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ABCルソー閑談

2013-03-29 02:20:32 | 学外者やじうま閑談


A:中央学院大学に勤めている友人がルソーの研究論文についての小さなイザコザを教えてくれたよ。法学部のある教授のルソーに関する紀要論文について、そこの先生がこんなコメントをtwitterに出していたんだって。
「yotchan0927 大村芳昭
外国の思想家を専門に研究していると自称する大学教授が、その思想家の原典を殆ど引用せず、日本人研究者が翻訳した文庫本ばかりを引用して書いた論考(所属大学の紀要に掲載したもの)は、まっとうな「論文」と言えるのでしょうか? また、その学問的評価はどの程度なのでしょうか?」(2011年6月28日付Twitter)
 で、このtwitter先生、次の法学部長になったそうなんだ。 

B:学部長になるのって、立候補でなるんだろう?そういう人が、自分の大学の同僚についてこんなことを外に向けて言っていいもんなのかい?そうする前に、学内で研究室にでも出向いて直接言ったらいいと思うけどな。

C:でも、次期法学部長として有望視されている人が、自分の大学の同僚についてこんなコメントを公にするなんて、なかなか開かれた大学じゃないか。いいよね。大学嫌いのぼくでも、ちょっとウレシクなっちゃうな。

B:きみもキツイ皮肉をぺラッと言うよな。そりゃあ、学外から見てる分には面白い眺めだけどね。

A:ぼくも面白いと思ったよ。学内の人間関係を露呈させていて、それを臆することなく学外にぶちまけているんだもの。そこのところが面白い眺めなんだよね。同僚の論文が「まっとう」と言えるか、いぶかしく思っているんなら、学校の評判を下げないために、まず学内で解決しようとすればいいじゃないか。紀要論文はどうしたって公表されて学外に出ていくんだから、本当に問題だと思っているなら、自分が執筆者本人や他の教授たちに会って質したらいい。誰が考えてもすぐにわかることだけど、順序が違い過ぎるよ。なのに、すぐにtwitterでこんなことを出してしまうなんて、この大学、みんな一緒になって内紛状態でございますわヨ、と公にしているようなものだ。

B:まぁ、大学は企業とは違って、自由な言論の飛びかうべき場所だからな。

C:そういう意味では、この先生、率先して模範的な態度を示していらっしゃる。いやあ、見習いたいね。自由とはなにか、見解の多様性を守るとはなにか…

B:まぁ、それはそうと、この先生の疑問、というか批判は、一応、一般的なんじゃないかとは思うね。外国の思想家の研究をするのに、原典の引用ナシっていうのは、今の学問世界ではふつうはしないものね。特に紀要論文の世界ではね。

A:ぼくもそうは思う。でも、相手がルソーだからな。もうちょっと幅のある見方をする必要があるかもしれないと思ったんだ。

B:というと?

A:ルソーというのは、思想や文芸において大変なビッグネームだからね。これを対象にする場合、欧米で最近話題になっているような思想家を日本に紹介するのとは、どうしたって、わけが違う。ルソーという問題圏に入り込む入口は無限にあるわけだし、これとの付き合い方も無限なわけだ。
 日本でのルソーの受容にはずいぶん歴史があるし、翻訳も複数あるよね。もともと、思想書の翻訳はそれ自体が研究成果の表明ともなるし、訳者の解釈の表明ともなる。既存のどんな翻訳を引用するかには論者の見解が否応もなく出るわけで、部分的に改めながら引用する場合にも同じことだ。まったく首肯できない翻訳なら、ぜんぶ自分で訳し直して引用すべきだものね。
 研究というのは過去に発表された論文や翻訳を抜きにしてはなされ得ないわけだけれども、まぁ、そんなわけだから、既存の翻訳を論文に使用する場合、おのずと、論者がその翻訳者の見解に同意した上で自論を展開している、との表明になるわけだ。
 そう考える際には、「日本人研究者が翻訳した文庫本ばかりを引用して書いた論考」への批判は、そう単純なものではなくなるだろう、と思うわけさ。

B:そりゃそうだ。「文庫本」の翻訳というのは、たぶん岩波文庫のことだろうと思うけれど、あれらの翻訳の場合、長所短所を含めて、現代の研究者が押さえておくべき文献のひとつとなっているよね。明治時代の中江兆民以来さまざまな受容史があり、翻訳や解釈のいろいろな格闘や積み上げがあって、相当に煮詰まったところで出されたのが岩波文庫版に入っているルソー訳なわけだから、根幹となる部分には大きな間違いはない。日本人が、明治以来あれこれと作りあげられた訳語を用いながら、漢語や和語の表記を通してルソーを読解したり考察を加えたりする場合に生起しがちになるであろう典型的なかたちのたたき台が、あそこには実現されているとみていいだろうと思う。あれ自体がひとつの歴史であるし、日本人VSルソーの代表的な現象例なんだよね。

A:まぁ、この先生が言いたいのは、せめて白水社版のルソー全集ぐらい同時に参照して、異同の確認を論文上の註あたりででも指摘しておけよ、っていうことだろうけどね。最近じゃ、中山元の読みやすい翻訳もあるしね。あれも光文社古典新訳「文庫」だけれど。既成の訳に立ち向かう人たちが、あえて「文庫」で新訳を出してくるっていう時代にもなっているよね。
 …でも、どうなんだろう。後から原稿の新たな発見があったとか、そういうことがあれば、たしかに翻訳には留まっていないで、やっぱり原典に遡らないとダメだろうけれど…

C:いやいや、ルソーの場合、原稿はもう出尽くしているだろうね。政治思想上いちばん問題になりがちな『社会契約論』なんか、本人の決定稿は失われているし、ふつうに使われるのはルソー生前の唯一の版である1762年版だよ。これはルソー自身が読み直しをして承認した版でもある。この版にヴォルテールが書き込みをしたものがファクシミリで見られるよ。
 ただ、ルソーは、初版の出版後、かなりの修正や加筆を望んでいて、それを新版に盛り込もうとしたけれど、生前は果たされなかった。それらのうちの或る程度は、ムルトゥやデュペイルによって1782年版に盛り込まれることになる。現在では、これらは校訂者によって註の中に入れられる場合が多い。

B:日本へのルソーの紹介者である中江兆民は、自由民権運動の理論的指導者となったので「東洋のルソー」とも言われたらしいけれど、彼が麹町にフランス語塾を開き、『社会契約論』を講義したり抄訳したのが1874年前後だから、彼だって1762年版か1782年版と同内容のテキストを読んでいたはずだよね。兆民以来、日本の『社会契約論』の読者たちは、原典の基幹部分における変更は被っていないはずだよ。

A:幸徳秋水なんかは、兆民の弟子だったんだってね。

C:そう。兆民っていうのは、現代では忘れられているけれど、いろいろとすごい人だよね。第一回の衆議院選挙で当選しているけれど、自分の本籍を大阪の被差別に移して選挙活動しているんだよ。「余は社会の最下層のさらにその下層におる種族にして、インドの『パリヤー』、ギリシャの『イロット』と同僚なるにして、昔日公らのと呼び倣わしたる人物なり」と言ったのは有名だよね。これって、シィエス(シェイエス)の『第三身分とは何か』を超えているよ。で、立憲自由党をつくるわけだ。幕末から明治にかけての学者っていうのは、まァ、ラディカルさが違うね。

