日々楼(にちにちろう)

古今東西・森羅万象の幾何(いくばく)かを、苫屋の住人が勝手御免で綴ろうとする思考の粉骨砕身記です。

神武天皇

2012年07月28日 | 日記

A.神武天皇の時代比定

a.神武天皇の時間軸  

1.神武天皇の実在につきましては、これまで何度も述べ、長髄彦(ながすねひこ)の条でも書きましたので、今回はいつ頃存在された御方か、その時代比定に移りたいと思います。

2.天皇が存在された時代を比定し、それを証するにあたって、「天皇は長髄彦と戦って大和朝廷を建てられた」という、事実が前提となります。

3.そしてこれが、神武天皇が存命された時代を比定して行く上での、時間軸となります。

b.3人のキーパーソン

1.更に、この戦い(本ブログでは「大和の戦い」とでもしておきましょう)に登場される、キーパーソンが三人いらっしゃいます。饒速日命(にぎはやひのみこと)、長髄彦の妹君で饒速日命の妃(きさき)となられていた三炊屋媛(みかしやひめ)、そして饒速日命と三炊屋媛の間にお生まれになった可美真手命(うましまでのみこと)です。

c.饒速日命

1.次に、饒速日命の特定に移ります。先ず、『古事記』に記す、天照大御神と素戔烏尊の誓約でお生まれになった太子(ひつぎみこ)、正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)が、高木神(たかぎのかみ)の女(むすめ)萬幡豊秋津師比賣命(よろづ
はたとよあきづ しひめのみこと)を 妃とされて、お生まれになった二人の御子のお名前を記します。第一子が、天火明命(あめのほあかりのみこと)で、第二子が、日子番能邇邇芸尊(ひこほのににぎのみこと)の御二人です。第二子が皇統を形成されます。

2.同様の記述を、『日本書紀』 第六書が残します。この時の正勝吾勝勝速日天忍穂耳命のお名前は、天忍穂根尊(あめのおしほねのみこと)と記されます。これは伝承した氏族の違いによって生ずる、伝承差だと考えれば良い思います。そして、第一子は天火明命、第二子が天津彦根火瓊瓊杵根尊(あまつひこねほのににぎねのみこと)と記されます。また、同じ第六書は、天火明命には、尾張連(おわりのむらじ)の遠祖である、天香山命(あめのかぐやまのみこと)という御子があることを記録しています。

3.同様の記述は、『日本書紀』 第八書にも、天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほあかりのみこと)のお名前で残ります。これから天火明命は、正勝吾勝勝速日天忍穂耳命の第一子で、天香山命という御子があったことが分かります。

d.神武天皇とそのお味方

1.さて次に、神武天皇は東に進まれて、熊野に入られたとき、武器庫を司る高倉下(たかくらじ)というお味方が現れます。この高倉下を、『先代旧事本記』巻第五「天孫本紀」は、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)(亦<また>の名、天火明命、亦の名、饒速日命)のお子である天香語山(あめのかごやまのみこと)の別名であると書いています。

2.ここに、『古事記』と『日本書紀』と『先代旧事本紀』の記述が一致し、次のことが分かります。即ち、天火明命は饒速日命その人であり、お子の天香山命は、亦の名を高倉下といい、神武天皇を熊野で援(たすけ)られたことです。神武天皇はすでに長髄彦と一戦交えられています。形勢思わしくなく、高倉下がお味方に現れたときは、天皇が、紀伊半島を南に迂回され、日神=太陽の加護を仰いで東から大和へ入ろうとされていたときです。

3.このことは何を意味するかといえば、神武天皇、天火明命=饒速日命、長髄彦、高倉下、この中では神武天皇が一番お若く、それぞれに世代は異なってはいるものの、四人のお方は、共に同じ時のもとを生き抜かれた方々だということです。

e.再び饒速日命

1.ここで、神武天皇の時代比定を行うには、饒速日命はどなたであるのか、特定できれば良いということになります。

2.この特定は、私の場合、奥州安倍系図の一系、黒澤系図が云う、長髄彦の出自は孝元天皇に求められるか否かを考える処から始まりました。しかし、それは冗長となります。本ブログでは、シンプルに日本の神話から考えます。

