残像の遊戯

俳句・音楽・映画・ジャズ・小説などをめぐるコラム。日々過ぎていく目のまえの風景と心象は儚い残像なのかもしれない。

「100年目に出会う夏目漱石展」に行く。

2016年05月19日 | 旅行
神奈川近代文学館で開催されている「夏目漱石展」に行く。
初めて入る文学館だが、県立でこれだけの施設を持っているだけで、横浜、神奈川の厚みを感じてしまう。

平日というのに長蛇の列。

改めて漱石の家庭環境、育った背景を知ると、それが複雑な性格を形成したのかなと思ってしまった。
初めて展示された資料から、作家・漱石が誕生するまでの過程が年代順によく理解できた。

鏡子夫人がロンドン留学中の夫にあてた手紙には、ジンときた。小さな文字でびっしりと、夫の健康状態を心配し、
家と子どもを必死で守ろうとし、「あなたに会いたい」と訴えている。

また、正岡子規が漱石に出した手紙。「君が日本に帰ってくる頃は、ぼくはもういないだろう」という
哀切な文章にはホロッとさせられた。

それにしても、作家として大量の作品を世に送り出したのはたった10年の期間だったとは。

またゆっくりと漱石の小説を再読しなくては、と思った一日。

飛島、『季刊しま』、そして齋藤愼爾の句碑

2015年08月25日 | 旅行
サイクリングから帰り旅館の部屋でくつろぐ。暑い湯にさっと入り夕食のお知らせを待っているあいだ、玄関に置いてあったA5判の雑誌を3冊借りてページをめくってみた。それは『季刊しま』という年4回発行の全国の離島に関する情報誌だった。離島振興法という法律があることは知っていたが、それを促進する離島振興センターというところから出されており、これが実に読みごたえのある内容だった。

昨年亡くなった松本健一を追悼する文章が載っていたので、読んでみた。思想家松本健一と日本の島々がなにか関係があるのか。なんと松本は若い頃から多くの島をめぐり、それぞれの島に固有の歴史と文化があり、文化圏をかたちづくっていることを紹介していた。日本が本土だけの文化でないことを、辺境にこそすぐれた遺産が多くあることを書いていたようだ。そんな松本は離島振興の「応援団」役を担っていたのかもしれない。

島の宿で、こういう雑誌の存在を知っただけでも大きな収穫だ。ほんとに日本の文化は多様だ。その世界にはその世界の中核をなす拠り所があるのだと思った。おもえば、日本そのものが島の集合体なのだった。雑誌には、飛島よりも小さくて鹿児島から5時間もかかる島の暮らしが紹介されていた。小学生の生き生きした顔、大人たちの美しい笑顔。肥大化した都市ばかり目にする毎日のなかで、『季刊しま』に紹介されている島々が、とても豊かな世界にみえてきた。

夕食のあと、ランチを食べた『しまカヘ』をふたたび来訪。昼間とは打って変わってうすら寒い。カヘの内側では若い男性4人が宴会の最中だった。やはり、男性たちがこうやって集まりわいわいやれる場所も必要だね。妻とわたしは、となりの四阿で「ごどいも焼酎」をいただく。きりっとしまってなかなか美味い。

この近くに、句碑が建っていることを昼間見ていた。孤高の俳人といわれる齋藤愼爾は7歳から15歳まで飛島で生活していたと聞いていたので、飛島に齋藤の存在を示すなにかがあるのだろうかと思っていたら、目立つところに句碑が建てられていたのだった。齋藤愼爾は、深夜叢書社という出版社をたった一人で編集から経営までやっているという稀有な人。去年神田の古本屋で『齋藤愼爾全句集』を手に入れ、その句を読んでいるが難解な句が多い。推薦文や批評を寄せている人々は、上野千鶴子、五木寛之、吉本隆明、埴谷雄高といった錚々たる面々だ。

さて、句碑に刻まれた俳句は、

 梟や闇のはじめは白に似て  愼爾

建立したのは、齋藤愼爾に触発されて俳句を作り始めたという後藤エミとあった。島に渡ってくる人のほとんどは、俳句でも読まない限り齋藤愼爾という名を知らない人が多いのではないだろうか。旅のおもしろさは、観光ガイドにも載っていない名所(それも一人ひとりにとって心が響くものがあるところが名所なり)に出会うことにある。

酒田に向かう定期船は、台風の影響か波が高くかなり揺れた。下船する頃には妻はすんでのところで吐くところだったらしい。冬の荒海も想像できたのは、さいごのおまけだった。

飛島の漁村でアメリカン・カフェ

2015年08月24日 | 旅行
というわけで、午後は一人で自転車で島内をサイクリングした。とにかく行けるところまで行ってみようと思い、ペダルをこぐ。久しぶりのママチャリで漁港や家々をみてまわる。「民宿」や「○○旅館」という看板のある家がぽつぽつとみえるけれど、みなが営業しているようには思えない。なかには、閉ざされてしまい、人が住んでいる気配のない空き家のようなところもある。

