鞦韆院落
北京で過ごすインディペンデント映画な日常
 

新年  


新年快乐!
春節ですね。

中国各地では昨夜からPM2.5の数値がずっと300を越えています。
あの人たちは、普段は数値が高いと文句を言うくせに、こういう時はむしろ自分から空気を汚すんですよね。
爆竹の煙なら体に悪くないとでも思っているんでしょうか。
一晩だけならまだしも、連日ずっとやってるし。
時代が変わっても、こういうのは変わらないですね。

ただ、彼らに言わすと年々春節らしさが無くなってきているそうです。
貧しかった昔みたいに、春節だから新しい服が着られるというようなこともないですからね。
この頃は海外で過ごす人も増えたし。

それから、春節と言えば餃子ですけど、今は年夜飯で食べない人も増えています。
山西や山東の友人も、昨夜は食べなかったと言ってました。
かつては北方なら絶対に餃子は外せなかったと思うんですが、食事も多様化しているようですね。
もともと餃子なんて滅多に食べられないという時代があったので、年夜飯に食べるというのは一種の贅沢でもあったわけで、今はもっと良い食べ物があるということなんでしょう。
経済発展とともに楽しみ方も変わるのです。

彼らには、早く爆竹に代わる楽しみも見つけて欲しいものです。

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報告  


中国にいるとツイッターが見られないので、普段は自分の映画祭のツイッターを開くこともほとんどありません。
日本に戻った時は、たまに告知を流したりもして、今日も開いていました。
ついでに、前回の映画祭のときに流したものを読み返したのですが、多くの人が映画祭について書いていて、それもとても良いことを書いてくれていて、ああ前回も面白かったなあと思いました。
自画自賛になるけど、いい作品も多かったし、充実してましたよね。


告知するタイミングをずっと考えていたのですが、ここで書くことにします。
今年は中国インディペンデント映画を開催しません。
本来なら2年に一度で、今年の年末ごろが第六回の開催時期にあたるわけですが、やらないことにします。
理由は、面白い映画が少ないから。
やっぱり納得のできる映画が集まらないと、苦労してまで開催する気が起きないし、観に来てくれる人たちにも申し訳ないですから。

良い作品が全く無いわけではないのです。
呉文光の『調査父親』はとても好きな作品だし、前回上映できなかった張賛波の『大路朝天』とか周浩の『大同』などもまたチャレンジしてみたいとは思います。
でも、特にフィクションで上映したいと思える作品が非常に少ないのです。
映画祭のプログラムを固める夏までにはまだ時間はあるので、これから出てくる可能性は大いにあります。
ただ、これから出てくる作品は、うちが日本プレミアを奪うわけにはいかないので、他の映画祭の結果を待たないといけないのです。
だから、やっぱり今年上映するのは難しい。

とりあえず今年はお休みする、ということにします。
次回については、時期が来たらまた考えるということで。

私も今年は個人的に生活を変えてみようと思っています。
どう変わるのかは、まだ分かりませんが。

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山航  


日本に戻って来ています。
昨日、山東省済南から飛んできました。

春節を前に、最近はチケット代が随分と上がっています。
以前はもう少し春節が近づいてから値上がりしていたのですが、だんだん前倒しされている気がします。
春節で海外へ出る人が増えましたからね。
特に日本はここ数年中国で人気の旅行先なので、高くなります。
あの春秋航空の上海ー茨城便でも片道4万円くらいします。

一番安い便を調べたら、山東航空が昨年8月から飛ばしている済南ー羽田便でした。
費用は850元ほど。
北京から飛んでいる便だと安くても2000元くらいするので、ダントツの安さです。
その代わり20時20分発で、羽田に着くのは深夜の1時ごろなので、もう終電もなく、非常に不便ではあります。
LCCみたいなものですね。
ただLCCではないので、荷物は20kgくらいは預かってもらえます。

北京から済南までは高速鉄道で約2時間、194元。
済南駅前から済南空港までバスが走っていて、約1時間で着きます。
昨日は悪天候のため、途中の高速道路が閉鎖されており、バスが出なかったので、乗り合いタクシー(50元)で行きました。
トータルで1100元ほどですから、やっぱり安い。

早めに北京を出て、午後に済南の友人と会い、夕方に空港へ移動しました。
私が2時間前くらいに空港の出発ロビーに着くと、国際便カウンターへ向かう扉が閉じられたままで、大勢がその前で待機していました。

