ねこの気まぐれ散歩

ねこの気まぐれ散歩にようこそ

向島七福神 気まま巡り

2007-08-26 19:39:39 | Weblog
隅田川七福神は、日本で初の七福神巡りのコースです、現在では全国で数千カ所もありますが、間違いなく最初の七福神である、日本初の隅田川七福神を廻って見ましょう。

七福神は初詣だけではなく、四季を通して楽しめます、御利益も一緒です、平素は、訪れる人も少なくゆっくりと拝観ができますし、七福神を拝観しながら途中にある旧跡などを見ながら、歩んでみては、如何でしょうか、通常は南から始めますが、今回は、北から始めてみたいと思います。


「多聞寺」(七福神・毘沙門天)

最初は、多聞寺から始めます、東武伊勢崎線、鐘淵駅下車、鐘淵駅前商店街と言う狭く古い商店街に入り進む、この商店街は、鐘淵紡績の工場があった当時は、毎日女工さんが2千人以上通勤で通り、盛況だたそうで、今は、なごりと言えば数件古い店が有る程度で、面影は無い、だが何か懐かしい気分になる商店街である、商店街からさらに細い道を抜けると、徒歩で10分ほどで、多聞寺に着きます。参道入り口にに阿弥陀さまと子育て地蔵さまが居られる。茅葺の山門は墨田区の指定文化財に指定されています、境内に入ると左手に狸塚が有る、右手には、墨田区登録文化財指定の六地蔵があります。 
 次は、木母寺に進みます。


「木母寺」 

七福神では無いが、梅若伝説で有名な、木母寺を拝観して見ましょう、多聞寺の裏手に出ると堤通り出ます、防災団地が通りの向こう側に見えます、団地と隅田川の間が白鬚公園になっています、その公園を南に進み大きな歩行者用の陸橋を越えると左手に木母寺が目えてきます、多聞寺から徒歩で10分ほどです、白鬚公園の中にり、周囲には、いつも花が咲き、静かなたたずまいです、梅若伝説の由来の寺である、羽黒山忠円が貞元元年に梅若丸の供養の為に墓を築き、御堂をたてたとされている、大田道灌や徳川家の由来も有る寺である。やはり七福神では、無いのですが、歴史の古い、
 隅田川神社に進みます。


「隅田川神社」

木母寺から南に向い、徒歩3分程で着きます、隅田川神社は、七福神では無いが、歴史が古く、水神様と呼ばれ明治5年に隅田川神社改名された、昔は、隅田川の中州に立地し、大水でも流されず、海事に携る者から厚い信仰を集めていました、創建当時の地形と現在の地形は、変貌し浮島であった痕跡は全くない、水神様だけに、狛犬では無く、狛亀なのである。 初詣は、なかなか良いものです、除夜の鐘が鳴ると神殿の前で参拝者にそれぞれ御払いをして頂けます、初詣の頃一の鳥居の右手に有る白梅が、この頃に数輪花を咲かせる、  
 次は、白鬚神社に向います。


「白鬚神社」(七福神・寿老人) 

隅田川神社から徒歩で10分で着きます、昔は白鬚大明神と言い天歴5年(951)に置かれたとされています。社殿は、戦災の難を逃れたのですが、テロの放火により全焼してしまいました、江戸時代は、すぐ前の隅田堤に石段があり、石段の下に、一の鳥居が立ていた、現在でも石段の跡が遺されている、神楽殿も無かったようである、昔付近は、茄子の産地で、寺島茄子として有名でした。 
 次は、向島子育地蔵に向います。


「向島子育地蔵」  

白鬚神社の前の堤跡の道を1分程歩くと着きます、地元の信仰を集め、素朴な地蔵さまである、毎月四の日が縁日で、昔は大変賑やかで、今でも縁日には、多くの御線香と蝋燭が上げられています、夜になると境内に明かりが灯され、風情のがる、御堂は代々守られ、現在六代目だそうである、縁日の日に御参りすれば六代目様のお話が聞けるかも。 
 次は、向島百花園に向います。


「東京都立 向島百花園」(七福神・福禄寿尊) 

白鬚神社の一の鳥居を出て左に進む車が、すれ違いができるかどうかの狭い道で、下町の風情が残る道筋です、徒歩4分ほどで着き、入り口に、木造の受付のの建物が有る、入園料を払い、福禄寿堂に進む園内でも隅の目立たない場所にあり清楚なお堂である。帰りに園内の茶店で一休みをするのも良いのでは。   
 次は、長命寺に進みます。


「長命寺」(七福神・弁財天) 

