櫻井郁也ダンスブログ Dance and Art by Sakurai Ikuya/CROSS SECTION

◉新作ダンス公演2024年7/13〜14 ◉コンテンポラリーダンス、舞踏、オイリュトミー

断片:胸騒ぎの場所

2016-08-30 | ダンスノート(からだ、くらし)
踊りをしたり観たりしていると、消えてゆくのが何だか勿体無い感じがすることがあるが、生きている人がやるしか無いことだから、それも良さの一つと腹を決めている。踊りだけでなく、舞台はやはり消えものなのだから、その体験は全部、二度とないものだ。

今迄に観ることが出来たなかでも、そんな二度とない体験という感覚が強烈だったのは、僕の場合は、ポーランドの「クリコット2」というカンパニーの舞台で美術家としても著名な演出家タデウシュ・カントールがリーダーだった。何回も思い出して、観ることが出来て良かったなぁと思う。

取り分け代表作の『死の教室』はまだ高校生で初めてだったのもあって、こんな面白いものが世の中にあるんだと興奮した。上演はパルコだったが、テレビでもやったしアンジェイ・ワイダが映画にしたから、何度も観たが、やはり舞台の興奮度は異様なものだった。

この舞台は長く話題を呼び研究や評論も沢山あるが、僕には第一印象がそのまま残っていて余り色々解釈したら壊れてしまうと勿体無い感じのものだ。

黒い色調で統一された舞台は学校の教室になっている。出演者たちと一緒に、演出家のカントールが舞台にずっと居る。自らの記憶を見つめている人のようだ。

しかしカントールは、あまり落ち着いていない。端っこで座って眉間に皺をよせて舞台の上や客席を見つめてみたり、かと思ったら、のそのそと舞台美術をいじり直したりもする、そして何より頻繁に演者のそばに行って何か耳打ちしたり、指揮者みたく手を振って合図をしたりを繰り返し続ける。要は、この作品は上演しながら創り続けているものなのだ。

思い出しながら記憶を再生させてゆくみたいでもあるし、逆に誰かの記憶が生き物のように勝手気侭に変化して別の物語を作り出そうとしているようでもある。

時には出演者どうしでだって、話しが通じたり通じなかったりしているみたいな感じもあったからアナーキーだった。だから、沢山のアクションや身体の接触や、わめいたり笑ったりも特別な個性でやるのだ。

言葉そのものが舞台の上で発明されていくようなその感じは、赤ちゃんと赤ちゃんがもとから通じない言葉で交流してるみたいなもので、それは声も身体も全部使っていて、お喋りとか踊りとか歌などが混ぜこぜのママで噴出している感じだ。知識なんか仕方がないから、却って僕ら外国人には親切な語りかけかただなぁ、と感じながら観ていた。

あのとき、言葉というのは元々は、こんなふうな、気持ちを刺激しあって想像しあう行為全部なのかなと思った。

舞台にはいつもワルツが響いている。しかし、盛んに笑い歌い踊り喧嘩し、破茶滅茶な行為を展開する人物たちは皆んな青ざめたような灰色の顔で、皆んな老齢で、皆んな古びた子供人形を連れている。

長い時間を過ごしてゆくうちに、奇妙で破茶滅茶な舞台展開の背景にある膨大な死のイメージが押し寄せている。

直接は表現されていないのに、戦争や抑圧の匂いが漂う、かと思うと深い孤独が襲う。そして言葉もなにも判らないのに、そこはかとない哀しさと怒りとがして不可思議な懐かしさが渾然一体になって、胸騒ぎとしか言いようのない感情が湧き上がっていた。

判らないほうが却って深く感じてしまうことが、この舞台にはぎっしりとあった気がする。あのような舞台は未だ他に体験したことがない。



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春日大社の朱の色

2016-08-26 | ダンスノート(からだ、くらし)
奈良の春日大社の建築についてテレビでやっていた。 
いま20年に1度の大改修「式年造替」が進む。郷里の人から送られた写真も合わせ、色々と思いが動く。

春日の一の鳥居をくぐれば奈良町から繁華街に出る。旧市街に育った僕にとって、春日の参道は毎日の通学路でだった。郊外に越したあとも中高と高畑にあったから、結局12年ほど毎日一の鳥居をくぐり続けたことになる、懐かしい。

