ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

どの様な治療でクライアントの皆様が回復していくか。私の読書便り、日常の出来事などエッセイ風に書いていきます。

○オーストラリア探訪記その6

2012-03-31 09:36:01 | 旅行記
○オーストラリア探訪記その6

ブリスベンへのバス待ちの時間、例によって、どこで飲んでも同じ味のカプチーノと巨大なマフィン。待ち時間も半端じゃあない。2時間半だと。書いている間もマウンテンバイクの横転でケガした数カ所がやけに痛む。それに右ヒジの打ち身の調子がよろしくない。

バスの乗り場の名称が違うと云って連れ添いは心配顔である。いまさっき、この地のホテルのピックアップバスの運転手のニイチャンに聞いたら、ここの2番のバス停で間違いなしだと聞いたばかりなのに。ブリスベンで、あと2日だ。僕は、もはや開き直った。あのチャライニイチャンの方を信じることにする。むしろいろいろ確かめようとし、あたふたしている英語堪能な連れ添いよりも。

カプチーノの出来上がりまで、奥でスムーザーをつくっているかわいい系のオネエチャンの方を見るともなしに見ていると、彼女と目があって、この地上ではなかなか見られないほどの見事な笑みを返された。よく出来たお愛想笑いの典型を承知で、あのお嬢が、オレに微笑みかけてきれたぜ!と連れ添いに云ったら、気持ち悪がられただけよ、まあ、一種の危険回避ね、などとのたまわる。わかっとるわい!そんなことくらい。わかった上で勝手に楽しんでいるんだ。中高年男の小さな楽しみを奪うことなかれ!である。しかし、だ。サンシャイン・コーストのコジャレたショッピング街のスムージーの店の、これまたかわいいオネエチャンにトイレはどこか?と聞いたら、店の奥から誰もが使えないトイレの鍵を出してきて、それを貸してくれたんだから、まんざら危険回避ばかりではなかろうに、ね。ほんとにねえ、見事なまでに僕の気持ちを萎えさせてくれるよな。この人はね。

さて、退屈感についてまた書き足そうか。僕たちが退屈であると感じるとき、その感情の底にあるのは、オレ/ワタシは<本来>こうあるべきなのに、実際は本来的な姿とはまるで違う。オレ/ワタシが退屈感を抱くのは、自分たちが本来居るべき場に居ないからだ、あるいは、なすべきことをなしていないからだ、という煩悶が頭の中を大きく占拠しているからではなかろうか?あくまで括弧つきの<本来あるべき姿>と、現実の己れの姿との隔絶、断裂が、人をして、自己溶解の危機を生じしめ、自己溶解の行き着く果ての姿が、退屈感の正体ではなかろうか?

目覚めて、ブリスベン2日目。曇天ばかりの日々が、ここにきて、たぶんオーストラリアらしい雲一つない抜けるような藍色の空だ。この安ホテルからブリスベン一の繁華街は目と鼻の先の距離だ。足の傷の痛みと、気づかなかった、そこここの身体中の痛みで、ベッドにふせってこれを書いているのである。一緒にショッピングに行こうという連れ添いの誘いを断った。この程度の不調くらいは何とかなるが、連れ添いとの買い物はいかにも楽しくないのである。海外に来たら、通貨の違いに次第に麻痺してきて、価格に見合わぬものまで平気で買ってしまって、帰国してから、クレジットカードの請求額を見て、ありゃー!となるのも一興だ。これが買い物の醍醐味というものだ。賢いお買い物なんて、おもしろくも何ともない。旅で使う金くらい、宵越しの金はもたねえ、というくらいの心構えでいいじゃあねえか!賢いお買い物は、日々のやりくりのジャンルの発想だろうが!シドニー4日目
の中華街の、怪しげなフードコートで、見事に財布を持って行かれて以来、直感的に、これは、と思うものも自分のクレジットカードを使えず、いちいち連れ添いにお伺いをたてねばならんので、ショッピングは勿論、食事、飲物、その他諸々が、すべておんぶに抱っこという錯誤にとらわれ、凄まじく気分が萎え細って行く。旅の不幸という概念があるとするなら、こういう気分・感情ではなかろうかね?

オーストラリアのどんな光景を見ても、ちっとも感動などしないけれど、この地のトイレ、これはすばらしい。公共のそれの気持ちよさ。どこもかしこもアンモニア臭すらしないんだから。手洗い用の石鹸も日本の一流ホテル並み。日本もこれは見習わないといかんね。ぎょっとさせられるような公衆トイレが日本には多すぎるし、まあ、公衆トイレなんだから、こんなものか、なんて諦めているフシもあるしね。意識改善が必要だね、日本も。

かつてはバブル時代の日本マネー、いまは、バブル中国マネーの流入の勢いをかりて、この国の景気は上昇気流に乗っている。ちょっとしたインフレだが、経済の動向としてはこれくらいがいいのではないか。市民の暮らしぶりをみても、まずまずの賃金を獲得しているのではないかと思う。日本の沈滞したデフレ経済と比べると、お金がうまくまわっている。

車だって、トヨタ、日産、ホンダ、スズキより、フォード、殆どのヨーロッパ車、それに韓国のヒュンダイ車の方が、ずっと幅をきかせている。日本こそ、3・11の悲劇を乗り越えて、景気を立てなさないといかんのに、日本の政治家や御用経済学者たちは、消費税という間接税を含めた税金を上げるんだ、と。賃金は下がる。税金は上がる。みんな金は使わんよ。ならば、当然景気はよくならないですよ。海外に出向く人たちは、日本製の車もそうだけれど、日本製の製品がどれだけその国で発見できるか、見学・お買い物のついでに観察してみられるとよろしいです。市民が賢くならないと、な〜んにも解決しないんだから、結局のところ。政治家なんてかなり、いい加減だと思うし。だって、彼らは、すべからく金持ちだから。

