真似屋南面堂はね~述而不作

まねやなんめんどう。創業(屋号命名)1993年頃。開店2008年。長年のサラリーマン生活に区切り。述べて作らず

村田良平氏最後の証言の番組(10/3)を見る

2010-10-09 | 日記
スクープドキュメント “核”を求めた日本 ~被爆国の知られざる真実~
2010年10月3日(日) 午後9時00分~9時49分 総合テレビ

前宣伝的にニュースでも
政府 核兵器保有の検討していた10月3日 19時53分

"1960年代の後半、日本政府が、核兵器の保有について極秘裏に検討を進めていたことが、NHKが入手した機密資料からわかりました。当時の西ドイツとの間で核をめぐる秘密の外交協議を行っていたことが記されていて、核兵器を持たないという「非核三原則」が定着するまでの経緯を示す新たな事実として注目されています。
NHKが入手したのは、ドイツに残されていた西ドイツ外務省の機密資料です。それによりますと、西ドイツとの秘密の外交協議は1969年2月、箱根の旅館などで極秘裏に行われました。
この5年前、中国が核実験に成功し、アジアで初めての核保有国になり、これ以上、核保有国を増やさないというNPT=核拡散防止条約が提唱され、戦後経済発展を遂げた日本や西ドイツなどの国が核兵器を持たないよう促されました。秘密協議は、この条約の発効を翌年に控え、日本側が西ドイツ側に呼びかけて行われ、出席者は、日本側が外務省の国際資料部長ら6人、西ドイツ側が当時の外務省政策企画部長ら5人でした。
(中略)
秘密協議に参加した日本側の外交官の1人が、のちに外務事務次官となる村田良平さんです。村田さんは、核兵器の持ち込みをめぐる日米の「密約」を実名で明かした人物で、ことし3月に亡くなる前にNHKのインタビューに答え、秘密協議の目的について「西ドイツ側と意見交換するなかで、核兵器を持てる余地を残し、大国が作った条件を覆したかった」などと証言しました。"
(以下略)

恒久平和のために:
「日本が核兵器保有を検討していた」西ドイツ機密資料

エゴンバール西ドイツ元補佐官

origittoさんからの、短くてタイムリーなメッセージ
NHKが報じた、1964年に内閣調査室がまとめた「核兵器製造技術開発推進を提唱する報告書」がみつかった件、
・・・・
上杉隆氏「ジャーナリズム崩壊」にあった「わかった」記述の典型的ニュースで報告書の出所、わかった経緯が完全に抜け落ちてる。


「3日、わかった」って、「3日にテレビを見ていたら、そういうニュースやら特集番組をやっていたので、わかった」という意味なのね。
一般視聴者と同じ目線・・・。

協議をしていたことが3日、わかった。
と日経。

消してしまうと思われるので、貼ったものを:
1960年代後半に当時の佐藤内閣が核兵器の保有を極秘裏に検討し、旧西ドイツ政府と核を巡る協議をしていたことが3日、分かった

一部報道は3日、64年の中国核実験成功を受け、佐藤内閣が核兵器の保有を巡り、69年に西独と協議していたと伝えた
と読売。

番組では、健在の西ドイツの担当者へのインタビューも実施。
バール氏は当初、顔出しは拒否であったが、先に実施した村田氏へのインタビューの際に、ドイツ語で語られた村田氏からバール氏へのメッセージを見せたらOKしてくれた云々と。

(不確かな記憶に基くので、細部はいい加減)
「私は・・・に関してNHKのインタビューを受けたところです。私は肺がんを患っていて、そう長くはないでしょう・・・」
これを見たバール氏は、急遽顔出しインタビューに応じたのです、と。

歴史に対する責任を知っている漢同士、というわけね。
でもって、秘密報告書は、核兵器の開発・保有は、(作ろうと思えば可能ではあるものの)なかなか大変である・・・、という結論だったようである。

佐藤栄作首相がその報告を受けてどう考えたかは詳らかでないものの、「だったら"持ちませんし、作りもしません"と宣言して受けを狙ったほうが有利」(どうせ米国の核の傘に世話になっていくのだし)と考えたのかしらん。

「持ち込ませず」まで言ったのは余計だったと思うけど。
三拍子そろえたので平和賞、だったのかも?

番組では、協議に参加したという岡崎久彦氏の写真も示されるが、なぜか岡崎氏へのインタビューはなし。
打診はしたのだろうなあ。

「69年2月上旬に東京で西ドイツ外務省と意見交換し、箱根で接待をしたことは事実だ。ただ、テーマは一般的なもので、核保有を巡る議論をした記憶はまったくない」と、とぼける元外交官?

杜父魚文庫ブログ

なお、南面堂は、「核保有を検討したことがケシカラン」とは思わない者である。
ある可能性を最初から排除するという姿勢は、政策の選択肢を狭める愚かな行為だと考える。

検討した結果、「著しく困難だし、第一、国民の合意が形成できまいと考えられるのでやめときまひょ」と結論して、逆に「作りませんし、持ちませんし・・」と政治家に使われたというのは興味深いと思うまで。

関与した官僚の中には、秘密を墓場まで持っていくとの決意を維持しているヒトも居るだろうし、余命わずかになったと自覚した時点で、証言を残そうと決意したケースも出てくるのだろう。

村田氏と岡崎氏は、ご同期入省の由。
戦後とは何であったか --『村田良平回想録』に思う 岡崎研究所2008年12月26日

"彼が駐米大使の時代は若いときから順風満帆で出世街道を上り詰めてきた村田氏にとって、唯一の挫折の時期である。日米関係があれほど悪ければ、その責任の一端は駐米大使にかかってくる。そうなると官僚の御殿女中的世界では、それまでの羨望、やっかみが表面に出てきて、四面楚歌となる。彼にとってはそういう時代だった。"

村田氏の駐米大使時代はそうだったよなあ。ご苦労されたのだな。
雑誌の記事で、「評判がよろしくないので、更迭して東西ドイツ統一後初代の大使になってもらうか・・・という議論がある云々」というのを覚えているぞ。

略歴村田良平(むらたりょうへい)

●英語が堪能でない駐米日本大使(EJ第935号)2007年11月07日
"村田氏は外務省きってのドイツ通であり、ワシントン駐在のドイツ大使がドイツに関する村田氏の博学ぶりには驚嘆したそうです"

ドイツ語遣い外交官の大後輩の城内議員。
コ ラ ム 村田良平元外務次官のご逝去 « 城内 実

で、故人は回想録上下やら回顧録やらたくさん残されているのだが、以前から気になっていたこれらを、そのうち読まねばなるまいな。
現役のころ著された1冊は、昔々に読んだのだが。

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