向島百花園を堤通りに戻り南進むこと徒歩で15分程で着きます、鍵盤通りに面しています、天台宗延暦寺の末寺で、徳川三代将軍が鷹狩来たおり腹痛をおこし、そこに住職が加持した、庭の井戸の水で薬を飲んだところ、腹痛が治り、そこで井戸の水を長命水となずけ、長命寺の寺号を与えられました、本堂の前に長命水の井戸が有ります、清らかな水が流れ落ちて、霊験を感じます。境内には、庚申地蔵菩薩像や歌碑が多く有ります、最近「木の実なな」の歌碑が作られました。 
 次は、弘福寺に向います。


「弘福寺」(七福神・布袋尊) 

長命寺の隣で、黄檗宗で、中国色の強い禅宗の御寺です、創建は延宝六年81673)です、山門や本堂は、中国禅宗の寺院の様式で重宝感が有り、境内は、禅宗の御寺らしく、りんとした雰囲気で、勝海舟が坐禅をしたそうです、七福神の布袋尊は、中国で実在の人物だそうです。 
 次は、三囲神社に進みます。


「三囲神社」(七福神・恵比寿神・大国神) 

弘福寺を出て鍵盤通りを南に進み、徒歩5分ほどで着きます、三囲神社は、の御稲荷様で、社殿の前、両側の御狐様の面差しが穏やかで、福々しい表情で素晴らしい、社殿左手奥に恵比寿と大黒天が奉られている神社が有る。社殿裏の稲荷の御狐様もなかんか良い姿である。
 これから隅田公園を抜けて吾妻橋進見ます。


「水戸徳川家本邸跡」  

隅田公園の枕橋の近くに、邸宅跡の門柱が遺されている、関東大地震の時に全焼し東京府に寄贈され墨田公園となりました、堤通りの様子が現在と違い、狭く舗装もされておらず、枕橋も簡素な橋でした、北十間川の川幅も現在より狭く、のどかな場所であったそうです。
 次は、吾妻橋に進みます。


「アサヒビール本社ビル」

枕橋を渡ると墨田区役所です、そこを隅田川沿いのテラスの方向に進むと、ビールのジョッキの形をテーマにして造られた、アサヒビール本社ビルの前に出ます、アサヒビール直営のビヤホールも有り、又アサヒビール本社ビルの上部の泡の部分に、レストランも有り展望が良く料理もまあまあで、つかれを取る一時を過ごすのはいかがでか、吾妻橋を渡れば、浅草の町です、元気があれば浅草の散策も良いのではないでしょうか。

隅田川七福神の神社仏閣に付いては、別の頁で紹介しています、ご覧下さい。

向島七福神 向島百花園 福禄寿尊

2007-08-26 19:38:19 | Weblog
東武伊勢崎線東向島駅下車徒歩8分、京成曳舟駅下徒歩13分、都バス、亀戸ー日暮里(里22)向島百花園前下車徒歩3分。

文化元年(1804)に開かれ百花園に集まる文化人が隅田川七福神巡りを始め園内の福禄寿尊は、開祖が百花園の草花にちなみ、本草の神して愛蔵していた者です。

入り口の横に殺風景な公園がある最近は、少子化で子供の姿が無い寂しい公園だ、その公園を横目に、園内に進む、左手に茶店がある、その先に小さな御堂がある、福禄寿尊だ、言われなければ気が付かない程、寂しい場所の有る。
御開帳は正月だけなので平素は、御姿を拝観できない、普段の日は来園の人もお参りする方は少なく静かだ。

百花園は、四季を通して草花を楽しめる庭園で、特に春と秋は花が多く見ごたえが有る、虫ききの会や月見の会の時は、普段見られない、夜間園内を散策できる、都会の雑踏を忘れる空間で、風情があり萩のトンネルも見事だ、蝋燭の明かりにほの暗いトンネル歩くと、心が落ち着く、園内は、以外に狭いのだが草花や歌碑を見たりしていると、時間の経過を忘れてしまう。

昔は、近隣の人が散歩に来たり、小さな子供を連れて散歩したりしていて、地元の人に、ごく自然になじまれた、庭園だた。

最近は、観光客が多く、地元の方が少なくなり、最近の来園者には、良識を忘れた人も見られるようになり、特に俳句や撮影会の方々の団体さんが、他の人に気を使わずに、わがままに振る舞い、雰囲気をだいなしにする状況を目にする事が多くなった、寂しさを感じる。

園内の御茶室は、借りることが出来る、御茶会だけではなく借りられるので、一人で借り切って、部屋から庭を見てのんびりと時間を過ごすのも良いものである、仕出もしてもらえるので、食事をしながら時を過ごすのもなかなか良い。