A:ほんとにそうだな。フランス学ばかりか、日本でヨーロッパ思想に関連したことをやるような人間は、ときどき兆民先生の姿勢を思い出す必要があると思う。

B:なんのための『社会契約論』読解なのか、研究なのか、ってね。まぁ、自分も含めて言うけれど、どうして今の日本人はこんなふうに骨ナシになっちゃったんだろうかな。

C:寄らば大樹の陰、金と安定のほうへばかりフラフラ靡く小あきんど、経済的傭兵。他人の不幸はないも同じ。ひとりの人間の人生としては、まことに情けないもんさ。ナチスの殲滅収容所で黙々と働いたドイツ兵と、基本的には同構造の精神だものね。新自由主義っていう殲滅収容所が稼働中なのさ、現在は。

A:ふーむ。…で、ちょっと話を戻すけれども、まぁ、とにかく、ルソーといったって、いろいろなテーマがあるっていうことになるわけだよね。というか、テーマがあり過ぎなのがルソーという対象だ、と。
 もちろん、フランス語原文にぴったり即しながらなんでも考察するのがいいに決まっているだろうが、日本人として生れ、生き続けてきている人間が、日本人ならではの問題意識とルソー受容史を抱えながら、まず第一に日本人を相手とした論考を書こうとする場合には、既存の代表的な翻訳を使って、あらかじめ問題の方向性を絞ったり定めたりする思考法もあっていいとは思うんだ。それがダメだというのなら、論文を書いて反論すればいいのさ。それが学問というものの場だろう。Twitterでこそこそクサしてちゃダメだよ。堂々と論文書けよ、そんなに問題視しているんなら、って思うね。

C:そうだよね。外国の思想家について原典うんぬんを言い過ぎると、日本人という立場にいる場合、すぐに陥穽に落ちることになる。ルソーなんかの場合は、そもそもフランス語だけで読んで、フランス語だけで考え、フランス語だけで書け、っていうことになるよ。それはそれでカッコいいよね。でも、よっぽどのルソー研究者でなければ、そんな論文、日本人の学者は読まなくなるし、だいたい、そうした論考の場合、お仕事の全部がぜんぶ、フランス共和国の文化財産になるんだよ。ヨーロッパやアメリカの凄いところ、怖いところは、アジアやアフリカの研究者の仕事を、全部、自国の文化価値称揚に利用しまくっているというところさ。日本人が欧米の思想の研究をする場合、ここのところをよく考えるべきでもある。あえて日本語だけで思索し、書く。こういう行為が、じつは国家的な文化闘争を実質的に担っているのさ。
 まぁ、日本人のエリートは、明治時代以来、自分たちだけ欧米に胡麻をすって、ペコペコして、「私だけはニッポンのイエローモンキーとは違って、白人社会の側に立っていますから、そこをよく見てくださいネ」と宣伝し続けてきているけれどね。

B:そうそう。欧米の文化的世界制覇主義っていうのはスゴイものね。たとえば、ルソーについてこれこれの問題に個人的に興味があるから、留学してそれを研究したいです、なんていうのは、日本にいる間に見ていられる甘い夢に過ぎない。フランス本国に行けば、ルソー研究という巨大プロジェクトが恒久的に進行中で、まだ検討されていない小さなテーマを指導教官から押しつけられ、それについて成果を出すのを求められる。博士号取得を望むレベルの研究者など、フランスの文化的国威掲揚のための歯車に過ぎない。こうした押しつけを避けるために、あえてスイスに留学するとか、そういう工作も必要になってくるわけだ。

A:だいたい、いつも不思議に思うんだけど、大戦後、ド・ゴール体制で露骨な反英米政策をとって核兵器を独自に配備したフランスと、どこまでもどこまでもアメリカの核の傘の下でヌクヌクしている日本とでは、ルソーひとつに対しても、同じ立場や研究姿勢なんかとれるわけがないじゃないかな?それこそ、ホー・チ・ミンやポル・ポトなどの現象も含めた上で、欧米というものをカッコに括って、そこと安易にみだりに同化しない研究態度というものが常に問われているんじゃないかと思う。フランスにおけるルソー研究とは、容易には透明な関係を結べないような歴史的政治的経緯が、どうしても日本にはあると思うんだよ。

C:フランス人と政治の話をマジでやると、必ず馬鹿にされるものね。日本国憲法の戦争放棄とか平和主義が大事だとかなんとかいうが、お前ら、アメリカの核の傘から出てからそれを言ってみろ、ってね。途方もない規模の破壊兵器を抱えた国際的ヤクザが後ろに鎮座ましましているのに、どの口で平和主義だなんて発言できるんだ?、って。

B:まあね。日本の大学の教室で開陳されるような理想主義は、一歩国外に出れば、壮絶にバカにされるものね。そもそも、日本の平和主義自体が、アメリカの日本支配の巧妙な洗脳政策だったのだけど、今でも大学って、アメリカの洗脳の先兵だろう?情けないことになっているわけだよ。

A:大戦争に負けるとどうなるか、っていうことを、これほど露骨にさらけ出し続けている国もないよな。カルタゴはローマに塩を撒かれて徹底的に土壌破壊をされたけれど、日本の場合は精神の土壌に塩を撒かれたわけだ。1945年に負けただけじゃなくって、いまだに負け続けている。テッテイテキにだ、テッテイテキに。

B:そういう意味でも、戦争はやっぱりいけないね。真面目にとらえても、皮肉にとらえても、大戦争はろくなことにならない。原発事故を見てもわかるが、いっさい民衆を守ろうとしない国なんだもの。戦争になればなにが起こるか、もうぜんぶ想定できる。

C:…そういえば、さっきの欧米の文化的覇権主義の話が出た時に思ったんだけど、例のtwitter先生による「思想家の原典を殆ど引用せず、日本人研究者が翻訳した文庫本ばかりを引用して書いた論考」への批判って、やっぱり、偏狭なところがあるというべきだろうな。

B:そうかな?そこのところは、ぼくはtwitter先生に賛成だけどな。

C:きみはさ、フーコーもドゥルーズも原典で読んでないだろ?

B:翻訳では読んだよ。

C:いや、翻訳だってロクには読んでないはずだ。翻訳でだってわかる部分の話だからな、ぼくが言っておきたいのは。

B:どんなこと?

