「――その中学時代の“出会い”を経て……それからメンバーの皆さんとの固い友情で結ばれた日々が始まった、っていうカンジですか?」
レコーダー越しにそう聞いてきたインタビュアーの女性を見つめながら、僕は「そんなハズないじゃないですか」と即答し、苦笑交じりの返答を返した。
「昔の僕は、どこまでも素直じゃなかったですから。“友情”なんてモノ、そう易々と認めてたまるか、なんて思ってたんでしょうかね。――でも、それが何だかんだと今日まで続いているのは……そんな素直じゃなかった僕を、皆が性懲りもなく受け入れ続けてくれたから……だから自然に、時間が経つにつれ“友情”ってモノになっていってくれたんでしょうね」
…などと、表向き、口ではしおらしいことを言ってはみるけれど。
しかし実際のところは。――何だかんだと素直じゃない僕が逆らおうとする都度、ことあるごとに例の“賭け”を持ち出され、まるで“切り札”の如く『あの時オマエ負けただろーが』とグウの音も出ないようにガツガツやりこめられては逃げ道を塞がれ、結局のとこ逃げるに逃げられなくなって、…っていうことの積み重ねで築かれた関係、でしかないんだけど。
でも実際、皆がそこまでしてくれなきゃ、後からコッソリ後悔するハメとなったことも事実、だったろうと思う。
素直になれない僕のことを、皆にはシッカリ解られてた。――見抜かれてたんだ、最初から。
誘わるままイヤイヤ一緒に居るような素振りで、でも内心では、連中と共に居られることを心から喜んでいた……そんな天の邪鬼な僕のことを。
だから、わざわざ僕の“逃げ道”を塞いでくれた。
わざと僕の弱みを握ってるような素振りを、し続けてくれた。
殊更に言葉に出して言わなくても……そうやって確実に、彼らは僕を“友人”として受け入れ続けてきてくれた―――。
「メンバーの皆には感謝してますよ、本当に」
そう告げて笑うと、つられたように目の前の女性も微かな笑みを浮かべた。
「それで…? その後、どうなったんですピアノの方は?」
「ああ、やめました」
改めて問われ、そういともアッサリ返した僕の回答で。
それが想定外だったのか、「え!? やめちゃったんですか!?」と、即座に彼女が目を剥いて食い下がってくる。
「というか、そんなに簡単にやめられたんですか!?」
「イエ、それはモチロン簡単じゃありませんでしたけど……だからまず、その参加する予定だったコンクールをボイコットしたんです」
「は!? ボ、ボイコット…ですか……!?」
「ええ、そうです。当日になって逃げたんです、会場から」
「それはそれは……」
「もう、母と先生が、僕のことを血相変えて探し回って……それをコッソリ物陰から見て楽しんでました」
「――意外に性格悪いんですね……」
目の前からポソリと呟かれたその言葉で、思わず「あははっ、まあそうですね!」と、声を立てて笑ってしまった。
断っておくが、コンクールの件は……最初からボイコットしようと狙ってたワケじゃない。
『もうコンクールには出たくない』『ピアノは弾きたくない』と何度も何度も訴えたものの、全くもって聞き入れてもらえなかったから……それで、いわば“最後の手段”に訴えることにしたまでだ。
まだ中学生だった僕が、当時の僕なりに精一杯考えて出した、それは“答え”だったのだ。
全身全霊で母に解らせたかった。…解ってもらいたかった。
もう他人と優劣を競うピアノなんて弾きたくない、と云うことを―――。
そう…今でも僕は、ハッキリと思い出せる。――あの当時のこと全てを。
中学時代のあの時あの場所で、ああやって彼らに出会ったからこそ……僕は、音楽を楽しむ、ということを自然に身体で覚えることが出来た。
それから何年かが過ぎ、その分だけ年を重ねてきたけれど。
ピアノを弾くことを、あんなにも楽しいと思えた時代なんて、他に無い。
ピアノを弾く楽しみを…それが自身の喜びなのだと、初めて知った。
ピアノは誰かと共に奏でるから楽しいのだと、知ることが出来た。
今まで母に命じられるまま奏でてきた僕のピアノは、その瞬間に色褪せた。
それを知ってしまって後、改めてピアノに1人で向かってみて。――何故だろう…、ふいに涙が出るくらいの淋しさが押し寄せてきた。
今まで全く知らなかった…常に傍らに在ったというのに気付きもしなかった感情。