隅田川七福神 白鬚神社 寿老神

2007-08-26 19:36:55 | Weblog
東武伊勢崎線東向島駅下車、徒歩10分ほど、又都バス亀戸~日暮里駅(里23)白鬚東橋詰下車徒歩4分、白鬚神社に着く、神社の前は、旧隅田川の堤跡に面している、明治初期の白鬚神社の写真を見ると、旧堤の上から境内に降りる石段があるが、そこが正面なる様である、石段の下に一の鳥居が有った、現在の一の鳥居方向とは、異なる様である、社殿も当時は、小規模であった、現在の社殿は、テロにより全焼している、焼失前の姿に近い姿では有るが、貫禄は無くなってしまい、残念である、火災時社殿周囲の銀杏の木も半身が焼け無残な姿であったが、現在も健在で聳え立っている、傷跡は現在も遺されているが、銀杏の木は、犯人に無言の抗議をしているのだろう、祭りは、一時期衰退したのだが、今は、大変賑やかで、向島百花園までの道筋の両側に屋台が並び、多くの老若男女が、訪れる。初詣もなかなか素朴でよいものである、
又、節分の時の鬼の舞は、赤鬼と青鬼ではなく、赤鬼と碧鬼なのだ、独特で大変に面白い。
昔は、堤の向こう側は広い中州で、そこで茄子を栽培していたようです、寺島茄子の名産地で、茄子の碑も有る、他にも歌碑なども多い。江戸時代の絵や明治時代の写真を見ると、周囲も含め大きな松の木が多く有ったのだが今は、一本も残っていないのが不思議だ。

付近は、古奥州街道の渡しの要所で、江戸時代に、日光街道が整備されるまでは、この白鬚の渡しを使い奥州の国、下総の国、日立の国へ向かた。

由来は、慈恵大師が近衛比良山麓に鎮座する白鬚大明神の御分霊を、天暦五年にしたとされている、社前の狛犬は、浅草山谷の八百屋善四郎と吉原の松葉屋半左衛門が文化十二年に奉納した者である。       

隅田川七福神 弘福寺 布袋尊

2007-08-26 19:34:35 | Weblog
山門の前に立つと、禅宗の寺らしい山門で、重宝な造りである、本堂の屋根も含め山門の屋根は、中国禅宗の寺の雰囲気があり、特に本堂の屋根は威風堂々と空に聳えている、山門を入り本堂は、歴史を感じさせ重量感がある。
境内は静かだ、正月の初詣の時期と違い訪れる人はかぎられる、禅宗の寺を一人占め出来たような気分である。人を寄せ付けぬ雰囲気と静かに人の心を洗い流すような、空間である。
周辺は、向島花町の真ん中であるが、昔は料亭に政界、財界のトップが会合を開き高級車が、ずらと並んだもので、栄えていた、その中に禅宗の寺がそのまま残されてきた。


弘福寺は、黄檗宗で禅宗、江戸時代中期に中国黄檗山万福寺の出身である、隠元が二十数名の僧と共に渡来(1654)により始められた宗派、隠元は、中国に置いて最高の高僧である。
臨済宗の無準師範の流れをくみ、あえて臨済宗との違いをいえば、念仏禅と密教の比重が多いいと言うこと、読経の黄檗唐省という発音が全く違う、住持が、隠元から十三世竺庵浄印まで中国人で、中国仏教と正統意識が強い生活様式から寺院建築、釈迦如来像、仏師、礼儀作法、言動まで、中国式で、日本の中国と言われる。1874年、臨済宗に吸収されたが、数年後に独立し三十二派に分かれている。念仏禅、住生、浄土を合わせて説き、念禅一致を目指る。信徒数は約36万人、寺院数463寺である。

京都府の黄檗山万福寺の末寺で本尊は中国禅宗様式の釈迦如来像である、もとは、別の場所にあり、小庵でしたが、鉄牛禅師が延宝二年に現在の地に移し牛頭山弘福寺と改称された。

布袋尊は、中国で、実在した人物である、中国唐時代の禅僧で、困る人には、背負う袋の中の物を施したと、言われています。幸せは、金銭欲・物欲だけではないのだと言う事を教えてくれるのである。

隅田川七福神 三囲神社 恵比寿神・大国神

2007-08-26 14:41:05 | Weblog
三囲神社は、浅草駅から吾妻橋を渡り隅田川沿いに、徒歩15分程で着く、なにやら暗い雰囲気の神社である、境内は、構っている様だが何か殺風景な雰囲気だが、長い歴史の中で、変革の状況を感じさせる、大和の神社仏閣も最近観光ブームで、変貌して心を忘れられた、場面に直面する。まだ三囲神社は、訪れる者の心が癒される部分がある。
江戸時代は、この辺は黒松が多く、隅田川沿いの神社仏閣の境内には、黒松が生えていたのだが、三囲神社も古い松の木が無い不思議である。