C:今じゃ、フーコーは思想や政治思想では無視できない相手だし、ドゥルーズだってそうだ。ネグリとハートの『〈帝国〉』なんか、ドゥルーズとガタリの決定的影響下に出来たものだしね。
 ちょっと指摘しておきたいのは、そういう20世紀後半の思想家たちの主著が、過去の外国の思想家の文章を引用したり指摘したりする場合にどんな態度をとっているか、ということ。
 彼らって、ほとんど、フランス語の翻訳から引用しているんだよ。原文なんて、まず引用しない。註にだって、原文のどの版を使ったかとか、どのページから引いたとか、いっさい書いていない。ちょうど今読み直しをしているのでここに持って来ているけれど、このLes mots et les choses(Galllimard,1966)を見てごらん。『言葉と物』と訳されている本だけど、ほら、201ページのここのところ、ヒュームからの引用があるが、ページ下の註には「ヒューム『貨幣流通について』(経済学集、フランス語訳p.29-30)」とあるばかりだ。アダム・スミスからの引用のある234ページのこっちも見てごらん。註には「A・スミス『国富論』(フランス語訳、パリ、1843)p.1」なんていうぐあいだ。もちろん、本文中の引用はフランス語だよ。
 いったいどのフランス語訳から引用しているんだ?なんていう突っ込みは、はじめから相手にもしていない。これだけの注記でどの翻訳かわかるような相手にむけて、フーコーは書いているんだ。しかも、英語原文を引用しなきゃダメだろ、なんていう批判も無視。英語原文も、必要と思えばサッと調べて見直せるような相手にむけてのみ書いている。日本じゃ、ご大層に大思想家として奉られているフーコーさまだが、その世界的代表論文が、外国の思想家の文献についてはこのありさまだ。
 ドゥルーズだってすごいぞ。外国の思想家について論じる際、使っているテキストはぜんぶフランス語訳だ。有名なニーチェ論に、ぜんぜんドイツ語が出てこない。徹底的なフランス語中心主義なんだ。すべてをフランス語に直して、フランス語のみで思考する。おれはフランス語になったニーチェを考察しているんだ、文句があるなら、フランス語の土俵でどうぞ、っていうわけだ。これが、日本の翻訳者たちにかかると、ご丁寧にニーチェのドイツ語原文を出してきて補完してくれていたりする。そういう翻訳を見て抱く印象は、ある意味、善意からの裏切りを真実と捉えているわけで、やはり問題がある。
 こういうフーコーやドゥルーズなどに対して、デリダが徹底的に原典主義で論考を作っていくというスタンスをあえて採って、自分の持ち味として出したんだけど、もちろん、お互いにクサしあったりしないで、尊敬しあっていた。
 フランス系だけじゃないんだよ。たとえばアーレントの『革命について』なんか、英、独、仏といろいろな文献を使っていて、註にも出典を書いているけれど、ルソーからの引用など、「ルソーについては、G.D.H.Cole(1950年、ニューヨーク)による『人間不平等起源論』(1755)翻訳を見よ」と註にあったりして、原典の文章など無視しているところもある。
 いっぽう、レオ・シュトラウスなんかはけっこう原典主義の註を付す傾向があった。もっとも、Natural Right and History(1950)なんかで『エミール』からの引用箇所の註に「Hachette,Ⅰ,374 ; Emile,Ⅰ,286-87, 306,Ⅱ,44-45」とだけ付しているのを見ると、このアシェット版テキストを使用する理由が明示されていないぞ、とtwitter先生からはお叱りが出るんじゃないのか、とヒヤヒヤするけれどね。

A:となると、twitter先生は、まずは、フーコーやドゥルーズ、アーレント、レオ・シュトラウスあたりに難癖をつけることからどうぞ、っていうわけか。

C:まあね。そこまでは言わずとも、そもそも19世紀後半にかたちをとってきたに過ぎない大学での論考なるものの書き方にも、いろいろと系統や流派があるということさ。日本で自分が通った大学で、指導教授からたまたま習ったにすぎない書き方だけがすべてとは言えないですよ、という話。言語表現の世界も広うござんす、とね。

B:ふーん。じゃあ、きみは岩波文庫訳のルソーでどんどん行けばいい、っていうわけか?

C:ぜんぜん。だいたい、ぼくは翻訳なんか、まれに参考程度にしか使わないから。原文を読むために言語を勉強したんだし、たとえ誤読をところどころしたとしても、原文だけで通すつもりだよ。ずっとそうしてきたしね。
 『社会契約論』ひとつ読むにも、絶対に最新の校訂版を入手しなきゃダメだ。ぼくの場合はそういう主義。まぁ、ぼくはルソーの専門家でもなんでもないけれど、この間もブリュノ・ベルナルディBruno Bernardiの校訂版の註を読んでいて反省させられたよ。第1章の冒頭の有名な文、「人間は自由なものとして生まれたというのに、いたるところで鉄鎖に繋がれている」と訳せそうな文があるけれど、複合過去形で書かれているそこの「人間は自由なものとして生れた」について、ルソーはここでの複合過去形をラテン語文法における完了の意味あい、獲得の意味あいで用いている、とあるんだな。どういうことになるかといえば、「人間はもともと自由だったが、今ではそうでなくなってしまっている」という解釈ではいけないと注釈者は言っているんだ。「生まれつき(=自然によって)、人間は、自由であるべく指定・任命/形成・設定・構成され(るということが完了しており)、現在も自由であり続けている。そして、いたるところで鉄鎖の中にある」という程度の意味あいで読むべきだろう、と。もっと砕いて訳せば、「人間は自由なものとして生まれ、自由なままであり続けている。そうして、いたるところで鉄鎖の中にある」ということになる。自由でなくなってしまった、などとはルソーは書いていない、というわけだ。注目すべきポイントは、人間の自由はすでに設定し終えられ、人間は自由なものとして構成され、自由たるべき地位に就かされているということ(複合過去表現)、それと同時に、人間は現在鉄鎖の中にあること(現在形表現)、このふたつがひとつの重文の中で語られていることだ。テキストにぴったり即したこういう読解をブリュノ・ベルナルディは勧めていることになる。
 冒頭の一文でさえこんな調子だから、『社会契約論』の完全な読み直しはやっぱりしないといけないだろう、ということになる。ロベスピエールがこの本を誤読して、というか、文字通りに受けとめ過ぎて、トンデモないほうへと革命を導いたのは有名な話だが、ルソーはいまだにアクチュアルな揺れ動きを続けているテキストなんだ。ジュネーブ人で、しかも18世紀のフランス語、それに、ラテン語やギリシア語の古典をたっぷり読みこんできた男のフランス語だというところにも、現代の読者にとっては大きな困難がある。古典語の文法に影響されたフランス語使用法と、古典読解が骨の髄まで染み込んだがための古典的レトリック癖が、どうしてもルソーのテキストには発生するんだよ。そうした語法面やレトリック面のあれこれを巧みに微調整し、ドライブしながらルソー読解は進めないといけない。日本での大学レベルのフランス語をやった程度では、生のルソーを読めばわからないところだらけ、どうして翻訳ではああなっているわけ?という難所ばっかりさ。
 そうなると、厳しくいえば、翻訳どころか、文法的にも語法的にもレトリック的にも、ルソーのフランス語に深入りしていかない人間は、ルソーを論じたり扱ったりすることはできないということになる。社会科学や法学の研究者たちに見られるような、もう「ルソーなんてわかりきってるでしょう」的な大言壮語は、とてもではないができないだろう、ということになる。まず原典を読んでみろ、しかも、すべての注釈を比較して詳細に読んでから、法学にルソーを引用したりするようにしろ、と要求したら、この国の法学の基盤なんて一発でストップするだろうね。
 まぁ、こんなふうにいろいろ思うけれど、かといって、ぼくなんかはフランスの文化的覇権主義にはぜったいに同調したくない。自分ひとりで原典を読んで、いろいろ理解したり考えたりして、ひとりで死んでいくさ。だから、大学に関わっているきみらのスタンスにも同調しない。できるだけ自由な場所に身をおいて、しがらみもナシに自由に評価し、批判し、自分の生活から離れない思考をしていきたいね。