そういえば、春日大社の巫女さんの舞は物心ついて初めて観たダンスだったかもしれない。白装束の質素な舞だが、質素ゆえに冴え冴えとした透明な舞だ。それを舞う少女の後ろ姿は朱色の社殿と青空にクッキリと浮いて、とても綺麗だった。神さまが観るのだから僕ら人間には背中しか見えない後ろ姿の舞だった。巫女さんといったって神秘的というより、可愛いらしく初々しい。奈良にも皆で踊る盆踊りなどもあるにはあるが、そんな巫女舞は、舞楽や薪の能と一緒になって何となく生活の空気に溶け込んでいた。

朱の明るみにも似たインパルス、青空と森の匂い、、、。
それは興福寺の阿修羅や薪能の夜闇と炎に対比するような相性もあったと思う。

習ったわけでもないのに、やんわりと身体に染み付いているのか。稽古などで変に作り事や虚構を頼ってしまうと、居心地のワルさに加え、その記憶が叱ってくる。

今でも何度も繰り返し思い出しながら少しづつ変化して、また帰郷などで見返す機会あるたびパっパっと小さな発見を加えて更新され、いつも新しい何かを与えてくれる。

ところで、式年造替の進む社殿は、生まれ変わる時期になる。
さっきちらっと書いた朱の色も塗り直し新たまる。


神社の朱には二手あるそうで、春日大社のそれは「本朱」と呼ばれ受け継がれた古式の製法による。鉛を成分とするベンガラなどの朱色に対して、本朱は硫黄と水銀が成分で、手作業で練り合わせて少しづつつくられていくのだという。

比べると一般的な朱色が茶色にしか見えなくなるほど明るく赤く眩しい。発色の鮮やかさに対して傷みやすさも特徴らしく20年毎の造替は必然的な塗り直しの時期だそうで、丁度そのタイミングが今この年にあたる。

新しくなった朱の色を見つめていると、映像なのにもかかわらず、気持ちが晴れ晴れしてくる。本物の前に早く行きたい。

色の命が蘇り、花が咲くように社殿は生まれ変わる。
新たな華を垣間見せた春日の社は、魂そのものの若やぐ姿にも感じられて、目が覚める。
色の命は全ての命に重なるのだろうか。


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櫻井郁也ダンスソロ新作チラシ

2016-08-25 | 公演写真&記録(国内) dance works in JP(photo etc)
10月新作公演『緑ノ声、ヲ』チラシです!







オモテの写真は前作『ホーリーバード』(2016.4月)、裏面は『CHILD OF TREE』(2014.10月)から。
チラシは小さめのA5サイズ。
9月上旬より配布させていただきます。
都内の劇場ロビーなどでお見かけの際はぜひお手にとっていただければ幸いです。
(十字舎房:制作部)

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STAGE information
10/29〜30上演!
櫻井郁也ダンスソロ新作公演2016・公式HP
↑↑くわしいご案内です。ぜひ、ご注目ください!!
※チケット予約は上記HPのチケットフォームよりお願いします。

参考:作品歴、ご感想リンクなど

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断片:ともにある、 なにか

2016-08-23 | ダンスノート(からだ、くらし)
踊るときには沈黙する。

うたいや語りや喋りに乗じつつ踊るものもあるが、よほど理由があるからで、
やはり沈黙のうちに踊ることが国を越えても大抵である。

黙る。
そこから、踊り手にも観手にも様々な声が聞こえてくるのだと思う。
踊りの場では、目も凝らすが耳も澄ましている。
沈黙のなかでこそ聞こえる何かが、あるのだと思う。

本当の声というのは言葉になる寸前に途絶えて遠ざかってしまうのではないか、
音や文字になった言葉はその残像のようなものなのではないか、
といつしか思うようになっている。

とすれば、
言葉というのは、何かを思い出すための一種の触媒のようなものなのだろうか。

黙って、沈黙して、、、。
ともにあるなにかにすべてゆだねるならば。

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STAGE information
10/29〜30上演!
櫻井郁也ダンスソロ新作公演2016・公式HP
公演サイトをオーブンしました。くわしいご案内です。
ぜひ、ご注目ください!!
作品歴



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新作ダンス公演ごあいさつ

2016-08-19 | 公演写真&記録(国内) dance works in JP(photo etc)
10月末上演を目指す新しい踊りに『緑ノ声、ヲ』”Voice of Green”と名付けた。いや、名付けたというよりは、ようやく辿り着いた、という感じだ。

「緑」というのは草や葉っぱや芽のミドリでもあるが、嬰児と書いて「みどりご」と読むあのミドリでもある。日没寸前の水平線もまた一瞬だけ緑に光る。身体の母型である海水も緑に輝く。