3.日本の神話で国譲りをされたのは、大国主神(おおくにぬしのかみ)とその御子、事代主神(ことしろぬしのかみ)です。この二神に前者は孝元天皇、後者を開化天皇として比定してみましょう。すると、おお、なんと神武天皇が、闕史八代の前に在位された天皇ではなく、孝元天皇=饒速日命=天火明命とその御子、開化天皇=可美真手命から国譲りをされた天皇だということになり、在位は崇神天皇と重なってしまうではありませんか。しかしこれが古代史の正答です。

f.神武天皇と崇神天皇

1.神武天皇と崇神天皇は同一人物です。『古事記』と『日本書紀』は、若き神武天皇=神倭伊波禮毘古命(かむやまといわれびこのみこと)が、南九州の地から大和に入られて大和朝廷の天皇として即位されるまでの事跡を神武天皇として、その在位された朝廷での事跡を、崇神天皇=御真木入日子印恵天皇(みまきいりひこいにえのすめらみこと)として記しました。

g.疑問

1.年代が合わないのではないか? そういう声が聞こえて来そうです。いいえ、何度もシュミレーションを行いました。

h.年代の整合性の確認

1.神武天皇は、饒速日命から見て御自分の弟君・邇邇芸命(ににぎのみこと)の直系の孫であり、第三世の孫に当たられます。天照大御神の御存命中に東征の神託は下され、既に天照大御神の御子たちは東に向かわれ、饒速日命は、御自分もその任に就かれました。このことは、『先代旧事本紀』巻第五「天孫本紀」が伝える所であります。また、丹後一宮籠(この)神社に残る勘注系図はそこの所を良く伝えております。

2.饒速日命の向かわれた畿内には、長髄彦の国が有りました。命は、長髄彦の妹君、三炊屋姫を妃とされ可美真手命を設けられました。そして良く国を経営されました。既に書いたことですが、饒速日命は早くお亡くなりになったことを、『先代旧事本紀』は記しています。

3.一方、弟君の邇邇芸命は、兄君に比べればはるかに少ない陣立てで、九州北部にあった天照大御神の国、市寸島比賣(いちきしまひめ)の国から南に向かわれ、三代にわたって力を養われました。第三世で神武天皇がお生まれになり、東に向かわれます。この間が60年として、畿内では、長髄彦も可美真手命もまだ十分存命であり、年代の整合性は論理的に成立します。

4.また、このブログを書くにあたって、『先代旧事本紀』にも目を通し、特に饒速日命の直系の孫を記す「天孫本紀」との整合性を見ました。『先代旧事本紀』の「天孫本記」において、直系の第五世、欝色雄命(うつしこおのみこと)と書かれているのは、長髄彦のことなのですが、この直系の第五世というのは誤りです。彼は、ダン族の一団より早く南回りで日本にやって来たガドの一団の人で、『魏志』・東夷伝・倭人条が「狗奴国(くまこく)の男王卑弥弓呼(日見日子・ひみひこ)と呼ぶところの王統の人です。更に、『先代旧事本紀』を読む場合、饒速日命の子孫は直列で記載してありますが、闕史八代の天皇の系譜は、綏靖天皇の系列、考昭天皇の系列、考元天皇の系列と三系列併記だということにも留意が必要です。

j.素戔烏尊と大国主神

1.『古事記』が、素戔烏尊の直系の孫を記しています。それによれば、素戔烏尊→八島士奴美神(やしまじぬみのかみ)→布波能母遅久奴須奴神(ふはのもぢくぬすぬのかみ)→深淵之水夜禮花神(ふかぶちのみづやれはなのかみ)→淤美豆奴神(おみづぬのかみ)→天之冬衣神(あめのふゆきぬのかみ)→大国主神としています。

2.本ブログでは、大国主神を孝元天皇=饒速日命としました。とするならば、天之冬衣神は正勝吾勝勝速日天忍穂耳命であり、淤美豆奴神は素戔烏尊でもなければならなくなります。素戔烏尊のお名前は尊称で、代を継いで引き継がれていたかどうか、分からないでいます。


k.奥州安倍系図の一系、黒澤系図について

1.孝元天皇を、長髄彦と安日王の出自に求める黒澤系図は、成立しません。

2.長髄彦と安日王を孝元天皇の系譜から切り離し、長髄彦の妹君の三炊屋姫を孝元天皇妃とし、安日王から安倍頼良までを独立の系図として綴ると、系図は歴史的資料としても一級の価値を持ちます。そして一族も栄えることでしょう。

3.これは一族に対して果たす私の最良の貢献です。


ちょっと一息:

7月27日(金)のよる9時ごろから28日の未明にかけて、JAXAの宇宙船 “こうのとり3号” がISS(国際宇宙ステーション)に着船致しました。
JAXAのライブ映像でそれを見ることができました。
ライブ映像の解説をされた麻生さんは、ISSのクルーの方が 、(多分) “こうのとり2号” の着船の様子を 「岩のように動かない」と形容されたと仰っていましたが、3号でその様子を見ることができました。
ありがとうございました。
皆様の御安全と御活躍をお祈り申し上げます。

 


 

 

 

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