雨がだんだんはげしくなってくるが、寒くはないのでこのまま決行する。飛島小中学校を過ぎ、坂道にさしかかる。学校の体育館には児童生徒の足がみえ、体育の授業が始まっているらしかった。夏休みはとっくに終わったのだろうか。坂道は10度のこう配、自転車を押して登る。

畑のまんなかに緊急のヘリポートがある。さらにそこから下坂を軽快に進むと勝浦とは違った漁港が伸びている。漁港ではあるが船の響きは聞こえない。漁は休みなんだろか。瓦屋根の民家が続く。人とすれちがうことはない。だれも通らないのだ。灰色の空と風景の途中に、明るいグリーンの外壁の家を過ぎた。「cafe」という文字、「営業中」の看板も。気になったがまっすぐに道を進むと、行き止まりだった。

Uターンして来た道を引き返す。そのとき、目の前の風景をどこかでみたことがあるような気がした。それは、つげ義春のマンガか紀行文で目にした風景に似ているのだった。

そしてさきほどみた「cafe」の前で止まった。たしかに「Cafe Beyond」というカフェで営業中とある。Tシャツもだいぶ濡れてしまい、少し休みたくなったので思いきって2階にあがりドアを開けた。

店のなかは小さな漁村にあるとは思えない雰囲気があった。流れているのはFENの英語とロック。カウンターの奥におられてマスターは、白髪交じりの短髪でタンクトップ。筋肉質の上半身はみごとに日に焼けている。さらに片耳には銀のピアスだ。さっそくヒットコーヒーを注文する。

「この先の勝浦に行ってみたんですが、行き止まりでした」などと話す。きょうの午前に「とびしま」で来たこと、明日一泊で帰る予定で今晩M旅館に泊まることを伝える。
「おしゃれなお店ですね。こちらはいつころ開店したんですか」とたずねると、マスターは去年の5月からだという。さらに、青森県出身であることを教えてもらう。店の壁にはアメリカ軍の旗やナイフ(本物ではあるまい)、星条旗のイラストが飾られている。もしかすると、三沢基地で仕事をされていたのかなと想像する。

「飛島に来る観光客で、ここまで来られる方はめったにいません」とも。観光パンフにも載っていないし、お客さんは来るのだろうかと興味をもつ。漁港の人びとは店に来るのだろうか。

「飛島に来る観光客は10月までかな。バードウォッチングや釣り客もこれから来るけど。冬は海が荒れて定期船も欠航になることが多い。春夏、秋はいいけど、冬はたいへんだね」

そういえば島には店が一軒もない。コンビニやスーパーがない。日常生活に必要な物品は、酒田から定期船で取り寄せるのだという。

帰宅してからインターネットの山形新聞記事で、昨年5月に飛島に移住しカフェの経営を始めた人が紹介されていた。それがマスターだった。やはり三沢基地でコックをされていた人だった。

山形の孤島、飛島に渡る。

2015年08月23日 | 旅行
酒田港から定期船「とびしま」に乗船し90分、8月21日初めて飛島に渡った。埠頭でM旅館の女将さんが、相撲の化粧まわしに似たデザインの旗を持って出迎えてくれた。宿に荷物を降ろし、さっそく若い女性がやっている「しまかへ」でランチ。連れ合いは生パスタ、私はカレー。心地よい潮風を浴びながら、いただく。カレーにはイカが入っていてなかなかの味。客は、仕事でやってきたNTTの方2人、同じ船でやってきた診療所のドクター、それに70代と思しき女性4人組。観光でやってきたはこの女性陣と我々2人だった。

食事のあと、無料の自転車を駆って中心部の勝浦、中村地区をまわってみる。季節は初秋、夏の盛りはとっくに過ぎたので観光客は数えるくらいだ。海開きから8月の中旬ころまではおそらく大勢の家族連れでにぎわったにちがいない。唯一の海水浴場もだれもいない。最盛期を過ぎた海水浴場には独特の哀愁が漂っているものだ。

連れ合いは宿で休むというので、私一人で島めぐりの徒歩コースに挑戦することにする。地図を片手に、海水浴場から伸びる坂道を上り、山道に入ってみる。どんな風景に出会えるのか、わくわくしながら狭い山道を分け入っていく。
宿の女将さんに「賽の河原ではけっして石を持ち帰らないように。持って帰った人は、その後不幸な目にあいますから」とクギを刺されたので、ますます興味がわき、ぜったい行ってみようと思った。地獄の景色が待っているのか、あの世の風景がみえるのか・・・。

しかし、草深い道を降りて海岸に出るとゴミが漂着した砂浜が続く。なんと「よくぞここに神社が?」と驚いたが、明らかに神社の屋根が見えた。いったいどうやって資材を運び、建てたのだろうと疑問がわく。

あまりに寂しくしかも急峻な岩山がそびえ、崩れかかったような神社のあるところはかなり不気味であったので、賽の河原を見ずに引き返す。