題名はすでに一つの舞台の始まりでもあると思う。どう育つか、どんな幕が開くのだろうか。

動きから作品へ、作品から舞台へ、そして観客の方々の前で全て「おどり」としか呼びようのない現象に結びついていけたら、観手ひとりひとりの気持ちに着地をすることが出来ればなぁ、と思う。

様々な人が様々な想いを拡げるための素材になりたい。そんなことを、志したい。ソロダンスならではの魅力を探して長い。plan-Bという、かけがえない場との出会いから15年になるが、今回も初めてのような緊張感がある。都内ではもはや少なくなった「呼吸し続けている」場所、そして人ひとりひとりが、ひとりとして居ることができる場所だと感じてきた。

さて今回、いかなる呼吸を息吹くことができるだろうか、いかなる一夜を紡ぎあえるだろうか。

徹底的に集中し、心から、と思う。
よろしくお願いします。
まずは、ご挨拶にて。

新作公演ホームページ=10月29〜30日開催!

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櫻井郁也ダンスソロ新作公演:ご案内(2016.10/29~30 開催)

2016-08-17 | 公演写真&記録(国内) dance works in JP(photo etc)
新作公演の詳細をご案内いたします。公式サイトもオープンしましたので、ぜひご注目ください!
SAKURAI Ikuya will shows the new dance work for solo on 29th.and 30th.October at ”plan-B” Tokyo.
Please see the detail information.


櫻井郁也ダンスソロ
『緑ノ声、ヲ』
SAKURAI IKUYA DANCE SOLO
"Voice of Green"
2016
10/29~30 :plan-B・Tokyo
October.29~30 plan-B・Tokyo 2016
Official Home Page

コノ洪水ノナカデ、
フルエルソノカラダノ底、カラノ、
沈黙ノ声ヲ鼓動シテ、
緑ノ、
アタラシイ息ヲ息吹ク、
為ニ、、、


肉体に眠る未来のコトバ、その破裂、沈黙の声のかぎりない轟き、、、。
あるカラダが繰り広げる無意識世界からの挑発。


ダンス・光・音:櫻井郁也、美術・衣裳:櫻井恵美子
企画制作=十字舎房、共催=plan-B


◆基本情報◆
【日時】2016年10月29日 (土)20:00、10月30日(日)19:00
*開場はそれぞれ20分前です。
*定員制のため、なるべく「前売り」または「予約」をご利用ください。

【会場】 plan-B (プランビー)
〒164-0013 東京都中野区弥生町4-26-20-B1
□東京メトロ丸の内線中野富士見町駅下車徒歩7分 
□JR中野駅南口より京王バス1番 渋谷行/新宿駅西口行約10分「富士高校前」下車すぐ

地図

【料金】 
・前売/事前振込=2500円(申込期間10/21まで)
・予約/当日払い=2800円(各回前日まで)
・学割予約=2000円(中高大専)
・当日=3000円(開場時発売)

【くわしいご案内/チケット】公式ホームページ
(HPのチケットフォームをご利用ください)

お問合せ先:十字舎房 juujishabou@gmail.com(★を@に)
*公演日当日のお問い合わせは 03-3384-2051(plan-B)にお願いします。



©SAKURAI Ikuya/CROSS-SECTION

空々しい言葉に囲まれて、言葉なんか無くなっちまえ、と思う。
それでもカラダはさまざまな「声」を発してならない。
この踊りは肉体に眠る無数の「声」を巡るダンスになるだろう。
きたるべき新しい言葉たちの誕生を夢見、
私たち自身の声なき声、言葉なき言葉に耳を澄まし合うことができれば、と。
私たちの現在に対する、ささやかな抵抗をこめて、かつ、私たち自身についての予感のために。
(櫻井郁也)


作品歴、これまでのご感想リンク

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Next Performance information : Sakurai Ikuya dance-solo Oct.2016

2016-08-17 | 公演写真&記録(国内) dance works in JP(photo etc)
SAKURAI IKUYA DANCE SOLO : Next Performance info.

SAKURAI IKUYA DANCE SOLO
"Voice of Green"
October.29~30
plan-B・Tokyo 2016


SAKURAI Ikuya will shows the new dance work for solo on 29th.and 30th.October at ”plan-B” Tokyo. It is a dance piece based on the philosophy related to the ecological approach and futuristic paradigm, it is a performance of as the latest achievements of the dance of Sakurai as the avant-garde dancer of Japan .

