性とは人の本性や本質、生まれながらの心という意味。
性善説は、人は生まれながらにして善の心を持っている。
とするものだが、それは楽天的な理想論ではない。
善の心には『四端(シタン)の心』があり、(端とは兆しの意味)
それは他人の苦しみを見過ごせない心、不正を恥じる心、謙譲の心、
善悪を分別する心、の4つの兆しの事。
それらを琢くことによって仁、義、礼、知という4つの徳を修得し、
聖人に至ることができるというもの。
しかしながら善の心も放っておけば悪を行ってしまうので教えが必要なのだという思想。
性悪説は性善説の逆であるが、やはり単純に
『人の本性は悪であるから、悪事をはたらくのは当然である』という事ではない。
性悪説における悪とは怨みや妬み等の一般的に思い浮かべるような悪とは異なり、もっと自然的な欲望や欲求、つまりは食欲や享楽を求めたりすることである。
しかしそれらも後天的な努力によって礼を知り、
聖人のようになれるというものが性悪説。
性悪説では、人の性は悪であるが後天的努力によって悪を克服することができる。
とする思想であり、
性善説とは前提が異なるだけで結論としては共通の道徳論。
先日の私のブログを見てくれた息子からメールが届き、
更に詳しく解説してくれました。
今、息子と離れて生活しているので、
子供から頼りが届くと、本当にただただ嬉しく
元気にしていると言うだけでありがたいです。
そこで今日はその記事をそのまま投稿しました。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
では次回もお楽しみに!
8/4土曜日は足利花火!です
性善説は、人は生まれながらにして善の心を持っている。
とするものだが、それは楽天的な理想論ではない。
善の心には『四端(シタン)の心』があり、(端とは兆しの意味)
それは他人の苦しみを見過ごせない心、不正を恥じる心、謙譲の心、
善悪を分別する心、の4つの兆しの事。
それらを琢くことによって仁、義、礼、知という4つの徳を修得し、
聖人に至ることができるというもの。
しかしながら善の心も放っておけば悪を行ってしまうので教えが必要なのだという思想。
性悪説は性善説の逆であるが、やはり単純に
『人の本性は悪であるから、悪事をはたらくのは当然である』という事ではない。
性悪説における悪とは怨みや妬み等の一般的に思い浮かべるような悪とは異なり、もっと自然的な欲望や欲求、つまりは食欲や享楽を求めたりすることである。
しかしそれらも後天的な努力によって礼を知り、
聖人のようになれるというものが性悪説。
性悪説では、人の性は悪であるが後天的努力によって悪を克服することができる。
とする思想であり、
性善説とは前提が異なるだけで結論としては共通の道徳論。
先日の私のブログを見てくれた息子からメールが届き、
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今、息子と離れて生活しているので、
子供から頼りが届くと、本当にただただ嬉しく
元気にしていると言うだけでありがたいです。
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