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○オーストラリア探訪記その5

2012-03-30 09:52:08 | 旅行記
○オーストラリア探訪記その5

あらためて書くのもおかしなことだが、人はなぜ旅をするのか?という問いに、いまさらのように突き当たった。

そもそも僕は、日常のルーティーンから、いかにすれば自由の幻影なりとも、退屈の澱の中から見いだせるのかを考えている。そんな凡庸な男なのである。日々が退屈でしかたがないのである。

人類史的な最大の誤謬とは次のことに尽きるように思う。それを簡単に云えば、人が定住するようになったのは、人の本性ゆえの、必然的な生活様式であるかのように描かれてきたことではないだろうか?しかし、人類にとって、最も自然な生きる形態とは、狩猟であり、獲物を求めて移動し続けることだった、と聞き知るに及んで、定住化の究極の形態としての、現代の、この日常性に人が収まり切れるはずがない、と考えるようになった。かくして退屈感は、現代人の普遍概念となったのだと思う。こういうプロセスの中で、僕の扱いあぐねている、この退屈の虫が、どうしようもないほどにうなりをあげるのも自分なりには納得出来はする。

さて、サンシャイン・コースト最後の夜である。雨の隙間をぬって海辺を散策する。風光明媚と云う概念を極大まで広げた雄大さ。鴨やカモメが手の届く範囲までふつうに近づいてくる。日本ではあり得ない自然の連続。そういうことに感動しないはずがないにしても、この旅がわれわれ夫婦の今後を、ともに生き抜くためのエチュードと位置づければ、なかなかに課題多き、タフな旅路の連続ではある。退屈している時間がないのである。旅路の中途での退屈感と懈怠。贅沢な負の感情である。しかし、少なくともいまは、そのような贅沢な意識からは遠いところにいる。要するに余力があいのである。今日の観想として書き遺しておくことにするか、な。 

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○オーストラリア探訪記その4

2012-03-29 11:24:25 | 旅行記
○オーストラリア探訪記その4

サンシャイン・コーストに移動。シドニーの4日間は長すぎる滞在だった。観光目的で表面をなでるなら、この地はたぶん2日で十分だ。オーストラリアへの旅で、東側の都市の一つとしてシドニーを訪れるなら、これくらいの期間の方がよい思い出として心に刻むことが出来るだろう。財布をすられた根本のところの主因と、くすねられたという、心の底からの嫌悪感を捨象しても、やはり僕は同じ感想を抱くだろう。もともとこの地に行きたし、という原初的な衝動もなかった身としては、オーストラリアの大地そのものに、たいした魅力を感じられないのである。

連れ添いの、過去の留学地という理由が、この地を訪れる動機だとするなら、そもそもいくら近しき関係性であれ、他者の過去へと同化しよう・沈潜しよう、などという試みそのものが無意味で無謀な行為だった、と総括しなければならないと思うのである。この旅は前記した意味において、完全なる失策の旅路だった。少なくともこれを書き綴っているいまの偽らざる心境だ。

サンシャイン・コーストを人々は世界最大のサーフィングの地の一つだと捉えているのではないか。無論、そのことを否定しようとは思わない。しかし、僕がこの地の存在理由を掲げるとするなら、それは高く波打つ海原ではない。それは、芝生に寝っころがって眺める広大な空だ。夜空の星は美しいが、それよりは真昼の、広大無辺の薄青い大空だ。オゾン層がどうのこうのと云う議論を超えた美しさである。この地で空の美しさに感動出来ない人がいるとするなら、その人に投げかける言葉は決まり切っているではないか!ー感性乏しき、嘆かわしき人々よ!ーこういう慨嘆しかあり得ないだろう?今日の観想として書き遺すと書きながら、夫婦とはなんぞや?と、問いかける旅路としたきものだ、互いのこととして。さて、これから南半球の眠りに落ちようか。さぞかし眠りの質も違うことだろうな。ぜひともそうあってほしいものだ。もう、ずいぶん待ったんだから。

(追記)いまさらながら思う。まるで、ぽっと出のおにいちゃんやないのか、この僕は?財布の中身をまるごと持って来てしまったなんて!紛失したカードの種類も枚数も把握していない。覚えている限りのカードは無効化したが、すべてがそうなっているかと云えば、甚だあやしい限り。さて、ついさっき思い出したこと。運転免許証に健康保険証。国民健康保険証までカード式になったのが災いしたね。帰国してからなすべきことを思うと気もそぞろ。ここには書けないことで、すぐにとりかからねばならぬことが同時並行的に身にふりかかる。一刻も早い帰国が通常の姿なのに、この地にまだ4泊?連れ添いは事の重大さに対してあまりに無知・無頓着だ。これでいいのか?聴く耳持たぬ人間にはいかなる言葉も届かない。これがリアルな事の本質だろう。まず、帰国後の行為がさまざまなところでなし得ないのだ。本当に分かっているのか、かのお人には?明日はカヤックなんだ、と。僕はむしろ溺れて死んじまいたいね。楽になれる。

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○オーストラリア探訪記の合間の短い観想

2012-03-29 00:28:01 | 観想
○オーストラリア探訪記の合間の短い観想

言葉の力の有効性と云うか、無効性についてー言葉は人の考えと行動を決定づける唯一無二の道具的存在ではあるけれど、同時に人の感情ー低次元の怒り、憤り、嫌悪などの激情ーによって、しばしばその意味を消失させられる命運を背負わされているもの。西欧における離婚率の高さ。人は神への誓いの言葉さえ簡単に反故にしてはばからない。神を信じぬ人も自身の言葉など、事情・状況の如何によって簡単にドブに投げ捨てる。かつての爆発的な大ヒットやくざ映画のタイトルー「仁義なき戦い」ー然り。言葉の規定としては格率高き定義。言い得て妙。

それでも人は生きる根拠を言葉に求めて止まない。言葉は他者との重要な言語ツールであり、共通の信念をかたちづくり、思想ともなる。言葉は無力であるのと同じ質量で、人の言動を決定づける力をもっている。そう、人は自身の理解度のありように従って、言葉によって、説得し、あるいは説得されて自己の思想を再構築し得る存在である。

さて、言葉とはそもそも力あるものなのか、はたまた力なきものか?