自分だけしか存在し得ない音楽の世界にずっと身を置いていたことを、理解してしまったと同時に、そんな感情が存在していたことにも、僕は気付かざるを得なくなってしまって。
どうしても居た堪れなくなってしまった。1人でピアノに向かっていることが。
誰かのために、ではなく、自分のために。――だから僕は、ピアノを捨てた。
「案の定、それからは母と大ゲンカの毎日になりましたね。やっぱり母は、僕に過剰な期待をかけていたから……どうあっても、“クラシックピアノを弾かない僕”を認めてくれようとはしませんでした。『ロックなんて、そんな低俗な音楽』って、何度ケナされたか分かりません」
「でも、竹内さんは……中学校を卒業されてからは、現在在学されてる音楽大学の、その付属高校のピアノ科に進学されてますよね?」
目の前に座るインタビュアーの手の中には、僕のこれまでの経歴が書かれた書面。
それを見下ろし俯いていた顔を上げて、やっぱりピアノやめられなかったんでしょ? と、無言のうちに問いかけてくる彼女の視線を受け止めながら。
「ええ、そうですね」と、努めて穏やかに、僕は返す。
「それが母の出した“条件”だったんですよ」
「条件…ですか? それはどんな……」
「つまり、僕が“ピアノの練習もせずバンド活動だけにウツツを抜かしていてもいい”っていう、そのための」
最終的に母は、それを僕に飲ませることで折れたのだ。
ピアノの練習はしない、コンクールはボイコットする、ピアノを弾いていると思えばバンドで演奏するための曲だけ、――そんな僕には、これ以上もう何を言っても無駄だと、いいかげん覚ってくれたのだろうが。
それは僕が中学3年生になり、受験期を迎えた頃のこと。
『――高校と大学は必ず〈ピアノ科〉に進学しなさい。そうすれば、あなたがどんな音楽をやろうが認めてあげるわ』
今のままでは、母が何を言い続けたところで僕は、この先ずっとクラシックを弾こうとはしないだろう。
その状態を続けた挙句クラシックピアノの世界から僕をスッパリ切り離してしまうよりは…という、未だ僕への過剰な期待を捨てきれずにいた母の、それは苦渋の選択だったのだ。
改めて考えてみるまでもなく、母としては、バンド活動をする僕のことなんてハナから認める気は無かった。
何とかして僕をクラシックの世界に留めておきたい、という……ただそれだけのエゴ。
だが僕は、その“条件”を飲んだのだ。
そんな母の思惑を、決して理解していないワケじゃなかったクセに。唯々諾々と従った。
なぜなら、母が“認める”“認めない”云々よりも、誰に何を言われるでもなく邪魔されるでもなく、好きなだけ思う存分、自分の音楽を楽しむ環境を得られるのであれば、そちらの方が重要だったのだから。その当時の僕には。
加えて、毎日毎日同じように繰り返される母の小言にも似た懇願に、いい加減、ウンザリさせられてもいたところだったから。
それがスッパリ無くなってくれるのであれば、高校だろうが大学だろうが、嬉々として母の望む通りの道へ進んでやるさ。
そもそもクラシック自体は嫌いではないのだから。…ただ何の目的も楽しみも無く1人でピアノを弾かなくてはならないことが、居た堪れなくなるだけで。
〈ピアノ科〉に進学するというだけで現在の自分の妨げとなるものが全てなくなってくれるのならば、それこそ死に物狂いになったっていい。
好き放題に自分の音楽活動が出来る代償だと思えば、安いものだ。
これまでの僕の学歴は……そういった母と僕の打算が折り重なって出来上がったものだった。
「だから高校も大学も、僕が自分から選んだ進路じゃなかったんです。あくまでも、好きな音楽をやるため、という必要に迫られただけのことで……」
「そうは言っても……竹内さんは、そうやって進学した先の大学で、あの有名な篠原教授に見出されたわけでしょう? 教授が大絶賛してるじゃないですか。『100年に1人の逸材』とか、『不世出の天才』とまで。それだけの才能をお持ちなのに……」
僕の返答があくまでも不服な様子で、そんなことを彼女は言ってくる。
「…まあ、それほどまでに僕を買ってくれる篠原先生には感謝してますよ。とても」
僕としては努めてニコヤカに、ここはそう殊勝な言葉を返しておきつつも。
だが、あのオッサンが僕を買いかぶり過ぎた挙句に大騒ぎしたから、これほどまでのオオゴトになってしまったのは事実、である以上。
――はっきし言って、ぶっちゃけ迷惑だっつーの!
