○疎外、疎外、疎外・・・
疎外という言葉は、抽象語の中でもかなり理解しづらい概念だろうけれど、たぶん、誰もがかなり精度の高い理解をしている語彙だ。たとえば、外的な重圧によって、自分が本来の自分でなくなる、とか、人間として生きることが困難な状況に置かれること、といった感覚的な理解が誰にも出来るような言葉の一つだ。抽象語なのに、この言葉を聞くと、具象的な共通感覚を抱けるから不思議だ。たぶん、いまどきの若き人たちも、疎外という言葉を使だろう、少なくとも言葉に敏感な人は。
疎外という言葉の出どころは、ヘーゲルの、あの難解な書である「精神現象学」であり、マルクスが「経済学・哲学草稿」という書で、ヘーゲルの疎外という概念を援用し、敷衍し、論述して、この言葉が定着したのだろう。とりわけ、戦後民主主義的精神風土の中で、日本において疎外といえば、ヘーゲルを思い浮かべるよりも、誰もがマルクスを想起した、と思う。そして、疎外とは、「人間があるべき自己の本質を失う状態」というような概念性として、諒解していたものと記憶する。マルクスの疎外論は、実に大きな広がりがある。思い起こすだけでも、人間の労働からの疎外、自然からの疎外、人間からの疎外、そして真の自己からの疎外を伴う、資本主義のもとで頂点に達する近代世界における疎外について、論及したわけだからたいしたものだ。
忘れてはならないことがある。東側諸国が総崩れした折に、資本主義の大勝利だ!社会主義も共産主義も社会的・経済的破綻をしたわけだから、マルクスの思想のすべてが間違っていたのである、なんて馬鹿なことを喧伝した低脳な学者たちがいたし、マスコミの論調も深き分析もなく、そういう論旨に乗っかって、資本主義に対する批判の言辞をすべて引っ込めてしまったことの功罪は大きいと、僕は思う。その当時、ブレジンスキーという三流の経済学者が「資本主義の勝利」なんていうセンスなき書を出すし、そもそもなんでブレジンスキーなどという名前を覚えているかと云えば、僕自身が、この書を買って読んだからである。まったくもって、どうかしていた、と思う。東側諸国の諸矛盾が明らかになって、共産主義的共同体社会に対する夢を挫かれた感があるけれど、そういう矛盾は、そもそも、社会主義とか、共産主義という政治思想に名を借りたスターリニズムによる絶対主義的な恐怖政治がまかり通っていたからに他ならなかったのに。東側の思想はすべからく警察諸国だった、なんていうデマゴギーが当然のように囁かれ、マルクスもヘーゲルも、社会主義思想も、共産主義思想も否定すべき対象にされてしまった。バクーニンやクロポトキンのような無政府主義に至っては、夢物語の域にまで貶められてしまったから、資本主義がもたらした社会的矛盾そのものに対する批判の芽を摘み取られた感が強かった。かつての帝国主義が、他国を平気で蹂躙し、富を当然のごとくに我が物とし、そのようにして蓄積された財を金融資本にして、それもみんなが潤うならまだましだが、ごく一部の富める者たちのための社会的・経済的システムが資本主義の根源だから、これは、搾取されている大多数の人間にとっては、この世界に生き続けること自体が疎外と同義語のごときものになる。当然の成り行きだ。
深く心に刻んでおこう!不幸なことだが、この世界から戦争や紛争というものはなくならない。何故なら、世界を支配するごく少数の、金持ちたちが政治を支配し、さらなる欲望を満たそうとするからである。世界中に散らばっている資源は、彼らをさらに富ますための素材である。それらを独占するために戦争は仕掛けられるのである。至極巧妙に。民主化という名を大儀名分にすれば、戦争も合理化される。そんな時代に、持たぬ者として、大半の市民は生きているのである。疎外感を感じるのはまっとうな感覚だろう。絶望することなく、差別される側の人間としての自覚を持って世界に居座ってやろうじゃあないか!差別されていることにすら気づかないで生きるなんて、人間にとっての最大の屈辱だ。そういうことに気づいた上で、生き残ってやろうじゃあないか!ねえ、みなさん。
京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