済南の空港は小さく、国際線は1日数便しか飛んでいません。
山東省では、国際便は青島空港に集中しているのです。
だから、国際便の一角は普段扉が閉まっていて、フライトが近づくと職員たちが入っていって国際便の業務を行い、搭乗を終えると職員も持ち場を離れる、というやり方のようです。
いつも混んでる北京や上海と違い、イミグレも時間の余裕がたっぷりあるので、乗客への尋問も行われます。
前に並んでいた人は、「日本へ行く目的は?」「留学先の学校名は?」「専攻は?」など細かく聞かれていました。
日本人は何も聞かれません。

機体はB737-800。搭乗率は60%くらいでしょうか。
乗客ほぼ全員が中国人で、それも地元の団体ツアーが多いようです。
搭乗するなり客室乗務員が入国カードと税関申告書を配っていたのですが、客室乗務員は「申告する物がある人だけ書けばいいです」と言ってました。
本当は全員が書かないといけないのに、この人たちは知らないのでしょうか。
いつもとんぼ返りで、本人たちは書いたことが無いのかな。

彼女たちは乗客から日本との時差を聞かれ、他の乗務員もわからず、操縦室まで聞きに行ってました。
なんで? 8月から飛んでるんじゃないの?

夕食が出るものだと思っていたら、ビスケットしか配られませんでした。
国内便でももう少し何か出そうなものを……。

飲み物を何にするか聞かれたので、ビールはあるかと聞いたら、小さな声で「有」といいます。
まるで、他の乗客に知られたくないような感じ。
山東航空だから、もちろん青島ビールだろう、いやもしかしたら嶗山ビールかなと思ったら、出てきたのはなんと武漢のバドワイザー。
地元のこだわりとかないんですね。
しかも、客室乗務員が紙コップに注いでくれるのはいいんだけど、泡が溢れて大変なことになってました。
初めてビール注ぐの?というくらい。
ビールのない国内線ばかり乗ってるのか、国際便でもビールを頼む人がいないのか、不思議です。

それにしても山東航空の客室乗務員は背が高いです。
もともと中国の航空会社はどこも背が高いけど、ここは格別ですね。
さすが山東。

羽田には0時頃に到着しました。
予定より1時間も早いです。
フライト時間が2時間40分しかかからないなんて、北京よりだいぶ近いんですね。

イミグレに行くと、日本人用の窓口に係員がいませんでした。
深夜ってこんな感じ?
日本人の利用者がそんなにも少ないということでしょうか。
初めて外国人窓口に並びました。
それほど並ばなかったのでいいですが。

羽田から済南へ戻る便は深夜に飛んでいるようで、こちらも安いようです。
中国北部では数少ない格安便なので、済南に興味のある人なら、利用を考えてもいいかもしれませんよ。
特にオススメはしないけど。

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式典  


7日と8日は北京で大きなイベントがありました。

7日に行われたのは、栗憲庭電影基金10周年記念パーティー。
宋荘のレストランで行われたこのイベントには、100名以上のゲストが参加しました。
ゲストの多くは監督で、特に初期から基金の映画祭に参加していたベテランの監督が揃っていました。
胡傑、馮艶、季丹、徐童、章明、杜海濱、李紅旗、顧桃、徐辛、皮三、張賛波、叢豊、楊弋枢、楊瑾、皺雪平などなど。
また張献民や郝建、楊洋といった宋荘の映画祭でおなじみの人をはじめ、王小帥、楊超などあまり映画祭には来ていなかった人も顔を出していました。





遠く南京や深センなどからわざわざ訪れた人もたくさんいました。
こんなに映画人が宋荘に集まるのは何年ぶりでしょうか。
久しぶりのイベントでも人がこれだけ集まるというのは、みんな基金に想いがあるのでしょうね。

私は基金が設立して1年もたたないうちに事務所を訪れ、第2回の映画祭からは毎回参加していたので、かなり古いほうです。
2010年にはスタッフもやってたので、基金との関係は深いし、その時知り合った人も少なくありません。
ただ、私が基金を離れた11年からもう5年経っていて、いま10周年ということは今後は私が離れてからの期間のほうが長くなるわけです。
それでもパーティー参加者の殆どが知り合いなのは、最近あまり基金が活動をできていないために、新しい人たちはあまり増えていないからです。



パーティーでは特に催しもなく、ただ関係者や来賓が挨拶をし、食事をするだけでしたが、久しぶりに会う人も多く、同窓会のような感じで非常に楽しかったです。
20時頃には終わり、その後も宋荘の一元電影院などに移動して、深夜まで歓談して過ごしました。


翌、8日には中国独立影像展(CIFF)の授賞式が北京市内のアートスペースで開かれました。
CIFFはずっと南京で開かれていて、南京影展などと呼ばれてきましたが、今では南京政府からの圧力が強く、大学での開催も困難になっており、場所を北京に移しています。

