指摘も注目される。それは木藤叶の太宰府政庁跡蔵司発掘現場についても云えることなので少し触れたい。
私は古代史研究が何の役にたつかを知らないが、それは文学は何の役にも立たぬが、何ものかであるように、古代史を踏まえることなしには、現在と未来についての指南することはとてもできないものとしてあるのは、そこに我々のアイデンティティの根拠が横たわるからにほかならない。それを曖昧にしたこの国の歴史教育は、今や、腰の据わらない輩が跋扈する情況を生み出すに至った。そうした中、これらのお三方は、文章表現の場が実務や生活とちがうことを自覚された上で、紫宸殿や大裏、また蔵司にしては説明のつかない事態に、改めてそれらが大和朝廷の「遠の朝廷」ではなく、九州王朝・倭国として位置づけることなしに説明不可能なことを、生活感覚から指摘されており、この実感に対応しない大宰府といった官制表現では、彼らを納得させることはできないことを語っている。この感覚を失わない以上、我々の歴史探究の基盤は強固であると云えようか。
その上で、灰塚照明の「「英雄」か「持衰」」か」における矢を射込まれた人骨分析は、警察畑にあった人ならではの、胸のすく見事な法医学的分析なら、云うのもおこがましいが、室伏志畔の大善寺玉垂直宮からの九州の薬師寺の礎石断片の柱跡が、畿内飛鳥の本薬師寺の東塔の礎石の九六センチの柱跡に一致することを実証した小論は、移建・移坐論争に一石を投じるものとなっていることを付け加えたい。
最後に、見事な執筆者の紹介記事を書いた高橋勝明について一言せずに筆を置くことはできない。高橋勝明は多くが古代史研究の前衛として振る舞いたがる中で、後衛で現在提起されている問題の意味を俯瞰するところからさらなる一歩を提起する、フォロー型の得難い篤実な人に見える。本書に収録された「新北が津でなかった時」は、これまで塾田津を道後温泉とする通説に対し、福永晋三の鞍手町新北説と下村昌孝の諸富町新北説の会外での新北津論争に鮮やかな交通整理を行ったもので、この才能は第二期の「九州古代史の会」の編集の中心者にふさわしい。それは労多く配慮に富む今回の紹介記事によって、故人の多くが救われているように思え嬉しい。
ところで、大芝英雄の豊前王朝論について一章が取られているのに、肝心の大芝英雄の論が一つも収録されていないし、本会を一時リードしながら、会を離れた荒金卓也の論が太宰府についての小論だけというのも淋しい。せめて「多利思北孤を祀るお宮はここではないか?」を載せ、現在提起されている天子宮問題に繋ぐべきではなかったか。しかし、この不満は言わずもがななことは、すでに当初の予定より大部に膨らんだ本書にとって採録が物理的に不可能だったことによるので、我々は兼川晋・加茂孝子・恵内慧瑞子・高橋勝明の編集の労を多として、それを全面的に支援してくれた不知火書房の米本慎一に感謝することを忘れまい。その上で我々は、さらなる『倭国とは何かⅢ』の編集に向け、さらに勤しむ必要があるように思うのは、まだ多くの論も執筆者も埋もれているからである。(2010.09.26初稿、12.6.13加筆)

柳田民俗学と方言周圏論   アホバカ文化考・異論    室伏志畔

2012年05月29日 | 現代詩
柳田民俗学と方言周圏論      室伏志畔

柳田國男は「京都の時雨の雨はなるほど宵暁ばかりに、物の三分か四分ほどの間、何度と無く繰り返してさっと通り過ぎる。東国の平野ならば霰か雹かと思ふやうな、大きな音を立てゝ降る」とそれぞれに見事にイメージ化している。それを吉本隆明は引き取って、古典の時雨はどこで歌われようと、前者の京都の時雨のイメージを前提に展開したのだという。この京のイメージを極めることがいわゆるこの国の古来からの教養で、そのイメージに通じれば、何処にあっても「題詠」に従って、雅の道に通じることができた。
とするとき「東国の平野の霰か雹かと思ふやうな、大きな音を立てゝ降る」東北や各地のとりどりの時雨に密接に結びついた各地の幻想に、柳田國男が鍬を入れたことは如何に画期の試みであったかは見やすい。
和人のわきまえとしての和歌は、京のイメージに一元化する日々の実践で、この国の感性の涵養そのものであった。それは畿内中心の感性の一元化を自然過程とすることにほかならない。それは逆に云えば都中心の鄙(地方)の差別化そのものであるばかりではない、下々が何を云おうがお上が大事とするこの国の風習は、この感性と表裏一体したエリート官僚の知性を強固なものとしたのは当然である。
ここ一〇年近く、畿内一元史観からの脱却を説いてきたが、それは単に記紀史観からの知性の奪還に止まらず、ここ一三〇〇年にわたり涵養された日本人の感性構造を疑い、そこからの越境をはかる、途方もない不可能性への挑戦でもあったわけだ

      1.『全国アホバカ分布考』

この吉本隆明の柳田國男論と前後して、私は、今もテレビで放映中の「探偵!ナイト・スクープ」が、一九九一年のテレビ界のビッグ・タイトルを総なめすることになった番組の、その経緯を含め再構成した『全国アホバカ分布考―はるかななる言葉の旅路』(松本修著・新潮文庫)を読んだ。そして、たまたま点けたテレビから、「探偵!ナイト・スクープ」の探偵局で秘書役を務めた岡部まりが、今夏の参院選の出馬会見に小沢一郎と共に現れる共時性に驚いたが、それ以上にびっくりしたのは、「探偵!ナイト・スクープ」のプロデューサーで、『全国アホバカ分布考』の著者である松本修がアホバカ語分布を方言周圏論で一元的に説明する姿をこの本で目の当たりにしたことである。
「探偵!ナイト・スクープ」とは、視聴者の調査依頼に応じる番組だが、その一つに「東京からどこまでが『バカ』で、どこからが『アホ』なのか、調べてください」という依頼があった。それを秘書役の岡部まりが読み上げ、探偵局長の上岡龍太郎がそれを「一見バカバカしく見えるが……文化の境界線を探る重要な調査で」と応じ、北野誠探偵に調査を命じたのに始まる。東京駅から北野誠が新幹線に乗り込み、東京の「バカ文化圏」が大阪の「アホ文化圏」にどこら辺りで線引きできるかを、途中下車し確かめて行くのだが、名古屋周辺で「タワケ文化圏」が厳然とあることに遭遇し、アホ・バカの境界線探索は、いつしかアホ・タワケの境界線探索に変わり、それが岐阜県の関ヶ原辺りとする報告を持ち帰る。関ヶ原は云うまでもなく、豊臣方と徳川方の天下分け目の合戦場であったばかりではない、古代の一大決戦・壬申の乱の舞台で線引きできるというのは、誠興味深い。これをきっかけに、この番組は、一年がかりで全国のアホバカ語の分布地図作りがスタートするが、問題は近畿の西にもアホ・バカの境界線があり、東西のバカ文化圏に挟まれてアホ文化圏があるという事実をスタッフは驚くが、わけても驚いたのはプロデューサーの松本修はなかったか。
ここに全国の教育委員会に3000通以上のアンケートを発送、回収し、アホバカ方言分布が地図に上に書き込まれる。この説明に松本修が用いたのが方言周圏論であった。
柳田國男は、言葉は同心円上に広がり都から旅をし、遠い地方ほど都の古い言葉が残ると、こう述べる。
《若し日本が此様な細長い島でなかったら、方言は大凡近畿をぶんまはしの中心として、段々に幾つかの圏を描いたことであらう。》(『蝸牛考』)
ぶんまはしはコンパスの古称で、この方言周圏論の提起はヨーロッパ起源だが、柳田國男はそれを『蝸牛考』で、つまりカタツムリの各地の呼び名分布について報告したのである。先の柳田國男の一文はその中にあるものだが、それが蝸牛に止まらず、十分に成り立つかどうかについては、晩年は懐疑の内に他界した。
松本修は、主要なアホバカ方言23語、つまり、アホ、ノクテー、アヤカリ、アンコウ、バカ、ウトイ、トロイ、タワケ、ボケ、ゴジャ、コケ、テレ・デレ、タボ、ダラ、ホウケ、タワラダ、ホンジナシを日本地図に書き入れると、京都を中心に東西で上記の同じアホバカ方言が日本地図上で、同心円上に並ぶことから、柳田國男の方言周圏論を持ち出し、テレビ放映の中で上岡龍太郎探偵長を中心とするスタッフの軽妙洒脱なおもしろ、おかしいやりとりを通し、民俗学者を出し抜き、かくして「探偵!ナイト・スクープ」は一九九一年度のテレビ界のタイトルを総なめすることとなった。

    2.方言周圏論と柳田國男

 この快挙を認めるに私はやぶさかではない。その上での遅ればせの批判を今からするのは、方言を京からのお流れとしてマスコミが一元的に説明することに、私は一種の戦慄を感じるのは、できるだけ多元的にあるべきマスコミが、一元的な方言周圏論を振りまくことに微塵の危惧の自覚がないことにある。ソフトに言葉を振りまきながら松本修は、柳田國男をはじめ民俗学者が手をこまねいた方言周圏論の是非を出し抜き、満面してやったりとするところが、そこになかったと云えば嘘であろう。しかし、それが、こう書くのは、やはり勇み足もすぎるのではないか。
《分布図に採用したような、それなりの広さの分布域をもつ方言には、地方で独自に生まれたものなどひとつもないのではと思われてきた。》
と書くからだ。そして、アホバカ方言の最も外枠にある、同心円上に乗る東北と南九州に伝わるホンジナシの京からの遙かな旅について、東北のスーズー弁を恥じる人々を前に、松本修は、それは地元特有の言葉ではなく、遙か遠い昔、京の都から何百年の旅をした京言葉の遺風を今に伝えるものだとこう講演し、こう書く。
《仮に言葉こそ心であるとするのなら、古い雅の京の心は、今の京都にはありはしないのだ。現在の京都人をはじめ私たち関西人が使っているのは、江戸時代以降の京の言葉にすぎない。平安から室町にかけての偉大だった京の心と言葉は、はるかな北と南、東北と九州の山野にこそ、今なお豊かに息づいているのだ。
東北の方言、そしてそれを自由に操れるお年寄りは、そうした歴史的な意味で、まさしく日本の宝と言って過言ではないだろう。》
東北の方言は、かつての京の歴史的なことばを今に伝えており、かつての都ことばだったから恥じることはないのですと、松本修は東北の人に話しかける。私は、松本修がそう思い込むのは仕方ないとしても、東北の民衆がその説明に感激してもらっては困るのだが、事実は、話す方もそれに聞き入る双方が涙し感極まったというのだ。
しかし、松本修のこの云い方は、言葉と心は京に生まれ、鄙の東北でそれを受け継いだ東北の人は、言葉と心を京から与えられたかのごとき云い方である。それは鄙なる田舎には自立した心も言葉も育たなかったかのごとき言い草で私は見逃すことができない。それこそ、現在に至る官僚中心のエリート社会の心性を作った当のものとして告発されべきものだが、鄙なる東北のお年寄りが、かつての京ことばを今に保存する「日本の宝」と褒めてはいるが、実際は東北文化を貶しているのだ。それは京の雅な文化とは別に、鄙としての地方はとりどりに豊かな言葉や心をもつと、鄙文化に独自の価値を見出してきた柳田國男の民俗学とは逆立ちした理解でしかないからだ。
柳田民俗学は一面的に言い切れるものでないのは、山人論に民俗論を始めた柳田國男が常民論に行き着く逆説性を免れなかったこと一つを見ても明らかである。それは柳田民俗学が明治国家の国策遂行の一面を担う矛盾を生きたことに関係する。彼は民俗学者であったが、国の高級官僚として農政に深く関わり、ことに南洋統治とりわけ台湾統治に深く関わった。そのとき、方言周圏論を持ちだした柳田國男は、民俗学者であったか国策遂行者であったかをふわけることは血を流さずに肉塊を切り取るに似て難しい。とりわけ、ドイツ民俗学が国策科学としてナチスの時代に一世風靡したことを思えば、その影響下に生まれた方言周圏論が国策的イデオロギーに染まっていなかったとは云えない。それを日本方言に適用した方言周圏論についての柳田國男の主張を、柳田民俗学の主要テーマであったごとく捉え、鈴木修が「アホバカ方言分布考」で、その立証を行ったかのごとき評価を私は取らない。というのはそれはナチスの国策民俗学の線上から生まれた理論の趣が強いからで、晩年それに懐疑的であったのはその自省の一面を含意している。時雨と云えば、物の三分か四分ほど降ってはさっと通り過ぎる京の時雨に対し、霰や霙混じりの東北の時雨を、それと同価値のものとして見たところに、むしろ私は柳田民俗学の意義を見るからである。
また鈴木修が、現在の関西人が使っている言葉は江戸時代以降の京言葉で、東北と九州に息づく言葉は、平安から室町にかけての言葉とするのは、歴史射程がいささか浅過ぎよう。その東北と九州南端地域の住民は、人種的にも縄文的倭人の特徴を持ち、その両端に挟まれた弥生的倭人の特徴と質を異にすることは人類学者が主張して来たところであり、記紀万葉にある大和ことばの成立は、松本修が踏まえる平安時代以前よりは遙かに深い淵源をもっており、畿内中心に成立したとは云えないのである。そうした中で、アホバカ方言をすべて鎌倉・室町以後の京ことばのお下がりとして説明していいのか、私には懐疑的である。
七世紀末に飛鳥や奈良の畿内に都が成立し、八世紀末期の平安時代以降、京都が列島の文化の中心となったが、それ以前から神武の昔から大和が中心でであったとすることなく、私は六七二年の壬申の乱後のことだとしてきた。その前は七世紀半ばまでは倭国中心、つまり北九州中心の時代が八〇〇年近くあり、その前に出雲中心の時代があり、大和ことばの淵源は北九州に発し、その古層に今は南北の南九州や東北に追いやられた縄文的言語が踏まえられていた。つまり、列島における文化の中心移動についての配慮も、日本語の重層性について鈴木修のはまったく配慮がなく、畿内一元史観の上で全国アホバカ分布の説明が鎌倉・室町文化以後の京ことばの地方への分布として一元的に方言周圏論が展開されているのだ。その方言周圏論の全てが間違っていると私は云うのではもちろんない。一元的にアホバカ方言を周圏論にすべて乗せて論じる気が知れないというのだ。文化は高きから低きに流れるのは当然としても、常に双方向的に展開した文化の、鄙からの流れを無視した文化論の暴挙へのチェックこそ、マスコミが大いに気を遣うべきで、テレビという利器を使用する放送関係者はことに、文化の多様性に配慮しなくてはならないのに、一元的説明をしてどうする。また、出雲や北九州を中心とする列島の一時代を夢想したこともないため、それらを中心とした方言周圏論の複層的な展開がないのは当然とはいえ、それは七世紀以前の列島文化をなかったごとく扱っており、それは神話を切り捨てた戦後史学以上に、浅い日本文化論の展開になっている。そうした瑕疵を踏まえて成立した現在のエリート文化の形を見事に、このアホバカ分布考はなぞっているのだ。