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○オーストアリア探訪記その3

2012-03-28 07:36:17 | 旅行記
○オーストアリア探訪記その3

シドニーという都市も3日目になると、さすがに観光客が行けるところには殆ど足を運んだことになると思う。うるさがたの連れ添いの意見は少し違うようだが気にしない。少なくともパックツアーの認識よりはシドニーという街の原質のごときものに近づいたと思う。とは云え、どのような意味においても客観性などはない。はたまた正当な根拠もないので、要するに僕の勝手な思い込みであって、連れ添いの考え方の方がまっとうなのに違いない。

分かりきったことだが、この地は名実ともにアジア圏に属するのである。この地に英語の語学留学をする人々も多いようだが、ネイティブな英語に触れようとするなら、オーストラリアはふわしい場所とは言えない。昔からよく言われているようにオージーイングリシュの独特な発音のことを根拠にして言っているのではない。この国の誰もが英語を通用語にしているのは事実だが、陳腐なオージーたちへの批判以上に、英語は言語としての共通語としての道具になりきった感がある。圧倒的な数のアジアや中近東の人々特有の、共有語としての英語がまかりとおっている。むしろ言葉は一つの現象的存在に過ぎず、さまざまな文化・文明が融合
しているのである。

思い出すこと。それは英語教師時代の大先輩が、オーストラリアは、西欧そのものだ、と言い張ったことがあった。遠い昔のなんということのない意地の張り合いだったが、彼がいまのこの地を訪れたら、いったいどんな観想を漏らすだろうか?日本の京都などと云っても、観光収入の対象は、歴史と伝統とやらに胡座をかいた、その殆どが世襲制によって富と文化を独占してきた少数の人々が拝観料を取り、ますます肥え太るために寺社を運営していることで成り立っているという、なんとも情けない現実。これと比較すると、オーストラリアの観光産業の思想は、自然保護の徹底によって成り立っている自然そのものを売りにしているわけだ
から、これなら人々のためになる。とりわけ、子どもたちには意義深き国になり得るだろう。アボリジニーたちの悲劇的要素は、他国の人々が認識している以上に深い。ここでクダクダしくは述べない。興味のある奇特な方には、差別される側の歴史的暗部を見つめ直す機会と素材は十分に存在するので、ぜひどうぞ。

歴史の暗部ということに関して、付加的に。シドニーの民族歴史博物館(ハイドパークバラッド)を見学して驚いた。オーストラリアが、ネイティブのアボリジニーの犠牲の上に成立した国であることは絶対に否定出来ない歴史的事実だが、一方で入植してきたイギリスやアイルランドの人々の殆どが本国における、いわゆる罪人(convicts)たちであったということである。彼らの末裔たちが、家系の中から、convictsであったことを抹消する歴史が長く続いたことも頷けるような気がしなくもない。今日の主な探訪地である歴史博物館(ハイドパークバラックス)ーかつての罪人たちの留置の場のひとつ。そして当時の彼らの生活の模様が克明に再現されている場。驚きは、名前から流刑者としての系図まで手繰っていけるコンピュータシステムまで整っているということだ。無論、こういう形で自分たちの歴史を残せる精神性そのものが、オーストラリア人たちの、特に白人種たちのコンプレックスと、その裏返したる自信の現れではなかろうか、などと、つい、たぶんかなりな見当違いの感慨に浸りさえしたくもなる。ともあれ、数十年前の「白豪主義」という白色人種による排他主義を除けば、この地の人種の融合はかなりうまくいっている方だろう。人もいい。

なんて思っていたら、シドニー最後の夕食を、よせばいいのにせまっくるしい中華街の、それもよりにもよって、タチのよくないフードコートでまずい飯を食っていた瞬時に油断した。ショルダーバックから、財布だけを抜き取られた。問題は現金よりもカード類だ。中華街の近くの交番で盗難の書類を書いてもらい、それからがカードの無効申請。気の遠くなるような煩雑なカード会社とのやりとり。

何度も海外に出向いているのに、今回の旅については、連れ添いとの微妙な発想のソゴ故に、危険回避のスイッチが僕のなかでまるで機能していなかったのである。連れ添いがかつてこの地に留学していたときより、現在は特に中国マネーの流入で、結構なインフレだ。当然以前との比較で彼女はケチる。しかしだ。旅行者というものは人さまの国にいっときであれ、居座らせてもらっているのである。その意味で、僕はあまりケチるタイプではない。つまりは一般に云うところの賢い旅人などではないのである。その国に落とせる金は精一杯落とす。それでいいではないか。小さな金をケチらねばならないなら、僕なら海外になど行かない。身の丈にあった、気持ちよいお金を落とせばいいのである。こういう姿勢が訪れる側の礼儀だと僕は思っている人間なのである。連れ添いとの違和感は日々積み重なり、ついに僕から旅人としての基本的な所作を奪っていったのである。これが僕の言い逃れに聞こえる人はおおいに軽蔑してくださって結構。致し方なし。たぶんこの考え方は変わりはしないのだろうから。さて、連れ添い
とは今後うまくやって行けるのかどうか?彼女に決めてもらうしかないね、これだけは。

