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CNDシスターズエッセイ32

2016年06月10日 | 日記
神様は、なんて人がいいのだろう



 ある日の福音朗読は、「ぶどう園と農夫」のたとえ(マルコ福音書12章1~12節)でした。ぶどう園の主人が、ぶどうがよく実るように工夫し、その後を農夫たちに任せて、旅に出ました。ぶどうの収穫の時期になったため、主人は、自分が信頼する僕たちを旅先から送りますが、農夫たちは僕たちを袋だたきにしたり、殴ったり、侮辱しました。最後に、主人は『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、息子を送りました。

 私は、主人の『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』ということばを読んだとき、主人は、“まさか、農夫たちがわたしの息子を敬わないってことはないだろう”という思いだったように感じられました。すると、私の中で、なんて主人は人がいいのだろうと思いました。そのすぐ後で、農夫たちは自分たちの利害を守るために、『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる』と息子への殺意を抱くのにもかかわらず、農夫たちは息子を敬ってくれるだろうと信じて疑わず、息子を送ったのならば、主人はなんて人がいいのだろうと思いました。
 その主人の姿は、神様の姿でもあります。すると、神様という方は、なんて人がいいのだろうと思いました。そう言えば、「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5章45節)ということばを思い出しました。私が太陽を昇らせ、雨を降らせる権威を持っていたら、よい人にしか太陽は昇らず、悪い人には雨しか降らないという事態も起きそうな気がします。だから、私には善人にも悪人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるということはすごいこと、よほど広く大きな懐の人しかできないことなのです。だから、父なる神はなんて人がいいのだろうと改めて思いました。

 考えてみれば、イエス様が亡くなる前にも、私たちのことを思ってご自分をパンのうちに残してくださったこと、イエス様が、十字架上で人間から罵詈雑言を浴びせかけられても、一言もののしり返されなかったこと、私たちをかばって私たちの罪を負うために十字架にかかり、私たちに神様に立ち帰る道を開いてくださったこと、御父とイエス様が聖霊を送ってくださり、たえず命と愛の息吹きの中に私たちを招いてくださっていること、私たちが神様を探すよりも、それより先に、それ以上に、神様が私たちを探していてくださることを思い浮かべると、神様はなんていい方なのだろう、なんて人がいいのだろうと思わずにいられません。神様には善意しかないのだなあと思いました。
 そういえば、私の修練長はよく、“あなたの身の上に何が起きたとしても、神様はあなたの善しか望んでいないのです。だから、神様からのボールは腰を落としてしっかり受けとめない”、とよくおっしゃっていました。“よき神のよきはからい”ということばも自ずとうなずけます。
              コングレガシオ・ド・ノートルダム修道会  兼松 益子
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表紙:http://micmot1113.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2009/06/16/img_4987_2.jpgさんより
青空の写真:http://ganref.jp/m/arereno_ozisan/portfolios/photo_detail/0cf606a245acb24585bdf1548344ff2dさんより
雨とアジサイの写真:http://yk-mugen.at.webry.info/201206/article_2.htmlさんより




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