中国で一番圧力が強いのは北京のはずで、その北京に移ってくるというのも変な話ですが、彼らは北京ではCIFFを名乗って活動しておらず、別な組織に名を借りて、先月から入選作品を少しずつ上映してきました。
ついにその上映も無事すべて終了したので、このタイミングで授賞式を開くことになったのです。

北京は他の都市と比べものにならないくらい映画の上映イベントも多いので、隠れ蓑がたくさんあるとも言えます。
また、監督や審査員をはじめ、主催者側の人も圧倒的に北京に住んでいる人が多いので、北京のほうが当然やりやすくなります。
どうせ映画祭の名称に南京という名は使われていないんだし、全国どこだって良いじゃないかというわけです。

私は主催者から授賞式の日時を知らされてはいましたが、行くつもりはありませんでした。
会場が宋荘から遠く、しかもスタートが夜からなので帰るバスもなくて、不便だからです。

当日私が昼から友人の家に呼ばれ、何人かで過ごしていたら、急に顧桃がやって来て、「南京影展の授賞式に行くぞ」と言います。
他の人たちは行く気がなくて断ったのですが、顧桃は誰かと約束でもしたのか、誰も行く人がいないことに焦っていて、私を意地でも連れて行こうとするので、車があるなら行っても構わないと言ってしまいました。

顧桃の隣人が車を出すことになり、我々はその車で会場まで行きました。
着くともう授賞式は最後の大賞を残すのみとなっていて、しかも大賞は「該当作品無し」でした。
他の賞を獲った作品もほとんど観ていないので知りません。監督も若い人らしく、名前も聞いたことがありませんでした。
私が授賞式に来る気がなかったのは、作品も監督もほとんど知らないからなのです。



香港とマカオの作品が何かの賞を獲っていたようです。
中国のインディペンデント映画祭で香港とマカオが賞を獲るというのも、時代が変わったなという感じがします。
唯一、ドキュメンタリー部門では私の知る李紅旗の『神経Ⅱ』が賞を獲っていて、好きな作品だったので良かったです。

かつては宋荘とCIFFの映画祭ではほとんどプログラムが被っていたのですが、最近は応募段階から毛色の違いが出てきているようで、上映作品も受賞作品もほとんど被りません。
宋荘がわりと批判性があって検閲を通りにくいような作品を好むとすれば、CIFFは検閲を通り得ないようなハードな作品は選ばず、特にフィクションでは若い監督の作品が多く選ばれています。
これは数年前から主催者のメンバーが若い世代に入れ替わったこととも関係があり、CIFFは運営側も監督も観客も、みな20代から30代前半にかけてばかりで、若い人がインディペンデント映画をやるというのはある意味で海外に似ているのですが、かつての中国独立電影とは明らかに変わってきています。
私は彼らとは世代が離れるばかりで、趣味も合わなくなってきているし、CIFFへの興味は薄れているというのが本当のところです。
正直、10年くらい前に観たような、面白いなあと感心させられるような作品はほとんどありません。
どれも安っぽい商業映画みたいで、見ごたえがないのです。
そういう点では、宋荘も面白い作品が減ってきたとは言え、比較的趣味は合います。



授賞式には数百人が来ており、やはりほとんどは若者でした。
宋荘のパーティーが40代中心だとすれば、こちらは20代中心といった感じ。
女性も着飾って厚化粧をしている人が多く、宋荘のような普段着とは全然違います。
知り合いももちろんいたけど、8割以上は知らない人でした。
2011年のCIFFなら、少なくとも半分は知ってる人だったんですけどね。
ノリも趣味も違うので、あんまり私が来るところじゃない気がしました。

もちろん、CIFFが悪いとは言いません。
若い人の登竜門は必要だし、それもインディペンデント映画祭の役割ですから。
もともと中国のいくつかの独立映画祭は似すぎていたので、個性が出て多様化していけば映画も豊かになるでしょう。
それぞれが発展していくことに期待したいものです。

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昆明  


昆明に来ました。
マンダレーから昆明へ東方航空が飛んでいて、北京まで通しで買うと安かったので、昆明経由にしたのです。
久しぶりに昆明も見てみたかったので、昆明で1泊することにしました。

前回ここに来たのは09年の雲之南ですから、もう8年近くになります。
あの頃は空港が街の近くにあって便利だったのに、今は新しい大きな空港が遠くに出来てるんですね。
高速鉄道まで通っているとか。
昆明も変わったものです。

私は99年の1月に始めて雲南に来て以降、わりと頻繁に昆明に来ていました。
旅行でも度々訪れていたし、サラリーマン時代は出張でも何度か来て、1ヶ月昆明飯店に滞在したこともありました。
当時はJASが関空から直行便を出していて、客室乗務員も昆明飯店に泊まっていました。