今日の観想として書き遺す。

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○オーストラリア探訪記その2

2012-03-27 10:12:54 | 旅行記
○オーストラリア探訪記その2

時折、雨がパラツく天候。rainじゃあなくて、showerだな、敢えて違いを云うならば。そんな天候のなか、セントラルステイションまで、昨日よりはほんの少し慣れた足どりで歩く。かなりな距離だが、まあ、そんなことも言っていられない。バスに乗れるところまで、ともかく歩け、歩け、だ。

バスに乗る。空席はあるが、2人一緒には座れない。空いているところに別々に座ろうとしたら、連れ添いの隣に座っていたフツーのおじさんが、席を替わってくれる。とても自然に、それが当然であるかのように。こういうことは同じ観光都市の京都ではまず起こりえないことだ。先だって広島に行った折りも同様のことがあったから、どうも京都という町が、たぶんかつては素朴にあったはずの、人としてのやさしさに根ざした譲り合いの心を置き忘れてきたのかも知れないし、何より僕自身の発想の中から欠落していたものなのかも知れない。このところ学ぶところ大なのである。

セントラルステーション界隈からハイドパークに至るまでの大きな街並みの中を徘徊する。イギリス統治時代の建物と近代建築が融合した大都会である。ニューヨークなんかより、ずっと小ぎれいな雑然さだ。この街は実にいい。オーストラリアがアジア文化圏に位置する意味がよくわかる。織物の繊維のように調和のとれた文化・文明の混交。そしていろんな場で出会う人たちがやさしいのである。

列が出きるレストランなんて、この地では珍しいと思うが、夕方の開店前には長蛇の列が出きるという評判の大衆シンガポール料理店の列の中に紛れて開店を待つ。いくつかの料理が運ばれて来て、なんでこんなに流行るのかがよくわかる。安くて、うまくて、量がたっぷりとある。この単純な3原則は、いろんな人間の思惑で邪魔されなければ、これ以上に確かな食の良し悪しの指標はなかろうに、と思う。

帰りの道すがら、交差点の角ですれ違った、たぶんホームレスに近い暮らしをしていそうだが、薄汚れた顔に隠れた目鼻立ちがとても美しい女性。彼女は紙袋に入れたウィスキーの酒瓶の口からグイッと一呑みしたとき、一瞬目元に涙が光った。そのまま彼女は泣きながらその場を立ち去ったが、その後、例の期待を外しまくってくれたホテルに辿りつくまで、そして、真夜中にこれを書いているいまも、胸の中につっかえたままである。さて、今夜はこれくらいが限度。感性の、そして体力の衰えばかりが、感じとれる始末。ロクでもない晩年には違いないのだろう。今日の観想として書き遺す。

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○オーストラリア探訪記その1

2012-03-26 14:35:25 | 旅行記
○オーストラリア探訪記その1

ジェット・スターなどという訳の分からぬ航空会社の飛行機の座席で、離陸のときを待つ。実に12年ぶりの海外渡航である。

と、ここまで書いたとき、僕の一番苦手な離陸があり、書く手が止まっていたのである。離陸の不条理性について少しく書く。離陸の際にかかるG。その後に訪れる規定の空路に至るまでの、遊園地の絶叫マシーンのごとき、大仰な揺れ。最悪の瞬間である。そうだ、その前の、危機避難のための説明ときたら、アホらしくて、それでも鷹揚な気分にもなれないくらいに、忌避したくなることだらけだ。天井から酸素マスクが飛び出して、ぶらさがっても、そんな事態に陥ったら、もうオシマイではないか!シートベルトをしっかり締めろ、体を折りたため、救命胴衣をつけろと言われても、到底そんな気分ではなかろうな。そもそも飛行機にシートベルトが要るなら、なんで新幹線にはそれがないのか?惨事の質で云えば大した違いはなかろうに、ね。

もし、自分の身にカタストロフィーがふりかかったら、無意味な抵抗など不要だから、マーラーあるいはR.ストラウス、またあるいはベートーベンの交響曲か、ベートーベンの30ー32番のピアノ曲を大音量で流して欲しいものだと心底思う。だって、ちょっとした食い物のトッピングくらいで、うるさく注文する文化なんだから、死ぬときの選択肢もあってしかるべきだ、と思うんだ。

さて、この航空会社は、基本、搭乗券のみのサービス以外は、すべて欲しいものだけ選んで、そのたびに精算する。合理的なようだが、JALやANAやその他の大手航空会社の、バカ高いが、全てのサービスコミコミのと比べると、やはり僕の年齢の、旅なれていない人間にとっては、同じエコノミーでも全く違ったものに感じられてしまうから不思議だ。いや、ただのオノボリさん気分が、そう感じさせているだけなのかしらん?