「でも、篠原先生には申し訳ないのですが……今のところ僕がやりたいのはロックですし、このままクラシックに転向して生計を立てていこうなんてことは、特に考えていませんから……」
「では竹内さんは、今回、あの由緒ある《ショパン・コンクール》本選に出場し、更に優勝という栄誉に輝いた実績を残しながら……それでも、今後の活動をクラシック1本に転向なさるお気持ちは無い、と……?」
「はい、もちろんです」
そもそも、そのコンクールだって、篠原のオッサンが『推薦してやるから、どうしても出ろ! 出るんだ! 出てくれ!』と、無駄に騒ぎ立てるから面倒くさくなって……それで、つい頷いてしまった、というだけのイキサツだった。
出るだけ出ればいいだろう、結果なんて後のことは知るもんか、と、そんな気持ちで居たっていうのに。
――まさか自分が予選突破した挙句に入賞までしてしまうなんて思わなかったのだ。本当に。コレッポッチも。
奇しくも母の思惑にピタリと嵌まる結果となってしまったことに関しては、密かに胸中複雑なこと極まりないが……出してしまったものは、もう取り返しが付かないから仕方ない。
ともあれ、その“結果”のおかげで、にわかに僕の近辺が騒がしくなり始めた。
ただでさえ、最近ようやくバンド活動も軌道に乗り、やっとこさメジャーデビューにまで何とか漕ぎ着いた矢先のことだったから。
『あの《ショパン・コンクール》において優勝、という快挙を成し遂げたのは、ピアノ科に在籍しクラシックを学ぶエリート音大生、でも本業はロックバンドのキーボーディスト』という僕の経歴がマスコミに面白がられ、クラシックピアノ界以外のところでも大きく取り上げられるようになってしまって。
…まあ、おかげでデビューしたてバンドにとっては知名度向上に多少なりとも役立ったのかもしれないが。
…とはいえ、バンド以外のことでバンドの知名度が上がったところで、全く嬉しくも何とも無いではないか。
むしろ僕から『迷惑かけて申し訳ない』と謝らなくてはならないところだが、それを大らかにも笑って許してくれたうえ、応援して持ち上げてまでくれるメンバーの皆には、本当に頭が下がりっぱなしである。
ともあれ、インタビューだの何だので音楽以外の余計なことにまで必要以上の時間を取られるハメになってしまい、僕としては、この上もなく面倒くさい事態となってしまった昨今のこと。
“どうせしばらくすれば世間のほとぼりも冷めるだろうから、今だけ今だけ…!”と無理矢理のように自分を納得させては、事務所や他のメンバーに勧められるまま、しぶしぶ対応に臨んではいるものの。
だからといって、面倒くさいことに1ミクロンの変わりがあるワケじゃない。
今日のこのインタビューにしても同様。
例によって、やっぱりどっかの音楽雑誌だかが、“特集”って形で取り上げる、とか何とかで……確か、本を質せば『音楽を始められたキッカケについて聞かせてください』という依頼だったような気がする。――それにしては随分と話題が逸れてきたような気もしないでもないが。
なにせ僕が語ったのは、中学生の頃――今のバンドのメンバーと出会った時のエピソード、なんだからね。
この目の前に座るインタビュアーにしてみれば、本当のところは間違いなく、“僕がクラシックピアノを始めたキッカケ”を聞きに来たんだろう。そもそもは。
それが、まさか“僕がロックバンドを始めたキッカケ”を聞くことになろうとは……全くもって思いもしなかったに違いない。
彼女の言った通り。――やっぱり僕は、ナニゲに性格が悪いのかもしれない。
こちとら、こんな面倒くさいインタビューなんかで貴重な練習時間をツブされてるんだから、このくらいの意趣返しは許されるだろう。
そんなことを思いながら、コッソリとほくそ笑む。
「今回の僕の入賞は、あくまでも“まぐれ”ですから。――僕には、実際そこまでの実力はありません」
そんなの、今さら改まって言うまでもなく、当然のことだ。
今回は、あくまでも“たまたま”、何かの拍子で入賞してしまったけれど。
この『コンクール』という名の魔物は、二足草鞋の人間がそう易々と何度も入賞できるほど甘い世界では、決して無いのだから。
「…そうでしょうか?」
やっぱり依然として不服そうな表情で目の前に座る彼女に向かいながら。
おもむろに「じゃあ、そろそろ…」と、僕は座っていたソファから腰を浮かせた。
「とりあえず、ご依頼のあった件については、お答えするべきことには答えたと思いますので……もういいでしょうか? リハーサルの時間が迫っているものですから、そろそろ行かないと……」
それを告げた途端、ハッとした表情になって、目の前で彼女も弾かれたように立ち上がる。
「ああ、そうですね! ウッカリしてました、申し訳ありません! 本当に、コンサートの前でお忙しいところ、今日はどうもありがとうございました! 雑誌が出来上がりましたら、真っ先にお送りしますね!」