    3.朝敵と大和一元史観

方言周圏論の九〇年代の見事な論証とされる『全国アホバカ文化考』に、私はなぜこうもこだわるのだろうか。鈴木修は「アホバカ表現こそ、まさに言語遊びのアイデアの玉手箱と言うことができるだろう」として、さらに、こう続ける。
《こういう言葉が京の町で次々と開発されるにあたっては、おそらく、庶民の遊びの精神が作用していた。人は人をけなすために最大限の知恵を絞り、あらゆるボキョブラリーを動員して、表現のユニークさ、絶妙さを競ったのである。それは稚気愛すべき、都の庶民の企てだった。こんな時、「痴」や「愚」、或いは「無知」などをストレートに表すような言葉、或いは差別的な言葉は、当然のことながら、最初から排除された。そんな一片のデリカシーもない、また遊び心もセンスの冴えもない発想こそ、まさに恥ずべき「ナンセンス」さだったからである。》
この一種、軽妙洒脱な伸びやかな論は、またなんと美しく善意な日本人論、日本語論であろう。しかし雅の極値として尊ばれた大和ことばとしての、「八雲立つ」は「八蜘蛛断つ」で、素戔嗚命の八俣大蛇退治に象徴される八雲国の粛清であり、玉藻刈りは「物部狩り」で、藤波は「藤無み」としての旧権力者に対するおぞましい粛清の一面を大和ことばの内に隠し持っていた。また京ことばのその優美さは、「どうぞ、ぶぶ漬けでも」という一見さんへの誘いは、「ぼちぼちお引き取り下さい」の裏腹な意味をもつものとしてあった。その京ことばの中心領域である畿内に、差別がもっとも色濃く残るとは、雅文化のもつもう一つの一面を語るものである。またホンジナシの方言周圏論の外周が、大和朝廷の朝敵とされた熊襲や蝦夷の地に重なる歴史を落として、それは成り立つのだろうか。こうした認識を欠いての京ことばの地方拡散だけで語られる『アホバカ方言分布考』は、一知半解でしかない。
ホンジナシは本地ナシで、本性をなくすことだとされる。酒に酔って正体を無くすとき、このことばが使われるのは、その一端を証明する。それがアホバカ方言に加わるのは、人は本来の性質を失っては人でないとするところにあろう。そして古来にあって、性質はそれぞれの土地の刻印を色濃く受けており、それを無くした者を愚かとするところにあった。問題はその喪失が酒によってもたらされたのではなく、そこに朝敵・熊襲や蝦夷を挟むとき、それは外的圧力によって正体を無くすまで追い込まれた過去があったことを知るのだ。熊襲や蝦夷は朝廷のたび重なる圧迫によって土地を追われた。新たに開発した土地にも朝廷の手は及び、追及の手は止むこと無かった。そのためにやむなく朝廷に帰伏することを余儀なくされた者に朝廷は、夷をもって夷を征する策をもって、彼等を朝敵征討の先頭に立て、その恭順の程を試した。この敵側につき、千々に心を狂わんばかりに痛めた者をホンジナシと呼び、さらに彼等を追い込み正体を無くさせたので、果たして鈴木修の言うように京ことばの遙かな遠い旅路を告げるものであったかどうかを私は怪しむ。そのことは熊襲や蝦夷の本貫が北九州で、現在、南九州と東北の列島の最果てにあることは、南北に裂かれた敗者の姿をまざまざと今に伝える。
しかし、この『全国アホバカ文化考』は、神話世界で語られる越と出雲にアホバカ方言であるダラが共有されているのを発見したのは興味深い。それはこれら地方を私は長江下流域の南船系越人の渡来地としてきたからで、このダラの共有関係は、越文化と出雲文化を担った者が通底していたことを今に語るように思えてならない。須佐之男命(素戔嗚命)に婿入りした大国主命は、越の沼河比売を娶るものの、国譲りにあったと記紀にある。その敗れた大国主命末裔は大和に入り、唐古・鍵遺跡を営み大和王権の基礎を創ったと私はしてきた。それはまた須佐の男命・大国主命一族の出雲追放と別でない。それとは別に越を頼り落ちのびた者もあったろう。「姓名ランキング」で検索すると、須佐氏の最多県は新潟県となり、須佐之男命一族の末裔は越の沼河比売一族を頼り、越に落ちて行った者があったことを今に伝える。
『全国アホバカ文化考』は、方言を畿内中心の都ことばのお流れとしたが、地方の歴史文化を回復する中で、その地方の自生的なことばに奪回するのが方言論の王道である以上、この九〇年代初頭の成果を、多元的に見つめ直す時は来ている。(2010.5.2)

添田馨の連作詩・「民族廿一」     民族

2012年04月02日 | 現代詩

                                                                            松尾紘一郎氏撮影
(民族廿一)

民族

起源の物語が消え去って久しい
流離の山河を茫々と吹き抜ける春の颶風は
死滅した国家の亡民の生い立ちから
その戦意の広大な裾野に草々の兵隊を
渡来した種苗のように繁茂させ
この世ならぬ鬨の声を津々浦々に運んだ
もう何世代も前から私の胸には
金色に光輝く日の巫女の面影が宿り
ブヨー族の女は武器と太鼓を選ばない
ブヨー族の男は戦の踊りを冠飾りに変えて
草原をはるかに南下する道を選んだ
正統な王権のもと神話は幾星霜の戦闘を浄化した
まことの恋情をもって私は蘇る
すでに死に絶えて久しい系譜の裏側から
血統は野焼きのように国土を巡り
千年の恋を日の巫女の懐から
長いこと干涸びきった心臓に血流の
力強い噴出を待ちわびる民草に至るまで
燃やし続ける誓いを鮮明にした
わけても涙の雲で虹を開いた朝鮮半島
ブヨー族の王都があった幻想の土地から
我々は矢を番えて渡ってきた
九重の船団を連ねては何派にもわたって
押し寄せる津波のように、誰が想像しえたろう
謀略につぐ謀略を書紀は押し花にして
恋文を装った歴史への反歌と為した
民族の細胞は日々新たに興亡していた
その民草のひとつひとつに冠された名前はどれも
おなじ数だけの神々の異称だった
そのひとつひとつの名を風の言葉として
私はつぶさに聞きそして暗誦した
神々の名を知ってしまった者に
恐ろしい運命が突き刺さってくるとも知らず
異教が全世界を覆い尽した時代
ブヨー族とは死滅した版図の呼び声だった
わが末裔の子々孫々は永劫の異郷に散り
清廉な商売に細々と精魂を傾けたのだ
千年、あるいはそれ以上の年月を
その間にも終末の予言は幾度も封印を解かれ
裁きの稲妻に曝されつづけた幾百年
築きあげた絢爛の屋台骨は
すでに利欲の病害虫に喰い尽くされ
剥落した誇りと言霊は虚無の氷海に永く沈潜した
願わくは、我とわが身を捧げて余りある国柄を
地の果ての不毛の砂漠に植樹し賜え
日の巫女の切れ長のあの眼差しを忘れない
その眼差しに魅入られ、私は武器を取ったのだから
まことの恋情を笹舟に託して
激しく打ち寄せてくる暴流のような怒りは
運命に課されたあらゆる予言をも裏切るだろう
観念の皇王を私がうち建てることはない
ただ心惹かれる者のために私は赴く
民びとの沸騰する記憶の底で
伝説の英霊たちが汗血馬に跨って
幻視の荒野をあてどなく彷徨うように
永い永い叙事の時代を通り過ぎて
民族はすでに輝く栄華の時代を忘却し
叙情の言葉でたがいを照らしあいながら
完結のない自叙伝を書きあげるのに汲々とした
誰が想像できたろう
その間にも水源は異教徒たちが買い漁り
言霊のさきわう国は遥かな望郷の静寂のなかに
ひっそりと息を潜め死体のようにただ暗然と
横たわるのみだった
私の敵は貪りの心を持ち、憐れみの心を持たない
レアメタルな亡者たちの同盟だ
あってはならぬ神話に巣食う亡骸の大群だ
その空虚を満たす際限のない増殖を私は憎む
民族浄化は死の勝利への恐怖から
生者の物語に介入し続ける冷たい散文の影だったから
すでに西の大国は東の大国に戦いを挑み
決戦は酌量の余地なく期限どおりに決行されるだろう
いくつもの国に散った透明な語族を呼び集め
太陽の経済をもって私も最期の論陣を張るだろう
とおい昔、ブヨー族の祖先が半島を下ったのとは逆の道行きで
言霊の使者を絶え間なく気流の船団で送りだす
ありあまる民族資本で武装した悪意の軍団は
貧者の国の銀行を破滅的金融の砦と化した
破綻までの正確な寿命を推し測るには
金融工学よりも占星術が必要だった
私は異国の天使が至る処で喇叭を吹き鳴らすのを聴いたが
俗界の迦陵頻伽はいつまでも冥途の土産を石積みにし
凍りつく音楽の調べに乗せて
季節のなかを雪崩をうって虚脱していく
天界からの救済は担保物件抜きでなされねばならない
決済期限を過ぎた民族の井戸から
いかなる公器も怨念の利息を収奪してはならぬ
流離の山河よ、異郷となるまでに荒廃した街々よ
流竄していく商売繁盛の神々よ
私を生かしめるものは何か、そしてさらに遠く往かしめるのは
鋼色に垂れこめた暗雲を奇跡の一陣の飛翔めかして
双頭の孤高の鷲が虚空を切り裂く闇のなかで
ほんの一瞬あなたの微笑の光が射すだけで
私は何度でも生き返ることができる
日の巫女よ、すでにあなたが姿を消して千年が過ぎようと
その倍の年月が過ぎようと
私はけっして忘れない、私たちいがい誰も入れない楼閣で
あなたは切れ長の眩惑する眼差しで告知したのだ
この国の未来の姿を、たたなずく青垣を
酒と蜜とが満ちる幻想のまほろばを
この記憶に焼きついた夢見の鼓動が途絶えぬかぎり
たとえ独り灰の地で死の影の谷を歩むとも
災いと試練を恐れない
とてつもなく荒れ狂う磁場の大河に沿って
私は歩き続けてきた気がする
その境涯は遥か薄明の霧の彼方にかすんでいるが
日の巫女よ、あなたの強い促しの歌声が
ヘッドフォンからはいつも聞こえていた
「死ストモ可也、死ストモ可也…」
途切れとぎれの肉声は
内側に穿たれた底知れぬ傷痕から素晴らしかった日々の
よき思い出のみを爆発的に噴出させた
歩きまわる私の取るに足らぬ日常を
まだ見ぬ未来の栄光の民族の深い緑へと染めあげていったのだ
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吉本隆明追悼   〈知〉の退行に抗して       室伏志畔