疎外という言葉は、抽象語の中でもかなり理解しづらい概念だろうけれど、たぶん、誰もがかなり精度の高い理解をしている語彙だ。たとえば、外的な重圧によって、自分が本来の自分でなくなる、とか、人間として生きることが困難な状況に置かれること、といった感覚的な理解が誰にも出来るような言葉の一つだ。抽象語なのに、この言葉を聞くと、具象的な共通感覚を抱けるから不思議だ。たぶん、いまどきの若き人たちも、疎外という言葉を使だろう、少なくとも言葉に敏感な人は。
疎外という言葉の出どころは、ヘーゲルの、あの難解な書である「精神現象学」であり、マルクスが「経済学・哲学草稿」という書で、ヘーゲルの疎外という概念を援用し、敷衍し、論述して、この言葉が定着したのだろう。とりわけ、戦後民主主義的精神風土の中で、日本において疎外といえば、ヘーゲルを思い浮かべるよりも、誰もがマルクスを想起した、と思う。そして、疎外とは、「人間があるべき自己の本質を失う状態」というような概念性として、諒解していたものと記憶する。マルクスの疎外論は、実に大きな広がりがある。思い起こすだけでも、人間の労働からの疎外、自然からの疎外、人間からの疎外、そして真の自己からの疎外を伴う、資本主義のもとで頂点に達する近代世界における疎外について、論及したわけだからたいしたものだ。
忘れてはならないことがある。東側諸国が総崩れした折に、資本主義の大勝利だ!社会主義も共産主義も社会的・経済的破綻をしたわけだから、マルクスの思想のすべてが間違っていたのである、なんて馬鹿なことを喧伝した低脳な学者たちがいたし、マスコミの論調も深き分析もなく、そういう論旨に乗っかって、資本主義に対する批判の言辞をすべて引っ込めてしまったことの功罪は大きいと、僕は思う。その当時、ブレジンスキーという三流の経済学者が「資本主義の勝利」なんていうセンスなき書を出すし、そもそもなんでブレジンスキーなどという名前を覚えているかと云えば、僕自身が、この書を買って読んだからである。まったくもって、どうかしていた、と思う。東側諸国の諸矛盾が明らかになって、共産主義的共同体社会に対する夢を挫かれた感があるけれど、そういう矛盾は、そもそも、社会主義とか、共産主義という政治思想に名を借りたスターリニズムによる絶対主義的な恐怖政治がまかり通っていたからに他ならなかったのに。東側の思想はすべからく警察諸国だった、なんていうデマゴギーが当然のように囁かれ、マルクスもヘーゲルも、社会主義思想も、共産主義思想も否定すべき対象にされてしまった。バクーニンやクロポトキンのような無政府主義に至っては、夢物語の域にまで貶められてしまったから、資本主義がもたらした社会的矛盾そのものに対する批判の芽を摘み取られた感が強かった。かつての帝国主義が、他国を平気で蹂躙し、富を当然のごとくに我が物とし、そのようにして蓄積された財を金融資本にして、それもみんなが潤うならまだましだが、ごく一部の富める者たちのための社会的・経済的システムが資本主義の根源だから、これは、搾取されている大多数の人間にとっては、この世界に生き続けること自体が疎外と同義語のごときものになる。当然の成り行きだ。
深く心に刻んでおこう!不幸なことだが、この世界から戦争や紛争というものはなくならない。何故なら、世界を支配するごく少数の、金持ちたちが政治を支配し、さらなる欲望を満たそうとするからである。世界中に散らばっている資源は、彼らをさらに富ますための素材である。それらを独占するために戦争は仕掛けられるのである。至極巧妙に。民主化という名を大儀名分にすれば、戦争も合理化される。そんな時代に、持たぬ者として、大半の市民は生きているのである。疎外感を感じるのはまっとうな感覚だろう。絶望することなく、差別される側の人間としての自覚を持って世界に居座ってやろうじゃあないか!差別されていることにすら気づかないで生きるなんて、人間にとっての最大の屈辱だ。そういうことに気づいた上で、生き残ってやろうじゃあないか!ねえ、みなさん。
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