そして、慌てたようにペコリと深く一礼。
仮にもハタチそこそこでしかない若輩者の自分よりも年上の女性に、そう深々と頭を下げられると……なんだかミョーに居た堪れない。
きまりが悪くなって僕は、「では失礼します」とだけ告げると、挨拶もソコソコに、そのまま部屋の外へと逃げ出そうとした。
「…あ、最後に1つだけ、伺ってもよろしいですか?」
踵を返した途端に投げ掛けられた、その言葉。
僕は、思わず足を止めて振り返った。
下げていた頭を上げて僕を真っ直ぐに見つめていた彼女は、「あ、ごめんなさい」と、まず急に呼び止めてしまったことを詫びて。
そして躊躇いがちに、口を開く。
「あの……竹内さんにとって、もうクラシックは全く不必要なものでしか無いんでしょうか……?」
その言葉は、ナゼか淋しそうな響きでもって僕の耳まで届いた。
次の瞬間、ハッと我に返ったように彼女が「すみません失礼なこと訊いてしまって…!」と、慌てたように口にしたけど。
僕は、その言葉にも返答を返せず、ただただ、黙って彼女を見つめていることしか出来なかった。
焦ったように僕を見つめる表情にも……言葉に響いた色と同じ、淋しさのカケラを、見たような気がして……、
「――そんなこと、ないですよ……」
咄嗟に僕の口が、そんな返答を返していた。
驚いたように、彼女の表情が僕を真正面から捉える。
そんな彼女を見つめ返して、僕は、にこやかに穏やかに、言葉を選びながら続けた。
「『不必要』だなんて…そんなことは絶対に無いんです。なぜなら、クラシックが僕の“原点”だから。僕がピアノを弾いていなければ、今の仲間たちにも出逢えなかった。ロックという音楽にも出会えなかった。あらゆる意味で、“今”の僕を作り上げてくれたのはクラシックだから……切り離して考えることなんて出来ないんです。こうやって、たとえ今の僕は別の道を歩んでいても。でも常に僕の中に在るんです、クラシックは。いつも常に」
捨てても捨て切れない“絆”。――それが、僕とクラシックとの関係だった。
僕の音楽は、もともとクラシックの中で育まれてきたのだ。
そのクラシックがベースに在ったからこそ、今現在、僕が奏でるキーボードがある。
「僕の中では、クラシックもロックも、何も変わりない。その2つを隔てる“境界線”なんて、どこにも無い。――ただ等しく、それは共に“音楽”である、ということに違いは無いんです」
ロックの世界に身を置いていても、常にクラシックも存在しており。
その逆も言える。――たとえクラシックの世界に身を置いたとしても、きっと僕の中にロックは鳴り響き続けていることだろう。
これからの人生を歩んでいくうえで、もっと多種多様な“音楽”に触れ、僕の中に鳴り響く音楽も、また増えていくかもしれない。
「だから、僕は“決め付けたくない”んです」
――そう、いつか“ヤツ”に言われたように。
「まだ僕はハタチそこそこの若輩者でしかないので、音楽だけじゃない、人生の何もかもにおいて、まだまだ知らないことだらけですから。この先、生きていく上で、そういう“知らないこと”に触れていくうちに、これからの僕に何が起こってくるか分からない。たとえ今の僕はこうでも、でも“今”は決して永遠じゃない。だから、その時その時で一番やりたいことをやろう、って、そう決めてるんです。…ただ、それだけのことなんです」
“気持ち”さえあれば、『幾らでも変われる』『好きなように好きなだけ自分を変えていける』と……そう、アイツは言ったから。
だから後悔をしないよう、精一杯生きようと決めたんだ。
“これからの僕”のために―――。
「“今”の僕の“一番やりたいこと”は、ロックである、という、それだけのことなんですよ」
やんわりと、それを告げて微笑んでみせると。
「そう…なんですか…」と、軽く俯きながら、彼女は小さく呟くように応えた。
「それでも……私は、竹内さんの弾くクラシックに、本当に感動したんです」
心から残念そうな言葉。そして声音。
その淋しげな姿に、少しだけ申し訳なさを覚える。
だって僕は、解ってしまったから。その言葉で。――彼女が、僕の弾くピアノに期待をかけてくれていたことが。
「僕のピアノを認めてくださって、本当にありがとうございます」
言って、僕は彼女に頭を下げた。
音楽雑誌のライターなどをしているくらいだから、本当にクラシックが好きなのだろう。
きっと彼女には…いや、クラシックを愛する人間にとって僕は、厚顔で不遜きわまりない人間に、見えていることだろう。せっかく世間にも認めてもらえたクラシックピアノの演奏技術を持っているというのに、それを生かさないどころか無下に捨てるにも等しい道を、選ぼうとしているのだから。
けれど彼女は、そんな僕に『感動した』とまで、言ってくれた。
そのことが本当に嬉しくて。また、何だか誇らしい気持ちにもなれた。