2012年03月25日 | 追悼
吉本隆明追悼     〈知〉の退行に抗して         室伏志畔
          
 一年前の地震に伴う津波の惨状を伝える多くの特集番組が残像として揺曳する中、吉本隆明の訃報を聞いた。二ヶ月近い入院生活で死因は肺炎とあり、苦しまれたのではと案じたが浮かぶ顔が穏やかであるのは救いである。かくして吉本は「未来に置かれた死者の眼」(埴谷雄高)そのものと化し、普遍視線として我々の情況に緩やかに降りて来ているかに見える。それに応え微熱の中、パソコンを立ち上げたが、想いは親鸞論に収斂して行くのは、あれもだめ、これもだめと〈知〉の退行に対しレッドカードを出し続け、末法の世を渡った親鸞に、吉本が重なるからにほかならない。
 戦後の焦土を天を仰ぎ彷徨った大衆に、寄り添うように吉本はその思想を育んできた。それは生きるに値しない末法の世をのたうった衆生に寄り添い、南都北嶺の僧に背を向けた親鸞の彷徨に重なる。「万行諸善の仮門」を出て、「善本徳本の真門に廻入」したが飽き足らず、ついに「撰択の願海」に身を投げるに親鸞の出発は始まった。この親鸞が法然に出会うまでの歩みに、すでに二つの〈知〉の退行との訣別が語られている。〈知〉の獲得に励み、さらに積善し徳を施すことは、誰もが一度は通る道である。しかし、それを売りにするようでは思想としてたかがしれている。励行は怠ることなく必要ながら、それだけでは前途が開けないのもまた自明である。そこを一段階進めると、なぜか決まって積善徳行の道が準備される。これが鼻持ちならぬのは、それが階級性に裏打ちされてあることによろう。そのため、それからの越境はたちまちその有徳の側からの人徳にもとるしっぺ返しが待っていた。その浄土教への弾圧に始まった流罪生活から、いつしか親鸞は〈非僧非俗〉の境位に達し、宗教の向こう側へと横超した。
 親鸞が末法の世で飢え死ぬ衆生を前に、称名念仏による法然の「撰択の願海」の門を叩いたのは、そこでは、飢え死ぬ者に「生死無常」を説く真門の徳僧とちがい、浄土門は全力をあげて眼前の衆生に応えんとしていたことによろう。それは津波によって打ちひしがれた東北の民に、思想はどう対処するのかという問いに重なる。親鸞はそれに対し処方を何一つ出していない。しかし、浄土を求め殺到する衆生に対し、無常を説き、積善を進める真門の僧とちがい、浄土宗は称名念仏によって往生はできると言い切った。これは弥勒が悟りを開くに五十六億七千万歳を用したのに、凡夫をして瞬時に〈浄土〉へ至らせる教えであった。これに天台・真言の旧仏教が猛烈に反発し、弾圧に狂奔するが、それは飢え苦しむ衆生を見ないに等しい。それは震災以来一年というのに、復興の進まぬ東北の現状をよそに、党派性を優先させた政治の怠慢に重なろう。しかし、思想がそれ以上の何をしたかも怪しい。そんな課題が思想にあることすら自覚されないところに現在の思想の危機があるといえよう。そこにあって親鸞は、のたうつ衆生に「みなさまと往生を遂げて、浄土でお会いしましょう」と応え続けた。この一種、倒錯にも似た親鸞の応答を、吉本はこう引き受けている。
《どこにあるかわかりませんが、いながらにしてじぶんの現在をたえず照らしている、そういうものがほんとの〈死〉であって、いわゆる「肉体の死」というものは、いわば喩えとしての死、「比喩の死」だというふうにかんがえていたとおもいます。》と書く。これは生きるに値しない末法の世にあった衆生に、「肉体の死」が「比喩の死」であるなら、死の恐怖をやわらげたことは確かである。それは『教行信証』に親鸞の思想が体系的に煮詰まっているとする坊主主義からする見方に対し、吉本がこう答えたところに重なる。《最後の親鸞は、そこ(注;『教行信証』)にはいないように思われる。〈知識〉にとって最後の課題は、頂きを極め、その頂きから世界を見おろすことでもない。頂きを極め、そのまま寂かに〈非知〉に向って着地することができればというのが、おおよそ、どんな種類の〈知〉にとっても最後の課題である。》と云うのだ。こう吉本が言い切ったことで、世の言説の多くがたちまち色褪せて行くのを私は当時、ありありと実感したことを隠すまい。それは『最後の親鸞』の〈非僧非俗〉の思想の普遍化を通し、吉本が確立した〈知〉の理念であった。
〈非僧〉が「妻帯し、子を産み、この現実の不信と造悪と、愛憐は、あたかも習俗と同じように肯定さるべきもの」として受容されたなら、〈非俗〉の真髄は〈「俗とおなじ現世の〈あはれ〉と〈はかなさ〉と〈不信〉とを、いわば還相の眼をもって生活するところに」あると吉本は言い切った。これこそが親鸞が自らを真宗と揚言した由縁で、そこに浄土教一般からの親鸞の横超があったなら、吉本の現在知からの越境もあったのだ。そこを知的俗物はそれに見合う権威と組織に寄生するが、吉本は下町に溶け入り、それらと無縁の生活を営んだ。それが如何に稀有の実践であったかは、それに続く吉本主義者が一人として出なかったことが証明する。
 親鸞が法然門下に入り、非僧非俗の境位を確立するまでに、いくつかの〈知〉を斥けた。源信から法然、そして親鸞、さらに一遍へと浄土門の歩みを説くのは勝手だが、源信→法然→一遍は直線的に語れても、法然から親鸞への階梯はそれを逸脱していた。そこに「疾く、死なばや」と一遍門下で死を実体化する動きがあった。それは如何に世が生きるに値しない日々にあったかを語っても、それが倒錯であるのは、そうすることで死が深められることはなかったからだ。彼らは死をできるだけ凄惨に色づけ実体化をはかることに意味を見出そうとしたが、それは命を肉弾のごとく費やす凄みを競っただけで、そこに浄土門における〈知〉の退行があった。この一遍門下の「肉体の死」の競合に対し、飢え死ぬ衆生を否応なく襲う「肉体の死」を「比喩の死」だと説き、そこからの現世へ回帰する死の視線の獲得を普遍化した親鸞が、どれほど思想として、〈死〉や〈浄土〉を深めたかは明らかであろう。
 ところで、親鸞は自然に親しんでも、深山に分け入る隠遁思想と一線を画して来た。しかし、親鸞の〈自然法爾〉の思想を自然派は自らに似せて回収するが、それはとんでもない誤解である。〈自然法爾〉の思想は悪人正機説に通じても、天地自然の予定調和に通じることはない。吉本は親鸞が、真言や天台では、耳や心を研ぎ澄まし「天地自然の声」を他界の声を聞くごとく修練に励む姿に〈知〉の退行を見ている。親鸞はそこに「人間と人間とのあいだに交わされる声しかほんとは聞かないし、聞こえないというふうに、自分の耳をもっていった」と吉本は云い、そこに「なにがのこるかといいますと、まず第一に、〈善悪〉についての声だった」として、「天地自然の声」を意味ありげに、〈神〉や〈自然〉のお告げを見る自然派に〈知〉の退行を見、斥けたことを忘れまい。
 いつの世にあっても、本来の〈知〉を深めることをせず、鍛錬をひけらかし、積善徳行を誇り、自然との同化を人間的だとし、命を消尽する勘違いが横行してきた。そのあの手この手の〈知〉に纏わるそれらは、宗教や党派としてそそり立つのは、卓絶した〈知〉の灯台下ほど〈知〉の山師が住みやすいという逆説にある。それらは今日も党派を組み、またマスコミに依拠し、日替わりメニューのように立ち替わり現れ、懲りることなく、大衆をおだてつつ無知な者として御託宣を垂れ、教導すると称しては引き回し、天国を保証するといい地獄を味わわせてきたのが、大方の〈知〉の実体にほかならない。しかし、親鸞はのたうつ衆生に、何一つそんなことを云わなかった。知者が御託宣を垂れるところで、「存じてもて存知せざるところなり」といい、「面々のお計らいなり」とし、大乗の〈知〉についた。この意味を踏まえることなしに吉本への批難を多くの〈知者〉は繰り返すが、それはその〈知〉そのものが退行していることに無自覚なことによる。それらの多くが世間を審判者にして自らを誇るが、それ自身が恥ずべき〈知〉の退行であることを吉本はよくわきまえていた。〈知〉はそれを越えて〈知〉を進展させることなしに明日はないので、それを恐怖や道義性を振り回し批難するほど〈知〉の退行はないのだ。
 さて、こうした〈知〉の退行の一方、吉本思想に対する称揚とその位置づけに貢献してきた吉本主義者に見られる〈知〉の自慰もまた見逃せない。彼らは情況における批評の優位性を誇るが、こぞって吉本の掘った穴をこれ大事と掘り返す落ち穂拾いに留まるようでは、やはり五十歩百歩であろう。吉本の知的領域から横超してこそ、〈知〉はなんぼのものとなろう。それこそが吉本への何よりもふさわしい追悼となることを私は疑わない。合掌。(二〇一二.三.二一)

添田馨の連作詩「民族10」   稲荷

2012年03月17日 | 現代詩



添田馨の連作詩「民族10」

稲荷

この國は稲荷だらけだ
街かどをひとつ曲がるたび
正一位稲荷大明神の無数の幟が風に舞う
電気屋に征服されたこの國で
稲荷の多さは救いである
稲荷の数は電気屋をはるかに凌ぐから
我々を堕落に誘うズボラの象徴
(草薙の洗濯機
(八咫の色付受像機
(八坂瓊の冷凍冷蔵庫
三種の神器がすべての家庭を支配しても
この國を裏で仕切っているのは稲荷
稲荷の霊力、狐火の底知れぬエネルギー
電気屋がどんなに威張っていても
稲荷がいなけりゃ市場は闇
稲荷こそは社会の灯火
いまや稲荷は国民生活に欠かせない
コンビニストアには必ず稲荷が置いてある
稲荷にお参りしなければ
年金通知も届かない
移動中も停車時も稲荷の携帯は義務である
我々は稲荷のお札で病院通い
稲荷のお札でバスに乗り
賽銭箱に税金納めて
稲荷を担保に借金する
新開地には必ず稲荷
埋立地にもぜったい稲荷
道を歩けば稲荷、角をまがれば稲荷
都会には都会の稲荷、田舎には田舎の稲荷
庭先に稲荷、店先に稲荷
ビル屋上に稲荷、工場地帯に稲荷
駐車場にも稲荷、古墳にも稲荷
野球場にも稲荷、競馬場にも稲荷
学校にも稲荷、役場にも空港にも風呂屋にも稲荷
川の端に稲荷、海の辺に稲荷
森にも稲荷、山にも稲荷
振りむけば稲荷、見渡せば稲荷
津々浦々に稲荷
何でもかんでも稲荷
この國は隅から隅まで
稲荷の威光に満ちている
だが稲荷の心は悲しいのだ
誰も本当の名を知らない稲荷
どの國のどんな時代の稲魂なのか
知りよう術もない稲荷
なのに我々は毎日食べる
ウカノミタマを毎日食べる
稲荷鮨にして感謝して
ウカノミタマを毎日食べる




写真は「フォット蔵」のを借りました。感謝。

添田馨の連作詩「民族九」  八幡

2012年03月13日 | 現代詩
政治化した八幡宮  宇佐八幡宮と筥崎八幡宮(松尾紘一郎撮影)
  

添田馨の連作詩  (民族九)

八幡

赤白とりどりの幟を頼み
軍神たちの船団が征く
神懸かる雷雲から氷の剣で武装した
八百萬の軍勢が一斉に褌(ふんどし)を締めなおす
なんとも偉そうな神様たちが
狭い船上、俵のようにひしめきあい
もう帰りゆく郷里もない
目指すは瀛州、蓬莱の国
言霊たちのさわなす国へと
押し合い圧しあい
みな口々に喚きたてた
領土を、盤石の領土を、神聖なる不動産を!
その聲は十万の太鼓が
空で一斉に打ち鳴らされたようだった
天翔ける雷鳴は土着の民の耳を劈き
東征する軍旗
稲光る剣身
怒濤のごとく押し寄せる萬旗(よろずはた)…
とりどりの幟と化した妄想は
ただ勝利にむかう民族にこそ相応しい
まこと戦死に値する
そは祖国作りの大事業、八幡神の偉業となして
土着のまつろわぬ神々を
天に代わって成敗していく
「昔者(むかし)、新羅の国の神、自ら渡り到来りてこの
   川原に住みき、すなわち名を香春(かはる)の神といひき」(注1)
いつの日も震えあがるばかり
地面に穴掘るばかりの我らは
遠い雷鳴としてその聲を聞いた
「辛国(からくに)の城に、始て八流(はちりゅう)の幡と天降って
   吾は日本の神と成れり」(注2)
おお、我らが八幡よ!
この上なく偉そうな顔をして
あなたは遠い別の土地からやって来た
侵攻勢力八幡神の征くところ
ことごとく領土は開け
国境はことごとく修正され
キツネたちの楽園の地に
萬幡豊秋津師姫(よろずはたとよあきつしひめ)、祭り
息長足姫(おきながたらしひめ)、祭り
応神天皇(おうじんてんのう)、祭り
すべて八幡大菩薩の大風呂敷に包みこんで
雄々しくも国つ柱を打ち建てたのだ


(注1)八幡宇佐宮御託宣集
(注2)「豊前国風土記」逸文


政治化しない八幡宮
宇美八幡宮と鎮懐石八幡宮(松尾紘一郎撮影)
      





『越境としての古代[5]』書評        添田 馨

2012年02月26日 | 書評
『越境としての古代[5]』書評        添田 馨

論理の蔓草としての歴史考証
  
 わが国の歴史、ことに国内資料が極端に乏しい七世紀以前の古代史について、ひとたび研究の途上に歩を進めようとすると、その歩みはかならずと言ってよいほど、見えない巨大な壁のようなものにぶち当たるのを、誰しもが経験するはずだ。それは記紀に端を発し、江戸期の国学イデオロギーや明治期以降のナショナリズム思想の広汎な浸透を受け、史学アカデミズムや公教育の現場にかぎらず、私たちの意識内部にまで強固に巣くってしまった天皇家中心の一国史観、およびそこから枝分かれした様々な固定概念群のことを指す。共同の幻想として、長い時間かけて形成されてきたこの見えない巨大な壁とは、ひとたびそれを破壊しようとすれば、逆に自分がにべもなく跳ね返されてしまうほど強靭であり、個人ひとりの努力ではびくとも動かぬものとさえ映るのだが、いま私には、またひとつ別の景色が見えはじめてもいるのだ。それは、この巨大な壁にさまざまな緑の葉を無数に繁らせた蔓草がびっしりと張りつき、まさにその全面を覆いつくさんばかりに勢いよく繁茂するその姿である。この蔓草を、私は比喩的に論理の蔓草と呼ぶ。か細いが、たしかな生命力でもって、その巨大な壁の隙間に、無数の毛根を差し入れて成長する蔓草のイメージこそ、私が市民レベルの古代史研究の諸活動に関して、この数年来抱いてきた原イメージなのであった。そして、『越境としての古代』に集約される運動体について私が抱いてきたイメージも、実はこれと同種のものである。
 だが、その市民レベルでの古代史研究において、現在、自らがもっとも喫緊な課題として留意すべきは、それがよって立つところの根底的な思想性にこそ潜在する。『越境としての古代[5]』の刊行を受けて、私がいぜん変わらぬ共感を覚えると同時に、一番に強く感じた懸念の中身も、まさにその点にある。「越境」というキーコンセプトは、この運動体において参加者各位が、既成の観念や常識に囚われることなく自由な見識をもって思考し、また史実の真相に迫るために有効と信じられる学問・思想上の知見はすべてこれを排除するものではない、という基本スタンスを保証するものとして、本来機能してきた。今日まで着実に巻を重ねてきたこの研究論集も、ここにきて第五集の刊行ともなると、これはもう立派な実績を打ち立ててきたと見える反面、それ自体が権威化することの弊を、やはり自らが厳しく律していくべき意識づけの必要な、その最初の踊り場までやって来たのではとの感が強い。
 あたかも私のこうした思いを上書きするかのように、会を主宰する室伏志畔は冒頭の「越境通信5」で、次のように書く。