三囲神社のおもむきと違い、本殿前の左右の狐様が、表情がふくよかで、暖かく向かい入れてくれた、真に人の心を和ましてくれ、ご利益を授けてくれるような面差である。又本殿裏のお稲荷さんの御狐様は、精悍な姿である、左の御狐様は社を守る為精悍な目で、訪れる者を見据えている、右の御狐様は、子狐を抱き訪れる者に話しかけてくる、子狐の姿は、母親の愛情に守られ幸せそうな様子がうれしい。境内全体には、まとまりの無い情景だが、この神社の良さであるのかも知れない。

当初は、現在地より隅田川の下流、牛島神社の向こう側にあった、その当時は、隅田川の堤の上に一の鳥居が立ち、その前に船寄場が有り船で訪れる人も多かった様である、長い参道を抜け本殿が有り、参道は松並木で松が多く植えられてたようで、多くの信仰を集め訪れる人が大変多かったとの事で、鬼平犯科帳の一場面に三囲神社の情景が、描かれている。元禄六年の旱魃の折付近の農民が太鼓を打ち鳴らし雨乞いの祈願したところ、翌日、雨が降り、その事で信仰を集めたようである。
光井家が享保元年に社殿の造営と社地の拡張をした。三越本店の屋上に分霊が奉られている。三井家と深い関係が有り、三井家の加護ににより現在に至る。創建は、不明で、近江三井寺の僧、文和年間「1352~1355」源慶が弘法大師建立の荒れ果てた、御堂を再建したと云われている、元亀年間「1570~1572」焼失天正年間に再建、のち慶長年間、隅田川築堤の為現在の地に移転

隅田川の地形は、特に江戸時代に変貌し、隅田川の両岸の大規模な干拓事業により姿が劇的に変貌を遂げた、現在の墨田区、台東区の地形が形成された、三囲神社の当初の状況を記したが、干拓事業が完成した後で周囲は、当然一面の田圃であった。干拓事業の結果、政治的安定と川幅が狭くなり、橋の建設が可能になった事から、両国の大橋を掛けた。

隅田川 七福神 弁財天 長命寺

2007-08-24 23:28:24 | Weblog
向島花町の一角に目立たないお寺である。山門を入ると、すぐ幼稚園の建物がある、奥のほうに、新しい本堂が見える、何だこんなもんかと、思いながら本堂に向かって進む、本堂にお参りを済ませ、振り返ると何か白木の小さな建造物がある、これが「般若水」井戸だった、長命水である。

「長命水の由来」徳川三代将軍家光公が鷹狩の際、腹痛を起こし長命寺の住職が庭中の井戸水(般若水)を加持し、その水で薬を服用したところ、痛みが治まり、長命水と命名され、寺号も常泉寺を長命寺と改号されたと云われている。
流れ落ちる清らかな、水を見ると、言われをなるほど感じてしまう、雰囲気がある、本堂の裏手に進んでみると、歌碑や俳句碑が多く、清楚なたたずまいな境内で、山門の前から見た印象と全く違う寺である。
長命寺の由来は、寺伝よると「当寺は元和元年頃の中田某の壇郡寺なれば、その頃の建立に係るものならん」とあり、「元和二年(1615)頃とされています」村内一字の道場として小庵が存在していたと思われる。石文によると「いにしへは宝樹山常泉寺と唱し道場なり」長命寺の説明から抜粋、
本堂は安政二年の大地震で焼失その後明治なり麻布の武家屋敷を移築し仮本堂したが、大正十二年の震災で、焼失しかし本尊、弁天像、芭蕉像は難を免れた、現存です。

江戸時代は、多くの人々が見物に訪れたようである、享保年間(1716~1736)徳川吉宗が堤に山桜を植えたことから、花見の名所であったようである。大昔は、文人墨客が好む感性豊かな所あったようですが、明治以後、向島花町が栄、戦後は、近くに、はとの街が栄え、向島は、時代の集積のような場所である、明治以後の向島は、表は庶民の世界と裏は色町の世界が混在して、共存し生活していた街である、下町と簡単に言うのだが、庶民の住み生活の法則、「気っ風」が確立されたところが、下町と言うのではないかと思う、昔下町でも今は、下町とは、言えない街もある。向島は、気っ風を忘れずに、残ってほしい。
長命寺は、粋で気っ風を此れからも残してはしいと思う。

向島子育地蔵

2007-08-16 16:00:48 | Weblog
地域で、子育地蔵さんと親しまれている、向島子育地蔵です。昔は、縁日の夕方になると、地蔵坂通りを水戸街道から歩行者天国に開放して、屋台がずらっと並び、商店も縁日の為に店前に商品を並べ大変賑やかな縁日でした。地域の人々に親しまれ、守られて来たお地蔵様なのです。