【Date】Saturday,29th October. 20:00 / Sunday, 30th October. 19:00
【venue】Alternative space "planB"
(4-26-20 Yayoicho nakano Tokyo)
map

【Fee】3000yen (2800yen: reservation )
【Detail and TICKET】
http://www.cross-section.x0.com/
※Need your name,date(2nd or 3rd.Apr.) and Attendance number.
【Contact】CROSS-SECTION
e-mail = juujishabou★gmail.com(please change"★"to"@")


photo="LANDING ON THE LOST" 2015

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断片:8/15

2016-08-17 | ダンスノート(からだ、くらし)
黒澤明の「八月の狂詩曲」に、カミナリを原爆と勘違いしたお婆さんが孫たちを必死に守ろうとするシーンがある。そのシーンを見るたび、僕は自身の祖母を思い出す。本当にそっくりなことが、幼い頃に何度かあったから。

幼時、昭和の40年代の真夏の台風の季節には、まだ停電が付き物だったが、カミナリの轟音のなか突然真っ暗になると、早寝の祖母が何故か跳び起きて寝ぼけたまま「B29や!」と叫ぶのだった。

僕は奈良旧市街の出身だが、なぜかというと、大阪大空襲の日に祖母と父が逃げて住み着いたからなのだ。

やっと好きなことが言える世の中になった、というのが祖母の口癖だった。えらく我慢して皆んな亡くなったんやから、お前は何でもええから本当にやりたいことせんとアカンよ。というのも度々だった。
そんな口癖やお説教がオンパレードする日が毎年8月15日だった。
お盆のせいで縁者も集まり、さんざん呑んだあげくは空襲、戦争、戦後、その話に流れる。トッコーの生き残りだという叔父も加わる年などウンザリするほど議論沢山で、8月15日は子どもの僕には少しばかり気が重い日だった。
しかし何十回も過ごした8月15日は知らないあいたに少しずつ普段に溶けてゆき、いつしか静かで暑い夏の夜になっていた。

祖母はある日、早よ遊ぼ、夜は遊ばなもったいない、と酒を飲んで花札をして、翌朝突然に逝った。
そしていつの間にか、戦争の記憶にうなされる人も、語り聞かせようとする人も、もう誰も居なくなった。




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ひろしま、フリーダ・カーロ:石内都さんの写真へ

2016-08-14 | アート・音楽・その他
写真家・石内都さんの展覧会『Frida is』が銀座の資生堂で開かれている。
メキシコを代表する画家フリーダ・カーロの遺品たちを撮影されたもので、岩波から写真集も出た。

美しさと痛覚が溶けあったような作品群で世界中から愛され続けるフリーダは6歳で小児麻痺になり右足が短かった、そのうえ18歳のときに乗っていたバスに電車が衝突するという大事故にあい下半身を酷く痛めた。終生、車椅子の生活を余儀なくされながら、女性が自立することさえ疎まれた時代に、画家として世に挑み続けた。そして情熱的に恋をした。革命家のトロツキー、彫刻家のイサム・ノグチ、巨大壁画のディエゴ・リベラ。彼女に恋した男たちも波乱の人々だった。全身全霊で命を燃やし沢山の夢をこの世にのこしたフリーダ・カーロは、どんなに苦しいときもオシャレを楽しみ、生活の楽しみも大切に育み続けた人だったという。
そんなフリーダの暮らしたメキシコの「青い家」の自然光のなかで撮影されたのだという遺品たちは、遺言により死後50年封印されていたそうだ。

可愛い赤い靴は、左右の大きさが違う。コルセットには綺麗な模様が丁寧に描かれている。大切に繕われた衣服があり、小さなケースに入った口紅、破れたサングラス、痛み止めのモルヒネの瓶が、、、。彼女の遺品たちは、彼女の身体の延長そのものと感じられる。ひとつひとつが、太陽の光と、そして石内さんの眼差しと、真っ直ぐに見つめあっているようだ。

石内都さんの作品に初めてふれたのは目黒区美術館の「ひろしま/ヨコスカ」という写真展だった。
水流のような音が聞こえていたような記憶は正しいかどうか、もうわからないが、そこで出会った写真のすべてが、とても柔らかくて、その柔らかさが、柔らかさを忘れかけていた僕には痛く衝撃的だった。そのときの写真を含む「ひろしま」という写真集を、いままた見つめている。

1945年8月6日の広島、その瞬間まで人々の身を包んでいたぼろぼろの衣類たちを透過光のなかでとらえた写真の数々。

一枚一枚の写真のなかで、花柄のワンピースや小さなセーラー服たちが、あかるい光を噛みしめているように静かに佇む。
じっと見つめていると、少女や赤ちゃんやお母さんたちの淡い気配が、あるいは、あの晴れた朝の朝ご飯の香りが、眼の奥に染み込んでくるような気持ちになる。
そして、たましい、という言葉を久しく忘れていた何かと再会するように思い出す。
それから、僕らひとりひとりも、もしかしたら、命という時間を過ごし終えたあと何か小さな物質のなかで遠くまで存在してゆくのかもしれない、とも思えてくる。