オーストラリアの、ゴールドコーストの空港は、シドニーまでの単なる乗り継ぎのための時間潰し。この地は、いまちょっとした住宅バブルで、えらく物価が高い。よせばいいのに、バカ高いブレックファーストのセットをオーダーしたら、とんでもない量のが出てきたのである。黒こげのベーコンがうず高く積み上げられ、目玉焼きが2つにどでかいソーセージが2本、トーストが2枚に、バター。まだある。ハッシュド・ポテトの上に、焼いたトマトが鎮座ましまっている。飲み物はどでかいポムグラネット・ジュースだ。連れ添いは旅なれたツワモノだ。そんなの、食べるものじゃあないわ、というがごときの意味ありげな視線から逃げるように、無理して平らる。が、空港内でこれを書いているいま、正直飽食の後の気分の悪さに耐えている。1日目にして、これだ。勝負あり、か?別に競っているわけではないが、連れ添いの意見は貴重だ。「あとで後悔するわよ。」だった。しかり、その通り。認めますよ、はい。

シドニーについてやっと、意識のなかで、かの地が、この地になった。カラッとしているが、気温は20度をやや上回る。Y Hotel〜というホテルまで、荷物を預けにタクシーにのるが、この運転手さんは、エアコンを入れない。乗り継ぎの飛行機の中がエアコンの効きすぎで、寒かったのに。

さて、ホテル。雰囲気としては、ターミネイターの第一作目の、悪役のシュワちゃんが、痛めた顔の修正のために立ち寄った、あの場末感が濃密に漂うようなところ。ここに4泊とは気が遠くなる。ともかくもそんなホテルである。電車に乗ろうとして、後ろ手にホテルの建物にはしっかとYWCAと壁一面にかいてある。そうか、Y Hotel〜のYはYWCAのYだったのか、と変な納得の仕方を無理矢理してもみるが、シドニーの印象が微妙に怪しくなってくるから不思議だ。一言でまとめれば、こ汚いが、まずまず安全か。

付け足せば、夕飯はフィシュアンドチップスをロックス(イギリス移民船団が最初にユニオンジャックをおっ立てて、ここがイギリス領だと宣言したという手前勝手な場だな)の近くのレストランで食す。太るための食事。そんな印象だ。とてもうまいんだけど。

というところで、オーストラリア第1日目の印象報告です。たいしたことはやっていない。観光パンフレットの写真よりは、有名スポットはいい。大抵の旅行で、行ってみたら大したことがなかった、という観想の真逆。これを加筆しておかないと、ね。

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○気づき(その6)

2012-03-14 00:35:43 | 観想
○気づき(その6)

ディレッタントというと、ある狭隘なジャンルに特化した愛好家とか、好事家(こうずか)という、なんとなく現代で云うところの、オタクに近い響きがある。総じて、あまり良い印象を感じさせない言葉ではある。物事の本質をちっともつかんでもいないのに、その表層的な解釈論議に終始する輩や、この種の雰囲気を、僕は批判的にディレッタンティズムに陥ることなかれ!と書いた記憶がある。

しかし、昨今、自分の中のディレッタンティズムに対する考え方に少々変化が生じてきていることに気づく。そもそも、表層的な思念しか持ち得ないのに、その道のことは、知識としてよく知悉しているということを、ディレッタンティズムとして批判するなら、しばしば起こる喜劇的な様相としては、ディレッタント批判者もやはり、視点を変えたディレッタントだということが容易に想起出来るということだろう。少なくとも、そのような可能性が大なのである。想うに、深く、広大な知識・経験に裏打ちされた真正の知識人など、この世界には数えるほどしかいないのではなかろうか。そして、それでよいのだろう、ともいまは考えているのである。まごうことなきディレッタントとして、そう感じているのである。僕自身に対するディレッタントの定義としては、好事家というよりも、単なる物好き程度のそれだから、あくまで底が浅いものとして、自己の定義として認めようと思うのである。

そもそも僕のこれまでの、そして現在も、おそらくはこれからの人生も、一言で言い表わすならば、紆余曲折、その一語で足りるような代物なのである。その紆余曲折の一つ一つの折れ曲がりの極点を書き綴ったのが、僕のこれまでの、あるいはこれからのブログの内実である。ならば、紆余曲折という一語でなぜ済ますことが出来ないのか?ということだろうが、その主因は僕の意気地のなさゆえである。黙して語らず、という、ある種すがすがしい生き方が僕の裡の選択肢にはなかっただけ。そうであれば、自己を語るのに必要なエッセンスとは、見るに耐えない無残なほどの、生の残骸を少しは飾って、えい!と自分を励ますこと以外に果たして僕に何が出来たというのであろうか?生きるも死するも、僕の営みは意気地なしのそれだったわけで、鼓舞するための「えい!」を言語化するには、ディレッタンティズムという作法を援用するしかなかったのである。まさに、ディレッタンティズムとは自己防衛の主な手段、それならば、他者のディレタンティズムには、殊更敏感になれるわけで、ディレッタントたちに対する嫌悪の情は、近親憎悪の現れそのものだった、と告白しておかねばならないのだろう。

いま、僕は、自己の裡なるディレッタンティズムに抗っているわけで、もし、今後僕が、「反抗の論理」に匹敵するごとき言辞を書き綴ったとしたら、それは、まさに自己に対する反抗の網の目を掻い潜って文字になったもの、と考えていただきたい、と思う。これからも僕に付き合ってくださる数少なき読者のみなさん、どうぞよろしくお願いします。私事ですが、僕は今月15日から25日まで日本を離れます。その間、しばらくのお休みです。いつも、書き残すと言わないで、書き遺すと書き続けていたのは、たぶんに遺書としての意識があったからですが、飛行機事故でも起こって、ここにもどってこれなかったら、これが、僕の最期の書き残しです。そういう気持ちで、これを書き遺しておきます。

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○気づき(その5)

2012-03-10 17:12:48 | 観想
○気づき(その5)

自分の身のまわりで起こっている出来事に対して、どうしようもない憤りを感じることが、生きている限り、しばしば起こる。自分の裡にくすぶり、爆発しそうになる気分をどうして抑え込めるのか、まったく見通しが立たなくなる。この歳になってさえ、操縦不可能な自分からなかなか自由になれないのである。進歩なき生きざまだとしか言いようがない。