これから向島子育地蔵の由来を紹介します。

そもそも当地蔵尊は、文化年中角田川堤防修築の折、土中より出現し給いし石造の御尊体を御神興の如くかつぐことを常とせしが、戒時当所植木屋平作の雇用人某夫婦が堤外の田地にて殺害されし時、地蔵尊この中の児童によりて犯人を御告げありければ、尊崇やむことなく御尊体を当所に安置し朝夕供養し奉りけり。
その後平作の家運に繁盛におもむきしが天保三年四月時の十二代将軍徳川家斎公当地に御鷹狩ありし時、平作の家に御少憩あり庭内に唐楓を御手継ぎあり。「この樹は今堂畔の邸内にあり、大正四年東京府より天然記念物にされた」その折地蔵尊の由来を聞召され御帰城の時参拝遊ばせけり。平作は之を記念せん為始めて御堂を建立せしかば、郷人等も皆競いて敬仰信奉し、毎月四の日には念仏供養をなし、おのが子女をば必ず地蔵尊の御弟子となすこととはなせり。その後、霊験いよいよあらたかにで川に溺れし者を堂前にかつぎ来れば蘇生し出産眼病その他諸病の平癒又は開運を祈れば霊験たちどころに現れければ、遠近伝え聞いて来り拝するもの日に多く。尊前には香華盛塩の絶ゆる間なかりけり。さらば当時俗間に子育地蔵戒いは塩地蔵又は平作地蔵とも称え奉るに至りぬ。
始め御堂は堤の坂の中腹にありしが明治四十四年堤防修築際土盛修繕して縁日を始め、その頃よりこの坂も地蔵坂とは呼びならわしけり。

(昭和八年の百年祭に建立した御由来記念碑より抜粋)

上記は、向島子育地蔵尊御由来の印刷物から写し掲載いたしました。

江戸時代は、白鬚神社の辺りで南に下り本所方面が大川堤、北方向が隅田川堤と呼ばれていたようです。堤には、桜並木で安藤広重などが多く描いており、江戸八景の一つで、観光名所であったようで、木母寺境内には、徳川家の御殿があり貴人がよく訪れていました。近辺の神社仏閣の周囲も変貌し昔の面影の一片もありませんが、この御地蔵様には、素朴な昔をを感じます。

周辺は、昔から映画のロケ地に使用されています、子供の頃親と見た映画で、タイトルも記憶に無いのだが、庶民の生活を描いたファミリー物語だった、吾妻橋から白鬚橋の界隈や向島百花園がロケされていた。特に、地蔵坂街並みは、当時の庶民生活をリアルに、描き出されていた、私も墨田区に育ち、見覚えがある風景に、なぜこんな所を映すのだろうと、思ったのである。しかし映画の中で見た、下町庶民の生活のイメージは、心に焼きつき。今マスコミや町おこしで、下町の言葉を使う、確かに、時代が変われば、意識も解釈も変わるが、下町にも哲学がある、軽率に下町の名称付ければ良い、と言う気風が広まっているようで、虚しさを感じる。何年ごろの映画かは、不明確ではあるが、昭和30年代の乗用車でダットサン・フジ号と言う乗用車が、使用されていた事を記憶している、映画が撮影された当時は、たしかに地蔵坂界隈には、庶民の下町が存在していた。

隅田川旧跡 梅若伝説と奥州街道

2007-08-14 20:29:20 | Weblog
梅若伝説は、最初に、能「隅田川」作品化され、歌舞伎に文楽でも梅若伝説を題材に作品が作られ「隅田川物語」形態を形成しました。代表的な清元舞踊劇「隅田川」は、六世中村歌右衛門の当り芸です。奥州街道での出来事で、多くの作品化され、現在に語り継がれています。

梅若丸は、学問に優秀で有るがゆえに、比叡山内部の勢力争いの渦中に巻き込まれ身の危機を感じ比叡山を下山し京の都に、向かう思いが、間違って大津に行ってしまたのではないでしょうか。
しかし、琵琶湖の大津の浜で、人買、信夫藤太に、捕らえられ、梅若丸を奥州の国で、売る為に連れ去ったと思われます。当時、人身売買が日常茶飯事のようで、貧しい者から子供を買い、最悪は、人攫いをするなどと、他国で売る事を業とする者が多くいたようです、才知ある僧侶である梅若丸は、高値で取引できると思ったのでしょう。
奥州の国へ向かう街道は、江戸時代になれば、東海道・日光街道が整備されましたが、当時は、厳しい道のりだったと思われます、人買、信夫藤太は、梅若丸だけではなく、藤太は、手下とともに、強制しながら多くの人を連れ道中していたと思われます、道中は辛く悲しい、悲惨なものであったと思います。
隅田川西岸にたどり着いたとき、梅若丸は、重病で動くことが出来なくなり、人買、信夫藤太は、非情にもその場に、川の中または、河原に打ち棄てたと言われていますが、

