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西国巡礼

2008年08月06日 | 【寺社と坊主の話】

 起源は、徳道上人が開き、花山法皇が再興したと言うのが定説です。

 徳道上人は、長谷寺の開祖道明上人の弟子で長谷寺の発展に貢献した高僧です。晩年、仮死状態になった折、閻魔大王に会い三十三の宝印を授かり観音霊場の創始を行ったとあります。法起菩薩とまで言われるようになった死にかけの老人が、実際に西国巡礼33ヶ寺を巡ったとは思えない。参考となる文献があって、弟子達の国の話を聞き、それをもとに机上の巡礼を作成したと考えるのが自然です。

 一方、花山法皇ですが、冷泉天皇の長子として生まれ、若干17歳で藤原義懐の権勢の元で円融天皇から帝位を譲られた。19歳の折、最愛の藤原師輔の孫娘弘徽殿女御の死をきっかけに義懐の政敵である藤原兼家により無理矢理退位させられ、元慶寺で剃髪し法皇となった。その後、藤原兼家は摂政となり、藤原兼家の孫が一条天皇となった。天皇家よりも濃い血と言われる藤原氏の政権争いに巻き込まれ、時代に翻弄された若き天皇だったわけです。
 法皇となって以後、権力闘争に巻き込まれることもなく、西国三十三か所の再興という文化に貢献したことを考えるとむしろ幸せな人生を歩まれたのではないかと思います。花山法皇の晩年、花山院で過ごし、使えていた女官達が花山法皇を慕い尼寺を建てて住んだほど愛され慕われた人柄だったようです。

 さて、本論になります。法皇が、徳道上人が埋めたあの宝印を中山寺から掘り起こして、性空上人(書写山)、仏眼上人(長谷寺)、弁光上人(中山寺)を伴って熊野那智山を訪れ1番としたとありますが、では何故この時点で那智を訪れたかが分からない。はじめから、那智が1番と言うのがあってのことと思うのが当然のところです。では何故、那智が1番なのか、徳道上人が決めた長谷寺1番を否定する意味も理由もない。花山法皇も、徳道上人同様に長谷寺を1番として机上で決めたと考えた方が自然です。書写山も長谷寺も中山寺も花山院に近く、私の想像ですが、法皇と3人の高僧が花山院に集まって決めたと思われます。となると、上記は後説の可能性が高くなります。
 長谷寺1番を那智1番とした時期は、熊野詣が盛んになった後の時代になります。徳道上人や花山法皇が構想再興した西国巡礼と現在の巡礼とは、順番も寺も異なるものと考るのが自然です。となると、2人のことは忘れた方が良いと結論します。

 平安時代に熊野信仰が盛んに行われました。白河上皇の熊野詣が1090年で、同時期に西国巡礼記が園城寺(三井寺)の僧行尊により書かれているそうです。その順番は分かりませんが、1番長谷寺、33番三室戸寺だそうです。その後、覚忠が巡礼したときは、1番那智、33番三室戸寺だったそうで熊野信仰と結びついたようです。実際、1番那智と2番紀三井寺との間は、極端に長い距離が開いています。那智が後から付け加えられたことが分かります。更に、このときの寺院は、現在の寺院と同じだと言います。西国巡礼が変化してきて落ち着いたことが伺えます。

 では、いつごろから現在のような那智で始まり、岐阜で終わる順番で西国巡礼が行われるようになったか。それは、お伊勢参りと合体したとすると説が自然です。つまり、江戸から見た西国巡礼であって、西国の人のための西国巡礼ではないことを意味しています。日本最古の観光ガイドブックと言う説です。お伊勢参りをした後、熊野詣をして那智の滝を見て、西国巡礼を始め紀州・河内・奈良とまわり大仏を見る。京の都を見て、摂津を通り、姫路城まで足を延ばす。更に、日本三景の天橋立を見て帰路へ。途中、琵琶湖を渡り関ヶ原を見て谷汲山で終了し江戸へ戻る。金銭に余裕のある者は、中山道を上がり信濃の善光寺と北向観音まで足を延ばし江戸へ戻る。どう見ても、東国から見た西国巡礼観光ガイドです。

 「西国巡礼は、覚忠(1118-1177)が巡礼した頃に確立し、お伊勢参りのブームの中で東国から見た西国巡礼へと編成し直され観光と一体化した。」が私の結論です。

 


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