ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

どの様な治療でクライアントの皆様が回復していくか。私の読書便り、日常の出来事などエッセイ風に書いていきます。

○疎外、疎外、疎外・・・

2012-05-06 15:13:15 | 歴史
○疎外、疎外、疎外・・・

疎外という言葉は、抽象語の中でもかなり理解しづらい概念だろうけれど、たぶん、誰もがかなり精度の高い理解をしている語彙だ。たとえば、外的な重圧によって、自分が本来の自分でなくなる、とか、人間として生きることが困難な状況に置かれること、といった感覚的な理解が誰にも出来るような言葉の一つだ。抽象語なのに、この言葉を聞くと、具象的な共通感覚を抱けるから不思議だ。たぶん、いまどきの若き人たちも、疎外という言葉を使だろう、少なくとも言葉に敏感な人は。

疎外という言葉の出どころは、ヘーゲルの、あの難解な書である「精神現象学」であり、マルクスが「経済学・哲学草稿」という書で、ヘーゲルの疎外という概念を援用し、敷衍し、論述して、この言葉が定着したのだろう。とりわけ、戦後民主主義的精神風土の中で、日本において疎外といえば、ヘーゲルを思い浮かべるよりも、誰もがマルクスを想起した、と思う。そして、疎外とは、「人間があるべき自己の本質を失う状態」というような概念性として、諒解していたものと記憶する。マルクスの疎外論は、実に大きな広がりがある。思い起こすだけでも、人間の労働からの疎外、自然からの疎外、人間からの疎外、そして真の自己からの疎外を伴う、資本主義のもとで頂点に達する近代世界における疎外について、論及したわけだからたいしたものだ。

忘れてはならないことがある。東側諸国が総崩れした折に、資本主義の大勝利だ!社会主義も共産主義も社会的・経済的破綻をしたわけだから、マルクスの思想のすべてが間違っていたのである、なんて馬鹿なことを喧伝した低脳な学者たちがいたし、マスコミの論調も深き分析もなく、そういう論旨に乗っかって、資本主義に対する批判の言辞をすべて引っ込めてしまったことの功罪は大きいと、僕は思う。その当時、ブレジンスキーという三流の経済学者が「資本主義の勝利」なんていうセンスなき書を出すし、そもそもなんでブレジンスキーなどという名前を覚えているかと云えば、僕自身が、この書を買って読んだからである。まったくもって、どうかしていた、と思う。東側諸国の諸矛盾が明らかになって、共産主義的共同体社会に対する夢を挫かれた感があるけれど、そういう矛盾は、そもそも、社会主義とか、共産主義という政治思想に名を借りたスターリニズムによる絶対主義的な恐怖政治がまかり通っていたからに他ならなかったのに。東側の思想はすべからく警察諸国だった、なんていうデマゴギーが当然のように囁かれ、マルクスもヘーゲルも、社会主義思想も、共産主義思想も否定すべき対象にされてしまった。バクーニンやクロポトキンのような無政府主義に至っては、夢物語の域にまで貶められてしまったから、資本主義がもたらした社会的矛盾そのものに対する批判の芽を摘み取られた感が強かった。かつての帝国主義が、他国を平気で蹂躙し、富を当然のごとくに我が物とし、そのようにして蓄積された財を金融資本にして、それもみんなが潤うならまだましだが、ごく一部の富める者たちのための社会的・経済的システムが資本主義の根源だから、これは、搾取されている大多数の人間にとっては、この世界に生き続けること自体が疎外と同義語のごときものになる。当然の成り行きだ。

深く心に刻んでおこう!不幸なことだが、この世界から戦争や紛争というものはなくならない。何故なら、世界を支配するごく少数の、金持ちたちが政治を支配し、さらなる欲望を満たそうとするからである。世界中に散らばっている資源は、彼らをさらに富ますための素材である。それらを独占するために戦争は仕掛けられるのである。至極巧妙に。民主化という名を大儀名分にすれば、戦争も合理化される。そんな時代に、持たぬ者として、大半の市民は生きているのである。疎外感を感じるのはまっとうな感覚だろう。絶望することなく、差別される側の人間としての自覚を持って世界に居座ってやろうじゃあないか!差別されていることにすら気づかないで生きるなんて、人間にとっての最大の屈辱だ。そういうことに気づいた上で、生き残ってやろうじゃあないか!ねえ、みなさん。