 六○年代の安保・三池闘争は、国家権力に対しようとするとき、それを守るようにある既成左翼の矛盾を露わにした。その越境を私は、吉本隆明が主導する自立思想や、谷川雁の大正炭鉱闘争から抽出し、九州王朝説を踏まえて戦後史学の枠組みを、記紀の幻想表出から読み解くことで果たそうとしてきた。しかし、九○年代に入り九州王朝説は、古田学説を踏み絵とし、その「父性」への忠誠をはかるものへ変質したため、私はその「父性」を突き破る「様々な子性」の試みに道を開くことなしに明日はありえないと踏み出したのは、全ての思想は常に「父性」を横超させる中にしかないという深い確信にあった。

 裏返すなら、それは、記紀の記述を絶対視する従来史学の正系に依拠することなく、むしろそれを積極的に踏みはずしたところに、わが国の新たな古代史像を大胆に描き出してきた市民レベルの古代史研究の歩みが、その内部で再びみずからを正系化していくことに対する主宰者側からの警鐘として、私には受け取れた。かつて、この流れの根幹に生成した九州王朝説にしても、その最初の提唱者である古田武彦学説を絶対視するだけでは、新たな展望はなにも始まらないとする室伏氏のこの表明は、同時に越境しあう古代史研究においては決してタブーを作らせまいとする、その強固な意志をもあらためて感じさせるものである。
 就中、まず引き込まれたのは、福永晋三の「神武東征の史実―倭奴国滅び邪馬台国成る―」であった。この論考になぜ私が最初に注目したかといえば、その内容が古田学説の根幹をなす「邪馬壹国」説への、まさに正面からの批判的検証だったからである。その著『邪馬台国はなかった』で、かつて古田氏が「邪馬臺国」から「邪馬壹国」へと劇的に転換させた古代史像は、文字通り古代史研究に新次元をひらく“コペルニクス的転回”として私たちの記憶に焼きついている。だが、ある意味でそれが固定的な観念として、それ以上検証されることなく継承されるならば、やはりそれ自体が定説化の道を歩むことに否応なくなっていくだろう。福永氏のこの論考は、そのことにまっこうから否をつきつけた果敢な取り組みでもある。
 中国の歴代史書の記述の丁寧な比較検証により、福永氏は、古代の倭人国の名の表記について、やはり「邪馬臺国」が正式なもので「邪馬壹国」では決してありえないという根拠を、きわめて論理的に拾いあげては、古田説の再転倒に向かったのだと言えよう。そして、その論証過程も、私にはきわめて説得的なものに映った。そして、いわばこの各論部分は、福永氏にとってはより大きな眺望へと至るための、最後の外堀を埋める作業でもあった。彼は、論の冒頭でこのように自らのビジョンを語っている。

  私は、この『越境としての古代』にシリーズを書き続けて、一貫して《神武は二世紀半ば、天神ニギハヤヒ王朝(『後漢書』に云う「倭奴国」、私の云う「天満倭国」)を侵略し、福岡県田川郡香春岳一ノ岳(記紀に云う畝傍山)の東南麓に都を建て、同じく畝傍山(香春一ノ岳)の東北の陵に葬られた、初代「豊秋津洲倭王」である。》としてきた。
 これを冷静に振り返った時、神武の「豊秋津洲倭国」の建国こそが、『後漢書』にいう「邪馬台国」の建国であり、後に倭国大乱を経て、後漢末に卑弥呼を共立するに至る倭国の歴史と合致することに気づかされた。 (「神武東征の史実」一八二頁)

 そして、さらに次の段階として、福永氏による神武東征の史実のより具体的な復元作業が、次回以降、いま以上に強力に進められていくことを、私などは心ひそかに期待するのである。
 また、今号の大きな特徴として挙げなければならないのは、王朝としての「吉備」に関する有力な論が、複数せりあがってきたことだろう。以前より、吉備は古代の勢力図において無視できぬ地位を占めてきたのは事実であるが、あくまでそれは有力な地方勢力という位置づけの内部においてであった。今般の「吉備」論は、それとは根本的に異なる。「吉備」を、かつての「出雲」のように、一個の独自王朝とみなすことによって、古代史像の新たな編み替えがなされようとしているのだ。
 「吉備」論を語るにあたり、最初に言及しなければならない論考が、室伏志畔「隠された王国―吉備国論―」である。室伏氏は、その冒頭、次のように述べている。

 吉備論がにわかに浮上しつつある。
 ここ一年ばかりの間の私の周囲だけで、庄司圭次が国分寺論で聖武天皇の国分寺建立の詔(みことの)り以前に九州と吉備を二中心とする動きがあったとし、大芝英雄が、喜楽・端正・始哭・法興の四年号を上宮法皇による吉備年号だとし、兼川晋が九州にあった古の金印国家・委奴(ゐぬ)国は吉備に移ったとする刮目すべき論が輩出している。(「隠された王国」二四○頁)

 こうして古代の列島史は、九州ヤマトからも近畿ヤマトからもはるかに越境して、これまで空白だった吉備の地にようやくたどり着いたのだと言えようか。その意味で、「吉備」論はまだその端緒についたばかりとも言えるが、この論で室伏氏は、まず実体概念としての「吉備」を幻視することに、まずは最大限の注力を行った。彼は、考古学的な知見を下敷きに、こう述べている。

 弥生時代の青銅器文化圏として、九州を中心とする細型銅剣文化圏と近畿を中心とする銅鐸文化圏に二分類する中で、そこに吉備を中心とする広形銅剣(矛)文化圏を入れる見解がある。その広型銅矛の鋳型が九州の博多や糸島から出ている。これは犬系天武の血統を金印国家・委奴国の流れとする先の見解を読むとき、博多はその金印が出土した志賀島の地で、糸島は伊都国の地で、私はそれを委奴国の中国側表記と見てきた。とすると、広形銅矛は九州から吉備に伝播し、それに倣い広形銅剣が製作されたとする見解があることは、委奴国から吉備への流れが弥生時代からあったことを実証するもので、私には興味深い。(同 二四七頁)

 また、兼川晋「『白江の戦』を考える」も、その直接のテーマとするところは「白村江の戦い」に関するものだが、これが従来の「白村江」論にはない画期を帯びるのは、破れた倭国側の勢力地図を、この「吉備」王朝というファクターを通して分析し直し、この戦争そのものの持つ歴史・政治的意味合いを、劇的に改変せしめた点にある。
 例えば『旧唐書』が「倭国」と「日本国」を別記していることは周知のことだが、兼川氏はさらに、この「倭国」は、「倭国A」と「倭国B」とに分けられるという。すなわち『旧唐書』「倭国伝」いうところの「古の倭奴(ゐぬ)国」(=金印国家)が「倭国A」で、これがその後、東に遷移して吉備王朝となり、また同書「百済伝」いうところの「倭国」を「倭国B」、つまり九州北部に位置し、『宋書』にいう「倭の五王」の国、また『隋書』には「俀(たい)国(=大倭(たいゐ)国)」として表記された、もう一個の勢力だとしたのである。そして、後者「倭国B」は百済の兄弟王朝であったがために、当然ながら百済滅亡の事態に際しては、これを復興させる意図が強固にあった。その結果が、他ならぬ「白江の戦」なのであった。しかし、列島各地からの混成軍であった「倭国」軍は、このように互いにその王統の出自も政治的利害も異なる集団であった。これらの事実関係から、兼川氏は白村江の敗戦の経緯を次のように描き出している。

 白江の戦の経緯には、唐、新羅の合意はもちろんのこと、吉備の倭軍にも合意があったのではなかろうか。九州の中軍が目の前で全滅するのを、吉備の後軍は何もせず見ていた。信じがたいことであるが、一つの条件の下ではあり得ることである。その条件とは何か。それは、百済の滅亡に続いて、九州の大倭(たいゐ)も滅亡すべきであるという唐のシナリオである。そのシナリオに三者(引用者注:唐、新羅、吉備の倭軍)が合意していたとすれば、九州の大倭も、ここに滅びた。白江で九州の大倭が滅びるのを見届けてから、残りの倭軍は引き揚げてきたことになる。(「『白江の戦』を考える」一一〇頁)

 古代の東アジアにおける大事件でありながら、これまであまりに謎の部分が多かったこの「白江の戦」のリアリティは、こうして「吉備」=「倭国A」という座標軸を設けることで、一気に高まるのである。
 これまでに触れたもの以外にも、じつに刺激的な論考が、この『越境としての古代[5]』にはいくつも収録されている。
 大芝英雄「『編史』の構想」は、ひとことで言うなら、中国歴代王朝における「編史」の思想を、残された歴史書の数々から丁寧に説き起こし、ひるがえって記紀に集約されるわが国の歴史書を、根本のところで編み上げたであろうところの編纂思想を問題とする。そして、ついに「日本書紀」には失われた「もと本」があったはずだとして、それを「日本書紀」に唯一書名の挙がっている「日本旧記(ひのもとくき)」に比定しつつ、実はこれこそ名前を変えられた「日本本記(ひのもとほんき)」ではなかったかと、仮説するのである。大芝氏は、さらに倭国本朝と兄弟王朝だった「豊」の正史「豊国本記」が実在した可能性にもふれ、今に伝わる「古事記」こそが、まさにそれではなかったか、と構想するのである。これらの思考は、記紀の内容のみならず、それらが成立をみた歴史背景としての非似リアリティを、意外な角度から根本的に相対化していく発端となっていくに違いない。
 また、古銭や刀剣、さらには王家の神宝といった、これまで古銭学や考古学が主に対象としてきたところの様々な文化的遺物に、ひとつひとつ丁寧に触れながら、そこから古代の新たな歴史像を浮き彫りにしていくというモチーフに貫かれた、いくつかの鋭い論考があった。
 越川康晴「銭のなる木(榎)の秘密―古代銭と朴市秦―」は、民俗学的関心から古代銭とその歴史にアプローチした、異色の論である。「榎の木に榎の実はならずに銭がなる(稲がなる)」という古い歌謡を入り口に、往時において「榎」がもったであろう独自な位相に言い及び、わが国の古代の銭貨である「無文銀銭」や「富本銭」さらには「和同開珎」等を考察するのだが、とりわけ興味をひいたのは、この榎という木と蛇との深い関わり、さらに蛇は「足がなくて走る」ものとの意から古来「銭神」と同一視されていた事実である。越川氏は、そうした幻視のなかで、あの丸い小円盤の中央に小さく穴の穿たれた無文銀銭の形状をして蛇の目のすがたと捉え、これを「榎市蛇銀銭」と名づける。そして、その製造に関わったのが物部氏や大伴氏で、一方、古和同銀銭の成立には秦氏が関わったのではないかと仮説している。いずれ、これまでほとんど研究がなされていない分野であり、さらなる展開を期待したいところだ。 
 まだ十分に光が当たっていない分野ということでいえば、まつろわぬ民「蝦夷」をめぐるそれも忘れられてはならないだろう。日本列島をめぐる時空間に、「蝦夷」と呼ばれた人々の足跡を大胆に考察した白名一雄「井真成の証言―列島に蝦夷を追って―」は、文字通りわが国の古代史において必ず避けては通れないこの「蝦夷」=「愛瀰詩(えみし)」をめぐる、壮大なパノラマ図といった感のある論考である。 なかでも「日本刀の源流は縄文の蝦夷刀に遡ると愚考される。」という部分は、それが縄文時代の骨角器にまで淵源するという実証を、縄文時代の骨刀、鯨骨刀、石刀、さらには東北地方で出土する蕨手刀、またアイヌ人の蝦夷刀といった数々の遺品の、豊富な図版使用による比較検証に根拠をおいたもので、非常に説得力がある。悠久の歴史の巨視的な本流といえども、その実体はじつはこうした微視的な細部にこそ隠されているかもしれないことを、改めて私たちに教える内容である。
 もうひとつ、今回、私が関心したのは高橋一平「『四種』の神器考」だった。筆者が高校生であるということもそうだが、ここには実は古代史研究一般において最も枢要な初心の姿勢、すなわち素朴な疑問から始まって、それを解明していくのに有効な方法の探究、さらにそうやって掴みとった自分の方法というものを、今度は足を使って実践する行動力といった要素が、ぎっしり凝縮されているからである。 「三種の神器について調べているとき、私たちは十種神器 と言う単語を見つけました。この十種神器と言うのは、歴史上蘇我氏と対立したことで有名な物部氏の祖神である饒速日命(以下ニギハヤヒ)が伝えたとされる十種の神宝であるとされています。」―冒頭のこの言葉は、天皇家の「三種の神器」に比べてその三倍もの神宝を有した物部氏について、高橋氏が抱いたそもそもの疑問の所在を言い当てているだろう。そして、この「十種の神器」に含まれる神宝のうち「蛇比礼」「蜂比礼」「品物比礼」に注目し、これら「比礼」とは何か、について具体的な考証に則って探求を実践していくのである。その結果、「比礼」には女性の装身具としての意味と、儀式の矛などにつける小さい旗の意味とのふたつがあり、石上神社などに伝わる「比礼」の形状の図版などから、神宝としての「比礼」はおそらく後者で、さらに太陽神とされるニギハヤヒは、実は製鉄と関係があったのではないかとの仮説まで提示するに至っている。私は、過去の歴史像に対する固定概念に囚われることのない、こうした若い研究の徒が現れてきたことに、大いに気を強くした。しっかりとした方法意識と、探求への情熱さえあれば、年齢に関係なく水準の高い研究をものすることができることを、この論文は伝えている。
 さて、この文の冒頭で私は壁にはう蔓草の比喩で、史的実証にむかう論理の脈動を言い当てたつもりだが、しかし論理はその外部からくるものに無防備では決していられない宿命をもつ。特に歴史上の根本資料に対して、それが信ずべきものか否かといった問題は、つねに自律する論理の外側から、史的な探求そのものを脅かすものだと言ってよい。偽書問題として一括することができる一連の議論も、まさにそうした脅威のひとつに違いないだろう。西村俊一「『東日流外三郡誌』の世界―東北学の原点を探る―」は、一般に和田家文書として知られるこの文字資料群に対して、これまで浴びせられてきた偽書説、その悪質なキャンペーンの経緯を素描しながら、当該資料の「寛政原本」や「明治写本」をめぐる偽書派と真書派双方のやり取りの内容を整理したものだ。西村氏は無論これを真書とする立場であるが、その背景には長年にわたってこの歴史文書を実地検分してきた経験が横たわっている。そして、偽書説をとる人々にはこうした具体的根拠が一切ないことを批判している。私のような、現物に接したことのない者でも、いずれの主張がより説得的に響くかは、おのずと明白だろう。歴史は人がこれをつくるが、歴史を捏造するのもやはり人であるという背理のうちに、そもそも記紀の持つ偽書的性格をつよく意識してきた私などは、逆にこの「東日流外三郡史」をめぐる真偽論争を前に、また改めてみずから居住まいを正す必要を痛感した次第である。(了)