そんなわけで、昆明はかなり馴染みの街でした。
ここは本当に気候が良くて、居心地の良いところです。
それが、気がつけば8年も来ておらず、久しぶりに来たら風景も変わっているし、道もよくわかりません。
中国はどこもそうだとわかっていても、少しショックです。

雲南は旅するべきところが多く、私も独龍江や梅里雪山へ行ったり、ラオスから入って来たり、いろんな過酷な旅もしました。
だから毎回昆明に着くと、すごくホッとするのです。
ここで英気を養ったり、必要な物を買ったり、昔はフィルムの現像をしたりもしました。
旅人にとっては、そういう街でした。

90年代は、昆湖飯店という宿が外国人旅行者に人気があって、私もよく使っていました。
当時はユースホステルなんか無かったですから。
でも今は昆明にも魅力的なユースホステルができて、外国人がたくさん集まっています。
私も今回宿を探していて、安くて外国人が泊まれる宿が見つからず、ユースホステルにしました。
とはいえ、私の部屋はバスルーム付きの個室ですけど。

ここまで歩いてくる途中、急にかつて見た懐かしい風景が出てきて、思わず立ち止まってしまいました。
昔あんなに好きでよく来ていた昆明が突然姿を現したために、いろんな記憶がフラッシュバックしました。
思い返せば、色んな人と出会い、ともに旅をした雲南です。
忘れていた想い出もたくさんありました。

ちょっと感傷に浸りながら、ユースホステルに着きました。
レセプションの壁には、雲南各地の写真や情報が貼ってあります。
当時もこんな宿があったら便利だったろうなと思う反面、麗江を始め、変に観光開発される前に雲南を周れることができて良かったなとも思います。
未開発で少数民族の自然な生活が見られるところが、雲南の大きな魅力でしたから。

ユースホステルにはバーが併設されていて、とても賑わっていました。
中に入り、シャングリラビールというのを飲みながら、本棚を眺めていたら、懐かしい本がありました。
2003年に発売された、『中国徒歩穿越』という本です。
当時は中国の若者の間で旅行がブームになってきていて、『藏地牛皮書』が流行ったり、雑誌『中国国家地理』が人気を博したりしていた時期で、この『中国徒歩穿越』はアウトドアな徒歩旅行の手引書として、お勧めルートを紹介したりしていました。
ただ、ガイドブックと言うにはお粗末すぎるほど情報が足りず、ネットも発達していなかった当時では、こんな本を鵜呑みにしたら遭難必至でした。
でも私はこの本を手に、実際に独龍江に行ってしまったりしたので、影響は受けています。
その後、引っ越しで捨ててしまい、10年以上見ていなかったので、改めて見直して「やっぱりこの本使えないな」と思いながら、でもとても魅力的に書いてあって(当時はまだ未開な場所がたくさんあって、旅も面白かったのです)、ワクワク感を思い出しました。

さらに本棚を眺めていたら、96年版の『地球の歩き方 中国』がありました。
私が始めて中国に来た時に使っていたものと同じです。
きっと私と同年代の人が置いていったんでしょうね。
載ってる写真も古くて懐かしいし、都市ごとの地図には「新華書店」とか「中国国際旅行社」「民航售票処」なんて表記があるし、外国人入場料◯◯元とか、宿の紹介で大学の招待所が書いてあったり、もう懐かしくてたまりません。
今では考えられないほど道路地図が簡素で、凱里なんて宿も全然なくて、本当に、当時の中国ってこんなでしたよね。
旅人にとって、情報といえばこうしたガイドブックと、ほうぼうに置いてある旅ノートくらいでした。

今回ミャンマーを旅して感じたのは、そういう旅の不便さや情報の少なさでした。
ネットで宿が予約できる時代になっても、行ってみると「予約なんて知らない」とか「料金はそんな額じゃない」とか言われ、ネットが遅くて使い物にならない所も多いし、英語が通じない地域もある。
多くの人が行く観光地は違うけど、そうでない地域はバスの発車時刻もわからず、行ってみないと次の目的地にいけるかどうかもわからない、そもそも外国人が入れないところがたくさんある。
なんだか90年代の中国を旅しているような、ちょっと懐かしい旅でした。
街の活気や人々の反応も当時の中国に似ていて、ああ、ミャンマーはこれから変化するんだろうな、と痛感させられました。
すごく面白い旅になったと思います。

