『魏志』・「倭人伝」の伝える女王国を建てた人々の源流は、
古代オリエントの王朝の興亡を生き抜いた人々が東へ移動したことに求められることを書いて来ました。
その中継地は「烏桓(うがん)」です。
烏桓の故地は現在のウルムチ辺(あた)りに比定して良いと思います。
烏桓は集団で東へ東へと移動しました。
後漢の霊帝の初め(AD168年)には、遼東・遼西に「難楼(なんろう)」・「蘇僕延(そぼくえん)」・「烏延(うえん)」といった諸王が彼らから現れます。
そして彼らは、建安12年(AD205年)に魏武(曹操)と戦い、続いて遼東の公孫康とも戦って、中国内へと入って行きます(『後漢書』、及び、『翰苑』)。
『晋書』が、「倭人」は「自謂太伯之後」(自ら、太伯の後裔であると謂う)、と書いています。
太伯は周の先王・古公亶父(ここうたんぽ)の長男であり、呉の祖と言われる人物です。
周の始まりはBC1000年頃と推定されており、太伯もその頃の人と考えられます。
すると太伯が呉を建てた時期と、烏桓が中国へ入って行く時期にずれが生じ、一見、矛盾が生じます。
恐らく烏桓の王の一人が、太伯の血を引く呉の王統の人へ娘を嫁にやり、その子を以って「太伯之後」と称したものと思われます。
呉はAD222年から280年まで続きました。
呉が力を持ったのは、烏桓が呉の地方に入ってからだというのが、年代を並べてみることで分かります。
一方、『魏志』・「倭人伝」は、景初2年(『梁書』は景初3年=AD239年とも言う)に、女王が難升米(人名)を魏に遣(つか)いさせたことを伝えています。
そして同・「倭人伝」は、正始8年(AD247年)には女王国は「狗奴国」の男王・「卑禰弓呼」と戦争状態にあり、
かかる渦中にあって、日御子(卑弥呼)が崩御され、男王が立っても国中服さず、日御子の宗女壹與が再び女王となって国が定まったことを記します。
他方、『後漢書』は、建武中元2年(AD57年)に「倭奴国」が奉献朝賀し、光武帝から金印を賜ったことと、同地は倭の極南界であることを伝えています。
更に『後漢書』は、永初元年(AD107年)、「倭国王帥升」が請見の伺いをたてたことを記録し、桓帝(AD147-167年)と霊帝(AD168年-188年)の間には、
倭国は大乱にあり、日御子(卑弥呼)が女王となられて国が治まったことを記します。
ここで烏桓の移動を再考しなければいけません。
と言うのは、霊帝の最後の年(AD188年)から、日御子(卑弥呼)が魏に難升米を遣いされる(AD239年)まで、51年ありますが、
『後漢書』の伝える所に従い、且つまた、『晋書』の云う「太伯之後」であることを満足させるためには、
日御子が即位されるまでには上記したように、「太伯之後」と正当に称することのできる人物と集団が、日御子の周辺に居られなけなければならないからです。
幸いなことに烏桓は、建武25年(AD49年)には遼西にあって、「郝旦(かくたん)」(人名)等922人が朝献し、その内の81人が塞内に留まって、漢の偵侯となっています。
その後曲折はありますが、建武25年から桓帝最初の年まで約100年あります。
呉の太伯の血筋を得て、その集団が数流に分かれて一部は孫権の呉の建国に貢献し、
一部は再び遼東・遼西に戻って、約40年をかけて大乱の倭国へ移動することは十分可能な訳です。
倭国が大乱であった理由は、烏桓の移動にその主原因があるように思えます。
そして烏桓は、朝鮮半島経由で倭国に入り、女王国を建てました。
そしてこの女王国が、その後に日本が行った国家形成の源流となり、伏流となります。
秋雲と青空
露草