新藤謙著『石牟礼道子の形成』(深夜叢書社)の書評

2012年01月19日 | 書評
    「〈語りの呪術師〉の形成」について         室伏志畔

 熊襲の地が谷川雁と石牟礼道子を生み出したことはやはり何ごとかなのだ。「熊襲の公達」よろしく男は六〇年代に炭鉱闘争の現場から情況言語を支配したなら、女は七〇年代、呪術師よろしく水俣の毒を紡いで見せた。それら言説はこの半世紀に雲散霧消したかに見えるが、今も情況の深部に揺曳している。本書はその石牟礼道子の形成を、新藤謙がその著作を辿り直し、その意味を鮮明にするものと云えよう。
その石牟礼文学を思うとき、私は中国の官憲の弾圧に遭い死んだ若い学生を記念した魯迅の「花なきバラ」を思い出す。それは寸鉄人を刺すと云われた魯迅に雑感文にまことふさわしいタイトルだが、私は長くそれを誤解していた。
 戦国時代、豊前の中津において、九州征伐にあった羽柴秀吉軍の先兵・黒田如水の手薄な陣を突いて宇都宮氏は勝利を収めた。これを知った豊臣秀吉は奸計を巡らし、和睦の宴を設け、それに出席した宇都宮一族をことごとく斬り殺し、その首を街道筋に並べた。それ以来、宇都宮氏は毎年、その日に集まり、茨の枝をそれぞれもって集まり土手に挿し、この恨みを忘れないことを誓うという。この意味が「花なきバラ」に込められてあることを私は知らなかった。
 天草に生を受け水俣に育った石牟礼道子の形成を確かめようと、進藤謙はその著作深く降りて行く。それは『ぼくは悪人』を書き、少年・鶴見俊輔に悪人を見出し、それを手放すことなく、その意味を深める中に後年の哲学思想家を見た新藤謙にとって、知的先端に鶴見俊輔を位置づける論議は、所詮、遊びにしか見えなかったことによろう。
 石牟礼道子は髪に火をつけ歌う狂女の祖母に親しみ、遊女屋の先隣で育った。その一見、掃き溜めに近い環境は、石牟礼の感性を異数なものとした。その文学開花の契機を問うことに本書は始まる。戦中から短歌に恋した石牟礼は戦後、谷川雁主宰の「サークル村」で詩に転じ、次第に生活をうたうにつれ批評性があらわれたと見る新藤謙の眼は確かである。短歌や詩の「枠組み」を捨てたところに「内実の苦悶」に見合う文体が現れたからである。この第一章「文学開眼」は表現形式を模索する者にとっては示唆に富もう。それを頭に、十個の作品論を通して「企業犯罪と日本の近代」、「自然と人生」、「精霊たちの寓話」、「人民の歴史」が論じられ、六章の「石牟礼道子の詩の位置」をもってくくりとする。それは作品から石牟礼道子の全人的理解を目指すもので、評伝ではない。
 その記念碑的作品が、チッソが水俣湾に垂れ流した有機水銀による水俣病患者家族からの聞き書き『苦海浄土』である。「死ぬ前にやせてやせて、腰があっちゃこっちゃに、ねじれて、足も紐で結んだように、ねじれとりましたばい」と娘・坂本きよ子の姿を語る母トキノは、「おとろしか病気でござすばい。人間の体に入った会社の毒は」と告発する一方、「先祖さんの祟っとんなさるち、(略)/うちの先祖さんにも、よっぽど死に目の悪かったおひとの、おんなさったことでしょうね/(略)えりに選って、いちばん優しか人間に、きよ子にとりつきなさった」と引き取る。
 惨状を楯に告発するルポルタージュはたやすい。そこをほろほろと崩れるような文体で決して暗くなることなく掬いあげてきたところに石牟礼文学の凄さを見なければならぬ。識者はそこを知的に上昇し、患者家族の情念を潜ることなかったが、石牟礼は娘と凄惨な日々を潜った母や近親の語りを通して作品を紡ぐのだ。それを「浄瑠璃のごときもの」と作者は云い、「論理と分析だけで人々を感動させうるか」と新藤謙は問い、「近代への呪術師」を目指した作者の狙いの確かさを押さえる。しかし、志がそれに見合う文体に出会うかは万に一つの奇跡なのだ。その独自の語りの形成を可能にしたのが何であったかの探究が本書と云えよう。そこに周到な用意を読むべきなのかもしれない。なぜなら、ある女性患者は視察に来た厚生大臣や国会議員を前に告発するところを緊張のあまり、「テンノウヘイカバンザイ」と叫び「君が代」を歌い、室内を凍りつかせた、虐げられし者の逆説について新藤謙は落とさず摘記している。その意味で本書全編は石牟礼文学の本質が何であるかを知りたい者には得難い本となっている。
 これは石牟礼道子の形成を、著者によれば、その自然への共生と呪術者的な近代批判を核としてその内在化をその表現に辿るものと云えるが、彼女を天草生まれの水俣育ちとし、島原の乱や西南の役をテーマにしたのを見ながら、なぜか熊襲に繋がらいもどかしさがある。それは熊襲がなぜ朝敵なのかという問いを欠くに等しい。熊襲こそ天皇制にとって最も虐げられたものの謂であった。それゆえ今生の貴賎は遠い過去の貴賎の逆転現象で、そこに浮かばれることの決してなかった熊襲の苦悶があった。
 それが如何に奥深い傷を成すかは、肥後一の宮・阿蘇神宮の淵源とされる草部吉見神社は下りの宮として著名だが、百数段を下ったところに主神・彦八井命(国龍神)は死後もかつての朝廷側の祭祀勢力によって今も蟄居・閉門にある。その妃・草姫(くさかひめ)を出した日下部一族の本拠には草部神社の名は見られず、幣立宮が立つ。それは日本国の「弊害を断った宮」として熊襲の本源の粛清を語るのではないのか。
日本人は根にもつことを知らない淡泊な性格とされる。しかし、そのように天皇制が日本人を育てあげたので、天皇制は徹底した根絶やしをもって恨みの根を断った。命乞いする者を先兵に立て、「夷をもって夷を征する」中に天皇制を確立させた。この同胞近親との壮絶な生き残りをかけた殺し合いの中に朝敵は自らの誇り高い歴史を見失い、生き残った者は犬にも劣ると揶揄される歴史をもった。
 その朝敵・熊襲の地に残ったのは、天皇制に命乞いした一握りの転向勢力で、抗戦した主力は辺境に多く落ち伸びるほかない歴史をもった。それは熊襲の雄族・菊池氏の分布を見れば、熊本より蝦夷の地・岩手県に最多分布し、その地から遠い倭人の心を伝えるという『遠野物語』が出現したのは偶然ではない。そこに列島史の逆説がある。
遠い神代の昔から朝敵としての負荷を負わされた熊襲の本源・熊本に、時として真性の熊襲の血が奔騰し、時代を揺り動かす。谷川雁がそうであり、石牟礼道子然り、そして吉本隆明もその血を辿れば祖父は天草の船大工であった。のみならず、維新革命をリードした西郷隆盛の別名が菊池源吾であったことを人は知らねばならぬ。私はそこへと新藤謙の筆がいつか伸びることを期待し、遠い熊襲の神々の解放なくして、現世の天皇制からの解放もまた、むつかしいと云っておこう。(10.10.14)

書評―古田武彦著『俾弥呼』(ミネルヴァー書房)―室伏志畔

2011年11月09日 | 書評
   九州王朝説の明日のために①         室伏志畔
       
 9月22日付けの西日本新聞に福岡市西区の元岡G6号墳から、銘文入り鉄製太刀が出土したとの報道記事を友人が届けてくれた。そんな記事が載っていたかと産経新聞を広げて見るが、畿内版の新聞には何の痕跡もない。それを確認し送って貰った記事を読むと、その鉄製太刀を「大和朝廷の下賜品」としている。しかし、奥野正男はその元岡の古代製鉄遺跡について200メートルほどの狭い谷に二十八基の製鉄溶鉱炉が並ぶ特筆すべきものとしている。その現地の鉄との成分分析の比較無しに、相変わらず、学者は大和朝廷に関連づけるのに忙しい。
 その一方、九州王朝説関係の冊子を見ると、倭国から日本国への転換について、一昨年来の「禅譲・放伐論争」の延長戦にあり、大化の改新や壬申の乱について、通説と変わらぬ天智と天武の皇統争奪戦をあれこれしている。そこには九州王朝・倭国の影はすでに無い。しかし、白村江の倭国敗戦後の壬申の乱とは、唐によって一度は解体を見た倭国権力が、唐に通じ覚え目出度い明日の日本国権力と、明日をめぐる決死の戦いにあったというのに。それは九州を溢れ畿内へ場所を移し戦われたが、九州王朝説論者がことごとく倭国権力を見失い、皇統メガネを愛用し論じているのだから笑わせる。この状況は、九州王朝説のここ二十年の凋落と無関係でなかろう。そうした中、九州王朝説の提唱者・古田武彦が、その四十年に及ぶ古代史研究の「畢生の一冊」とし、『俾弥呼』を提示する。多くを教えられ報いること少なかった私は、今後、氏に話しかける機会がそうあるとは思えないので、少しく述べてみたいと思う。
     1.九州王朝説と市民の歴史研究運動
 氏の古代史研究の前提に親鸞研究がある。その史料批判から浮き彫りにされた親鸞思想は、本願寺教学からの親鸞の解放と別でなかった。この方法をもって氏は古代史に相渉り「魏志倭人伝」記載の邪馬壹国について、これまでの邪馬台国論は、それを大和と繋ぐために邪馬臺(台)国とした曲学でしかないと断じ、『三国志』全体の「壹」86個と「臺」56個に当たり、そこに一切の誤用がないことを確かめ、邪馬壹国の表記に誤りなしとした。それは大和一元史観からの邪馬壹国の解放と別でなかった。氏はそれを『「邪馬台国」はなかった』(1971年)にまとめ、華々しく70年代初頭に古代史界にデビューした。それに続く『失われた九州王朝』(1973年)は、漢籍に載る倭国は近畿王朝・大和朝廷ではなく、それに先在する九州王朝であったとし、倭国を日本国のかつての亦の名としてきた通説を排し、大和中心の皇統史観の外に九州王朝を屹立させた。これに続く『盗まれた神話』(1975年)は、記紀神話の多くを九州王朝からの盗用とし、天孫降臨神話を対馬海流上の島々からの九州侵攻とし、その天孫降臨地を北九州の高祖山の日向(ひなた)周辺に比定し、そこに倭国の起原を置き、神話を歴史に奪回した。この初期三部作における瞠目すべき発見の連鎖は、大和中心の歴史しか知らない日本人にとって事件であった。
この大和朝廷に先在する九州王朝の提唱は、皇統の枠組みを越えた王権論の提起にほかならない。それは皇統枠内に歴史学を閉じ込めてきた学界との軋轢を生む一方、戦後史学に飽き足らなかった市民の関心を集め、各地で「古田武彦と共に」学ぶ市民の歴史運動が組織されたことは、やはり特筆に値する。それらを全国的な「市民の古代の会」へ組織したのは藤田友治であった。かくして九州王朝説は、氏を頭脳に藤田を組織者にもつことで70年代後半から80年代を席巻し、一時、会員は八百名、非会員シンパはその10倍に及ぶ侮れぬ勢力をもった。この背景に70年代後半に始まった大学闘争が、72年の浅間山荘事件を引き起こすまでに退化し、行き場を失った学生や市民の受け皿として九州王朝説があったことは否めない。その組織者・藤田が学生運動家上がりであったのは偶然ではない。
     2.九州王朝説潰しの謀略
本書は、この初期三部作の嚆矢を成す邪馬壹国の女王・俾弥呼(ヒミカ)についての評伝で、氏の四〇年に渉るさらなる論理の到達点を示すものである。そこで言い残すまいとする氏の踏み込みは時に薄氷を踏み危うさと表裏してあるかに見えるが、私は急ぐまい。
 その九州王朝説は90年代に入ると一転し冬の時代をえる。2004年に藤田と私が「九州王朝説の現在」を「季刊・唯物論研究」87号で特集したとき、「まだ九州王朝説を云う人がいますか」と左翼知識人から云われたことを想い出す。そのため、近時、久しく出版されること少なかった氏の、それから七年した本書が、発売後、一ヶ月余にしてすでに5千部を売り、すでに第2刷に入ったと聞くのは嬉しい。その本書を刊行したミネルヴァー書房が一昨年から復刊した氏の第一期著作集もよいらしく、第二期著作集の復刊も間近いと聞く。この古田武彦リバイバルの兆しは、90年代に九州王朝説離れを来したが、大和中心の歴史学では何事も始まらないため、それに対し最もトータルな批判をもった九州王朝説の見直しにあるのかも知れない。現在の歴史学の閉塞状況の打開のために古田武彦の著作は、その基礎文献としてもっと読まれる必要があろう。
 ところで、私は古田武彦リバイバルの兆しと書いた。7、80年代、向かうところ敵なしの感があった九州王朝説が、なぜ急に90年代に入り冬の時代を迎えたかの反省は、もっとなされる必要がある。それをあらぬ「偽書疑惑」をかけられために起こった不幸な出来事ですますなら、それは大きなまちがいで、そこに思想としての九州王朝説の脆さがあったことの自覚なしに明日の九州王朝説もまたないのだ。
 江戸寛政期の再写本『東日流外三郡誌』を持ち上げた氏に、「歴史を贋造する人たち」と悪罵を投げたのは、「季刊・邪馬台国」の編集長で、数理歴史学を説く安本美典であった。その告発にも似た提起は学問的に争われることなく裁判沙汰になる背景に右翼の影も見られた。それは皇国に九州王朝を先在させたことへの反発にあるが、マスコミによる情報操作は、「市民の古代」の会幹部を浮き足立たせ、反対派の機関誌で論を張る体たらくを生んだ。そのことは、それが仕組まれた政治的な九州王朝説潰しであったことを語る。それは今も、この再写文書の中身を検討するのではなく、和田家文書の保管者であった故和田喜八郎の怪しげな手つきをあげつらい、その手の本がジャーナリズム大賞を受けるところに、この問題の根深さある。その賞のバックに戦後史学の屋台骨を築いた津田左右吉を擁する早稲田大学があり、多くの名だたる文化人がこの書を推し、歴史物を売り物にする出版社が、その後押しをしているのもまた事実なのだ。九州王朝説はこれらを向こうに回す歴史思想として足腰を鍛えることなしに、情報操作による袋叩きは、今後も繰り返されないという保障はどこにもない。
 この騒動の発端を成す氏の『真実の東北王朝』(駿々堂)が発刊されたのは1990年であった。これと前後するように昭和は終焉し、ベルリンの壁の崩壊を序曲としてドミノ倒しのごとく東欧社会主義国家が倒れ、ついに1991年12月にソ連邦も崩壊する。これらの終焉と九州王朝説は何ら関係ないとはいえ、その組織論が古田本による外部意識の注入論であることは、マルクス・レーニン本による左翼組織論と同じで、それにマスコミが疑惑のキャンペーンを張ると会がひとたまりもなく吹っ飛んだことは、90年代を前後する終焉に重なる一面を持つ。そのことは九州王朝説の再編は、それぞれが九州王朝説を内在化させる道を通してしか保持できないことを教えるが、現状は今も氏の本のオウム返しで、その組織的再編もまたその域をでなかったところに、かつてと違う九州王朝説の苦渋のこの20年が刻まれたのだ。
     3.神武東征論と記紀史観
 「偽書疑惑」の中でその払拭に敢然と一人、氏は抗する中で、その再編を安易に古田枠で処理しようとしたことは、「君が代」論の新展開の契機を創った「多元的古代・九州支部」(現・九州古代史の会)等の排除を結果し、氏は自ら九州王朝説の情報源の梯子を外す逆説を結果した。そうした中、氏は九州王朝から近畿王朝への架橋を、神武の畿内大和東征論をする中で、かつて多くの者がはまった記紀史観の迷路に分け入った。それはかつての『三国志』を中心とした漢籍から記紀文献への史料分析の移行を意味する。しかし、そこに内外文献の越えがたい位相差があることを氏は見ることなくたやすく二つを繋いだ。
 神武東征の出発地を記紀の説く南九州から北九州へ、氏は自ら発見した天孫降臨地に改めたものの、東征地を疑うことなく畿内大和に踏み行った。それは戦後史学の神武架空説に対し、記紀の神武東征説にお墨付きを与えることになった。この逆説は大和を疑わずに、そこを大和と信じ踏み込むものでしかない。ここにある欠落は、神武に先立ち大倭(やまと)に降った饒速日命の天神降臨の無視にあった。対馬海流上の島々である天国(あまくに)からの天孫降臨が北九州への侵攻であるなら、それに先立つ天神降臨が北九州を差し置き、瀬戸内海の奥にある畿内大和へ侵攻したと誰が信じえよう。実際、饒速日命の足跡は、今も畿内河内にあるとはいえ、それに先在し、九州の遠賀川流域周辺に今も見ることができる。それは神武東征の前後に刻まれた饒速日命族の大倭(やまと)侵攻と追放の二つの足跡にほかならない。この意味を押さえることなく、氏は記紀の畿内大和への神武東征を首肯したため、これを境に、氏は九州王朝と近畿王朝との二朝並立論へ移行し、九州王朝説は焦点ボケする。それは結果として九州王朝の陰にあった倭国皇統を見失わせ、九州王朝の影の半分を記紀が造作した畿内大和に丸投げした。そのため、氏はその後、倭をある時はチクシと訓み、ヤマトと訓む二元論を強いられる。のみならず、この神武皇統以前の饒速日命皇統の見落としは、『東日流外三郡誌』出現の幻想的背景がそこにあることさえ見ないのだ。ここにある氏の致命的な欠落は九州王朝・倭国の故郷が、倭(やまと)を淵源とすることの見落としにある。換言すれば、原大和としての倭(やまと)が倭国の共同幻想の淵源にあることに気づかないことにある。それなくして、畿内での大和の復活もまたありえない。