殺気だった激情の狭間でうごめくことしか出来ないわけだけれど、それでも、ここに書けることが少しはある。かつて、制御不能の激情は、怒りのさまざまな次元の言動となり、その言動は、猛毒を塗りたくった矢じりのように、怒りを喚起させた相手に、狙いすましたように、グサリと突き刺さったものなのである。他者の傷口からドクドクと流れ出す血のりの質量の分だけ、僕はいっときの勝者であり、しかし、正確にはまったき敗北者の痛みと絶望感と喪失感とを同時に味わうことになる。これが、僕のとりかえしようなき、無残な生の道程の、避けがたく、消しがたく刻み込まれた古傷の正体ともいえるものである。いがらっぽい、後味の悪さ。少なくとも僕のような人間がこれだけ長く生きた結末が、これなのである。人生とはなんとも残酷極まりないものだ。

しかし、同時に想うことがある。たとえ、自己の存在が御しがたきものであるにせよ、自己を上回るほどの性根の腐った人間も確かにいる。こういう連中に限って、表面的には取り澄ました姿形をしているものだ。世界はもっと開かれたものだと、僕は長きに渡って信じてきたのに、それが裏切られることが多いのは、こういう現実があるからだろう。5・15事件を起こした青年将校たちに向かって、話せばわかる、と訴えた犬養毅は、話など通用しない連中に撃ち殺されたのである。犬養を殺した青年将校たちは、まだましだ。その真偽のほどは分からぬにしても、彼らは少なくとも天下国家を論じる輩だっただろう。しかし、現代においては、悠然と己れ一個の欲望が、(それは金品に纏わることが多いが)、すべての意義ある価値を押しつぶして憚らない。平静さを装った、あるいは常識・良識を装った悪意が席巻しているのが、この時代だ。人を信じたがゆえに、悪意の餌食になり、絶望のどん底におとしめられた人がいったいどれほどいることだろうか。だからこそ、人は、世界から逃避する。人は人の心の真実を見ることを忌避したがるのである。通信技術がいくら発達したところで、そのツールの中に現れる言辞がエセものであれば、そんなものはまるで人間の幸せには繋がらないのは必然である。人はコンピュータソフトを通して、繋がっているように見えて、その繋がりの中に、ほんものがいったい、どれほどあるというのだろうか?留保つきの連帯など意味がないのである。そんなものはドブにでも棄ててしまってしかるべきものだ。

さて、しからば、この時代に、僕たちはどう生きるべきなのか?少なくとも人の膚の温もりをまったく感じとれない状況下における会話など、無意味だと知るべきだ。ツールとしての、TwitterもFacebookももっと原初的なメールも全否定はしない。が、これらは、あくまでツールだと云うことを忘れぬことだ。ここに真実はない。傷つき、その傷口から血がダラダラと流れ出たとしても、生身の人間どうしの言葉の交換なしに、どうして人の真実がわかるというのだろうか?他者との摩擦を怖れることなかれ!傷つくことを怖れるが余り、安全な繭の中で閉塞している人生なんて、クソだ。僕はそう思う。どこまでも、抗い続けるしかないな、やはり。そういう心境にて、今日の想いを閉じることにする。

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○気づき(その4)

2012-03-06 19:01:35 | 観想
○気づき(その4)

自分は、論理的思考の持ち主であって、日常の非論理に属する話題が、ひどくうざったくて、通り雨が必ず通り雨の言葉どおりに、すぐに実体なく飛散するのを待っていられる男だと思い込んでいたのである。少なくとも認識の次元においてはこのように自己規定をしてきたはずである。

ところが、である。つらつら自分が過去に遭遇した幸不幸な出来事に対して、実際にいかに対応してきたか、ということに想いを馳せれば、僕は決して論理的思考の持ち主などではない、と感得するに至った。さまざまな要素を剥ぎ取れば、どちらかと云うと、非論理・激情型の人間であることを否定することが出来ない。論理性を抱え持っていられるのは、あくまで自分の置かれた状況下で、訓練してきた結果の副産物的要素に過ぎないのだろう、と感じるのである。

しばしば、自分の裡なる暴力性を力づくで抑え込む瞬時がある。僕の姿かたちは、大して強靭には見えないにしても、人並みすぐれて屈強な人間と対峙したも、ねじ伏せるだけの体力と、技術が身についてしまっている。哀しいことに。ここに書くこと自体がおぞましいことなのだが、ずっと昔、僕は極左の活動家であった頃、職業的武力集団たる機動隊への対処の仕方を想定して、所謂軍事訓練とおぼしきものを長きに渡って受けたのである。どのような道具で、また、武装した人間のどの部分に打撃を与えれば、極端に云えば、殺傷力が増すか、という類のそれである。後に、運動が退廃していく過程で、仲間どうしが殺し合うなどという悲惨で馬鹿げた騒動を起こしたのも、この種の訓練の負の成果だ。こういうことが起こるずっと前に僕は、無関係な立場に自分を置いていたのにも関わらず、それがいまだに自分の中で、おかしな現われ方をしてしまうのである。すでに忘れていたはずのいろいろな訓練の発揮の仕方が、最近、肥満した身体を鍛えなおそうと本格的にトレーニングをするにつけ、蘇ってくるのをひしひしと感じるのである。何の役にも立たず、害悪だけが目立つような不条理な代物だ。これを何とかして封じ込めたいと感じている。同時に、人間にとって、いかなる暴力も、どのような大義名分があろうとも、有害無実であることも、身に沁みて分かるのである。国家間の戦争行為などというのは、究極のテロリズム、もっと分かりやすく云えば、大量虐殺という非人間的行為そのものである。

たとえば、自分が理不尽な暴力に晒されているとする。体内の神経組織、筋組織のすべてが、立ちはだかる相手をなぎ倒すように動きはじめるのは、目に見えている。しかし、その後に脳髄に押し寄せてくるのは、無慈悲な加害者としての自分の姿だけだ。自分の中から、こういう可能性を一切合財払拭したい、と心底思う。