A:かっこよく出たな。吉本隆明みたいじゃないか。

B:あの人、ドイツ語がよくできたけれど、あえて翻訳で外国の思想家のものを読んで、それを使ったり引用したりして思索したんだよね。大学の先生たちからその点をさんざん批判された時に、おれはお前たちが翻訳したものを使って考えてんだ、それが信用ならないってんなら、お前らの仕事がダメだってことじゃねえか、って啖呵を切ったんだよ。

A:ということは、C君の場合は、反転した吉本隆明ってとこか。なんであれ、日本の大学の先生たちの仕事は使わねえぞ、っていうんだから。
 まぁ、とにかく、吉本みたいなのを批評家critiqueっていうんだよな。クリティックcritique。いつも、「危機的な」、「決定的な」、「峠の」、「重大局面の」、あるいは「臨界の」思考をしようとする人間。腹の坐り方が違うよ。だけど、大学の先生たちは、自分たちでやっている翻訳がアヤシイとわかっているから、批判もしたわけだろうけれど…

C:…あんまり細かいことを言うつもりはないけれど、critiqueっていうのはギリシャ語のkritikosから来ていたかな。さらには動詞krineinから。判定する、判断する、裁く、っていう意味だな。そうなると、この語における批評の意味あいはけっこう根源的なはずだけど、「危機的な」みたいな意味あいのほうが後からついてきたってわけかな。まぁ、後で調べ直しておこう。

B:きみも、いつも細かいことを気にするなぁ。まるでデリダの路線みたいだな。
…まぁ、ぜんぶをひっくるめて、ニッポンの悲しき文化っていうことなのさ。欧米の植民地主義の怒涛を受けて、なんとか生き延びてきた『悲しき亜熱帯』だよ、ここは。

C:…ちょっと前の、さっきの話に付け加えておくけど、ルソーを研究するにしたって、フランス語だけでOKです、ってわけにはいかない。まぁ、スタロビンスキーのルソー論はフランス語だからいいとしても、新カント派のカッシーラーの『ジャン=ジャック・ルソー問題』なんかは、ルソーの良所を生かしながら合理的に解釈しようとするには避けがたい論考だし、『反デューリング論』などでのエンゲルスの解釈だって避けられない。それらはフランス語ではないわけで、ルソー研究者たらんとする者はいろいろな外国語で論文を読み広げる他にはないわけだ。

A:そういうふうになってくると、もうどうにも収まりがつかなくなるよね。ようするに、ボルヘスやエリアーデみたいになれ、何十の外国語を縦横に使えるようになってから研究の舞台に戻っておいで、ってな具合だな。

B:ありえないでしょ、ふつうに考えれば。

C:だからさ、ぼく自身の方針や問題意識とは全く違うけれども、さっき話に出したフーコーやドゥルーズの方向でいくのもアリだろう、って思う。必要のある時には原典も見るが、基本的には諸々の専門家による翻訳を用いて、それにもとづいて思考する、っていう方向性。

B:そうしないと、テーマが絞れないものね。

C:そう。ルソーと一口に言ったって、ルソーのどんなテーマを扱うか。それに応じて、原典主義でいくか、翻訳使用中心でいくか、そういう方法論上の選択はあっていいんだと思うけれどね。ひとりの研究者がテーマに応じて方法を変えていろいろ考察したっていいわけだ。

A:どちらにしても、ダメだと思った論考に対しては、論考のかたちで反論すればいいんだし。学問の場だものね。

B:そういうことだな。

C:ぼくの知りあいの学者でイタリアの優秀なやつがいるんだけど、こいつがイタリア語、フランス語、英語、ドイツ語、スペイン語を自由に操るんだよ。しかも、ラテン語、ギリシャ語まで出来る。それで、論文を書く時に、同じテーマについて、イタリア語で書いたり、フランス語で書いたり、英語で書いたりするんだけど、どの言語で考えて書くかによって、発想や論理の繋ぎ具合に変化が出て、いろいろと発見につながり、とっても面白い、っていうんだ。

A:これはまた、すごいやつがいるな。

C:こんなの、ヨーロッパにはざらにいるよ。こういうところがヨーロッパの怖いところなんだ。欧米っていうのは、軍備だけでなくて、文化的にもバイタリティーが違う。
 で、この男の話なんかを参考にすれば、ルソーを考えるにも、なにもフランス語使用だけがいいってわけじゃないぞ、ってことになるんだな。
 日本語でルソーを考えたって、いいわけじゃないか。必要な個所個所でフランス語に立ち戻ることにしさえすれば、それでもいい。日本語思考で得られた発想や発見を抱えて、さまざまな言語でなされているルソー研究の集合体にいずれ戻っていくという気持ちでいれば、そもそもからして問題などないはずだしね。だいたい、ある研究者が、いま日本語の翻訳を軸にして考えているから、いつまでも永遠に翻訳で通すぞ、あいつは…、なんて、そんな固定した見方をすること自体が滑稽じゃないか。

A:そうだよな。ミハイル・バフチンのドストエフスキー論にこんな一節があったじゃないか。
「世界にはいまだかつて、何ひとつ決定的なことは起こっていない。世界についての、また、世界の最後の言葉はまだ語られていないし、世界は開かれたままであり、自由であり、いっさいはこれからであり、永遠にこれからであろう」。

B:いいねえ。今日の話のもともとの発端になった中央学院大学とやらは、研究しないので有名な専任教員たちの集まりだそうだけど、彼らにも贈りたいような言葉だね、これは。「いっさいはこれから」なんだから、長かった頭脳のヴァカンスをそろそろ終えて、今からでもどうですか、もう一度、研究を、って言ってやりたいね。

C:うーん。どうかなあ、「永遠にこれから」なんだから、まだヴァカンスしててもいいだろう、って思っちゃうんじゃないかな。

A:そうして、最後にはホラチウスでもつぶやくってわけか。Eheu fugaces, Postume, Postume labuntur anniって。

B:「ああポスツマス、ポスツマス、歳月の過ぎゆくこと、いかに早き」か…

C:そりゃ、ムリだな。ホラチウスなんか、もともと知らない連中の集まりなんだから。吉田松陰の「妄(みだり)に人の師となるべからず。妄に人を師とするべからず」みたいな自戒のまったくない連中だっていうじゃないか。

A:ふん。ロード・ダンセイニが危惧した事態が出来(しゅったい)している場所らしいものね。「粗野で下卑たものが、高貴で優雅なものに俗世の生きかたを教える世の中が、やがて訪れるのだろうか…」ってね。

B:…でも、松陰の言葉はいいな。ぜひとも、この大学の学生にむけて掲げておくべきだ。「妄に人を師とするべからず」ってね。

C:ようするに、大学不要論に落ち着くってわけさ。ある種の大学のね。この話は、また、べつの機会にやろうじゃないか。


                  終わり


久寺家河原落書(2)(くじけ がわら らくしょ) 

2013-03-26 18:45:17 | 落書

  (七五調)  

     このごろ我孫子で 聞く噂(うわさ)

    昇格狙いで 徒党くみ
    引きおろそうぜ 学部長
    
    第二組合 でっちあげ
    ボスにおさまる 大先生

    理事会相手に さあ団交
    法学部長を やめさせろ
    セクハラ親爺 クビにしろ

    手段選ばぬ 大先生
    お仲間教員 けしかけて
    持ち込む先は 千葉県の
    労働紛争 調停委

    民族差別に 暴力行為
    昇格差別に 人権侵害
    ありとあらゆる 理由つけ
    立てる要求 ただ一つ
    法学部長を やめさせろ

    目的遂げず 向き転換
    連日連夜 知恵しぼり
    中傷だらけの マニフェスト
    学部破壊の マニフェスト
    僅差で勝利 選挙戦
    「出世」とツイート 大先生

    法学部長に おさまるや
    人権侵害 なんのその
    不当労働行為 なんのその
    ネイティブ二人を 血祭りに
    バッサリ切るは 非常勤

    ついでに縁切る 元(もと)仲間
    第二組合 はい解散
    手を組む相手は いま理事会
    
    唱える題目 ただ二つ
    「財政再建」 「カリ改革」
    痛く感激  吉・椎三(よし・しいぞう) 
    おぼえめでたく 学長候補? 