書評ー古田武彦著『俾弥呼』(ミネルヴァー書房)  室伏志畔

2011年11月09日 | 書評
九州王朝説の明日のために②      室伏志畔

4.一大国と邪馬壹国の表記について
 本書を論じようとして私はいささか遠回りし過ぎたのだろうか。しかし、この前提なしに、『俾弥呼』について述べることはできない。九州王朝を発見し、その原初の観念を与え、列島王権の隠された秘密に参内する道を切り拓いた名誉は、ひとえに古田武彦に帰する。そのことを認めた上で、私は大急ぎで、九州王朝の明日のために、いくつかの愚見を呈し、書評に代えたいと思う。
一つは、氏は本書を新たな三命題に始め、『三国志』全体の「陳寿の序文」の発見を目玉として本書を押し出す。そこにさらなる一歩を進めようとする氏の八十歳半ばにしての気概に私は敬服するほかないが、批評としての志を通すことこそ氏への礼儀と信ずる。そこに命題の一つが、こう語られる。
《「壱岐のような゛ちっぽけな゛島を、中国側が『一大国』などと表記するはずがない」
と。道理だった。わたしは直ちに「承服する」旨の御返事を書いたのである。》
と氏は書くのだが、すでに一大は天の分け字であることは、二昔前に林俊彦が『諸橋大漢和辞典』から引き出している。その意味は、当時の壱岐の倭名は天国(あまくに)であったが、天子の天をはばかり、陳寿はそれを一大国と中国側表記に改めたとする「常識」がそこに生まれたことが忘れ去られている。それを踏まえて敢えて云うなら、『三国志』の表記が邪馬壹国であったことに疑いはない。しかし、氏が倭国三十国の表記が倭語の漢字表記とするのは、韓伝の五十余国に同系の表記を見、「馬」や「烏」や「狗」の表記の重なりを知るとき、それらは中国側の戦時に備えての民族表記の符丁としてあるかに見える。その中の列島と半島に渉る「狗」表記国を糾合して委奴国は海峡国家として倭国を形成していたかに見える。問題は一大国の表記が「天」をはばかるものであったなら、「臺」が天子の宮殿を指すなら、邪馬臺国の倭語をはばかり中国側表記として陳寿は邪馬壹国を案出したとする疑問は依然として残るのだ。
     5.卑弥呼の共立と天孫降臨
二つは、邪馬壹国の大夫・難升米と共に魏を訪れた次使・都市牛利を分析し、氏は松浦水軍を引き出す。それは俾弥呼の共立に含意されるものとして理解してきた私には今さらの感があった。俾弥呼の邪馬壹国の成立は、旧委奴国系権力と一大率が率いる天国(あまくに)の海士族、つまり天孫族との共闘の成立と私は理解してきたからである。そのとき、「魏志倭人伝」行路分析と出土文物を重ね、邪馬壹国の成立を博多湾岸に置く、氏の分析の手並みは鮮やかだが、それはかつての委奴国に重なっても邪馬壹国に重なるかという私の疑問に氏との齟齬がある。委奴国から邪馬壹国への国名変更は、継承ですまない転換なしにはありえない。その謎を解く鍵が卑弥呼の「共立」にほかならない。そこに委奴国→邪馬壹国→倭の五王(藤王朝)→俀国と連続した九州王朝・倭国史を重ねるとき、倭国名の変動につれ順次、筑前から筑後、筑後から肥前へと中心移動した歴史をもったことは否めない。とするなら、委奴国と邪馬壹国の位置を区別なく扱う氏にその区別の自覚は薄い。
「其の国、本亦男子を以て王と為し、住まること七・八十年。倭国乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち一女子を共立して王と為し」と邪馬壹国の歴史が略記されている。それは委奴国の後を受け、邪馬壹国は男王支配の七・八十年(二倍年歴)をもつが、そこに国名転換に伴う平和的な変質があったが、「倭国乱れ、相攻伐すること歴年」したことは、変質に伴う内部矛盾が激化したことを意味し、その調停策が俾弥呼の共立であったことを意味しよう。そこに記紀文献を重ねるなら、「倭国乱」の原因として、そこに氏の発見した天孫降臨を置くべきで、それは「弥生前期後半・中期初頭」の昔の話でなく、そこに縁戚関係を深めつつ侵攻を準備した天孫族を私は見たいと想う。しかし、それは成功したものの倭国の簒奪にまでいかなかったところに、巫女・俾弥呼を共立しての手打ちが生まれたのだ。そしてこの筑紫での妥協に満足しない天孫族傍流が、倭国支配の手薄な豊前への侵攻として神武東征が生まれたのではないのか。これとは逆に旧委奴国系の狗奴国は俾弥呼の邪馬壹国に和すことなく、その南で邪馬壹国に対したのだ。
三つは、本書で氏は任那からの崇神の侵攻を述べ、韓半島に皇統を初めて開いているのは興味深いが、それを任那とし伽耶とするのをはばかる。しかし、すでに倭国自体が「もう一つの伽耶」でしかないのだ。そのためらいは中国南朝が深くつきあった倭王・多利思北孤を女帝推古と見まちがうはずはがないと氏はしながら、その歴代南朝の『晋書』と『梁書』が一致して、「倭は呉の太伯の後」とするのを見ない。しかし、そこに誤認があろうはずがないのに氏はそれに一切、触れず、倭国を天孫降臨に始まるとするのは、大いなる矛盾ではないのか。かつて江上波夫の騎馬民族王朝説が一世風靡したとき、民俗学の両巨頭がこう語りあった姿が想い出される。
柳田国男 (騎馬民族征服王朝説は)いったいありうることでしょうか。あなたのご意見はどうです。つまり「倭国は大王=天皇族」に横取りされたということを国民に教える形になりますが。
折口信夫 われわれは、そういう考えを信じていないという立場を、はっきり示していったらいいのではないでしょうか。
氏は何も語らないことによって、漢籍が証言する倭王の出自を「呉の太伯の後」(周の末裔)とする見解に与したくないかに見えるが、それは歴史家としてフェアとは思えない。この長江下流の呉王権は、それが船文明に属すことから私はそれを南船系王権と呼び、それが集団稲作をもたらし倭国の礎を築いたとしてきた。その南船系稲作国家に、韓半島を南下した北方系騎馬民族が、対馬・壱岐を橋頭堡としての侵攻が、記紀の記す天神降臨や天孫降臨にほかならない。この南船北馬の興亡こそが倭国の基本矛盾とし、私は列島史を東アジア民族移動史の内に位置づけてきた。一大率である天率はこの降臨の司令官で、その治下に置かれた伊都国王は、かつての委奴国王の現在の姿にほかならない。そこに倭国の盟主であった委奴国王の自立性を失った姿を見るなら、委奴国から邪馬壹国への転換の必然性は明らかである。
  6.異論の九州王朝説の進展
四つは、氏の三十国の比定に関わるが、唯一、卑弥呼に「和せず」と記された狗奴国について大芝英雄が、七世紀成立の『翰苑』に、『三国志』と同時代の『廣志』の引用断片を発見し、女王国のその南の邪馬嘉国に到る記事を見出し、狗奴国=邪馬嘉国とし、現在の山鹿市に比定した。その隣に菊池市を見るとき、そこに狗古智卑狗があったとするほかない。私はその狗奴国をはじめ諸国を氏が何処に比定したかは云うまい。ただこの大芝英雄の発見の延長に、私は井真成を朝敵・熊襲と見て、その故郷・産山村を熊襲の地・熊本に発見する。それは井氏=倭氏で、狗奴国こそ、かつての委奴国の淵源で、倭(やまと)の起源に関わったがために、後に朝敵として追われたとするほかなかったことによる。
五つは、その上で原大和としての倭(やまと)に戻るなら、立岩遺跡のある飯塚が注目されよう。飯塚は井塚で、倭塚となるからで、そこが集団稲作に関係する石包丁の生産地であるのは偶然と思えない。その王が大型甕棺墓に前漢鏡と思しき鏡に剣と玉を備え埋葬され、その滅亡と共に箱式石棺が席巻していくのは、そこに天神降臨にあったからで、そこにある熊野神社の境内に、その征服を誇る天磐立の巨石があり、八体の猿田彦大神の石碑を鳥居横に見ることができる。明治神社史料の八割強が、猿田彦をサダヒコ、サタヒコとルビし、出雲の二の神・佐太彦大神を呼び出している。その誕生が太陽に黄金の矢に射貫かれたことにあったとする加賀の潜戸の伝承は、饒羽矢日命の名に重なり、天神降臨が出雲王朝の了解の下に成されたことを知るが、記紀はそれを秘してきた。
記紀の神武東征譚は、その饒速日命の天神降臨を取り込んで書かれており、神武の妻子を饒速日命に奪回するなら、なぜ欠史八代の葛城王朝が置かれたかは、それが饒速日命皇統史であったからで、そこに倭国皇統の発生があったことによる。その葛城王朝の地は北九州市八幡西区の香月の地で、杉守神社のある岡が葛城山で、その神社の境内下から八個の金銀銅の卵形の玉が戦国時代に出現し、騎馬民族特有の卵生神話を伝える。それを伝える「香月家譜」を先年、私は、実見させていただいた。それは今、香月家の母系の井原家に所蔵されている。それに「松野連〈倭王〉系図」を重ねるとき、井原は倭原で倭氏の本家を意味し、飯塚は井塚で、倭塚となり、私の云う南船系初期倭王墓となろう。このことは委奴国に天神降臨があり、さらにその上に神武東征が重なるのを見るなら、倭(やまと)は神武東征に遡る列島王権の争奪の興亡地であったことを知るのだ。その飯塚近くに、卑弥呼が生まれたという伊川の地名があるのは偶然とは思えない。
六つは、その饒速日命が垂涎した倭(やまと)の地に、原・委奴国があったが、饒速日命の天神降臨によって追われ、博多湾岸で委奴国を再興したのが「松野連系図」から幻視できる。それこそが金印国家・委奴国にほかならない。これが九州王朝・倭国王統で、「呉の太伯の後」が南船系王統を営む陰で、筑豊で饒速日命に始まり、それを簒奪した神武の倭国皇統が胚胎し、次第に豊前を支配下に治めた。それが「隋書俀国伝」に記された秦王国で、その帝記に出現した倭国にほかならない。この倭国王統と倭国皇統の対立が倭国の基本矛盾で、ついに六世紀初頭の磐井の乱を惹起し、倭国皇統は白村江の戦いで、唐に通謀し、倭国王統を敗退させ、日本国へ道をつけた。その白村江の敗戦後に登場する筑紫都督府は、明らかに唐制の占領政府であったのは、唐が百済征服後に熊津都督府を置いたのに倣うもので、氏の説く筑紫都督府はそれ以前のものである。
     7.皇統メガネをかけた九州王朝説の現状
663年の白村江の戦いから701年の日本国の立ち上げまでに、空白があったのではなく、そこに滅びなんとする倭国勢力と、新興の日本国勢力との生死を賭けた興亡があったのだ。672年の壬申の乱を、通説も九州王朝説も兄・天智の近江朝と弟・天武の皇統内のコップの中の嵐とするが、天武は解体を見た倭国王統側に属したことは、この乱が唐の郭務悰の離倭を見届け、親唐勢力の倭国皇統の天智の近江朝を襲ったことに明らかである。その天武のバックに新羅の客使・金王実があったことは、乱後に船一艘の礼を取ったことで知れよう。その前段階に白村江戦後の朝倉宮の変があったので、それを重複記事から661年から667年に奪回し、この変が668年の新羅による半島統一に至る唐との新たな鞘当てを千載一遇の機会と捉え、朝倉宮の変から壬申の乱に至る意味を、東アジアの再編地図を背景に理解しなければならない。朝倉宮の変で斉明を失い、天智は九州から命からがら近江に逃げたので、畿内大和から近江に668年に遷都したのではない。乱は敵・唐に通じた倭国皇統の天智勢力が、唐の列島撤退を機に倭国王統の天武が引導をくれるものであった。それゆえ、これに勝利した天武の大和入りに、畿内での大和朝廷の誕生があったので、それは畿内大和における九州王朝・倭国の再興以外ではなかったのだ。この畿内での倭国の復活を、天武崩御直後の686年の大津皇子の変によって覆すことによって、倭国皇統は701年の日本国へ道をつけることに成功する。それを『日本書紀』は三十余人を捕らえるが、二人を流罪にしたといった小さなものに描いたが、真実はその末尾の「是年、蛇と犬が相交めり、俄ありて倶に死ぬ」が、この変が大和勢力の出雲系物部氏(蛇)と委奴国系天武勢力(委奴=犬)の粛清であったことを今に伝えている。その完全勝利後、倭国の復活である天武による大和朝廷の誕生を打ち消すために、『日本書紀』は九州での倭(やまと)での皇統史を神武東征に一行の瀬戸内海経路を足すことで畿内大和への神武東征を造作することで、神武に始まる倭国皇統史を畿内大和に取り込み造作し、天武の大和での倭国王統復興の偉業をかき消し、遠い昔から畿内大和にそそり立つ万世一系の天皇制神話をそそり立たせた。その陰に真実の畿内大和史は隠されているんだ。
この倭国での旧勢力・倭国(倭国王統)と新勢力・日本国(倭国皇統)の基本矛盾を見失ったところで、白村江戦後の倭国から日本国への転換について、古田史学会の「禅譲・放伐論争」が行われ、壬申の乱を見ながら禅譲論に傾く無惨な展開をしている。それは木を見て森を見ないもので、壬申の乱が倭国側と日本国側の戦いであることを、九州王朝説を忘れ、皇統史観内で蘊蓄をこらしているというわけだ。それは神武東征による倭国皇統の変質を見ずに畿内皇統の発生を見たことにあろう。
      8.結語
長々と失礼を顧みず愚見を述べたのは、九州王朝説の明日のためを思ってのことである。というのは、かつての90年代の九州王朝説への魔女狩りを想い、再びそれが襲うとき、敢然と一人戦った氏がいない日は、明日にも始まるかもしれない危機感が私にはある。九州王朝説を氏と共に葬むらしては断じてならないのだ。そのために敢えて述べたので、氏を批判しようとしてのことではない。
ところで、近時どこかで氏の梅原猛批判を拝したが、そこで出雲王朝架空説に始まった梅原日本学の誤謬が論じられている。確かにその論旨にまちがいはない。しかし、批評は鞍部ではなく高見に対して放たるべきであるなら、梅原猛が格闘した律令国家の隠れたデザイナー・藤原不比等に一言あって然るべきかと思う。のみならず、その梅原猛がかつてのまちがいについて出雲を訪ねる謝罪の旅をし、『葬られた王朝』を上梓し、自己批判している現在を見ないのは、批評として公平を欠こう。
むしろ氏が成すべきは、そうした他者の瑕疵をあげつらうのではなく、氏の九州王朝説に九州王朝を閉じ込めるところがあった罪を、明日のために開く道を指し示すことではないのか。書くべき時間は、残り少ないとはいえ残されていないわけではない。
我々が思索し格闘した九州王朝は、氏の説く九州王朝説より広く深かったことに、近年の氏と我々のねじれの原因があったので、我々は九州王朝説に異を唱えたのではなく、氏に負けず劣らずそれを深く解明せんとしてきたことが、共立できない理由となっているのは、明日の九州王朝説にとって不幸なことだと私は想っている。果たして、氏は自らをしか信じないというなら、それは余りに淋しすぎるというものだ。(2011.10.26)