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リオ五輪から

2016-08-12 | ダンスノート(からだ、くらし)
53歳にしてオリンピックに参加している卓球選手、ルクセンブルクのニー・シャーリエンさんに魅了された。

僕は卓球に詳しくないが、彼女のプレー姿はとても落ち着いていて、勝ちも負けも、喜びをもって受け止めプレーを心から楽しんでいるように見える。一球に入魂しながら、相手が打ち込む一球を心から受け止めてゆく。そして一球一球の受け答えへの喜怒哀楽が全身から溢れる。本当に素敵だ。

卓球を通じて、勝負を通じて、この人は全身全霊での対話をし愛おしんでいるように見えた。
チャーミングな表情と堂々とした立ち居振る舞い。スポーツを通じて人生の一瞬一瞬を味わう素晴らしさを表現してくれているように感じる。オリンピックの中継から、人と人の触れ合う喜びがこんなに感じられたのは、僕にとってはささやかな事件だった。

何の偶然か、この世に命をもらえたことの喜び。それを確かめ合うことはダンスにも共通する。
彼女の卓球を見ていると、なんだかそこはかとない感謝と希望が湧いた。

お人柄のみならず、お国柄にも触れるような感じもあった。個人的にも希望をもらった国で、組織や世評をはさまずに個人のアプローチに耳を傾け個人招聘をしてくれたのがルクセンブルクだった。短期間ながら家を貸していただいて暮らしその街の劇場で働いたが何もが、さりげなくて大袈裟でなくて、でもシビアで、だけど親切だった。日本人なんかじゃなく、アーティストでもなく、個人を見つめられているんだ、という感覚とともに、なんだか家族が大きくなったような国に来たんだなぁ、という感覚がとてもあった。帰国後も色々と世話していただき、国と国の関係は個人と個人の関係にこそ始まることを実地で教わった感じが強い。もっと友達に、もっと近づいて、という言葉を沢山きいた。

個人への眼差しを持つ国。そんなお国柄だからこそ、のびのびと自分の可能性を発揮する人が住み得るのでは、とも思う。
ニー選手の爽やかさの底には、そんな、個人個人を大切にする人々と暮らしている経験や気持ちが、やはり反映してあるのではないかと、勝手に想像を巡らせる次第である。ニー選手の卓球に、国なんか越えた個人と個人の対話を感じたのかもしれない。



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断片:8月9日

2016-08-11 | ダンスノート(からだ、くらし)
8月9日のリハーサルは偶然の導きだが、昨年の長崎の原爆慰霊セレモニーで踊らせていただいた時刻に重なっていた。
鮮明にからだが記憶しているのは終演後ある被爆者の方が、本当に幸せにならなければねぇ、と手を握って仰った声の深い温かさだった。

友人からあるテレビ番組を見せてもらい衝撃を受けた。原爆は大統領の明確な決断なしに投下されていた事実がアメリカの未公開資料から判明した、というドキュメントをNHKが放送したものだった。

当時8割のアメリカ人に支持され現在なお多数の国民認識にあるという「命を救うための原爆投下」というトルーマンの主張は政治的演出だったのだという内容の番組だ。原爆投下指揮に当たったレズリー・リチャード・グローヴス自身の肉声による未公開録音テープの内容はさらにショッキングだった。

1942年に開発され始めた原爆を、アメリカ軍は梅雨と秋雨をさけ、最大限の破壊効果が予想される「8月」に投下するよう定めたのだという。そして「破壊効果が隅々まで行き渡る都市。人口が集中する都市。直径5キロ以上の市街地。8月まで空襲を受けていない都市」という条件で投下地が選ばれ、なかでもグローブスは京都への投下を第一に主張したという。「京都は住民の知的レベルが高く原爆の意義を正しく認識するだろう。京都駅を中心とした直径5キロの市街地に投下したい。また、広島は、地形から爆風の収束作用が強まり被害が最大限の効果を発揮する」そのような記録が番組では公開される。
本当なのだろうか、耳を疑いながら、しかし当事者の淡々とした肉声に胸をえぐられる。(長崎資料館で見た上掲の写真を思い出しながら、、、)


