ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○人が不安感に苛まれるのは、生きるための大切なモチベーションだと、僕は思う。

2011-02-10 17:08:41 | 哲学
○人が不安感に苛まれるのは、生きるための大切なモチベーションだと、僕は思う。

人が不安感に襲われて、えも言えぬような不快感、精神的苦痛、恐怖心、投げやりな気分の虜となることが多い。こういう現象だけを見れば、不安という概念は、どう控えめに考えても、負の要素が強いと思われがちだろう。確かに何事もなかったのに、唐突に襲ってくる不安感、悪夢を見て、起きぬけに感じるどうにも制御不能な不快感などは、生きるためのモチベーションどころか、逆に生きていたくない、という領域に属する感情を惹き起す。ただし、それは、あくまで現象的に、という条件つきで。

考えてみれば、人は物心ついた頃から、想像力の中で、この種の恐怖感に襲われ、それが結果的にどのような感情を惹き起すのか、という明確な確信はないにしても、自分の身の置き所を失ったような感覚は、子どもなりに感じとることの出来るものである。つまりは、不安感とは、自分の立ち位置を見定めることが出来なくなった状態と言い換えることの出来る概念性だと規定出来るのではなかろうか。

よく自分は不安だから、死んでしまうのではないか?という切羽つまった疑問を投げかけてくる人たちがいる。しかし、この問いかけはまったく死とは真逆の精神構造のベクトルから発せられる発問なのである。人は不安だから死ぬのではない。誤解を怖れずに言うと、人は不安だから生きようとするのである。自分の立ち位置を強固にするように生きようとするのである。そのプロセスで、人は不安とは無縁の生き方を結果的にしたいと望み、実際、そのようにふるまうのである。だから、人は生きるという行為の中から、不安という概念を普段は忘却しているに過ぎないと言っても過言ではないから、生と不安とは切っても切れない関係性にあるのは、必然でもある。

不安という概念をもう少し違う角度から眺めてみると、人が不安に駆られるときは、大概において、自己のこれまでの生き方に何らかの可変を加えねばならない原因があり、そのための自己修正を加えようとする大切なファクターなのである。そうであるからこそ、強い強制力を伴って、自己の裡に差し迫ったかたちで、襲ってもくるのである。自分のこれまでの立ち位置を揺るがすほどの威力がなければ、どうして生き方の修正に関わるような力を持ち得ようか?不安の概念は、その意味で強烈なのである。生きるために、それは強力な強制力を持って、立ち現れるのである。

確かに言えることは、不安の向こうには、必ず不安を克服した後の、自己の生き方、思想のあり方の、再構築した結果が見えている、ということだ。だからこそ、不安を怖れてはならないし、不安感に伴う後味の悪さも同時に引き受けなければならない。それが、人がこの世界を生き抜くための大切なレッスンだからである。さあ、みなさん、生き抜きましょう!不安を抱えながら、ね。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃


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