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○テロとの戦い?それだって、テロリズムだろうに。

2011-09-10 14:44:35 | 歴史
○テロとの戦い?それだって、テロリズムだろうに。

もう何十年も前にベトナムで懲りているはずなのに、それ以降もアメリカは他国への干渉を止めることがなかった。9・11以降のブッシュが「テロとの戦い」などというスローガンを掲げたから、まるでアメリカはずっとテロリズム撲滅のために他国への侵攻を続けているかのように錯誤する若者だっているのかもしれない。

アメリカを例にとれば、あの国は、建国以来ずっと侵略の歴史に血塗られている。東海岸に辿りついた入植者たちは、途中、イギリスからの独立戦争を乗り切って、ネィティブ・アメリカンを駆逐しながら、西へ西へと侵攻していったのは歴史的事実としてよく知られていることだろう。ゴールドラッシュが侵攻のスピードに輪を駆けた。広大なアメリカ大陸は、西に行けども行けども、無尽蔵のフロンティア(あくまで入植した白人たちにとっての辺境だ。ネィティブ・アメリカンにとっては、豊かな自然そのものであって、辺境でもなんでもなかったのに)が眼前に広がっていたのである。彼らが西海岸に辿りつき、アメリカ大陸の果てを見たとき、彼らの関心は、太平洋を隔てた他国へと移っていって、帝国主義的侵略を繰り返しながら、現代も懲りずに同じ路線上に居座っているのである。

テロリズムの中で最も凄惨な形式は、無差別テロだ。当然、非戦闘員が攻撃の対象になる。降って湧いたような唐突な死。無差別テロの犠牲者たちほど不条理な死を強いられた人々はいない。そのことを認めた上で敢えて書くが、アメリカ政府が本国を(日本軍の真珠湾攻撃以外は)、9・11のように攻撃されたことは歴史上ない。貿易センタービルの崩壊は衝撃的だったが、難攻不落と言われていた、ペンタゴンが脆くも壊れ去って、内部が丸見えになったのは、不謹慎な言い方だが、滑稽としか形容のしようがない。人間が創った物事の限界性と神話性を突きつけられた想いがしたのは僕一人ではなかっただろう。しかし、現実に歴史上、アメリカが他国に侵攻して、その国のためになったことなどない、と思うのだが、みなさんはどうか?話を絞って、テロとの戦いの後のアフガン侵攻、イラク侵攻後の、侵攻された側の今日の内政の混乱ぶりの責任をどうとるつもりなのだろう?経済的困窮のために今回は直接参加しなかったが、イギリスやフランスが中心になって、リビアの反政府勢力に無際限に武器弾薬を供与した。その後の混乱の始末に対して、西欧先進国はをどう責任をとるのだろう?エジプトのムバラク以降の責任は?また、アフリカ諸国の政府転覆後の混乱をどのように収めていくのだろうか?当然のことだが、長年の独裁政権が政治的・社会的不平等を生み出すのは分かり切っているが、そもそも独裁者を倒す側の、反政府勢力そのものを支配したいのが、民主主義という錦の御旗をタテにした西欧諸国なのだ。政府転覆の大混乱の渦中で、人間の個としての善意や良識なんて、吹っ飛んでしまう。その後に残るのは政治的権力を手中に収めたい権力志向者か、経済を独占したい欲深な輩と相場が決まっている。そういう輩を手玉に取るのがお得意なのも西欧諸国だ。分かり切ったことだけれど。

力なき小国が大国に対抗する手段としての最悪で最も有効な手段がテロリズム。それも無差別テロだが、核兵器も含めて武器弾薬の有り余っている大国がテロリズムを、「テロとの戦い」などというスローガンで正当化するなんておかしさを通り越して、政治的非常識でしかない。いま、アメリカのニューヨークでは無差別テロが起こり得るという、たぶんかなり確率の高い情報下で、重々しい警備体制が敷かれている。オサマ・ビンラディンへのアメリカのテロに対する報復なのだろう。ともあれ、人間が圧倒的な力の差異に抑圧されたら、その恨みは根深く残る。