京都への投下は陸軍長官のスティムソンが否認、そのとき既に度重なる都市空襲が大量殺戮であるという認識があったのではと番組は語る。そして就任間もないトルーマン大統領は「そもそも私は戦争がどう進んでいるのか知らされていない」という戸惑いのなか軍の主張を検証することなく広島への原爆投下を黙認してしまったというのだ。8月8日に大統領トルーマンは広島市街の写真を見て動揺した。にもかかわらず動き出している作戦にストップをかける決断に及ばず、翌9日の11時2分に長崎に2度目の原爆が投下され、8月10日になってようやくトルーマンは閣僚を集めて大統領権限を発動、原爆の使用中止を決断する。当初案では1945年中に17発の大量投下が計画されていたという。

「人々を皆殺しにしてしまったことを後悔している。日本の女性や子供たちへの慈悲の心は私にもある。8/9トルーマン」

「新たに10万人、特に子どもたちを殺すのは考えただけでも恐ろしい。8/10トルーマン」

との記録が番組ではさらに紹介され印象に残った。トルーマン大統領は市民大量殺戮を認識しながらも「命を救うための原爆投下」という大義名分を発したのだ。
もしもあの日々に大統領が自らの失脚を恐れず、正直な心の声をごまかさず、自らの人間的なおののきと後悔の念を公に発話していたら、歴史はどうなっていたのだろうかと、思う。

71年目にしてオバマ大統領は広島の慰霊碑の前でこう言った。
「より高い信念という名の下、どれだけ安易に私たちは暴力を正当化してしまうようになるのか」と。
この言葉を思い出しながら先の事実を知るとき、より複雑に心が乱れて仕方がない。

「より高い信念」などと。
僕らには目の前にある現実を克服できない弱さが未だにあり、経済に翻弄され、暴力に抗う知恵と言葉と方法を未だ持ち得ていない。
その認識からなのではないか、そう内心思う。

「22億ドルの国家予算を費やしているので効果を証明しないと議会から追及される 。戦争が終わるまでに原爆を使いたい」

これはグローブスの言葉である。この言葉をスティムソンもトルーマンも、聴いていたという。





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言葉、からだ、現在を越えゆくもの。

2016-08-08 | 公演写真&記録(国内) dance works in JP(photo etc)
言葉以前の言葉という言葉を以前ダンス公演のあとにいただいたことがあり、それを具体的に意識化する困難をも感じながら、しかし何度かの舞台を重ねながら次第次第にからだとことばの間に勝手に張り詰めさせていた膜のようなものが薄らいでゆくような感覚を、今秋の公演準備のなかで味わい始めている。

それはそれとしても、言葉なるものの重さを感じことが最近とても多い。

思い出せば、言葉の重さを痛感した一つが、言葉が肉体を破って出ることを同時に肉体が破裂寸前の言葉であるようにさえ感じたアレン・ギンズバーグ自身によるナマのビートパフォーマンスだった。

それは20世紀が終わるある夜の永田町の砂防会館だったが、自民党本部に近いそこは田中角栄がロッキード事件に関する初の会見を開いた地点つまり歴史のからくりが「舞台」すなわち「明るみ」に上げられた現場の一つだったという記憶が重なり(この日を境に日本人の政治家に対する眼差しが急速に冷却され、やがて一国の総理大臣を務めた人物は「田中」と呼び捨てにされて逮捕された)その当時の空気のなかで資本制民主主義という政治言語の裏を知覚し始め言論なるものの空々しさとさらには言語なるものの実体をさえ懐疑しながら育った僕らの世代には、偶然としてもその記憶の宿る場所にビートニクスの声が響きわたったその瞬間は「不屈の声」を垣間見たように生々しく刺激だった。
あの夜の、歴史の過程を共有しているのではないかというような感覚に対して、同じギンズバーグの言葉に触れる場でも21世紀の今度は、ある波を過ぎてなお深く身体の内部に響き蠢き続ける魂のどよめきに触れているような、発話される前の言葉の根っこに触れるような、あるいは一度発話された言葉が分解や溶解を経て新しい個の思索の渦を形成してゆく感覚を覚醒されるような「体験」を(ライブ当夜にも記事を書いたが)コンサートホールという中間地点(しかしその場所は3.11震災当夜の奇跡的演奏会の場として記憶された場所でもあるが)で行われたパティ・スミスとフィリップ・グラスと村上春樹によるリ・リーディング(読み直し=声と音楽による詩の再構築)によって与えられたように思う。