    天網恢恢(てんもうかいかい) 昔から
    疎(そ)にして漏らさず 待っていろ
    天罰下るは もうじきぞ
     
    
    
   

    
    
    


久寺家河原落書(くじけ がわら らくしょ)

2013-03-25 01:28:32 | 落書

                   (七五変調)

 このごろ我孫子に 流行るもの

 諮問 → 答申 → エセ改革
 「財政再建」→ 雇い止め
 異動・派遣に  嘱託差別
 
 怠講  漫講  カラ演習
 「キャリア」・「情報」・「スポーツ」科目
 オヤコ教員   委員会
 
 推薦 無試験  特待生
 箱物 コンビニ 放射能
 員数合はする  中国人

 業績振わぬ 諸先生 就職能わぬ 在学生 未来描けぬ 新入生
 人心離るる 大学長 経歴自演の 大先生
 多忙なりとや 理事長も 英語教授も 副業で

 論文多寡は 沙汰もなく 漏るる人なき お手盛り人事
 専任たるには 役者が足らぬ 器量才覚 矜持(きょうじ)
なし 
 知識ならざる 〈痴〉〈色〉にて 学会交わり 珍しや

 賢者顔にて 書く紀要 我も我もと 見ゆるとも
 <てにをは>さへも ままならず 愚かなるにや 劣るらむ

 中央学院 珍しや 
 我孫子に召され 様々の 仕打ちを受くぞ 不思議なる 
 非常勤らの 口ずさみ 万分の一を 漏らすなり
 
 


マル得、受験生情報 法学部の魅力を非常勤講師組合がソット教えます

2013-03-23 18:56:34 | 受験生情報

マル特受験生情報!

中央学院大学法学部の魅力を、非常勤講師組合がソット教えます

①アナタのために、外国語の負担をとことんケイゲンしました。
  
   法学部には5つのコースがあります。

   そのうち、「行政コース」「司法コース」「スポーツシステムコース」では、外国語の必修単位を次の   ように変更しました

     2012 年までの入学生:
      8単位(週2コマの授業×2年間、なお1コマは大学では90分)

     2013年度以降の入学生:
      4単位(週1コマの授業×2年間)
 
   また、「現代社会と法コース」でも、12単位から8単位に削減しました。

   「ビジネスコース」だけが、12単位を維持しました。

  ● そうです、中央学院大学法学部は、外国語の勉強がマッタク苦手なアナタを誘っているのです。法律はチョット学びたいけど、外国語はドーモというアナタ、これにノラナイ手はありません。「法学部にキ~テネ!」。

  ● 中央学院大学法学部は、外向けには「外国語教育をケーシした」とは決して言わないようですから、安心してくださいネ。

   「外国語ケーシ」だと指摘されたら、<ビジネスコースは12単位が必修で、希望すればそれ以上の単位をとれるようにしてあるので、ケーシしていない>とキョーベンするようなので、「心配しないでくださいネ!」。

  ● 3人の英語の外国人非常勤講師(ネイティブ)のうち、2人の首を切りました。いまでは1人しか残っていません。首切りはいけませんが、これもアナタのためで、仕方ありませんでした。

   だから、英語の苦手なアナタが、ネイティブの英語の授業を受ける確率もぐっと減りました。

   申しわけていどに、2つの授業だけ残されましたが、ネイティブの英語に悩まされることは、まずないでしょう。

   法学部は、英語(外国語)アレルギーのアナタのことを、とことん考えたようです。
     
  ● 中央学院大学法学部がどんなにオ・ト・クかは、他大学法学部の外国語必修単位数と比べると分かります。ほとんど「半値」の出血ダイサービスです。

   オトナリの流通経済大学法学部なんか、外国語を10単位も履修しなければならず、「地獄」ですヨ!

   他大学の学生は、外国語にイタブラレ、外国語能力が自然とキタエラレますが、中央学院大学法学部の3コースでは、そんなことはありません。キライなものはキライ、でいいのです。

   このブログの最後に他大学について調べたものをのせておきました。少し長いですけど、「必ずミ~テネ!」。


アナタのために、しち面倒くさい法律科目や非法律系専門科目を、カリキュラムからたくさん消し、選択の幅をせばめました。  

  ● 以下の科目をなくしました。

   「現代政治論」「比較憲法」「保険・海商法」「民事執行法」「財政法」「金融商品取引法」「論理学」「女性学」「海外演習特別講座」「外国文献研究Ⅰ」「外国文献研究Ⅱ」「倒産処理法」「消費者保護法」「国際取引法」「法社会学」「比較法」「EU法」「イスラム法」「社会福祉論」「行政管理論」「公務員制度論」「宇宙法」

  ● 以下の科目を統合し、半減させました。

   「ドイツ法」と「フランス法」 → 「外国法(大陸法)」
   「労働法Ⅰ」と「労働法Ⅱ」  → 「労働法」
   
  ● 新設の目玉商品は以下の科目です。

   「キッズスポーツ論」「トップスポーツ論」「ライフスポーツ論」(いずれも4単位)

   「トップスポーツ論」がなんだか、非常勤講師組合にもサッパリわかりません。入学してのオタノシミです。

   全部まとめて「スポーツライフ論」とでもすればいいものを! イヤ、とにかく、法律をチョットしか勉強したくないアナタのことを徹底的に考え、単位をとりやすく、卒業しやすくした結果ですので、トヤカク言わずに素直に喜びましょう!

   なお、この3科目は、体育の専任教員が、オトモダチ(非常勤講師)の生活を保障するために、カリキュラムに無理やりつっこんで、新しく作ってやったもののようです。ヒト助けですから、入学したら、積極的に履修してくださいネ!