だから、そんな彼女のために、かけてくれた期待を裏切るようなことなんて、したくはないと思った。
だから僕は、それを言った。
「出来ることなら……今度は、ロックバンドでキーボードを弾いている僕の演奏も、認めていただけたら嬉しいです」
「え……?」
「音楽のジャンルがクラシックからロックに変わったところで、どちらにしても、その時その時の僕の精一杯の演奏であることには、何の変わりも無いですから。僕は僕です。僕の奏でる音楽についても同様です。何も変わることなんて無い」
「…………」
「表現する音楽の形は変わっても……また違った形で感動していただけるのなら、とても嬉しいです」
――ひととき訪れた沈黙の中。
「じゃあ、これで」と、改めて僕は一礼し、踵を返した。
今度は、もう引き止める声は投げ掛けられなかった。
そのままドアを開けようとノブに手をかけてから……おもむろに、そこで振り返る。
「よろしければ、今日のコンサートもゼヒ観てってくださいね」
「え、でも……」
「これが、“今”の僕の音楽、ですから―――」
そして今度こそ、「失礼します」とだけ最後に言い置いて。
僕はドアを押し開くと、そのまま部屋から飛び出した。
レコーダー越しにそう聞いてきたインタビュアーの女性を見つめながら、僕は「そんなハズないじゃないですか」と即答し、苦笑交じりの返答を返した。
「昔の僕は、どこまでも素直じゃなかったですから。“友情”なんてモノ、そう易々と認めてたまるか、なんて思ってたんでしょうかね。――でも、それが何だかんだと今日まで続いているのは……そんな素直じゃなかった僕を、皆が性懲りもなく受け入れ続けてくれたから……だから自然に、時間が経つにつれ“友情”ってモノになっていってくれたんでしょうね」
…などと、表向き、口ではしおらしいことを言ってはみるけれど。
しかし実際のところは。――何だかんだと素直じゃない僕が逆らおうとする都度、ことあるごとに例の“賭け”を持ち出され、まるで“切り札”の如く『あの時オマエ負けただろーが』とグウの音も出ないようにガツガツやりこめられては逃げ道を塞がれ、結局のとこ逃げるに逃げられなくなって、…っていうことの積み重ねで築かれた関係、でしかないんだけど。
でも実際、皆がそこまでしてくれなきゃ、後からコッソリ後悔するハメとなったことも事実、だったろうと思う。
素直になれない僕のことを、皆にはシッカリ解られてた。――見抜かれてたんだ、最初から。
誘わるままイヤイヤ一緒に居るような素振りで、でも内心では、連中と共に居られることを心から喜んでいた……そんな天の邪鬼な僕のことを。
だから、わざわざ僕の“逃げ道”を塞いでくれた。
わざと僕の弱みを握ってるような素振りを、し続けてくれた。
殊更に言葉に出して言わなくても……そうやって確実に、彼らは僕を“友人”として受け入れ続けてきてくれた―――。
「メンバーの皆には感謝してますよ、本当に」
そう告げて笑うと、つられたように目の前の女性も微かな笑みを浮かべた。
「それで…? その後、どうなったんですピアノの方は?」
「ああ、やめました」
改めて問われ、そういともアッサリ返した僕の回答で。
それが想定外だったのか、「え!? やめちゃったんですか!?」と、即座に彼女が目を剥いて食い下がってくる。
「というか、そんなに簡単にやめられたんですか!?」
「イエ、それはモチロン簡単じゃありませんでしたけど……だからまず、その参加する予定だったコンクールをボイコットしたんです」
「は!? ボ、ボイコット…ですか……!?」
「ええ、そうです。当日になって逃げたんです、会場から」
「それはそれは……」
「もう、母と先生が、僕のことを血相変えて探し回って……それをコッソリ物陰から見て楽しんでました」
「――意外に性格悪いんですね……」
目の前からポソリと呟かれたその言葉で、思わず「あははっ、まあそうですね!」と、声を立てて笑ってしまった。
断っておくが、コンクールの件は……最初からボイコットしようと狙ってたワケじゃない。
『もうコンクールには出たくない』『ピアノは弾きたくない』と何度も何度も訴えたものの、全くもって聞き入れてもらえなかったから……それで、いわば“最後の手段”に訴えることにしたまでだ。
まだ中学生だった僕が、当時の僕なりに精一杯考えて出した、それは“答え”だったのだ。
全身全霊で母に解らせたかった。…解ってもらいたかった。
もう他人と優劣を競うピアノなんて弾きたくない、と云うことを―――。
そう…今でも僕は、ハッキリと思い出せる。――あの当時のこと全てを。
中学時代のあの時あの場所で、ああやって彼らに出会ったからこそ……僕は、音楽を楽しむ、ということを自然に身体で覚えることが出来た。
それから何年かが過ぎ、その分だけ年を重ねてきたけれど。
ピアノを弾くことを、あんなにも楽しいと思えた時代なんて、他に無い。