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臘戌  


ラショーに来ました。
ここはシャン州第二の都市で、鉄道も空港もあり、人口は30万人。
昔から、中国へ行く人や物がかならず通過する場所であり、交易の街として栄えてきました。

wikiによれば、人口の半分が中華系の人々だそうです。
中国語教育を行っている学校も10校ほどあると書いてありますね。
たしかに街には中国語の看板が多く、中国語を話している人もたくさんいます。
ホテルでは鳳凰電視台が観られるし、フロントの人もシャン族なのに中国語が通じるし、商店や飲食店でも中国語ができる人が多いです。
中国語できない人でも、私がビルマ語がわからないと見ると、近所の中華系の人を連れてきて通訳させたりしています。
あと、タナカを顔に塗ってる人が、他の地方より少ない気がします。
本当に、ミャンマーと中国の中間みたいなところです。

ここへ来る時に乗ったシェアタクシーも、私以外3人の客のうち2人が華僑でした。
地元の同士が話す中国語は、北方系方言で聞き取れる単語も多いものの、ぜんぜん聞いたことのないアクセントでした。
雲南方言より四川方言に近い印象です。
きっと、地元の言語のアクセントが混じっているのでしょうね。


シャン州に住む中華系の人々は、とても複雑です。
もともと、何百年も前から中緬国境付近には漢民族が住んでいて、この人たちはミャンマーでは華僑ではなく少数民族のコーカン族とされています。
シャン州のあたりは他にもシャン族(中国のタイ族と同族)、ワ族、カチン族(ジンポー族)など少数民族が多く、ビルマ族の支配が緩かったこともあり、漢民族も独自の力をもっていたようです。

また、近代になってミャンマーに入ってきた華僑もいて、その人たちはコーカン族とは違い、主にヤンゴンなどの都市部で商売をしていました。
ただ、60年代になってビルマが計画経済を行うようになると圧力を受け、政府の力の及んでいないシャン州に移ってきた人が多くいました。
その中には、ビルマ共産党の支持者が多く、彼らはその後、ミャンマー民族民主同盟軍という武装組織を作ります。
これが、今でもシャン州で勢力を持っている反政府組織です。
彼らの資金源はケシ栽培でした。

一方、49年に中国から国民党の残党がビルマに逃げてきました。
その人たちは中共との闘争を継続すべく、シャン族の独立を助けるという名目でこの辺りを軍事拠点にしました。
中共の弱体化を狙うCIAも彼らに協力し、武器提供や阿片貿易を手助けし、蒋介石も台湾から増員兵力を送ったりしました。
ビルマ政府はときに中国軍と手を組み、彼らと交戦したりしています。
また、彼らは阿片でビルマ共産党と利権を争うことになり、漢民族同士でビルマ版国共内戦をやったりもしています。
この勢力はやがて消滅していきますが、彼らは家族を作り、この地域に住み着きます。
一部は台湾へ移住していきました。

また最近は、大陸から商売を目的にした中国人が多くやって来ていて、住み着いています。
このように、いろんな時代、いろんな立場で入ってきた中華系の人々が、入り混じって暮らしているのがシャン州なのです。

中華系以外にもビルマ族やインド系の人々もいて、仏教徒が中心ですがイスラム教徒もおり、街の中心にはモスクがあります。
仏教徒とイスラム教徒の対立が激しいミャンマーですから、ラショーも例外でなく、13年は暴動が起こって放火や殺人もありました。
血の気の多い人たちです。

以前、趙徳胤(Midi Z)のことはこのブログでも触れましたが、彼も台湾へ移住した中華系ミャンマー人です。
彼の故郷がここラショーで、ここの中国語学校で学んだそうです。
『帰来的人』はなかなか印象的で、私にとっては始めて映画でミャンマーを観た作品でした。
まさか数年後にその舞台に来るとは思ってもいませんでしたが。
発展に伴い、ラショーの街も映画の当時とは変わっているようです。
あと数年もしたら、全然違ったものになっているかもしれませんね。

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今年も残りわずかですね。
ミャンマーは暑い日が続いております。

マンダレーという古都にやって来ました。
ここは地図でいうとミャンマーの中央あたりに位置します。
中国に近くなってきたせいか、南のほうの都市に比べ、中国から商売で来ている人や、華僑の割合が高い気がします。
店の看板などにも中国語が当たり前のように書かれているし、店先で春節の飾り物などが売られていたりします。
ここから更に雲南側へ進むと、もっと中国的要素が増してくるのでしょう。

実は、マンダレーに来るまでは、中国へ陸路でぬける期待を持ち続けていました。
旅行会社に頼めば、ガイドつきでボーダーまで行くツアーを組んでくれるのではないかと思っていたのです。
しかし、どの旅行会社に聞いても、ボーダーの町へは行けないというし、ボーダーへの車を手配している華僑の店に聞いても、同じボーダーから入国した人しか出国させてくれないと言うので、諦めました。
とりあえず、外国人が行ける中では最も中国寄りにある、ラショーという町まで行く予定です。