   カリキュラム改革の目的は、皆さんに魅力ある法学部にするというのですから、素直に喜びましょう。


<付録>
全国私立大学法学部 外国語必修単位数一覧表(未完成)
  
  流通経済大学   1ヶ国語を10単位

  東洋大学      1年次 英語4単位 + 他の1ヶ国語4単位
             2年次 上記に選択した外国語を2単位
             語学の必修単位は計10単位

  中央大学     学科により外国語の必修単位は16~24単位

  駿河大学     英語(単位数不明)の他、第2外国語(単位数不明)1科目の履修が必要

  清和大学     いずれか1ヶ国語を1年次に4単位、2年次に2単位、計6単位を必修とし、
             2・3年次に外書購読2単位が選択必修
             語学・語学関連科目の必修単位は計8単位
             (その他、さらに、外国の諸文化、思想、生活などを理解し、世界的な視野を持つ人格形成に役立つことを目的とする言語圏文化論(英・独・仏・中)(4単位、選択必修)の講座も開設し、外国語教育の充実をはかっている。)

帝京大学       必修 英語 I・II・III・IV(各1単位、1年次から3年次に履修、計4単位)
             選択必修 「言語による国際理解」(英・仏・中・露・独・西・韓を設置、履修年次は同上)」A・B (各2単位)
「英語観光経営文献」A・B(各2単位)
             実質 計8単位の外国語科目が必修

亜細亜大学     必修 英語 6単位
             選択必修 仏・中・独・西の初級I・II・Ⅲ・Ⅳ(各2単位、2年次から3年次に履修))
             以上、外国語を併せて14単位取得しなければならない

神奈川大学      英独仏西露中韓のうち1外国語を必修(4単位
             ただし、上記で選択した以外の外国語を「自由選択科目」扱で履修可能

国士舘大学        外国語8単位の履修を課す 
                うち必修 英語1・2・3・4(計4単位)
               選択必修 「英会話」1・2・3・4 
                  「TOEIC英語」 1・2・3・4
                  「マルチメディア英語」A・B・C・D 
                  「英語ワークショップ」A・B・C・D(いづれも各1単位)、
                  他国語類似科目(独仏西露中韓:1or2単位)

大東文化大学     必修 英語A・B・C・D、「英語応用」「現代英語」A・B、文章表現法などを含め
                  12単位

        自由科目(44単位必須)のうち、「コミュニケーション資格」A・B・C・D、「TOEFL講座」、
              他外国語(独仏中)基礎・中級(各々1A・1B、2A・2B、3A・3B、4A・4B)が、            
              外国語科目配当

東海大学         必修 「英語コミュニケーション課目」(8単位)

白鷗大学         必修  第1外国語IA、IB、II(6単位)
               選択必修  第2外国語I(4単位)
               外国語科目は計10単位が必修

桐蔭横浜大学       一般教育(人文・社会・自然・外国語・健康科学・特別科目)のうち、
               区分に関わらず40単位以上履修

獨協大学         必修 外国語科目群16単位ないし20単位(学科により異なる)
                うち第2外国語8単位は専門科目その他で振替可
                設置外国語:英独仏中露韓伊葡泰、アラビア、現代ヘブライ語

関東学院大学      必修  英語1・2・3・4(各1単位、計4単位)
             選択必修 「メディア英語」「コミュニケーション英語」の
いづれか2単位もしくは他外国語(独仏中:各々1・2・3)
             外国語科目の必修単位数は実質6単位もしくは7単位

立正大学       必修 英語6単位
             選択必修 その他の1ヶ国語4単位
             外国語科目は計10単位が必修

平成国際       必修 英語8単位
             選択必修 外国語(独仏露中韓)と情報処理論から4単位
             外国語科目は8単位以上が必修

立教大学       必修 英語6単位(1年次)
             選択必修 1科目(独仏露西中朝鮮語)4単位(1年次)
             外国語科目は計10単位が必修

名城大学        必修 英語8単位
             選択必修 他の1ヶ国語4単位
             外国語科目は計12単位が必修



<狂言(1)>、ナニコレ珍カリキュラム

2013-03-18 14:45:13 | カリキュラム改革


     狂言 ナニコレ珍カリキュラム

登場人物
隠居(じつはアラブ・イスラム学者ラインハルト・ドーズィー*)
太郎冠者
次郎冠者




隠居  このあたり、我孫子の田舎に住む隠居者でございます。

     もともと外国に生れて、それなりに仕事もしてきた身なれど、縁あって数十年前、ニッポンはこの我孫子の地に居つき、老いの日々を送っております。今日は日和もよく、のんびり散歩でもいたそうと出てきた次第でございます。

     さて、おつきの太郎冠者、次郎冠者はどこにおるかの?…あれあれ、あんなところで二人、なにかを奪いあって騒いでおる。これこれ、太郎冠者、次郎冠者、なにを騒いでおる?

太郎  これはこれは、旦那さま、お出かけでござりますか?

次郎  これはこれは、旦那さま、お出かけでござりますか?

隠居  見ればわかろうというもの。今日は日和もよい、ひさしぶりに散歩でもいたそうと思うてな、これから日の暮れるまで歩いて参ろうというところじゃ。

     おまえたちも来なさい。だが、いったいなにを騒いでおったのじゃな?なにか、奪いあっておったようじゃが?

太郎  はあ、これでござります。

隠居  なんだな、…「法学部科目表」とな?はてさて、どこぞの大学のカリキュラム表か… 学生でも先生でもないおまえたちに、こんなもの、関わりもあるまいに。

次郎  ところがところが、これが大事なんでござります。

太郎  わたくしめにも。

隠居  はて。まさか、殊勝にも大学なんぞに通って勉強でもしようと思い立ったか?

太郎  まさかまさか、さような時間の無駄はいたしませぬ。

次郎  わたくしめも同様。太郎はともかく、もとより頭のよいわたくしめ、話のメリハリもつかぬ蟹の泡吹きみたいなおしゃべりで時間を潰す教授でいっぱいの場所で、1時間半もぶっとおしでお尻の痛くなるイスに座って日がな一日無駄に暮らすのなんぞ、まっぴら。

隠居  それはもっともながら、では、どうしてそんな表を奪いあうことになったのかの、とんとわからぬな。

太郎  それなんでござります。

     この表が、なんと、ふつうの大学の科目表とはまったく違う、頓狂な珍妙な代物でござりまして、世にいうトンデモもの、天上天下、めったに出会えないブットビ物件ということで、これはなんとしても、あのギネスブックに登録しよう、そうすればわたくしめ太郎の名前も永遠に記録されるものと、まあ、そんなふうに思いまして…

隠居  ほお、そうかの?なんぞ変わったところもないように見えるがの?

次郎  いやいや、旦那さま。よ~くご覧になれば、ほんとうに飛んでもない代物でございまして…

隠居  よ~く見ると飛んでもない…とな?だが、ずいぶん小さい字で書いてあるのお。飛んでもない代物かもしれぬが、この細かい字を読んでいかないとわからないのでは、難義じゃのう。

太郎  きっと大学もそれを承知の上なんでございますよ。小さい字なもんだから、人はあんまりちゃんと見ない。そこが狙い目なんでございますな、きっと。

隠居  ふむふむ。というと、なにか、あんまり注目されては困るようなことが書いてあるのかの?

太郎  そうも言えますな。なにせ、大学ですからな。

次郎  そうですとも。「だって、大学だもん」ですかな、相田みつを風にいえば。

隠居  とにかく、わたしはあんまり読んでみる気にもならんが、次郎、こんなものをどうして太郎と取りあっておったのかな?