伝説では、梅若丸の衣が柳の枝に掛かりそれを見た里人が梅若丸を見つけたとあります、渡し場の付近で、梅若丸を岸辺の葦草の中に打ち棄てたと、考えられます。

当時の隅田川の地形は、隅田川西岸は、浅草寺の裏手から千住の方までが、広大な湿地帯で河沿いが、唯一隆起していました、そこに京の都から相模を通り、奥州、総、日立に抜ける奥州街道があり、大きな集落もありました。当時は、奥州街道が確立され、隅田川原西岸から渡しで東岸に渡り、奥州の国・総国・常陸の国への往来の要所の集落でした、尚、総の国は、麻の産地で、総は、古代語で麻の意味です、麻の交易も盛んで有ったようで、西岸は、隅田寺「現在の多聞寺」が建立されており、賑やかな集落だったようです。
梅若丸を奥州に連れて行くために、隅田川原の渡しを利用したとされます。

死にそうな梅若丸を強欲な人買が渡し賃を支払い、東岸まで連れて行き棄てるわけが無い、渡しに乗る前に、西岸に打ち棄て、梅若丸は、西岸で死んだと言う説。

梅若丸の死が貞元元年(976)言われています、木母寺の歴史を見ると、僧の忠円が、同じく、貞元元年(976)に梅若丸の墓所を翌年念仏堂を建立すると言う期日があります。「梅若伝説の母、花御前が梅若丸を探し遅れること一年後、隅田川原までたどり着き渡し舟の上から、梅若丸の法要の様子を、見て、梅若丸の死を知った」と言う記述あいます。

梅若塚の建立の地が同時期に二箇所に存在することになります。しかし現在、西岸には、梅若丸の塚は無く母の妙亀塚のみが残り、東岸には、梅若丸の塚のみ残っています。母と子を同じ場所」に塚を建立しなかたのでしょうか。

梅若丸の母、妙亀は、梅若塚の側に庵を立て、供養のため念仏を上げる日々で、ある日庵の近くの鏡が池に梅若丸の姿が映り我が子の姿を見た妙亀は、そのまま身を池に投げ死んだいわれています。鏡が池は、現在は在りませんが、公園になりそのなかに、妙亀塚があります、庵が東岸に在ったとすれば、当時、隅田川は、川幅も広く渡し舟使い往来しなければならず、決して近くとは、言えない。と言う矛盾点を言う説もあります。

民衆が、広大風景の隅田川見て、隅田川を現世と浄土の境と考えて、梅若丸を東岸、浄土に置き、妙亀を西岸、現世に置き、我が子を思う母の姿を隅田川と言う舞台で物語にした、実際は梅若丸は死んでいた、と言う説。

色々の説がありますが、梅若丸と同じ天台宗の忠円により墓所が築かれ、供養されれ、その後多くの人々に感銘を与え梅若伝説は、現在でも語り継がれているのも現実です。

隅田川旧跡 梅柳山 隅田山 木母寺 本尊と天台宗

2007-08-12 15:41:04 | Weblog
木母寺は、天台宗で、ご本尊は慈恵大師で実在の人物です、元三大師と呼ばれ厄除けの大師様として広く民間に信仰されています。

慈恵大師・良源は、元三大師、角大師、豆大師、厄除け大師とも呼ばれています。良源は、延喜十二年(912)現在の滋賀県浅井郡虎姫町で豪族、木津氏の子で、観音丸また日吉丸ともいい十二歳の時に仏門に入るため比叡山に上り、康保三年(966)に天台宗最高位である第十八代天台座主になりました。良源は、身分は、高くはなかったようですが、奈良の寺院の高僧と法論を行い論破りをしたり、村上天皇の皇后の安産祈願行うなど、頭角を現し最高位まで上り詰めました。天台宗の中興祖と言われています、多くの霊験や説話が遺されており。

角大師、永観二年(984)に疫病が流行し慈恵大師が鏡の前で座禅をし鬼の姿に変え、その姿をお札に刷り家の戸口張らせて、疫病を退散させたと言われています。自ら鬼となり魔物と闘うとの事から,降魔大師とも言います。二本の角をもち骨と皮の鬼の姿から、角大師と言われています。

室町時代、深大寺火災のさい、慈恵大師自刻像とされている、元三大師像が自らで、五大尊池に飛び込み難を逃れたと言う伝説もあります。

豆大師、慈恵大師は、観音の化身とも言われ、あらゆる衆生救うため三十三の姿に化身する、法華経の説に、紙に三十三体の大師像を表した絵である。

元三大師、命日が正月の三日であることで、元三大師の通称で親しまれています。

「おみくじ」の創始者です、慈恵大師が観音菩薩に祈念し「げもん」を授かり観音籤が、起源とされています。今では、仏教宗の寺院や神社で行われている「おみくじ」の創始者と言うことを、ご存知でしたか。