ピアノを弾く楽しみを…それが自身の喜びなのだと、初めて知った。
ピアノは誰かと共に奏でるから楽しいのだと、知ることが出来た。
今まで母に命じられるまま奏でてきた僕のピアノは、その瞬間に色褪せた。
それを知ってしまって後、改めてピアノに1人で向かってみて。――何故だろう…、ふいに涙が出るくらいの淋しさが押し寄せてきた。
今まで全く知らなかった…常に傍らに在ったというのに気付きもしなかった感情。
自分だけしか存在し得ない音楽の世界にずっと身を置いていたことを、理解してしまったと同時に、そんな感情が存在していたことにも、僕は気付かざるを得なくなってしまって。
どうしても居た堪れなくなってしまった。1人でピアノに向かっていることが。
誰かのために、ではなく、自分のために。――だから僕は、ピアノを捨てた。
「案の定、それからは母と大ゲンカの毎日になりましたね。やっぱり母は、僕に過剰な期待をかけていたから……どうあっても、“クラシックピアノを弾かない僕”を認めてくれようとはしませんでした。『ロックなんて、そんな低俗な音楽』って、何度ケナされたか分かりません」
「でも、竹内さんは……中学校を卒業されてからは、現在在学されてる音楽大学の、その付属高校のピアノ科に進学されてますよね?」
目の前に座るインタビュアーの手の中には、僕のこれまでの経歴が書かれた書面。
それを見下ろし俯いていた顔を上げて、やっぱりピアノやめられなかったんでしょ? と、無言のうちに問いかけてくる彼女の視線を受け止めながら。
「ええ、そうですね」と、努めて穏やかに、僕は返す。
「それが母の出した“条件”だったんですよ」
「条件…ですか? それはどんな……」
「つまり、僕が“ピアノの練習もせずバンド活動だけにウツツを抜かしていてもいい”っていう、そのための」
最終的に母は、それを僕に飲ませることで折れたのだ。
ピアノの練習はしない、コンクールはボイコットする、ピアノを弾いていると思えばバンドで演奏するための曲だけ、――そんな僕には、これ以上もう何を言っても無駄だと、いいかげん覚ってくれたのだろうが。
それは僕が中学3年生になり、受験期を迎えた頃のこと。
『――高校と大学は必ず〈ピアノ科〉に進学しなさい。そうすれば、あなたがどんな音楽をやろうが認めてあげるわ』
今のままでは、母が何を言い続けたところで僕は、この先ずっとクラシックを弾こうとはしないだろう。
その状態を続けた挙句クラシックピアノの世界から僕をスッパリ切り離してしまうよりは…という、未だ僕への過剰な期待を捨てきれずにいた母の、それは苦渋の選択だったのだ。
改めて考えてみるまでもなく、母としては、バンド活動をする僕のことなんてハナから認める気は無かった。
何とかして僕をクラシックの世界に留めておきたい、という……ただそれだけのエゴ。
だが僕は、その“条件”を飲んだのだ。
そんな母の思惑を、決して理解していないワケじゃなかったクセに。唯々諾々と従った。
なぜなら、母が“認める”“認めない”云々よりも、誰に何を言われるでもなく邪魔されるでもなく、好きなだけ思う存分、自分の音楽を楽しむ環境を得られるのであれば、そちらの方が重要だったのだから。その当時の僕には。
加えて、毎日毎日同じように繰り返される母の小言にも似た懇願に、いい加減、ウンザリさせられてもいたところだったから。
それがスッパリ無くなってくれるのであれば、高校だろうが大学だろうが、嬉々として母の望む通りの道へ進んでやるさ。
そもそもクラシック自体は嫌いではないのだから。…ただ何の目的も楽しみも無く1人でピアノを弾かなくてはならないことが、居た堪れなくなるだけで。
〈ピアノ科〉に進学するというだけで現在の自分の妨げとなるものが全てなくなってくれるのならば、それこそ死に物狂いになったっていい。
好き放題に自分の音楽活動が出来る代償だと思えば、安いものだ。
これまでの僕の学歴は……そういった母と僕の打算が折り重なって出来上がったものだった。
「だから高校も大学も、僕が自分から選んだ進路じゃなかったんです。あくまでも、好きな音楽をやるため、という必要に迫られただけのことで……」
「そうは言っても……竹内さんは、そうやって進学した先の大学で、あの有名な篠原教授に見出されたわけでしょう? 教授が大絶賛してるじゃないですか。『100年に1人の逸材』とか、『不世出の天才』とまで。それだけの才能をお持ちなのに……」
僕の返答があくまでも不服な様子で、そんなことを彼女は言ってくる。
「…まあ、それほどまでに僕を買ってくれる篠原先生には感謝してますよ。とても」
僕としては努めてニコヤカに、ここはそう殊勝な言葉を返しておきつつも。
だが、あのオッサンが僕を買いかぶり過ぎた挙句に大騒ぎしたから、これほどまでのオオゴトになってしまったのは事実、である以上。
――はっきし言って、ぶっちゃけ迷惑だっつーの!