    太郎は、ほれ、さっき言っておったが、ギネスブックに登録しようとやらで、…

次郎  そうなんでございます。太郎のやつめ、ギネスブックに持ちかけて、自分の名を歴史に刻もうと目論んでいるんでござります…

隠居  まあ、目論むというほどの大事でもあるまい。ちょっとしたお遊びの気持ちであろうが…

次郎  ところがでございます、わたくしめにもテレビ局に知り合いがおりましてな、『ナニコレ珍百景』という番組に関わっている者でございますが。

    まあ、酒なんぞいっしょに飲む時には、その者からいつもネタを求められておりまして、採用されたら幾らいくら出すぞ、どんどん持ってきてくれ、と言われておるんでございます。

    この科目表は建物でも風景でもないけれど、ナニコレ珍システムとかナニコレ珍カリキュラムとでもいったもので、こいつぁ報酬いただきだぁ、と思いまして… 明日にでも渡せば、ちょうど番組づくりの〆切に間にあう頃合いでございまして…

太郎  まったく、意地汚いやつなんでございます、次郎は。はした金のために、わたくしめがギネスブックに掛けあうのを待ってくれろとウルサイんでございますよ。とんでもない。

    ひろい世界にはどんどんトンデモ大学、トンデモシステム、トンデモカリキュラムが出現してきかねないんでございますから、こっちだって急いで登録しなきゃいけません。

次郎  なにをいうか、こんなヘンテコリンなカリキュラム、めったに出てくるもんじゃない、ギネスのほうは急ぐことはないから、まず、こちらによこせと言うに。

太郎  どうして、どうして、なるものか。ギネスが先だ。

次郎  つべこべ言わずに、ええい、渡せ、渡せ。

太郎  なるものか、なるものか。

隠居  ほ~らほら、待ちなさい。どちらも見苦しいぞ。

    だいたい、おまえたちが言うほど、本当に珍妙なものかどうか。ちょっと説明してみなさい。ただ、あんまり細かい話も困るな、散歩の時間がなくなるからな。

太郎  いやあ、珍妙、頓狂の山盛りみたいなカリキュラム表なんですがな、…そうですなあ、旦那さま、旦那さまご自身が外国のお方ですから、まあ、いちばん関わりがおありと思えるお話をいたしましょう。

    外国語のことでございます。

隠居  外国語のこととな?

次郎  そうだ、その話がよろしかろう。外国語、外国語。

隠居  で、外国語がどうだというのかな?

太郎  それでございます。ここのところをご覧になってくださいな。

隠居  んんん、細かい字だなあ。ちょっと読めぬ。どうもな、老眼でな。

太郎  では、かいつまんでお話いたしますが、まあ、こんなふうなのでございます。

    ここの法学部にはコースがいくつかあるんでございますが、いちばんスゴイところだと、なんと、4単位だけ外国語をとればいい、っていうんでございます。    

     4単位といいますと、授業ふたつでございます。一年生でひとつ、二年生でもうひとつ。これでOKってなわけでして。

隠居  ほおお。外国語の勉強というのも難儀なものではあるが、大学ではふつう、避けて通れぬ試練と決まっておるもの。

    ふたつの授業だけでOKとは、また、大きく出たのお。


次郎
  そうなんでございます。

    4単位でOKっていうのは、「司法」コース、「行政」コース、「スポーツシステム」コースなんでございます。

隠居  ふ~む。「司法」とか「行政」とかのコースに進もうという学生は、その、なんじゃろうな、やはり、「司法」とか「行政」に寄った方向の仕事をしたいと…思っているんじゃないのかの?

太郎  ま、実際にはどんな仕事に就くか、人生いろいろゆえ、わかりませぬが、それでも、「司法」や「行政」方面に進みたいからそういうコースを選択する、というのがふつうでしょうな。

隠居  それで、そういう方面には外国語の勉強経験は不要とな?

次郎  そんなはずはございません。どんな方面に行こうと、ひょんなところから外国語の必要が飛び出してくるご時世でございます。藪から棒ならぬ藪から語でございます。

隠居  ハッハッハ、ヘタな地口を言っておる。

    ところで、「スポーツシステム」コースとやらは、なんじゃな?

太郎  これがなんだか、一人前に独立したみごとな珍妙さでございまして、だいたい、「システム」なんていう言葉をぺラッと看板にのせる商法にロクなものはございませんが、これが、法学部にどうしてあるんだか、まったくもって珍妙度の高いギネスブックものじゃないですか、「法学部・スポーツシステムコース」ってんですからね。

    じゃあ、なにかい、「法学部・無国籍キッチンコース」とか、

    「法学部・ペットケアコース」とか、

    「法学部・リラクゼーションアロマコース」、

    「法学部・VIPスペシャルうっふ~んコース」なんてのもありかい、ってんだ。



隠居  ふ~む。お好み焼きが広島焼きになった以上の進化を遂げておるわけじゃな

    …ま、それでも、他のコースはもっと外国語をやらされるんじゃろう?

次郎  そうですな、まあ、かたちのうえでは。

     たとえば、「現代社会と法」コースは8単位、「ビジネスキャリア」コースは12単位を選択必修しなくちゃいけない、ってことで。

隠居  多いとはいえないが、それならば、まあまあではないか?

次郎  それがしかし、…違うんです。細工があるんです。

隠居  細工?

次郎  はい。英語、ドイツ語、フランス語、中国語、コリア語のうちから、いまお話した8単位とか12単位とか、さっきの4単位とかを選ぶわけですが、そのなかの総合英語ⅠとⅡの計4単位を取得しさえすれば、あとは、教養系科目の単位として他の外国語を取ってOKよ、というわけで。

隠居  総合英語ⅠとⅡに、学生たちはいやでも誘導されるわけじゃな。

次郎  そうでございます。

隠居  ま、英語の勉強だから、それはそれでもいいが。…しかし、総合英語の担当者たちと他の外国語の担当者たちのあいだには、最初から、科目存続の安定性のうえで格差が出るわけじゃな?

次郎  おっしゃるとおり。

太郎  それだけではないんでございます。資格英語Ⅰ・Ⅱ、および、ビジネス英語Ⅰ・Ⅱをセットで取得したら、その取得単位を教養系科目に振り替えてよいぞよ、ともあるんでございます。

隠居  ふ~む。セットでお得、という手法で、資格英語とビジネス英語の科目存続もあらかじめ安定させておこうと、な。

     こんなふうに誘導されれば、たいていの学生たちは総合英語Ⅰ・Ⅱを取って、それから資格英語とビジネス英語もそれぞれⅠとⅡをセットで取る、となって、他の外国語にはあまり学生が流れなくなるであろうのう。

     カリキュラムのこの部分を組んだのが英語教員だというのが、なんとも露骨に見えるようじゃな。

次郎  そうなんでございます。

     数年のうちに、ドイツ語、フランス語、中国語、コリア語の授業など、学生数が激減して消滅するのなぞ目に見えております。

     学生の向学心を疑うものではござらぬが、なにせ、単位のこととなると、どうしても学生は易きに流れますからな。

太郎  まあ、外国語科目と教養系科目の枠の取っぱらいを目指しているんでしょうかの。

     だんだんと枠を溶ろかして、全廃して、最後には外国語科目を教養系科目に統合し切る。

     そうすれば、勉強の面倒なわりに、取得できる単位数の少ない外国語科目を選ぶ学生はごくわずかか、完全消滅するでしょうから、外国語を学ばないでいい大学が自ずとできあがっていく、というあんばい。

隠居  なんだか、外国語のぜんぜんできない教員が、偶然と幸運とゴマスリと泣きつきとお友だち人事から、どうにかこうにか潜り込んだ巣穴(=大学)を、もっと自分たちに居心地のいい場所にするために、必死で外国語排除策を進めているようにも見えるが… 

次郎  そうでございますな。外国語アレルギーなんじゃないでしょうか?