書評―齋藤愼爾著『ひばり伝―蒼穹流謫』(講談社) 室伏志畔 

2011年09月26日 | 書評
  
〈廃墟〉のなかの〈巷の唄〉    室伏志畔

 これは不世出の大歌手・美空ひばりの四十数年の芸能活動に加えられた毀誉褒貶した千の声を、戦後の〈廃墟〉という原点に置き戻し考察した「ひばり本」の決定版である。その地平から今、セレブを演出する裕次郎の二十三回忌はなんとむなしく見えることか。経済が見えざる手によって導かれるなら、見えざる伝統を無意識に負った多寡に歌手の評価もかかっている。その意味を深めた竹中労、平岡正明、大下英治、吉田司、新藤謙等の言説に凝縮されたひばり本・四百数十冊に目配りしながら、齋藤愼爾はその思春期にひばりから受けた〃歴史的な負債〃の返済としてこれを書く。そこには前年の『寂聴伝――良夜玲瓏』(白水社)に見られた〈遠慮〉がふっきれ地声が奔騰し好ましい。それは対象が生者ではなく死者であったことによろうが、何よりも齋藤愼爾にとってひばりが「原初の生の断崖に立たしめ、生の歪みを,良心の摩耗を蘇らせる原器」としてあったことに因ろう。
 棺の蓋をして声望定まるなら、密葬時の祭壇に平岡正明は、「全国民が見ていながら、見ていない」ものとして、ひばりの位牌を囲んで、親族、芸能人仲間と共に、「皇族、遊侠世界、解放運動リーダーからの花環がある」のを認めた。それは美空ひばりの死以外にはあらわれることのなかった「日本芸能界の本流」の裏書きにほかならない。本書はその課せられた宿題への齋藤愼爾なりの応答とも受け取れる。
 それはプロローグの「孤島苦のゆくえ」から十六章に及ぶが、その表題は齋藤愼爾の句集を読むに似て絢爛にして悲愁漂う。それは「〈廃墟〉のなかの少女」「讃歌と呪禁」「命名神聖論」「黒衣たちの肖像」「親分と赤い靴のメルヘン」「男巫のパヴァーヌ〈孔雀舞〉」「銀幕幻影」「スクリーンとその祭儀的時空」「〈港〉文化と〈城下町〉文化」「〈河原〉と〈梨園〉」「〈異形者〉の系譜」「空蝉の宴」「聖父母、皇子たちへの悼詞」「唄を越える歌」「花季の瞑府にて」と連続し倦まない。それらはひばりを軸として展開される原像論、知識人論、命名論、マネージャー論、ヤクザ発生論、「山口組」論、ひばり映画論、戦後雑誌論、芸能水源論、情念論、結婚・離婚論、家族論、流行歌論の別名にほかならない。その「ヤクザ発生論」をするに齋藤愼爾は新たに「侠客、任侠、ヤクザ、暴力団、極道者等々、関係書四、五十冊」を読んだとあるのを見れば、他も推して知るべきなのだが、それがその光彩陸離にして棘ある博学な文体をもって語られるところに本書の醍醐味がある。それらはかつて痴れ者を唸らせた『偏愛的名曲事典―〈文学と音楽の婚姻〉』(三一新書)を決して裏切らず、時に渦巻き、滔々と流れる。
 日中戦争開始の一九三七年生まれの美空ひばりのラジオから流れる歌声を、第二次世界大戦開始の一九三九年生まれの齋藤愼爾が、山形県酒田市沖、北西三十九キロの孤島・飛島で捉えたのが邂逅の始まりとする。流れる『悲しき口笛』、『東京キッド』、『越後獅子の唄』等の唄にある孤児、浮浪児、靴磨き、角兵衛獅子に見られる「よるべなき子ども」に、齋藤愼爾は「秩序に馴染めず、はぐれている影の私」を重ねずにはおれない戦後をもった。それは後年、「文化良民からの被差別次元に寄り添っていこうとする『反近代』志向、混沌とした母なる闇への回帰」へと溯行、深化させたところに本書はあるといえようか。
 それは五線譜という補助線の上で論ずるに似たひばり論への過激な反論というべきで、ここ一五〇年の近代知の頽廃を押し分け出現した「十歳に満たない大人を超出した声音をもつ」異人を、その根源から問い直すものとなった。それは五線譜を読めないひばりが、何故、大衆の情念を真底から揺り動かし、四〇数年にわたり戦後感性をリードしたかの逆説を問うに等しく、本書が単なる伝記本に止まらぬ思想書としての風貌をもつ所以である。
 そのひばり(加藤和枝)の才能は、三歳児における「百人一首」の朗詠に発現し、父・増吉や師匠・川田晴久の浪曲を通し磨かれ、ハリー・ベラフォンテをして声を失わせたのが祖母から聞き覚えた即興の『唄入り観音経』であったという事件ほど、ひばりがこの国の深い声明を始めとする伝統芸能の流れを汲んであったかを語るものはない。
「旧サイゴンも二十一世紀になってのイラン、イラクもアフガニスタンも未だ〈美空ひばり〉を生み出していない」と齋藤愼爾は書く。それは自国民三〇〇万人の犠牲と銃後の悲惨と引き替えに、戦後、美空ひばりをもった日本の〈僥倖〉を確認するものであろう。しかし、その〈僥倖〉を説く齋藤愼爾は、またこのひばり一家の点鬼簿を深夜にひそかに編んで、「おらあつらかった、おらあ苦しかった、本当におらあ苦しかったぜ…」という幻聴を耳にし、「芸能が敗者の痛憤であり、屈辱であり、諦観であるなら、この叫びは一家の誰から発せられても不思議はない…」と、ひばりの栄光と表裏してあった家族の苦悩に筆を下ろしているところに本書のもつ重さもまたあるといえよう。
 東京は下町の南千住の石炭問屋の長女として生まれた母・喜美枝とひばりを一卵性母子と云うのはたやすい。それは「いちばん嬉しかったことは」と聞かれ、「お嬢が、離婚する、といったときでしたね」とためらいなく答えたところに明らかである。また父・増吉は横浜で魚屋を開く一方、ギター、都々逸、さのさをよくする多趣多芸の人で、ひばりが川田晴久に出会うまで「芸の手引き」をし、戦後いち早く、アマチュア楽団を組織したことを抜きに、ひばりの早熟な才能の開化は語りえない。しかし、愛人との間に二人の男子を成し、また妻・喜美子の妹・菊代との間にひばりは異母姉妹を持ったことは、いまや周知の事実となった。その芸にうるさかった父がまた「娘を河原乞食にし、結婚をできなくさせるのか」と喜美枝に詰め寄ったが、「あなたの悪事に口出しはすることはやめましょう。そのかわり、和枝の歌を伸ばしたい私の夢を許していただきたい」と喜美枝の反論を齋藤愼爾は拾っている。その延長に一卵性母子の二人三脚による大歌手への挑戦が始まる。その歌手とステージ・ママの誕生は、昭和二一年のひばり九歳の時で、それはその妹弟である勢津子八歳、益夫五歳、武彦三歳の育児放棄と別でなかったところに、ひばり一家の明暗もまた分かれた。後年、弟二人はやくざな芸人となり、ひばりの稼ぎの六割を紅灯に散らし、ひばりバッシングの原因を作るが、ひばりが最後まで母親代わりの保護を引き受けた理由はここに由来する。蓮の花は泥に根を張って美しく咲くように、ひばりの唄は家庭の泥に根を下ろしていたことを見ないひばり論はなべて失格である。そのひばりの唄が心に沁みた田岡一雄は「ええ暮らしした家の娘が、なんぼいい喉で歌うても、わいら極道の心まで、打ちはせんわい」と述べたことを押さえたい。それは『カラマーゾフの兄弟』の才が淫乱卑猥な父フョードル抜きに語れないのと同じである。
 ひばりに大歌手に道つけた者として歌の師匠・川田晴久、マネージャー・福島通人、山口組三代目・田岡一雄を人は上げる。その川田晴久が日本の伝統音楽の流れにひばりを通じさせたなら、福島通人は「稼ぎは交通費でいいが、看板は主演の灰田勝彦並み」に扱わせて売り出し、田岡一雄が興業を仕切り、ひばりの晴れ舞台を用意し、念願の歌舞伎座を十五歳のひばりが制した日が日米講和締結による占領からの解放日であったことも感慨深い。その三人の出会いは昭和二十三年で、そのとき山口組三代目を継いだ田岡一雄は、組員二十三人をもつだけであったが、今はヤクザの内、二人に一人は山口組という四万人に及ぶ全国組織の基礎を作り上げた。この暴力団との関係が後のひばりバッシングの基にあるが、当時、芸人がそれへの挨拶なしに舞台を踏めない現実を置いての非難は、弟二人との絶縁を迫るのと同じで、千年の根を持つ非合理の解決をひばり一人に負わす不当なもので、それは血を流さずに肉塊を切り取るに似て難しい。ひばりはファンに塩酸をかけられて以後、その庇護をいっそう田岡一雄に頼ったのは、事後にしか動かない警察とボデイガードといった警備保障がなかった時代では、興行権を押さえる組に頼るほか身の保障がなかったことにあろう。
 ところで齋藤愼爾は、ひばりをひばりたらした人として、「平凡社創立者の岩堀喜之助、平凡編集長・清水達夫、映画監督・斎藤寅次郎、作曲家・古賀政男、万城目正らを同比重で加えたい」とする。先の三人がひばりの立つ土壌を固めたなら、齋藤愼爾の挙げる五人は、ひばりにある多様な花を引き出した人といえるかも知れない。雑誌『平凡』を歌謡曲と映画の二本立て路線に切り替え、美空ひばりを看板にし「読む雑誌から見る雑誌」を演出したのが岩堀喜之助なら、『平凡』、『週刊平凡』、『平凡パンチ』と三つの一〇〇万読者をもつ雑誌を創り上げたのが清水達夫で、この二人の延長に「何人も会社の経営権(人事権、給与件、編集権)を独占しない、オーナーなき出版会社」は実現されたと齋藤愼爾は書き加えることを忘れない。また斎藤寅次郎は「ひばりありき」に始まる娯楽映画を実現し、生涯で一五八本のひばり映画の端緒を開いたがまともな評価を与えられていないという。そのひばりの映画からの退場に日本映画の衰退が重なるなら、その見直しは五線譜に基づく音楽論と同様な芸術映画観からの脱却とパラレルにあるように思える。そのひばりについて長谷川一夫は「私は女優を育てたが、ひばりは男優を育てた」と述べているのは味わい深い。また作曲家・古賀政男、ことに万城目正こそ、ひばりの原像形成にもっとも資し、遠い昔からの伝統音楽の流れに確固とひばり唄を位置付け、時代を鎮魂した人としてもっと記憶さるべきだと齋藤愼爾はいう。
 最後にひばりバッシングについて一言するなら、その口火を切ったサトウハチローは「近頃でボクの嫌うものはブギウギを唄う少女幼女だ」とひばりを槍玉に挙げ、「消えてなくなれとどなりたくなった。吐きたくなった。いったい、あれは何なのだ。あんな不気味なものはちょっとほかにはない。可愛らしさとか、あどけなさが、まるでないんだから、怪物、バケモノのたぐいだ」とげろを吐いた。そのサトウハチローは戦中、東南アジア、中国を蹂躙した日本兵と同じ残虐さをもってそれら仮想国に進撃する桃太郎の詩を書き散らした。それは日本軍隊と本質的に同じ残虐さをもっていたことを齋藤愼爾は押さえることを忘れない。ひばり親子はこの無念を忘れないようにその新聞記事をお守りに入れ持ち歩いたという。敗戦後、小説の神様・志賀直哉は最も美しい言葉としてフランス語の採用を説き、『読売報知新聞』が「漢字の放棄」を提言したという。サトウハチローのカタカナ書きがそれに倣い、それに呼応するように左翼のタカクラ・テルがあったことを忘れまい。そのとき、これら大家は「大人以上に歌い上げた子ども」に未来を予見することなく、戦中の「非国民」思想をもってひばりを裁いていたのだ。九歳の美空ひばりは笠置シズ子に倣い『河童ブギウギ』でデビューしたものの、たちまち『悲しき口笛』や『東京キッド』にはじまる〈廃墟〉の「はぐれ者」を原点に据えた唄に本領を見出し、死者を鎮魂し孤児を励ます唄をもって戦後大衆の心を揺さぶった。
 左右を問わず、自らの短慮の外にある者を「怪物、バケモノ」とする異人観こそ、この国を滅ぼしてきた当のもので、この拝外主義的文化観の狭さを打破しない限り、「正式な音楽学校を出ていない」という理由で、当時、人気ベスト・ワンの岡晴雄がNHKから敬遠されるといったマチガイは、当局が「近藤勇はいいが、新撰組の近藤勇は、暴力団だからいけない」といったトンチンカンな指導に合流し、今後もやむことはないのは、井真成を中国姓に比定し、朝敵にあった熊襲の井姓を外した古代論議のお粗末に接続する。
 舞台で身を粉にして大衆を勇気づけて回るひばりを見ずに、人権についての近代法の整わない戦後初期に疲れて電車内でしゃがんだひばりや、マネージャーに背負われて眠るひばりをフライデーし、労働基準法、児童福祉法、教育法違反を匂わす『婦人朝日』に象徴される進歩的批判があった。これはその整備に奔走するのではなく、そうした環境を保障されない中で奮闘する者に水かけるもので、食べるために道を模索する庶民から茶碗と箸を叩き落とす行為に等しく、今でも世の大学の先生がときに繰り返すところだ。
 ペンはなかなか納まりそうにないのは、本書が大衆的な具だくさんの鍋物に似て熱いからだが、そこでも齋藤愼爾は父・増吉の死を引き金に弟・益夫の逮捕劇に始まったバッシングから「川の流れのように」に至る多くのひばり歌をベスト・テンに入れる今の評価を肯んじない。それは「『河原乞食』と蔑まれ、天の下、旅をねぐらとし、村から村へと蒼穹流謫の日々をおくった」者の心が、敗戦日のどこまでも青かった空に通底しているとする齋藤愼爾にとって、その原点としての〈廃墟〉を見失った歌がどれだけ世評が高いとしても、虚しいとする危機感は、「もう誰とも和解はしない」という決意と共に天を突き抜けてあることによろう。(2009.7.2)(『季報・唯物論研究』)