こういう想いに捉われたとき、僕は必ず歴史的史実と歴史学に沈潜する。頭の中をいま占めているのが、非暴力主義という思想と、それを根底に据えた政治的運動と力学の凄さだ。悪しき環境下にあったとしても、非暴力主義ほど、それをすぐにも覆すだけの実効性なき政治運動、政治力学、政治理念は他にないだろう。弾圧に次ぐ弾圧を正当化するような独裁政治を覆すために、非戦闘員である市民すら銃を持ち、ヘタくそな射撃をなす。数の力、国際的な経済的思惑を抱いた大国の、ソロバン勘定からの武器供与が勝敗の決め手になる。いかなる大義名分があろうとも、出来上がった強固な体制を覆すことともなれば、とり得る有効な手段とは、暴力以外にない。これが革命の常道だ。

その意味で、非暴力とは、政治的現実主義者からすると、空想的なエセらごとにしか見えないものだろう。人間の獣性が、非暴力では到底動かない政治経済的土壌をつくり上げているのである。僕の中にも確固として在る、この獣的暴力性をいかにして非暴力の力?でねじ伏せるのか?その方法論とはいかにあるべきか?僕自身の問題として、そして同時に、世界の課題として考えていくべきことだろうと思う。リアリティがあるかどうかは、時代の趨勢にもよる。僕としては、あながち夢想的な観想ではないだろう、とタカを括りたいと思うのである。

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○「気づき」の合間に、少し書き綴る。

2012-03-04 09:52:31 | 観想
○「気づき」の合間に、少し書き綴る。

事情があって、広島県の呉市へ足を踏み入れることになった。眼前にはかつて海軍兵学校が在った江田島が見え、現在でも江田島のこちら側には、海上保安大学がある。この地の不動産屋さんと話をし、得ることが多かった。仕事らしきことを済ませて、早々に宿をとっている広島市内に引き上げた。駅前にあるグランビアというホテルが、朝食付きで安く泊まれたので、そこに一泊。部屋はなかなかのもの。眺めもすばらしい。でも問題がある。ここが決して日本人向けにつくられたホテルではないことがわかるから。トイレがガラス張り。ぼかしが入ってはいるが、鍵がないし、またドアにはかなり露骨な隙間がある。バスも同様に、同種のガラス張り。女房と泊まっても何となく居心地が悪いわけで、これは何とかしなくてはならないと思う。宿泊客に海外の人がいくら多いといっても、殆どは日本人なんだから。どうしたって、こういう点は日本人の感性に合わないと僕は思うんだけど、泊まった人たちはどう思っているのだろうか?夕食を済ませたら、何もすることがなかったので、ホテルにあるプールとジムに行く。必要なものをレンタルし、使用料を払ったら、二人で6000円近くもとられてしまった。これならもっと旨いものが喰えたではないか!

という怨念?を引きずりつつ、明くる日は、広島市内を歩いてみた。おかしなもので、爆心地である原爆ドームの建物は、中学のときの修学旅行で見学したはずなのに、今回改めて見学すると、当時よりも妙にリアルに見えるから不思議だ。戦争の傷跡などとよく言われるが、壁の崩れ具合、建物のまわりにある瓦礫の散らばり方、タイルの剥がれなどが、かなりな切迫感を持って自分に迫って来る。別に構わないが、それにしてもこの原爆ドームを背景に、ニコニコ顔で記念写真をとっている観光客の感性には、多少の違和感を感じるほどに。橋を渡った平和記念公園のベンチに座ってみて、自分が疲れているのを実感する。目の前は原爆記念館だ。中学のときに、学年の班学習の企画をつくり、班ごとに細かく見学したことを書き入れる用紙まで作った自分だけが、貧血でぶっ倒れた。カッコ悪いったらなかったけれど、抱き起こされた女の子には、当時憧れていたので、カッコ悪さよりも、その子の声色と、妙に柔らかな手の感触の方が印象に深い。人間の記憶なんて、どこまでもいい加減なものだ、と思う。

平和記念公園から、結構あるいて、別に広島で買わなくてもいいような装飾品を買ってしまう。これがなかなかに重いので閉口した。さて、それを抱えて、目指すはお好み焼き村だ。広島焼きがほんとうにうまい店は、たぶんこんな観光客目当てのところではないにしても、ド素人の僕たちは、ここの一軒に入ることになった。典型的な広島焼き。しかし、何で広島焼きって、ゆがいただけのソバ麺を入れて焼くのだろうか?関西で言えば、モダン焼きだが、モダン焼きは、ソバ麺も焼きソバにして、ソース味をつけて、お好み焼きにはさみ込む。お好み焼き発祥の地は神戸の長田近辺だし、そこが僕の子ども時代の縄張りだったので、やはり、お好み焼き、焼きソバ(ちなみに、神戸では、ソバ焼きと言うのである)、モダン焼きの原型は、僕の裡では、あくまで長田という地で慣れ親しんだものだ。その意味で、確かに広島焼きはうまいけれど、どこか、違和感がある。まあ、それもよし、とする。広島の人たちは、広島焼きを食すのに、お好み焼き広場にはいかないのだろうし。そもそも観光客向けの店ほどあやしい代物はない。北海道のラーメン横丁はどうだ?これまでに3度北海道には行ったし、その度にラーメン横丁の違う店に入ってみたが、どれも関西で食す味噌味ラーメンと対して変わらない。あるいはもっとまずい。ある時、支笏湖に出向いた折に、空腹を覚え、土産物屋の二階の、なんということもない食堂で、期待せずに注文した味噌ラーメンの味がいまだに忘れがたい。それほどうまかったのである。僕の裡なる北海道のラーメンの代表格の味は、支笏湖の、どこにでもあるような土産物屋の二階の、何ということもない食堂のそれだ。いまだに僕の脳髄に刻み込まれているから不可思議だ。たぶん、今後の広島のイメージとして残るのは、原爆ドームの、特に建物の周辺に散乱した瓦礫と、その瓦礫の中で居眠る野良猫。それから大したことのない広島焼きの、少々甘すぎるソースの味。こんなところだろう。