「天台宗」は、教主、久遠実成の釈迦如来、「開祖」天台智者大師、伝教大師 最澄、「主な経典」法華経、阿弥陀経、大日経、梵網菩薩戒経、
平安期(904)伝教大師最澄は、唐にわたり天台教学を授かり、帰国後、朝廷に認められ、比叡山を賜り天台宗を開き、その後、円仁、円珍により、密教として天台宗の形が、完成しました。
江戸時代には、名僧、天海が現れ江戸城や日光東照宮の建設で、風水や密教占星術を用いて、江戸曼荼羅を完成しました。

天台宗の教えは、法華一乗説・法華経を読呪したり、持っている者は、必ず成仏できるという、教えです。「円、密、禅、戒の四種相承」
天台宗は、日本の代表的仏教宗派の教えを一つになり天台宗を構成しています。


隅田川旧跡 梅柳山 隅田院 木母寺 梅若堂

2007-08-12 12:46:31 | Weblog
防災拠点建設事業の為現在の地に、移転されたとき、木造建築が消防法により、許可されなか為に防火ガラスの建物の中に安置することになり、現在はガラス越しですか見ることが出来ません。しかし保存を考えるには、良い条件ですが、味気なさも感じるところです。

梅若塚に供養の為念仏を唱える為の御堂です、貞元元年(平安中期・976年)層の忠円が梅若丸の墓所がを築き、翌年、念仏堂が築かれたと言われています、現在では、当時の規模と様式がどの様なものか、想像すら出来ないのですが、木母寺の起源なのです。

当時、京の都では、隅田川の情報は少なく遠くの地で別世界で有ったようです。京の都の社会状況に比べ、おおらかな環境ではと思わせます。隅田川の地形は、島が点在し水系が複雑に流れ広大な風景だったようです、隅田川の東岸は、下総の国、西岸は武蔵野国との国境が隅田川でした。このあたりは奥州街道の道筋があり旅人は、渡し舟で往来しました、重病の梅若丸が打ち棄てられたところが、この渡し場付近と言われています。西岸には、関屋の里と言う里が合ったようで、梅若丸最期を見取ったと言われる里人は、関谷の里人ではと考えられます。西岸は、砂利の原でそこに脚草が生えるようすで、広大な風景だったようです。

予断ですが浅草の語原は浅い砂利原に脚草が生える様をさして、浅草となずけたと言う説もあります。

梅若堂は規模と様式については、資料が少なく、推測の範囲ですが、念仏堂と言う目的から現在の規模と様式と思われます。梅若どうを見ると、奈良大野村、大野寺の念仏堂を、思いが重なります。

隅田川旧跡 梅柳山 隅田山 木母寺

2007-08-11 02:45:21 | Weblog
東武伊勢崎線鐘淵駅を下車、堤通りに出ると目の前に防災団地が防壁のように立ち並んでおります。団地の建物と隅田川の間に東白鬚公園があります。木母寺は、その公園の中にある。江戸時代は、江戸八景の一箇所で、訪れる人々が多いい寺でした。

梅若丸は、時の政権の降灰、世相乱れ、その中で仏教の布教をもって、人心の安定し福徳を授けなければならないと、多くの人々が危惧する中で、僧侶も乱れ、争い、動乱の状況で、梅若丸も犠牲者の一人です。また木母寺も同じく時代に翻弄されされてきました。現在は、歴史の影を感じさせぬ、静かな寺である。