アメリカは、9・11の悲劇を惹き起した指導者をテロで殺害して、海に投げ込んだ。イスラム原理主義の思想に泥を塗るようにして。そりゃあ、報復テロに怯えなければならない事態になる。いつまで、人間はこんな次元で政治とか経済が成り立つと考えているのだろうか?気が遠くなるね、まったく。気が遠くなりつつ言うならば、ともかくも、富の独占はいかん。各国がもっと、もっと、豊かに人間らしい生活が出来るような世界にならないといけません。これが政治や経済を司る際の基本的土壌だろうから。今日の観想として、書き遺す。

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○僕のブログに対するコメントに関して想うこと。

2011-08-31 16:17:50 | 歴史
○僕のブログに対するコメントに関して想うこと。

朝鮮学校無償化断固反対! 文科省前抗議街宣 (つばめ)
2011-08-30 13:41:03
菅直人の最後っ屁「朝鮮学校無償化」 を粉砕するぞ!北朝鮮による国家テロに加担する反日勢力を叩きつぶそう!日本人拉致事件など北朝鮮による国家テロ事件が未だ解決していない状況で、朝鮮と強いつながりを持つ菅直人前総理は最後っ屁よろしく朝鮮学校無償化の手続きを開始することを決定しました。朝鮮学校における反日教育の実態、現在覚せい剤の密輸などの罪で国際指名手配を受けている曹奎聖容疑者(元下関朝鮮初中級学校長) 、日本人拉致実行犯辛光洙容疑者の共犯者金吉旭(元大阪朝鮮民族学校校長) 問題などなど朝鮮学校を巡ってはその教育内容や凶悪犯罪問題だけではなく、学校長などの職員に相当する者たちが金正日の直裁を経て任命されるなど、朝鮮総連と同じくテロ国家北朝鮮の出先機関としての側面があります。こうした諸問題を無視して(彼らの言うところの) 民族教育という名の反日教育を日本国民の税金を使って運営するなど、まともな国家としてはありえない話です。在特会はこの問題において断固反対の姿勢を表するために、担当省庁の文科省に対し朝鮮学校無償化を認めないように抗議の声を直接届けます。

僕のブログに対して、上記のコメントが入りました。もっとも、同じ趣旨のコメントは他のサイトにも投稿されているようで、たぶん、僕のブログの中の何かのキーワードに反応して自動的にペーストするようにしている類のコメントであるのはよく分かっています。この点からだけで判断すると、エロサイトから擬音語で悶絶しながら、ええ想いをして金までもらった!という類のものと同種です。こういうエロサイトにも、以前は返答していたのですが、ペーストした側も二度と見ないものだそうで、現在は削除しています。上記のコメントも同じ考え方で機械的に削除しようか、とも思いましたが、内容が無視できないものなので、コメントを返すかたちで、僕のブログに残してあります。つばめさんという人が所属している団体がどのようなものなのかは定かではないですし、単なる右翼の差別主義者である可能性もありますけれど、一部、考えを一にするところあり、大半の論調は、ネオ・ナチズムを想起させる匂いもするので、再度ブログというかたちで、僕の考え方をきっちりと書いておく必要を感じました。

管直人という人物は、信用できません。無論、その前の首相であった鳩山由紀夫は政治を混乱させただけでしたし、いまは政治的力量を伴わないフィクサー気どりですから、当然信用に値しません。また、それ以前の自民党首相の麻生太郎は漢字もまともに読めない人だったので、いっときは麻生効果なのか、「漢字検定試験」が流行りました。それにテレビのバラエティ番組でも漢字を言い当てるクイズ形式のものがいくつも放映されました。それにしてもおかしなことが起こり続けました。また、麻生の前の安部晋三首相も参院選の大敗で、退陣を促されていたのに、無意味に首相の座にしがみつこうとしました。安部が首相を辞めたのは、誰の説得も無視したにも関わらず、肝心の本人がどう見てもかなりひどいうつ病を患い、その任に耐えられなくなったからでした。そういう意味では、自民党大敗も頷ける結末です。民主党が政権をとったのは、自民党政権の屋台骨が腐っていたからです。僕の考えでは、そもそも保守二大政党制などというものは、アメリカの民主党と共和党の慣れ合い政治のものまねで、本質的な政策論議など出来ない政治的土壌の上に出来あがった新政権でした。だからこそ、政治的大連合などと恥知らずに言えるのです。いくら東日本大震災があり、その結果の福島原発の、恐らくはメルトダウンにまで到達するだろう危機的状況下においても、各政策の合意によって難局を協力しながら解決するなら分かりますが、政治的大連合などと言い出すと、もう、これは訳がわからなくなります。政治的大連合などというと、もはや政策的論議すらなされなくなりますから、状況のあり方によっては、挙国一致などというようなことになりかねません。それは戦前・戦中の状況に近いものに変質する可能性を孕んでいますから、危険極まりないことです。