「でも、篠原先生には申し訳ないのですが……今のところ僕がやりたいのはロックですし、このままクラシックに転向して生計を立てていこうなんてことは、特に考えていませんから……」
「では竹内さんは、今回、あの由緒ある《ショパン・コンクール》本選に出場し、更に優勝という栄誉に輝いた実績を残しながら……それでも、今後の活動をクラシック1本に転向なさるお気持ちは無い、と……?」
「はい、もちろんです」
そもそも、そのコンクールだって、篠原のオッサンが『推薦してやるから、どうしても出ろ! 出るんだ! 出てくれ!』と、無駄に騒ぎ立てるから面倒くさくなって……それで、つい頷いてしまった、というだけのイキサツだった。
出るだけ出ればいいだろう、結果なんて後のことは知るもんか、と、そんな気持ちで居たっていうのに。
――まさか自分が予選突破した挙句に入賞までしてしまうなんて思わなかったのだ。本当に。コレッポッチも。
奇しくも母の思惑にピタリと嵌まる結果となってしまったことに関しては、密かに胸中複雑なこと極まりないが……出してしまったものは、もう取り返しが付かないから仕方ない。
ともあれ、その“結果”のおかげで、にわかに僕の近辺が騒がしくなり始めた。
ただでさえ、最近ようやくバンド活動も軌道に乗り、やっとこさメジャーデビューにまで何とか漕ぎ着いた矢先のことだったから。
『あの《ショパン・コンクール》において優勝、という快挙を成し遂げたのは、ピアノ科に在籍しクラシックを学ぶエリート音大生、でも本業はロックバンドのキーボーディスト』という僕の経歴がマスコミに面白がられ、クラシックピアノ界以外のところでも大きく取り上げられるようになってしまって。
…まあ、おかげでデビューしたてバンドにとっては知名度向上に多少なりとも役立ったのかもしれないが。
…とはいえ、バンド以外のことでバンドの知名度が上がったところで、全く嬉しくも何とも無いではないか。
むしろ僕から『迷惑かけて申し訳ない』と謝らなくてはならないところだが、それを大らかにも笑って許してくれたうえ、応援して持ち上げてまでくれるメンバーの皆には、本当に頭が下がりっぱなしである。
ともあれ、インタビューだの何だので音楽以外の余計なことにまで必要以上の時間を取られるハメになってしまい、僕としては、この上もなく面倒くさい事態となってしまった昨今のこと。
“どうせしばらくすれば世間のほとぼりも冷めるだろうから、今だけ今だけ…!”と無理矢理のように自分を納得させては、事務所や他のメンバーに勧められるまま、しぶしぶ対応に臨んではいるものの。
だからといって、面倒くさいことに1ミクロンの変わりがあるワケじゃない。
今日のこのインタビューにしても同様。
例によって、やっぱりどっかの音楽雑誌だかが、“特集”って形で取り上げる、とか何とかで……確か、本を質せば『音楽を始められたキッカケについて聞かせてください』という依頼だったような気がする。――それにしては随分と話題が逸れてきたような気もしないでもないが。
なにせ僕が語ったのは、中学生の頃――今のバンドのメンバーと出会った時のエピソード、なんだからね。
この目の前に座るインタビュアーにしてみれば、本当のところは間違いなく、“僕がクラシックピアノを始めたキッカケ”を聞きに来たんだろう。そもそもは。
それが、まさか“僕がロックバンドを始めたキッカケ”を聞くことになろうとは……全くもって思いもしなかったに違いない。
彼女の言った通り。――やっぱり僕は、ナニゲに性格が悪いのかもしれない。
こちとら、こんな面倒くさいインタビューなんかで貴重な練習時間をツブされてるんだから、このくらいの意趣返しは許されるだろう。
そんなことを思いながら、コッソリとほくそ笑む。
「今回の僕の入賞は、あくまでも“まぐれ”ですから。――僕には、実際そこまでの実力はありません」
そんなの、今さら改まって言うまでもなく、当然のことだ。
今回は、あくまでも“たまたま”、何かの拍子で入賞してしまったけれど。
この『コンクール』という名の魔物は、二足草鞋の人間がそう易々と何度も入賞できるほど甘い世界では、決して無いのだから。
「…そうでしょうか?」
やっぱり依然として不服そうな表情で目の前に座る彼女に向かいながら。
おもむろに「じゃあ、そろそろ…」と、僕は座っていたソファから腰を浮かせた。
「とりあえず、ご依頼のあった件については、お答えするべきことには答えたと思いますので……もういいでしょうか? リハーサルの時間が迫っているものですから、そろそろ行かないと……」
それを告げた途端、ハッとした表情になって、目の前で彼女も弾かれたように立ち上がる。
「ああ、そうですね! ウッカリしてました、申し訳ありません! 本当に、コンサートの前でお忙しいところ、今日はどうもありがとうございました! 雑誌が出来上がりましたら、真っ先にお送りしますね!」
そして、慌てたようにペコリと深く一礼。
仮にもハタチそこそこでしかない若輩者の自分よりも年上の女性に、そう深々と頭を下げられると……なんだかミョーに居た堪れない。
きまりが悪くなって僕は、「では失礼します」とだけ告げると、挨拶もソコソコに、そのまま部屋の外へと逃げ出そうとした。
「…あ、最後に1つだけ、伺ってもよろしいですか?」
踵を返した途端に投げ掛けられた、その言葉。
僕は、思わず足を止めて振り返った。
下げていた頭を上げて僕を真っ直ぐに見つめていた彼女は、「あ、ごめんなさい」と、まず急に呼び止めてしまったことを詫びて。