訪れる地の印象を決定づけるのは、その地の人々との出会いで決まる。ごく少数の、電車で出会った人だとか、お店の店員さんだとか、そういう限られた出会いだから、それだけでその地の印象を語るのはどうかと思うが、総じて、訪れるところの印象なんて、大概そういうところで決まるのではなかろうか?広島や呉の印象がよいのは、そこで出会った人たちの、親切で、開放的な雰囲気があるからだろう。朝早くからこれを書いているが、旅の後のほどよい疲労感が残っていて、何の変哲もない、こんなくだらないことでも書いてしまう勇気が出てくる。よく考えてみれば、人間の移動を伴う、旅という行為ほど無駄で無意味なものはないように思うが、人は飽きずに旅をしたがるね、自分も含めて。何なんだろうね、この気分。やはり退屈感を紛らわせることが出来るからなんだろうか?こういう気分が行き過ぎると、人は、ふっと自分の生活の場から消えてしまうのだろう。蒸発とは、なんともうまく表現したものだ、と思う。自分の居場所から消えてなくなるわけだから、相当な覚悟が要るようにも思うと同時に、軽い気持ちで、何となく浮遊してしまうような感性なのかしらん、とも感じてしまう。思い切って、ここで敢えて論理を最大限に飛躍させてしまうと、人間の活動の殆どが、本当は意味をなさないのに、遮二無二価値を見出そうとする行為なのではないかしらん。そして、人生なんて、まさに意味のないものに意味を付加する行為そのものなのかしらん、などと寝ぼけた頭で考えたことを書き置くことにして、今日の観想としようかな。

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○気づき(その3)

2012-03-01 22:24:21 | 観想
○気づき(その3)

他者から評価されたい、という心境は、自尊心の強い人ほど、ある意味下賤な印象を持ってしまうのかも知れない。しかし、人は、他者との関わりの中で生きざるを得ないわけで、そうであれば、こういう想いは打ち消しがたきものだ、といまは思う。

かつて、自尊心だけが独り歩きしているかのごとき錯誤を、孤高の生きかたと称し、不幸なことに、孤高という概念が、勝手気儘という卑近な自己満足へと変質していた時期が長く続いたのである。当然のことだが、この当時、僕は他者からの評価を気にするような心性を小馬鹿にしていたし、そういう人間を卑しき存在だと見下していたのである。こういうことだったから、人の信用を失墜すること必須であった。いかにも小賢しいことだが、教育職という社会的信用度の上に胡坐をかき、教育職という立場であるからこそ、根拠なき権威を振りかざすことも出来たのである。つまらない生きかただったとつくづく思う。これほど、定義どおりの自尊心と外れた生きかたはないからである。

幼い頃、友人たちより多少利発な子どもだと思われていたフシがある。絵に描いたような優等生気質は、自分の成績だけでは満たされることがなかったから、当然のことのように、友人たちのリーダーとして立ち振る舞ってきたわけである。教師受けのする言動もお得意だったし、同時に教師に疎まれている層の友人たちにも一目置かれていたのだから、怖いものなどない。幼い政治力が、いろいろなことを突き動かした。人間が増長するには、あまりにも素材が整い過ぎていたのである。無論、こういう自尊心のつけかたをすれば、弱き者の味方になることも、自分の自尊心をさらなる高みに上げる重要なファクターとなる。弱き者を苛めなかったのは、ネジくれた優等生にありがちな正義ぶりっ子のなせる業だった。このように書くと、これを読んでくださっている方々は、鼻持ちならない小生意気なガキだと思われるのだろうが、当事者の僕にとってみれば、自分の身の回りから、怖いものをなくす度に、果たして自分の立ち位置がこれでよいのだろうかと苦悶し、そうすると、さらなる怖さが裡に湧くのだから始末に悪い。不幸なことに、僕は社会人になってからも、同様の精神構造のままだった。大人としての他者にとってなんでもなく耐えられることが、僕には耐えがたきことになる。周囲との精神的乖離感が、歳を経るごとに深まっていったのは、いま思い返しても、とても不幸だが、身から出た錆だと形容するしかない。

上記のことが書けるのも、自分が身に纏ってきたあらゆるフリンジが雪崩のように剥がされることになって、他人からは見放されて当然だが、自分が信頼していた縁戚の人間からもことごとく匙を投げられた。一人っ子だったので、歳の近い従兄弟とはとりわけ仲がよかった。(はずだった!)しかし、久々に連絡をとったら、ケンモホロロ、いや、それならまだしも無視を決め込まれた。もっとも信頼していた二人に。もはや、二人を責めるつもりはない。すべては、自分のこれまでの彼らに対する接し方にある。ハラを割った付き合いをしていたつもりだが、やはり傲慢さが彼らには鼻持ちならぬほどに伝わっていたのだろう、と思う。自業自得とはこういうことだ。

さて、自業自得を深く認識して後、どう生きるか、だ。等身大の自分が、等身大に他者と誠実につきあっていく。書いてしまえばなんでもないことだが、いまの僕には、息絶え絶えの決意である。それでもやりぬかねば、と思う。今日の観想として敢えて書き遺す。

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