※大芝英雄講演 2011年10月9日(日)pm2時 泉北すえむら資料館(旧泉北考古資料館)

書評― 『越境としての古代 4』(越境の会/編 同時代社) 西垣祐作

2011年09月22日 | 書評
書評 「装置としての歴史認識」を越えて――西垣祐作

 久しぶりに、小学校4年の娘に読ませたい本と巡りあった。
 「これ読めるかな?」と挑発的に勧めてみたが、「今これ読んでるから。」と、学校の図書館で借りてきた本を出してきて、こっちの本には興味なし。ちなみに、上の息子の時には、『怪盗ルパン』や『シャーロック・ホームズ』をしつこく勧めたが、やはり効果なし。たまたま、本屋で見つけた『バッテリー』という野球を扱った本だけは熱心に読んでいた。本の選択は本人の興味や時代、偶然が大きく左右し、親の心子知らずか、と思われ、なんだかなあ、という気分であった。
 で、その本は『セレンディピティ物語ー幸せを招ぶ三人の王子』(エリザベス・J・ホッジス著、藤原書店)。スリランカ(旧名セイロン)のおとぎ話『セレンディップの三人の王子』に想を得たものである。ちなみに「セレンディップ」とはスリランカの古称。
 時代は西暦5世紀、日本では倭の五王の時代。セレンディップ国王は、国の危機を救うために、三人の王子に「伝説の巻物」を海の向こうの世界から探してくるようにと命じる。三人はペルシャでラクダをなくした男と出会った。論理に長けていた第一王子は、そのラクダの目が片方しか見えず、歯が一本欠けており、一本の足を引きずっていたことを言い当てる。男は彼ら三人がラクダを盗んだと思いこみ、皇帝に告発する。三人は裁判で死刑を宣告されるが、やがて無実であることが判明し、わずかな手がかりや痕跡から論理的推論によって、「見たこともないラクダ」の特徴を推測していたことを説明する。この一件で皇帝の信用を得た三人は、その後「伝説の巻物」を探しつつペルシャ・インドで難問を次々と解決し、「ワラシベ長者」のように幸運を招き寄せていく。
 このスリランカのおとぎ話がヨーロッパに伝わったのは十六世紀。十八世紀にはホーレス・ウォルポール(英国の初代首相の子で政治家兼作家)が「思わぬものを偶然に発見する能力」のことを「セレンディピティ(serendipity)」と名付けた。以来、科学や産業社会の発明発見の場面(細菌学者フレミングがアオカビから偶然にペニシリンを発見したことなどが代表例)ではよく使われる言葉となっている。『広辞苑』にも「幸運を招き寄せる力」という意味が載っている。だが、本来「セレンディピティ」とは、単に「宝くじを偶然当てるような力」ではなく、深く持続的な思考に裏打ちされた「偶然への意味づけ」であり、「偶然の痕跡から論理的推論によって原因を究明する力」であろう。
 さて、『越境としての古代』は、「古代における越境」を通して現在の停滞した歴史認識の状況を突き抜ける試みとして、二〇〇三年二月に第1号を刊行した。以降毎年、「市民による古代史論集」として最前線の研究成果を世に送り出してきた。室伏志畔氏(「越境の会」代表)の「組織者」としての手腕や馬力、嗅覚の鋭さによることももちろんながら、質の高い論文が「市民」の手によってコンスタントに発表されていることは実に画期的である。
 我々には、「歴史」は客観的事実の集積物であるかのような思いこみがある。しかし、「歴史」は、書かれることによって成立するということを忘れてはいけない。『古事記』や『日本書紀』等の文献には「作者」が存在する。その「作者」が何を書いたかよりもむしろ、何をあえて書かなかったか、という点が問題なのだ。つまり、「作者」は、生きた時代の政治権力に規定され、「政権の正統性」を書くことが至上命題とされ、その観点から過去を恣意的に書き換え、定着させるという宿命を負っているのだ。つまり、歴史書は、書かれた時点から過去を「作者」(その背後の政権担当者)の歴史観によって書き換える「装置」としての側面があるということである。この「歴史という装置」の構造そのものを疑え、というのが、本書巻頭言「大和から疑え」の中の「疑うならすべてを疑え」という言葉の意味するところなのだろう。
 では、その方法は?
 本書では、九人の論者がそれぞれの方法で、万世一系の天皇史観=大和一元史観に切り込んでいる。第一章は、「十」の読みと太陽信仰との関係を究明した飯岡氏の「日々並べてー日十大王と蝦夷」。第二章は、「倭の五王」の流れを究明した兼川氏の「倭の五王について」。第三章は、謡曲「第六天」を手がかりに、東アジア諸言語を駆使し、日本列島の神々の原郷を東北アジアに溯ろうとする白名氏の「列島の神々を遡源するー見えて来る列島の光景」。第四章は、気候変動のデータをとり、それと記紀の天変地異災害及び大事件の背景を解析した高見氏の「鶴見岳噴火と桓武東遷」。第五章は、「倭人伝」の精神世界について踏み込み、卑弥呼の「鬼道」に具体的イメージを与えた大芝氏の「『倭人伝』信仰史」。第六章は、民俗学的観点から「榎」と物部氏・大伴氏そして天武天皇との関係を洗い出した越川氏の「神を生む木(榎)のゆくえー鉄王天武と大伴氏」。第七章は、漢字の呉音に着目し、『魏志倭人伝』を丁寧に読み直すことで「邪馬台国」研究に斬新な視点を導入した福永氏の「魏志倭人伝と記紀の史実ー伊都能知和岐知和岐弖考」。第八章は、シャープな切り口で太安萬侶が残したメッセージを解読し、稗田阿礼と舎人親王との関係を論じた斎藤氏の「太安萬侶と歴史書」。第九章は、天智称制の造作を幻視することで幻想史学の骨格をさらに強固なものとし、見通しのよいものとした室伏氏の「鎮魂の設計図ー称制論」。
 共通点がある。たまたま出会った「わずかな痕跡」を問題解決の糸口としている点だ。その「痕跡」を光として、古代史の深い闇を、手探りで、奥へ奥へと、歩を進めているというイメージだ。「痕跡」を出発点として、日本語はもちろん、韓国語・中国語などの東アジア諸言語の深い闇を時間的に溯っていくと、豊かでかつ陰惨な古代史の闇が次第に明らかになる。
 燃えるローソクの炎の色は様々に変わろうと、その中心には燃えない一本の灯心がある。近畿の大和王朝に先立つ、九州の倭(やまと)王朝の存在。九本の論文は、深く持続的な思考の賜として、「偶然の痕跡」に出会い、それを手がかりに「見たこともないラクダの姿」(歴史のあるがままの姿)に接近している。
 『越境としての古代』の試みは、過去一三〇〇年間にわたって列島を覆ってきた天皇制幻想への知的抵抗戦である。強固な「共同幻想的構築物」である「装置としての歴史認識」を、「あるがままの姿」に回復するためには、今後も多くの「痕跡の発見」と「知的集団戦」が必要となろう。
 「越境者たち」に「セレンディピティ」あれ。

※大芝英雄講演 2011年10月9日(日)pm2時 泉北すえむら資料館(旧泉北考古資料館