そして躊躇いがちに、口を開く。
「あの……竹内さんにとって、もうクラシックは全く不必要なものでしか無いんでしょうか……?」
その言葉は、ナゼか淋しそうな響きでもって僕の耳まで届いた。
次の瞬間、ハッと我に返ったように彼女が「すみません失礼なこと訊いてしまって…!」と、慌てたように口にしたけど。
僕は、その言葉にも返答を返せず、ただただ、黙って彼女を見つめていることしか出来なかった。
焦ったように僕を見つめる表情にも……言葉に響いた色と同じ、淋しさのカケラを、見たような気がして……、
「――そんなこと、ないですよ……」
咄嗟に僕の口が、そんな返答を返していた。
驚いたように、彼女の表情が僕を真正面から捉える。
そんな彼女を見つめ返して、僕は、にこやかに穏やかに、言葉を選びながら続けた。
「『不必要』だなんて…そんなことは絶対に無いんです。なぜなら、クラシックが僕の“原点”だから。僕がピアノを弾いていなければ、今の仲間たちにも出逢えなかった。ロックという音楽にも出会えなかった。あらゆる意味で、“今”の僕を作り上げてくれたのはクラシックだから……切り離して考えることなんて出来ないんです。こうやって、たとえ今の僕は別の道を歩んでいても。でも常に僕の中に在るんです、クラシックは。いつも常に」
捨てても捨て切れない“絆”。――それが、僕とクラシックとの関係だった。
僕の音楽は、もともとクラシックの中で育まれてきたのだ。
そのクラシックがベースに在ったからこそ、今現在、僕が奏でるキーボードがある。
「僕の中では、クラシックもロックも、何も変わりない。その2つを隔てる“境界線”なんて、どこにも無い。――ただ等しく、それは共に“音楽”である、ということに違いは無いんです」
ロックの世界に身を置いていても、常にクラシックも存在しており。
その逆も言える。――たとえクラシックの世界に身を置いたとしても、きっと僕の中にロックは鳴り響き続けていることだろう。
これからの人生を歩んでいくうえで、もっと多種多様な“音楽”に触れ、僕の中に鳴り響く音楽も、また増えていくかもしれない。
「だから、僕は“決め付けたくない”んです」
――そう、いつか“ヤツ”に言われたように。
「まだ僕はハタチそこそこの若輩者でしかないので、音楽だけじゃない、人生の何もかもにおいて、まだまだ知らないことだらけですから。この先、生きていく上で、そういう“知らないこと”に触れていくうちに、これからの僕に何が起こってくるか分からない。たとえ今の僕はこうでも、でも“今”は決して永遠じゃない。だから、その時その時で一番やりたいことをやろう、って、そう決めてるんです。…ただ、それだけのことなんです」
“気持ち”さえあれば、『幾らでも変われる』『好きなように好きなだけ自分を変えていける』と……そう、アイツは言ったから。
だから後悔をしないよう、精一杯生きようと決めたんだ。
“これからの僕”のために―――。
「“今”の僕の“一番やりたいこと”は、ロックである、という、それだけのことなんですよ」
やんわりと、それを告げて微笑んでみせると。
「そう…なんですか…」と、軽く俯きながら、彼女は小さく呟くように応えた。
「それでも……私は、竹内さんの弾くクラシックに、本当に感動したんです」
心から残念そうな言葉。そして声音。
その淋しげな姿に、少しだけ申し訳なさを覚える。
だって僕は、解ってしまったから。その言葉で。――彼女が、僕の弾くピアノに期待をかけてくれていたことが。
「僕のピアノを認めてくださって、本当にありがとうございます」
言って、僕は彼女に頭を下げた。
音楽雑誌のライターなどをしているくらいだから、本当にクラシックが好きなのだろう。
きっと彼女には…いや、クラシックを愛する人間にとって僕は、厚顔で不遜きわまりない人間に、見えていることだろう。せっかく世間にも認めてもらえたクラシックピアノの演奏技術を持っているというのに、それを生かさないどころか無下に捨てるにも等しい道を、選ぼうとしているのだから。
けれど彼女は、そんな僕に『感動した』とまで、言ってくれた。
そのことが本当に嬉しくて。また、何だか誇らしい気持ちにもなれた。
だから、そんな彼女のために、かけてくれた期待を裏切るようなことなんて、したくはないと思った。
だから僕は、それを言った。
「出来ることなら……今度は、ロックバンドでキーボードを弾いている僕の演奏も、認めていただけたら嬉しいです」
「え……?」
「音楽のジャンルがクラシックからロックに変わったところで、どちらにしても、その時その時の僕の精一杯の演奏であることには、何の変わりも無いですから。僕は僕です。僕の奏でる音楽についても同様です。何も変わることなんて無い」
「…………」
「表現する音楽の形は変わっても……また違った形で感動していただけるのなら、とても嬉しいです」
――ひととき訪れた沈黙の中。
「じゃあ、これで」と、改めて僕は一礼し、踵を返した。
今度は、もう引き止める声は投げ掛けられなかった。
そのままドアを開けようとノブに手をかけてから……おもむろに、そこで振り返る。
「よろしければ、今日のコンサートもゼヒ観てってくださいね」
「え、でも……」
「これが、“今”の僕の音楽、ですから―――」
そして今度こそ、「失礼します」とだけ最後に言い置いて。
僕はドアを押し開くと、そのまま部屋から飛び出した。
続きます
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