掲載写真は、撮影が昭和初期で、当時の木母寺です。

貞元元年(976年平安中期)僧の忠円によって梅若丸の墓場が築かれ、翌年念仏堂が健立されたと言われております、梅若寺の起源とい言われています。文治五年(1189年鎌倉初期)源頼朝が奥州遠征の途中に参拝したと伝えられている。長禄三年(1459年室町中期)大田道灌が参拝し梅若塚を改修したといい、この頃、梅若寺が健立されたともいわれています。文明十七年(1485年室町中期)京都五山の僧で詩文のたくみな万里が、ここを訪れたことが彼の詩集「梅花無尽蔵」に述べられています。これは梅若塚を記したものとして、現存する最古の文献です。また翌十八年には、准三后の位にあった僧の道興も、ここを訪れたことが彼の紀行文「廻国雑記」に出ている。天正十八年(1590年桃山期)徳川家康が参拝し、梅柳山という山号を送られました、梅若伝説の中で里人が梅若丸の供養の為に塚を築き側に一本の柳の木を植えたとありますから、梅若丸の梅と植えられた柳の木の柳を取、梅柳山と号したといわれております。慶長六年(1601年江戸初期)徳川氏より五石の寺領を給せられました。ついで寛文十年(1670年家綱の時代)さらに二十万石を加増されています。慶長12年(1607年)前関白の近衛が参拝し、そのさい木母寺と改名されました。梅若丸の梅の字を木と母に分けて、木母寺となずけたとしたといわれています。寛永年間(17世紀中期家光の時代)当時の境内に隅田川御殿がたてられ、将軍その他の貴人がしばしば来る寺でした。延宝七年(1679年家綱の時代)上州高崎城主の安藤重治によって絵巻物「梅若権現御縁起」三巻が寄進されました。現存し寺宝です。宝永二年(1705年綱吉の時代)当時の堂舎配置のようすが石川流宣の「江戸案内巡見図鑑」詳しく示されました。元禄から享保年間(18世紀前半)梅若伝説に取材した一連の文芸作品「隅田川」の最盛期になり。木母寺は、この頃、貴人の寺からしだいの庶民の寺として、広く世人に親しまれるようになります。明治元年(1808年)維新と共に幕府の保護を失い廃寺となりました、寺の堂舎は取り除かれ跡地には梅若神社が創健されました。明治二十一年(1888年)仏寺復帰の願いが僧の光円によって実現され、翌22年、梅若神社が旧に復して梅若堂になりました。当時としては神社を再び仏寺とすることは、非常に困難な事業でこれを「明治中興」と称し増す。大正九年(1920年)東京府よって梅若塚は旧跡の指定をうけました、現在東京都旧跡の指定を受けています。昭和二十年(19945年)四月十三日米軍機の空襲を受けて本堂などを焼失するしかし、難を逃れた、唯一の念仏堂である梅若堂も四月十五日再度の空襲で損傷を受けました。昭和二十五年(1950年)元の位置に仮本堂を健立する。昭和二十七年には梅若堂を改修し梅若権現忌「梅若祭」が復活し、梅若忌は明治中興後は新暦四月十五日に行なわれております。
昭和五十一年(1976年)都市再開発法に基ずく防災拠点建設事業の実施により、現在の地に移転しました。なお現在跡地は梅若公園として残されいます。

東京都旧跡指定 梅柳山 隅田院 木母寺 梅若塚の由来

2007-08-11 02:42:55 | Weblog
悲劇の物語、梅若伝説の梅若丸は、今から千年程前京都北白川の吉田少将惟房卿の一子として生まれ、母は花御前で、梅若丸は父の死後七歳のとき比叡山月林寺に登り修学するのです、梅若丸は大変優れていると賞賛されましたゆえに、

山僧の争いに巻き込まれ、逃れる為下山、琵琶湖大津の浜・現在の滋賀県まで逃れました、そこで人買、信夫藤太にさらわれ梅若丸を奥州の国・現在の福島県に売ろうと長い旅をし武蔵の国と下総の国の境に流れる隅田川東岸に辿り着いたころで、梅若丸は元々からだが弱かったことと長旅の疲れで、重い病気にかかり動けなくなった梅若丸を無常にも隅田の川原に打ち棄ててしまいました、河原の柳の木に梅若丸の衣がからみ、その衣を見た関屋の里人が梅若丸を見つけ、手厚く介抱をしましたがかいなく、我が身の素姓語り、「尋ね来て 問わば答えよ 都鳥 隅田川原の 露と消えぬと」 という歌をのこし、貞元元年三月十五日に十二歳で帰らぬ人となってしまた、梅若丸を里人は、不愍に思いその地に塚を立て柳の木を植えて、供養したと言われています。

母、花御前は梅若丸の失踪を知り我が子を探しさまよい隅田川原にたどり着き渡しの船の上から里人の法要の姿を見、里人に尋ね我が子の死を知り出家し、妙亀と改め庵を立て梅若丸の供養をしたといわれています。
妙亀が鏡が池(現在は埋められて現存しませんが、台東区妙亀公園内に妙亀塚があります)に写る我が子梅若丸の姿を見て、身を投げ自ら命を絶ったとされています、その後鏡が池に妙亀塚が立てられました。

当時は、庶民の生活が苦しく、人身売買・人攫い横行していたようで、悲惨な社会情勢を背景にした、伝説です。

隅田山 多聞寺 付近 綾瀬川の堤跡に残る石段とレンガの蔵

2007-08-07 02:29:52 | Weblog
消えてしまった、橋の所からレンガの蔵を見ています、手前の石階段見えます。

隅田川七福神 隅田山吉祥院 多聞寺 本堂画像2

2007-08-07 02:25:17 | Weblog

隅田川七福神 隅田山吉祥院 多聞寺 本堂画像1

2007-08-07 02:23:19 | Weblog