管直人が首相を辞める直前に文部科学大臣に朝鮮学校授業料無償化審査の再開を指示したという事実は、やはり僕も首をかしげたくなることです。無論日本には韓国系の学校もありますから、同様に審査対象として再審査せよということになったわけなのでしょう。

たとえば、日本が諸外国に日本人学校を創設した場合、僕の認識に間違いがなければ、それは当然に私学です。学校法人としても認可対象にすらされません。当地の国の税金が投入されるなどということはまずあり得ませんね。客観的なものの見方としてもやはり、税金投入などということはおかしいのです。日本が戦前・戦中の朝鮮・韓国に対して侵略を犯した事実が起因しているならば、原爆を二発も落としたアメリカだって、日本人学校の授業料に税金を投与してくれても当然でしょう。敗戦は原爆を落とさなくても分かり切っていたのです。ドイツには落としませんでした。アジア人に対する明らかな差別主義ゆえですし、日本を原爆の実験に使ったのは、データの問題もあったと思いますが、なによりも戦後の政治的枠組みの中で、アメリカが戦勝国に対しても圧倒的に優位に立つためでした。いま、福島原発のメルトダウンを前にして、IAEAのデータの中核は、広島と長崎の原爆データがものを言っているのですから、なんとも皮肉な事実ですね。

さて、北朝鮮のことですが、建国の父とされているキム・イルソンの日本軍との勇壮な闘いすら、偽装された歴史改ざんだと言われています。当時、キム・イルソンは、ソ連の粛清の鬼と化していたスターリンのお気に入りで、日本軍と闘うどころか、ソ連軍と行動をともにしていたと云われています。キム・イルソンにまつわる英雄的行為も、彼の育ちもすべては、虚構にまみれているようです。そういうことを民族主義と称して、朝鮮学校では歴史として教えているわけですから、これはおかしいと断ぜざるを得ません。息子のキム・ジョンイルにしても、世界の問題児です。ロシアも中国もキム・ジョンイル体制を崩壊させて、実質上韓国に併合されるよりは、死なぬ程度に生かしておこうという腹づもりなのでしょう。また、いまの体制を受け継ぐのが、キム・ジョンウン。未来はないと思います。また、歴史的に誤った民族教育を施して、誤った世界認識を持つような子どもたちを育てようとする朝鮮学校に対して、日本の税金を投入する意味が分かりません。菅直人は間違っています。

つばめさんが所属する在特会なる組織が、ネオ・ナチズムのような民族的排他主義でないことを願っています。排斥するのではなく、共生する思想しか、未来を創造していく力にはなりません。無論、朝鮮学校無償化には、僕も反対ですけれど、だからと言って、共生の思想を構築することなく、どうして世界が発展していけるでしょうか?今日の観想として、書き遺します。