ギンズバーグというある詩人の誕生日であるその夜に集い詩人を思い出し詩人に語りかけ耳を澄まし合いやがて最終的には「ピープル」というこの詩人の痛みさえ連想する言葉を軸にした「ともに歌う」という行為に、会場全体で帰結を成したその夜は、個、の言葉というものが発話の地点を離陸した遥かあとに他者に受け継がれながら新しい魂や熱に着地し得ることの証しにもさえ、聴こえ、た。

時を越えて他者に受け継がれながら繰り返される言葉、詩、リサイト。

言葉の声。その残響をリピートしながら「真実を知りたければ劇場に行け」という古い言葉を思い出した。

それはアポクリファ(聖書編集から何らかの理由で外された書)の一つヨハネ言行録の一部だが、歌や踊りを聴き見つめながら人が生き方を振り返り「一人」の人間に帰還するための場所、神さえも思索の対象となる自由な感性の空間、蠢めく魂と言葉の混沌する場所、劇場とは祭りとはそういう場所でありそこに真実を知りたいならば、行け、と古人は書いたのだと思う。

しかしそのような場所でさえ暴力の対象になってしまう時代に僕らは生きていて何故いま生活者が集う場とその一人一人が傷を担わされるのかと悶えている。権力者も反権力者も、劇場なるつまり文化の現場を何を共有する場と思っているのだろうか。

そこには娯楽も享楽も訪れてあるがその背後には集う一人一人が怒りや渇きや矛盾や沈黙が反響しているはずで演者・裏方・見所それぞれふくめ集う私たちは一人一人が別なる思いを思いながらも劇場の狭い空間や祭りの喧騒のなかで言葉なき言葉を共有して新しい意識を模索してゆこうとしているのだしイデオロギーなどでは全く語り得ない無数の共感と反感の波打ちを舞台と客席の闇で反射しあいながら一人一人の心をプロセスしているのだということを彼らは知ろうとしているだろうか。

もし世界に語りかけたいならば銃ではなく歌をもって暴力ではなく発話をもって、力、としたい。
希求するものを想像力や哲学の仕方で交感し温めたい。
そう思って劇場や祭りの場に人々はわざわざ集うのではないだろうか。

実社会で立たされざるを得ない立場から離れて「一人」に還る時間と場所。
互いの別なる言葉を語り互いの沈黙を感じ互いに個に還ってゆくこと純粋な一人になって何かを感じ考えることそれを、劇場は確保する場だ。

僕らは無力だが無意味ではなく、とても小さなエネルギーの端っこではある。ゆえに集う。ゆえに語り歌い踊る。ゆえに見つめ、ゆえに傾聴する。

世界はおおむね無力者のささやかな営みの場所でそのなかにある劇場は祭りはとても小さな自由区だしかし、ほんのすこしのエネルギーが微かに微かに何かを変革してゆくことを信じている人々の場でもある。

世界は反感と共感の波打つ海でありそのなかにあるからこそ、例えば踊る、例えば歌う、例えば詩を書き、例えば一枚の小さな絵を描いて、互いに何かを託すのではないか。互いを見つめ、互いに耳を傾けてゆく、のではないか。

一羽の蝶の羽ばたきが、決して無意味でないように、、、。

相次ぐテロとそれらに対する権力の処し方のなかで、暴力でなく言葉を、銃ではなく歌を踊りを、と、切に切に思う。

抗う敵は、本当は何なのか、どこにいるのか。人を苦しめる力は、人の苦しみや不毛は、いまどこに根ざしてあるのか。世界は心で変わるのだから、一人一人の心の働きを、もっともっともっと一人一人が自分の心を感じて自分で考える時間がほしい。それは一人の重さを復権することにも繋がるはずではないか。そんなことを漠と考えていると、先のパティ・スミスたちがあえて「people/ヒトビト」という言葉をいま発話し直そうとしたことも、腑に落ちてくるのだった。

「考え、伝え、共感を待ち、行動する」そのような時間の使い方を獲得し、語りかけることによって不要な殺しを避ける、という知恵を得たことこそが霊長類におけるサピエンス(考える存在)への大きな進化だと読んだことがある。

怒れども過激にならず、小さく無力な言葉をこそ丁寧に紡いで、響き合いを待つ。そんなことを、もっと大切に出来ないものか、と思う。一人の運命は世界の運命に、おそらくは相似するし「私たち」とは「一人一人の他者」による「異質なるものの鎖」なのではないかと、思う。

