りゅういちの心象風景現像所

これでもきままな日記のつもり

視ることについて、2冊

2011-05-23 23:09:29 |   本  



人と待ち合わせしていたのだけど「すみません、1時間、遅れます」という連絡が入りました。「分かりました、待っています」と近所の喫茶店に待ち合わせ場所を変更して、小さな書店で目に入った小林秀雄×岡潔の対談「人間の建設」を買い求めました。待ち合わせの喫茶店にすべりこんでコーヒーを飲みながら読んでいたのですが、読みながらうなってしまいました。面白いのです。
だいぶ急いで下さったようで、約束の方は思っていたよりも早くご到着になり、読書は一時中断。その場で読み切ることはできませんでした。お話のあいだ、正直この本の続きを読みたくて仕方なかったのですが、1時間の遅れがなければこの本は手にしていないわけで。順序というのはなにごとにもあるものです。

この対談が実現したのは1965年、なので小林秀雄が「本居宣長」を執筆中のころに重なります。
1977年に出版されている「本居宣長」だけど長く続く孤独な執筆の途上で、まだその目指す先がおぼろげであったはずの仕事を抱えつつ数学の天才との対話に臨んだ氏にとって、どれほど楽しかったんだろう、と想像してみたくなります。目の前にいない「宣長さん」との対話に相当苦労していたはずのころです。目の前にいる数学者との対話でのリアルな手応えは爽快であったに違いないのです。
数学者、岡潔の言葉というのは、直球勝負みたいなところがあって、スゥッとまっすぐにのびていくような感じがします。いろんな条件をひとつひとつまっすぐに提出してくる。小林秀雄の方は雑多なものをなんだかたくさん抱えているように感じてきます。白州正子が小林さんは「相手が泣き出すまで追いつめる、というくらい普段でも容赦ない」と書くぐらいですから、険しすぎて「あんまり会いたくない相手」のような感じがしていたのですけど、どうも岡潔と話していることでいろいろなことが解きほぐれていっているようにも見えてきます。
「春宵十話」などを読んでいると、岡潔というひとの思考の厳しさに緊張したりするのだけど、口述筆記で成立した本という条件でくくると「春宵十話」と「人間の建設」は好対照の二冊だと思います。ほぼモノローグである「春宵十話」とダイアローグの「人間の建設」。モノローグでは厳しい姿勢を隠さなかった数学者の語り口は、ダイアローグになるととってもフランクに読み取れる。面白い「対話」が成立すれば「険しさ」も「厳しさ」も、なんだか途端に生き生きとしてくる。
とても要約できるような内容ではないので、ぜひ一冊丸ごと読んでいただきたいのですが、最近の僕の興味にピタッとあわさったところというか、なんだか前にも見たことあるような感覚を覚えたので、ちょっと長くなるけど「無明ということ」という箇所から引用します。



小林 私の家に地主さんという絵かきさんがときどきくるのですが、この人は石や紙ばかりかいているのです。私はその人の絵を個展で買ったのですよ。大根が三本かいてある。徹底した写実でして、それを持って帰って家内に見せたら、この大根は鬆が入っている、おでんにはだめだというのです。それほどよくかいてある。
岡  紙を絵にかくのですか。
小林 美濃紙でもなんでもかくんです。額ぶちの中へべったり紙をかく。紙ばかりかいて展覧会をしたことがある。それを人がのぞきまして、ほんとうの紙だと思ったわけです。額ぶちの前にまだ紙がたらしてあると思って、ああ未だかと言って、帰っちゃったというのです。石の絵も買って掛けてみた。沢庵石ですが、静かな絵ですよ。この人は坂本繁二郎以外にはいまの絵かきを認めないのです。それは要するに写実しないから認めないのですね。いまの絵かきは自分を主張して、物をかくことをしないから、それが不愉快なんだな。物をかかなくなって、自分の考えたこととか自分の勝手な夢をかくようになった。私は絵が好きだから、いろいろ見ますけれども、おもしろい絵ほどくたびれるという傾向がある。人をくたびれさせるものがあります。物というのは人をくたびれさせるはずがない。
岡  そうなんですよ。芸術はくたびれをなおすもので、くたびれさせるものではないのです。
小林 考えてみると、物と絵かきは、ある敵対状態にあるのだな。物が向こうにあって、自分はこっちにいる。それをどう始末するかという意識が心の底にあるのだな。
岡  多分いらいらしてそれをかくのだろうと思います。
小林 もちろんそういう意識は、おもしろい絵にはなりますな。
岡  いまの絵かきは自分のノイローゼをかいて、売っているといえるかもしれませんね。そういう絵をかいていて、平和を唱えたって、平和になりようがないわけですね。そうでしょう。対象はみんな敵だと思って、ファイトと忍耐をもって立ちむかうのでしょう。そうすると、神経のいらだちがおのずから画面に出る。それがよく出るほど個性があるといっている。なにかそんなふうです。地主さんや坂本さんは、何をかいても絵になると思っているらしい。ところが、不思議なことに何をかいても絵になるのですね。こういう経験がありました。奈良の博物館で、正倉院のいろいろなきれを陳列していた。破れてしまっているきれの片々を丁寧にあつめて、丹念に紙に貼ってあるのです。それをこちらも丹念に見ていった。三時間ほどはいっていたでしょうか、外へ出てみると、あのあたりにいろいろな松が生えておりますが、どの松を見ても、いい枝ぶりをしているのですね。それまでは、いい枝ぶりの松なんか滅多にないと思っておった。ところが一本の幹につくその枝ぶりが、どのひとつもみなよくできているように見えた。だから、丹念に長い間取り扱ってきたものを見ているうちに、自分の心からほしいままのものが取れたのじゃないか。ほしいままのものが取れさえすれば、自然は何を見ても美しいのじゃないか。自然をありのままにかきさえすればいいのだ、そのためには、心のほしいままをとってからでなければかけないのだ、そういうふうになっているらしい。この松は枝ぶりがよいとかいけないとか、そういう見方は思い上がったことなのです。それではほんとうの絵はかけないらしい。