外国人が行けない理由は、ここより北や東にあるカチン州やシャン州に独立紛争があり、治安に不安があるからです。
今年も、トレッキング中のドイツ人が地雷を踏んで負傷した事故がありました。
“地雷を踏む”なんて比喩では言うけど、本当に踏んだらシャレになりません。
日本の外務省も、ラショーより先はレベル2の「不要不急の渡航中止」に指定しています。

雲南側でも、近年ミャンマー人兵士が越境して事件を起こしており、中国との関係は良好とはいい難いのですが、それでも中国人はミャンマーにたくさん入っていて、国際協力として大きな建設事業なども進めています。
マンダレーの空港も中国が援助して作られているし、マンダレーには中国資本がかなり入っているようです。


ラショーへ行くバスのチケットを買おうと、ホテルのフロントに尋ねました。
ミャンマーでは、バスターミナルが市街地から空港並みに離れており、バスチケットは代理店で買うのが普通です。
ホテルでもチケットを扱っていて、他の代理店と同価格だし、ホテルまでバスが来てくれたりもするので、よくホテルで買います。

ラショーまでのバスは、夕方に出発するバス(6700チャット)しかないと言います。
それだとラショーに着くのが深夜2時頃になってしまうので、そこからまたホテルまでタクシーを拾ったりするのが大変です。
仕方なくホテルでの手配はやめて、他の旅行会社を当たることにしました。

歩いてすぐに目に入ったのが、中国語で地名を羅列している看板を出した、小さな代理店。
経営者は華僑のオバサンで、中国語ができます。
私がラショーまで行きたいというと、朝のミニバスが15000チャットだと言います。
ちょっと高いので、他を探すことにしました。

しばらく歩くと、今度は中国語が書かれた旅行会社がありました。
中に入ると、華僑と思しき従業員が4人くらいいて、「你好」と声をかけてきます。
ラショーまでのバスを探していると言うと、オーナーらしき人が出てきて、ミニバスは後部座席なら13000チャット、助手席だと15000チャットだと言います。
普通の安いバスは、やはり夕方にしか出ていないとのこと。
ガイドブックには朝にバスがあるとも書いてあるのですが、どちらが正しいのかはわかりません。
数軒尋ねてこの結果なら、きっとこれが相場なのでしょう。
ということで、ミニバスの後部座席で行くと告げると、オーナーは電話番号を紙に書いて渡してきました。
チケットが欲しけりゃここに電話しろ、という意味のようです。
え?ここで買うんじゃないの?
私が携帯で電話してみると、女の人がミャンマー語で出てきました。そりゃあそうです。
携帯をオーナーに渡すと、彼は相手に中国語で話し始めました。
「ラショーまで行きたいという人が来てるんだけど、後部座席いくら?13000でしょ?泊まってるホテルはウチのそばだって。あ、さっき同じ人が来てたの?へえ、じゃあ明日の朝ホテルまで行ってやって。じゃあね」

どうやら、ここは代理店としての業務はやってなくて、そういう客が来たらさっきの店の人に電話して紹介しているだけのようです。
「ユダヤ人やインド人と同じで、外国では華僑同士で助け合うんだ。業務提携とかはしてないから、うちの儲けにはならないけど」とのこと。
支払いも、この旅行会社ではなく、明日来る運転手に払えとのこと。
おかげで少し安くなりました。
車が来る時刻は、7時から8時くらいだそうです。すごく適当。

この店、従業員は多いのにすごく暇みたいで、他に客も来ず、オーナーは世間話を始めました。
中国のどこ出身かと聞くので、私が日本人だと言うとすごく驚いて、微信を交換しようと言い出しました。

オーナー曰く、この店は中国人旅行者を対象にした旅行業務だけでなく、通訳や、中国人のミャンマー投資コンサル、不法滞在中国人への法的サービスなども受け付けているそうです。
「北京は大企業が幅をきかせているけど、ミャンマーはこれからだから可能性がある。ちょっと能力があれば中国よりも儲けられる」と言います。
確かにそうでしょうね。
ただ、そうやって華僑をパイプに中国からどっと人や資本がやって来て、不器用なミャンマー人との間に摩擦が生まれたりするんでしょうけど。

オーナーは、来週から“マンダレー1日観光ツアー”も始めると言ってました。
ミャンマーでは、そういうサービスをしている旅行会社も少ないほど、旅行業もまだまだこれからなのです。
バス会社だって、日本の「千葉交通」とかのロゴが描かれたままのバスで走っていて、全然イメージとかを気にしていません。
これから伸びしろは十分にあるわけです。
果たして数年後にはどうなっているのでしょう。