ふと思い出して、このメモを書いた。


●櫻井郁也・次回ダンス公演info.
公演ホームページ http://www.cross-section.x0.com


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断片:8月6日

2016-08-06 | ダンスノート(からだ、くらし)
広島忌の今日、リオ・オリンピックが始まった。開会式の場で原爆の黙祷をするというプランを演出家は構想し、広島の松井市長も文書提案していたと聞いた。実現しなかったが代わりの案が工夫されていた。しかし表面にこそ出てなくとも、どこかにその気持ちが響いてあるのだと思いながらサンバの肉体と聖火の瞬間を見つめた。

昨年の今頃は長崎にいた。70回目の8月を踊るためだった。
悲しみの火に包まれ魂たちに現在を生きる者の火がどんなふうに見えたのか、いまだ気になっている。

今年の夏は新作のリハーサルに明け暮れているが、やはり8月の青空と太陽は僕に踊りなる行為の根っこについて問いかけてくる。
楽しいときばかりでなく、悲しみから、絶望からさえも、無力のなかにあってさえも、いや、そんなときにこそ踊りは人から湧き出て血と肉を揺すり魂を蘇生させてきたということを、思う。

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シン・ゴジラ:面白っ!

2016-08-05 | アート・音楽・その他
遊びがてら「シン・ゴジラ」に行ったら、これが物凄かった。
日本映画をナメちゃいけないと、びびった。

凝りに凝った無数のショットのなか300人を超える俳優そして一匹の怪獣(実は伝統芸能の花形)が総力の体当りだ。
定番にして過激、妄想とスピードにザラザラした現実が絡み、たかがゴジラされどゴジラなゴジラ感覚が暴走する。カタストロフィがすでに絵空事でなくなった僕らのやるせなさはもちろん溜まりに溜まった泥を真っ赤にさらにムラサキに怒りながら、ゴジラは暴れ尽くし映画もろとも凍結し立ち尽くす。

はなから祭り気分で集まる僕らをものの見事に仰天させる仕掛人たちの技は痛快そのもの。ゼロから何かを立ち上げてゆく立場としては、今回のゴジラに、小理屈するヒマもなく拍手せざるを得ないし、さらにゴジラ=実は野村萬斎の動きの精妙さは真面目に面白い。野性の生態を克明に直感したような運動感覚は怪物の凶悪さや恐怖のみならず時に生命特有の愛くるしさや絶望さえ湛えるから、観る僕らの心理も撹乱されて甚だしい。

いや、そんなことはまたこんど。とにかく面白い、やられた、そして、やられたままでは気が済まない怪物に負けてなるものかとバカに燃え、妙に背を押されてしまった、いや、頭突きを喰らった。

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ボルタンスキー展:楽しみ!

2016-08-03 | アート・音楽・その他
クリスチャン・ボルタンスキーの大規模な展覧会が目黒の庭園美術館で実現されるそうだ。
「アニミタス-さざめく亡霊たち」

数年前に踊った越後妻有トリエンナーレという芸術祭で、やはり参加していたボルタンスキーの二つの作品に触れたときの興奮が未だ消えていない。

廃校の校舎全体が死者の記憶に満たされたインスタレーションと、より衝撃波が強かったもう一つは、新築された美術館の真新しい庭全体に大変な量の着古された洋服が積み重ねられて巨大な山になっているその山を建築解体に使う重機がバサバサと切り崩し続けている、という風景を出現した作品だった。

その作品にメメントモリという言葉や解釈を重ねるのは安く易いが、そんな意味付けを一笑してしまうような現在進行形の破壊と生成が、バクバクとした心臓音の大音量の轟きと一緒に、そこに場としてあった。(写真)

大変な共感と畏怖を感じた。それは視覚の経験というより、全身の知覚が揺さぶられるような臨場感の経験そのものだった。

まこと勝手な思い込みかもしれないが、ボルタンスキーの美術は、身体なしに身体以上の生々しさを出現させているように僕は感じる。物質の沈黙によって、あるいは沈黙の堆積によって、空間の沈黙に漂う無数の目に見えない存在が声を発し始めるようでもある。不在という実存の凄み。喪失に内在する生起。

文学で言えばドストエフスキーにも近い深い淵を、あるいは、存在そのものについての黙示録とでも言い得るような大きなものを、僕はボルタンスキーの作品を目の当たりにして感じてならなかった。

今回の大規模な個展で、ボルタンスキーはいかなる振動を僕らにもたらすのだろうか。
始まる前から、胸がざわざわする。


「クリスチャン・ボルタンスキー
アニミタス-さざめく亡霊たち」
2016年9月22日(木・祝)–12月25日(日)東京都庭園美術館
http://www.teien-art-museum.ne.jp/exhibition/160922-1225_boltanski.html

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