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○タラタラと生きるよりは・・・・・

2010-11-20 20:49:31 | 歴史
○タラタラと生きるよりは・・・・・

 テレビドラマの「龍馬伝」に対する批判が郷土史家たちの間にあるらしい。史実を曲解している諸点があることに憤っていると聞く。また、朝日新聞に、土佐出身の医師が、龍馬待望論が湧いてくるような精神性が危ないのだ、と厳しい意見を述べてもいた。この種の批判は、当然あってしかるべきだろうし、それを言下に否定するつもりは毛頭ない。歴史的史実とは当然のことだが、ドラマよりもずっとブザマで、生なましい出来事と偶然性とがない交ぜになったものだろう、と想う。また、龍馬を暗殺した相手も史実として特定出来ていないのをこの番組では、京都見廻り組の犯行として締め括るらしいから、「龍馬伝」は歴史をもとにした<物語>として、あくまで楽しむべきものだろうとは思う。とは言え、事実、坂本龍馬が歴史上果たした役割は並みの人間には到底出来はしないことだったと思う。やはり、これまで何度となく映画化され、テレビドラマ化されてきたのは、それだけの存在理由があったわけだから素直に認めるべきは認めようではないか。
 これまで何人も龍馬役をこなしてきた役者はいたし、それなりの名演だったとは思うが、不思議にそれらの映画やドラマを通じて、幕末・明治維新に対する興味が自分の中で湧いたかと言えば、ウソになる。歴史的史実としては、このあたりの時代的背景は、日本にとって切羽つまったものであったのに、不思議と興味を惹かれなかった。やはり、福山雅治という役者は、これまでの龍馬役の、凄みばかりを強調していた個性を限りなく人間的次元に引き下げてくれたという点で、すばらしかったと思う。人間が、人間の頑ななまでの思想を変革し得る醍醐味が、この番組の最も重要なファクターだったのではないか。人の根底的な思想をたとえいっときでも変え得るには、福山雅治のようなイケメンでないとアカンか?と思わせてしまうから、やはり坂本龍馬再評価は、福山の演技力と個性に負うところが大きいと思われる。
 現代という時代が、どこか殺伐としたものでしかなく、生き難いと感じるのは、何にも経済的な不況だけが原因ではなかろう。不況だから、多くの経営者がアメリカ式のリストラを横行させるばかりか、安易に労働者の賃金を切り下げて、恥も感じることなく、平然としていられるのは、人間が人間として扱われていない証左ではなかろうか。また、切り捨てられてしまった側も、危うく職場にしがみついている側の人間も、少しずつ自尊心を喪失してきたのではなかろうか。人間はなぜ生き抜けるのか?それは自尊心ゆえではないか。自尊心がないがしろにされ、人間存在そのものが金銭と換算される価値主体と化してしまった現代に、人が人の心を動かし得る醍醐味と、感動と、その喜びとを感じることなどできるだろうか?21世紀という時代が生きていて、ちっともおもしろくもないのは、人と人との感性が触れ合い、感性が他者の思想の琴線を刺激し、他者の思想そのものを変革してしまう、謂わば<革命性>が欠如した時代だからである。
 「龍馬伝」を楽しんで、福山雅治が大好きになってしまう人は増えていると思うが、あの番組に込められた本当の意味、凄みというのは、脚本家の狙いどおりに、人の心の奥底に眠っている、世界を変革したい、という願い、それを革命性と呼んでも差し支えないが、革命的な思想、感性をくすぶっているからに他ならない。だって、世界に存在することが退屈だと感じたら、その後に出てくる意識とは、煎ずるところ、つまらない世界を破壊し、再構築することでしかないだろうから。ただ永く生きたいのであれば、そうすればよいが、まともな人なら、自己の生に意味を見出したいと思うことだろうから、だからこそ、福山演じる龍馬は人気があるのだろう、と僕は思うな。
 あと二回で「竜馬伝」は完結する。来週は、大政奉還が成し遂げられる瞬間に、龍馬が、日本が変わるぞよーと空に向かって叫ぶ場面があり、その一方で、敵味方の区別なく坂本龍馬という人間の役割が、あの時代性と比較して、進み過ぎた存在であるがゆえに、邪魔になったことが示唆される。龍馬暗殺は、坂本龍馬に関わった人間の誰もが可能性としてはなし得る行為だったと思われる。時代を凌駕した思想と実践ほど、時の権勢欲の邪魔になるものはないのだろう。龍馬は幕末期の、日本型の革命家だったと僕は思う。チェ・ゲバラが、キューバ革命後のキューバの建設相の地位を捨て、ボリビアの深き森の中で、闘い抜き、敵の銃弾に倒れたように、坂本龍馬も、その革命性ゆえに、命を奪われたのだろうと思う。満年齢でいえば、31歳で命を落としたことになる。しかし、タラタラと命だけを永らえている凡庸な生と比べて、彼の生涯は果たして短かったと云えるのかどうか。人の命の意味なんて、無駄に生き永らえることではなかろう。自分が生きる時代を選べないのが不条理で致し方ない。

推薦図書:「幕末維新 あの人の「その後」」日本博学倶楽部編。PHP文庫。あの時代に生きた人々は、すべからく時代に翻弄されています。全肯定などする気はありません。それは龍馬も含めてですが、一個の人間の存在理由があった時代ではありました。羨ましい限りです。

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