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まだミャンマーです。

西部にある、ミャウーという古都へ行ってきました。
ここはアクセスが悪いこともあり、観光客がさほど多くなく、そのぶん宿泊や食事には困るところがあるものの、ローカルな気分を存分に味わえます。
自転車に乗っていると、子どもたちが遠くから「バイバイ」と手を振ってきます。
こういうのが旅の良さを左右する大事な要素ですよね。
でも、なぜいきなりバイバイ?
(バイバイではなく、地元の挨拶であるダーダーと言っているみたいです)

アクセスがどれだけ悪いかというと、観光客は最近まで陸路で来ることが許されず、近くの町の空港まで国内線で移動したあと、そこから数時間のフェリーで来なければなりませんでした。
最近は、バスでヤンゴンなどから来ることもできるようになりました。
ただし、ヤンゴンから26時間かかります。
しかも非常に悪路で、ぜんぜん眠れないし、酔って吐く人続出です。
時間と体力に余裕のある人でなければ来られませんね。

ミャンマーには、高速道路もなければトンネルもありません。
ほとんどの道路は一車線で、バスがすれ違うのも大変。
川も多いのに、一車線分の幅しかない、非常に簡素な橋ばかりです。
ミャウーにアクセスしにくいのは、こうした交通事情があります。
西部へ行くには、多くの山や川を越えなければならないからです。

ヤンゴンからバスに乗り、深夜にミャウーまであと数十キロというところで、バスが橋のたもとに停まりました。
他にも数十台のバスやトラックが来て、数時間停まったままです。
やがて朝が来たのでバスの外に出てみたら、橋は通行止めになっていました。
明るくなってから、近くで渡し船が動き出し、バスはその船に乗って対岸まで行きました。

ミャウーに着いてから聞いてみると、橋は6ヶ月前から壊れたままだそうです。
この橋は、中国の援助で最近作られたもの。
まったく、ろくな仕事をしませんね。
この話をした現地の人は、「中国なんてダメだ。中国製バイクだってすぐ壊れる」と文句を言ってました。

ミャウーでは、昼食中に中国人技術者らしき若者2人も目撃しました。
まだ30才になるかどうかという人たちが、施工について現地の人にあれこれ指示を出しています。
なるほど、中国政府は国際援助としてこうした若い人を派遣しているのですね。
経験が浅ければ、失敗もあるはず。

ところで、ミャウーでは日本や中国からの旅行者には会いませんでした。
ここに来るのはヨーロッパ人が多いようです。
ホテルの人が言うには、今年になって旅行者が減ったそうです。
ミャウーのあるラカイン州は、イスラム系のロヒンギャがいるところで、最近暴動などが起きて国際的なニュースにもなったため、それを警戒してるのだろうとのこと。
ミャウーの人たちは仏教徒なので、みんなイスラムのことを悪く言ってました。

私の泊まった宿は4人部屋だったのに、初日は私一人だけで、2日目になって香港人がひとり来ました。
彼も「中国人客はこんなところには来ないだろうね」と言ってました。
確かに中国人はまだ多くが団体ツアーだし、遊び方が少し違うんですよね。
ヤンゴンやバガンは中国人が多いんですが。

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仰光  


ヤンゴンにおります。

バンコクからの移動は予定よりハードでした。
タイ時間の早朝5時半にボーダーを越えたところ、イミグレに作業服のような服装で帽子を被った男にイミグレはこっちだと案内され、イミグレ通過後にその男がまた来て「どこへ行くんだ」というので、ヤンゴンだと伝えたところ、「じゃあ、こっちへ来い」と先導するので、言われるままについていったのですが、それが間違いの始まりでした。
まさかボーダーの中にまで、質の悪い客引きがいるなんて。
政府公認かよ。

結果から言いますと、通常よりボロいバスに高めの値段で乗せられたのです。
金額のことはいいのです。どうせ数百円程度の違いだし。
問題は、このボロバスが途中で故障してしまい、ヤンゴンのバスターミナルに12時過ぎに着いたことです。
しかも、そこから市街地まではタクシーで30分以上かかるのです。
そんな時間に見知らぬ街でタクシー交渉とか、不安で仕方ありません。

幸い、バスで一緒だったミャンマーギャル(ガングロ茶髪)が英語を少し話せて、ホテルに到着が遅れると電話してくれたり、私の乗るタクシーの値段交渉までしてくれて、なんとかたどり着いたのでした。
彼女がいなかったらと思うと、恐ろしいです。

みなさん、ミャンマーのイミグレで男に声をかけられたら、詐欺だと思って逃げましょう。
まだ街には誰もいないけど、数時間待てば他のバス会社の人たちも現れるので、良い車を選ぶことができますよ。