引用した箇所は本の最初の方で語られているのですが、僕には特別この箇所がほとんど全編をつらぬいている精神のように思えてなりませんでした。なかでも岡潔のいう「心のほしいまま」というところにはおおいにひっかかるところがありました。どこかで同じようなことを聞いたことがあるなと。
帰りの電車で続きを読んでいるうちに、読みながら長谷川潔の「白昼に神を視る」のことが思い出されて、頭から離れませんでした。二冊はまるで伴走しているかのような内容なので、読み終えた時には二冊を一気に読んだような気分でいました。



後日、読みなおしてみました。断章形式で書かれた文章ではあるのですけど。。。やっぱり、どちらも共通のテーブルについて話をしているように読めたのです。
「白昼に神を視る」を読むと奇をてらった目くらましのような文学などまったく必要ないってことを痛感したりします。いわゆる作家の筆からはなかなかこういう表現は出てきませんが、どうしてなんでしょう?ぜひともご一読をお勧めしたい本なのです。
伴走しているかのような二冊の本。直接的には僕が大好きな「一樹(ニレの木)」「アカシアの老樹」のことを語っているであろう箇所があるのですが、それはとりもなおさず画家の「態度」をひそかに告白しているようにも読めます。最初に喫茶店で「人間の建設」を読んでいたときに浮かんだ既視感は、こうした長谷川潔の一連の作品につらなるイメージだったのでした。ちょうど十数年ぶりに回顧展を見てきたタイミングだったこともあって、1本の線がつながっているように見えたのです。



 1 それは今次大戦中のことだった。ある朝、私は、いつもと同じように籠を手に、画題に使えるような、
  なにか変わった草、石ころはないかと、パリの近郊に散歩に出かけた。戦争が始まっても帰国せずに
  フランスに留まったままの私は、そのためにひじょうなる物心両面の苦労を日々かさねていたころの
  ことだった。そこで、その朝も、遠くの雲を眺めたりしながら、いつも通る道を歩いていったのだが、
  不意に、一本のある樹木が、燦然たる光を放って私に語りかけてきた。「ボン・ジュール!」と。
  私も「ボン・ジュール!」と答えた。するとその樹が、じつに素晴らしいものに見えてきたのである・・・
   いつも通る道の、いつも見る樹が、ある日ある時間、そのように語りかけてきたのだ。立ちどまって、
  私はその樹をじっと見つめた。そして、よく見ると、その樹が人間の目鼻だちと同じように意味をもっている
  ことに気づいた。土中の諸要素が、多少のちがいだけで、他と異なるそのような顔をつくりあげたものだろう。
  しかし、人間とは友であり、上でも下でもないこと、要するに万物は同じだと、気づかされたのであった。
   ラジオの受信機にしても、出来の良し悪しあろうとも、ともかく調節すれば音が聞こえてくる。
  それと同じように、波長を合わせることに聞こえてくる万物の声というものがあるのだ。
   そのとき以来、私の絵は変わった。


 5 地球上の目に見える世界を通さないと、見えない世界にはいっていくことはできない。
  しかし、見える世界の方がはるかに小さい。これを私は静物画に描く。

 8 すべての芸術家は、多かれ少なかれ「神秘」を表そうとするものだ。
  ただ、ありきたりの手段によってではなくてそれを表そうとする。現代の画家の中には、
  対象をぼんやりと眺め、それをデフォルメさせるにとどまる人が多い。しかし私は、
  一木一草をできるだけこまかく観察し、その感官を測り、その内部に投入する手段をもとめる。
  できるだけ厳しく描いて一木一草の「神」を表したいがゆえに。
   現代は、神秘の観念よりはいって絵にいたる。私は、物よりはいってその神にいたる。

10 写実であろうとなかろうと、自然をいっぺん通してから進まなければならない。
  ともかく自然の内部にいくらでも重要な「要素(エレマン)」が隠されているのであって、
  これをいかにつかむかが問題なのだ。

11 若いとき自分が、なぜ、ムンクやルドンに惹かれたか、その理由が、このごろになって
  ようやく判ってきた。要するに神秘の感情を彼らは表現しようとしたのだが、しかし、
  神秘的風景を描くことによってそれを表現しようとした。これにたいして私の態度はこうなのだ
  ・・・私は白昼に神を視る、と。






同世代の批評家と数学者の対談とひとまわり上の世代の版画家の言葉が同じ色調を持っている風に読めたのにはなにか理由があるのだとおもうけれど、とにかくここでは変にまとめたりしないようにしておきます。
ただ、「視る」ことをめぐって、確かにこの二冊は共鳴しているように思うし、僕はまずそこに惹き付けられたのでした。




長谷川潔展
横浜美術館
「野辺」を視る「小禽」
長谷川潔展 町田の版画美術館で







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