さて、ヤンゴンはなかなかの都会です。
中国人観光客もたくさんいます。
例によって、どこを歩いていても「ニイハオ」と声をかけられます。

華人経営の飲食店も多く、そうと知らずに店に入ると、メニューに中国語が書かれていたりします。
ということは、中国語もそこそこ通じるのでしょうかね。
ミャンマー北部へ行くと、かなり中国から人や物が入ってきているらしいので、見てみようと思います。

それにしても、思い立っていきなり来てしまったもので、ミャンマー旅行について何の情報も持ち合わせていません。
イタリアやモンゴルへ行ったときも、ガイドブックなどは持っていかなかったけど、それなりに事前に情報は集めていたし、現地に着いてからネットで調べることもできたのです。
第一、かなり旅行がしやすい国だったから、外国人が路頭に迷うこともありません。

ところがミャンマーはまだ外国人が入れないところがあったり、都市間の移動がすごくわかりにくかったりします。
そして、ネットが極めて遅いのです。
宿でネットをしても、ブラウザでページを閲覧するのにえらく時間がかかります。
こんな調子だから、地方ではネットで情報を集めるなんて無理っぽいです。
あー、ガイドブック欲しい。

ということで、日本人経営の宿に移ってきました。
案の定、日本のガイドブックが置いてあり、それを写真に撮ってパソコンに保存しました。
これで少しは足しになりそうです。

中国旅行ではないので、このブログに旅行記を書くことはないですが、中国関連の話題はとおきおり触れていこうと思います。
もっとも、ネット環境が良ければの話ですが。

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曼谷  


バンコクに来ています。
先日仕事で日本に戻っており、12日に北京に戻ったのですが、東京にいた後で北京に行くと空気の悪さがあまりに歴然としていて、本当に嫌になりました。
どこかへ逃げ出そうと地図を眺めていたら、まだミャンマーに行っていないことに気づき、タイ経由で行ってみようと、いきなり当日のチケットを買って飛んできました。

私はこれまで、中国から車や列車で国境を越えて、ベトナム、ラオス、ネパール、パキスタン、モンゴルと周辺国を訪ねてきました。
国境にも色々あるし、渡った後で風景がどんどん変わっていく様も面白いです。
ミャンマーは雲南省と接していて、通り抜けできるボーダーもあります。
ただ、第三国の人が簡単に渡ることはできず、許可を取るのは大変らしいので、今回は陸路での渡航は諦めました。

ヤンゴンへは北京から直行便も飛んでいて、チケットもさほど高額ではありません。
ただ、どうせなら田舎のほうを見てみたいし、バンコクでミャンマービザを取ると安いという情報もあったので、タイから陸路で入ることにしました。

北京からバンコクへは、武漢経由でタイ・エアアジアに乗りました。
武漢の出国スタンプがちょっと欲しかったので。
しかし荷物を預ける料金などを含めると北京からタイ航空に乗るより高くついてしまい、やや残念な結果に。
しかも、この便は中国人ツアー客で満席になっていて、バンコクの空港についたら更に多くの中国人がいて、イミグレが長蛇の列。
バンコクに来る中国人て、ものすごい数なんですね。

タイに来るのは12年ぶりです。
何をするにも便利な都会ですから、空港からバスや地下鉄を乗り継いで、ネットで予約していたゲストハウスにすんなり到着。
近くのショッピングモールにあるフードコートで、パッタイやスムージーを買って食べました。
Facebookにその食べ物の写真を載せたら、かつて現象工作室で働いていた友人からメッセージが入りました。
なんと、私が泊まっているゲストハウスのすぐそばに住んでいるというのです。
まさかそんな近くに知り合いがいるとは思わなかったので、喜んで会いに行きました。

タイは中国に比べて物価も安いし、生活も便利なので、最近はタイでマションを購入する中国人が増えているそうです。
彼はマンションを買ったわけではありませんが、知り合いが買った物件をAirbnbなどで貸す仕事をしながら、語学学校でタイ語を学んでいるのだとか。
食べ物は美味いし、寒くもならないし、暮らすには良いところですよね。
一緒に屋台料理を食べながら、私も引っ越して来たくなりました。

翌日はミャンマー大使館へ出向いて、ビザ申請をしに行きました。
今月から申請料が変わったらしく、翌日発行でなんと2800バーツも取られました。
ネットで調べていた料金の倍以上です。
まさかボッタクられているわけなじゃいと思うんですが。
これなら北京の大使館より高いし、ネット申請のE-VISAより高いです。
うーん、失敗した。
しかし今からネット申請していたら時間が掛かるし、やむを得ず頼むことに。
いきなり予想外の出費で、かなり凹みました。

ミャンマーへはバンコクから夜行バスに乗って国境の町へ行き、朝にボーダーを越えてから、また12時間以上バスに乗ってヤンゴン郊外のバスターミナルまで行くそうです。
かなりハードな旅になりそう。

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