太郎  外国語だけでなく、勉強アレルギーなんじゃないですかね? 

     少なくとも、論文アレルギーは蔓延しているようでございますからな、この大学。

     何も書かない。何も足さない。ちょっと前のサントリーの広告みたいですな。「何も引かない、何も足さない」って。


次郎  ははは、「引く」ことだけはやってるようだが。能力なんかは。

太郎  いや、「引かない」をやっているとも。もっと給料引いてやるべきなのに、ぜんぜん「引かない」。

次郎  なんだか、『葉隠』みたいな連中らしいものなあ。

    「武士道は死ぬことと見つけたり」ならぬ「教授道は学ばぬことと見つけたり」。

     あるいは「教授道は書かぬことと見つけたり」

隠居  う~む。なんだか裏寂しい知的風土ぞな。

     減らしたとはいえ、英語はとにかくやれ、という方針はいいとしても、大学のあいだにもうひとつやふたつぐらい、他の外国語の初歩に触れておかないと、薄ら寒い精神風土のニッポン人ができあがりそうだのう。

次郎  まったくそのとおりで。

     それが、旦那さま、このカリキュラム表の大学というのが、ほかならぬ我らが我孫子の、あの中央学院大学なんでございます。あそこの法学部の2013年からのカリキュラムなんでございますよ、これ。
隠居  どうりで、近頃、我孫子がうすら寒くなったと思っておった。

     放射能で以前より暖かくなったかと思ったが、どうしてどうして、放射能の内部被曝にも負けぬ寒さじゃわい。

     外国語というものは、さっきのシステムという言葉を使わしてもらえば、比較的完成された閉鎖系システムで、その基礎を学んでみるというのは、将来的に、他のいっそう複雑なシステム学習に益するシナプスの発達を促すに決まっているものなんじゃがな。

     そういう脳の成長の契機を減らしていく大学というのは、いったい、どういう見識を持っているのか、なんともアヤシイものじゃよ。

太郎  旦那さまは、むかしはずいぶん外国語がお出来になって、そのおかげで立派なお仕事をなされたとか?

隠居  こうやっておまえたちと話しておる日本語も、わたしには外国語じゃがな。

次郎  まことに恐れ入りまする。わたくしめなぞ、外国語はてんでダメなほうでして、…いっそ、中央学院の総合英語Ⅰ・Ⅱにもぐり込もうかと思うぐらいでございます。

太郎  おまえなんぞがもぐり込んだ日には、授業が邪魔されてしょうがないだろう。ABCだって知らないんだから…

次郎  いやなに、ほとんどの学生が受験などしないで入ってくるそうだから、英語の苦手なままの学生だって、なかにはいっぱいいるだろう。そこに紛れ込めば、わかるまいよ。

太郎  まあ、やってみるさ。社会人がもぐり込むのを許可してくれる授業もあるそうだから。

     …ところで、旦那さま、くわしくお聞きしたことはございませんでしたが、どんなことをむかしなさったんで?

隠居  なあに、ちょっとした偶像破壊をやらかした程度のこと…

次郎  と申しますと…

隠居  あれは、わたしがまだ29歳の頃のこと、1849年のことじゃったが、他のいくつもの外国語に加えて、得意ではあったものの、それでも苦労に苦労を重ねて学んだアラビア語で読みまくった史料を駆使して書いた論文を発表したんじゃが、あれがヨーロッパの知的風土を一挙に揺るがしたことがあったんじゃ。

太郎  どんなことをお書きになったんで?

隠居  エル・シドという有名なスペインの英雄がおるんじゃがな。

     コルネイユが『ル・シッド』という戯曲を書いたり、中世文学では『エル・シードの歌』というのもあるが、イスラム勢力と闘った勇士で、スペインをキリスト教国家として創り上げ、レコンキスタの前哨戦を飾ったというふうに祭り上げられている人物じゃ。

     スペイン国家の統合のシンボルで、国民的英雄となっておるんじゃが、ありゃあ、じつはインチキじゃな、とわたしは目星をつけ、そうして調べに調べて研究した結果、やっぱりインチキでした、と、そんな論文を書いたわけじゃ。

次郎  それは、なんというか、ヒンシュクものってやつですかな?

隠居  ヒンシュクを受けない研究など、ゴミと同じじゃ。

     まあ、エル・シドというのは、実在した傭兵隊長ロドリーゴ・ディアスを元にしている人物像だが、このロドリーゴが、調べてみたら、英雄とは程遠く、金に汚ない、日和見の、忠誠心も愛国心もない打算家だったのがハッキリとわかったのじゃ。

     しかも、カトリックというよりはムスリムというべき男なので、レコンキスタ以後のスペインの英雄に祭り上げるには、これほど不向きな男もいない。そういうことがよくわかった。

     まあ、スペイン人たちは怒った、怒った。

     弱冠29歳の、なにを隠そう、わたしはオランダ人じゃが、ひとりの生意気な外国人が、スペインの歴史上の伝説的な英雄、偉人をポキンと折っちまったんだから。

     わたしは天才だと持てはやされたものだったが、しかし、そんなことより、哀れだったのはスペインじゃったよ。弱冠29歳の青年学者に真っ向から打って出るだけの学者が、たったのひとりもあそこにはいなかった。

     わたしは古典期から現代までのアラビア語が出来たし、もちろん現代スペイン語も中世カスティーリャ語も出来、ラテン語もギリシャ語もペルシャ語も出来た。オランダ人として、それらを一から習得したわけじゃ。

     それを土台にして、どうもおかしいナと感じていたエル・シドの伝説の欺瞞性に、厖大な資料の調査と読解を通して挑んだわけじゃ。

     国民的英雄をこんなふうに素っ裸にされ、偶像破壊されても、当時のスペイン人たちには、わたしを凌駕するだけの外国語の使い手もいなかったし、外国語を駆使しつつ、伝承の欺瞞に迫れるような学者もいなかった。

     もちろん、中世期のアラビア語やカタルーニャ語の史料にじかに当たって、エル・シド伝説の擁護ができるような能力のある学者たちもいなかった。

     まだ若かったし、個人的な矜持(きょうじ=プライド)もずいぶんあったのは事実だが、あの時、わたしはつくづく思ったものじゃ。外国のこんな若造に反論もできないような学力や語学力の人間ばかりの国とは、なんと、侘しいことよ、と。こうなっては、国は終わりじゃな、と。

太郎  まったく、おおせのとおりでございますな。

次郎  しかし、かつてのそのスペインと同じことが、どうやらニッポンでは起こりそうな気配…

隠居  なあに。この国の知的好奇心の旺盛さは捨てたものではなかろう。

     要請もあるし、これからもどんどん知は隆盛していくじゃろうが、そんな未来に、この中央学院大学の卒業生も混じって生きていかねばならないのじゃから、他人事ながら、いかにも哀れに思えるのう。

太郎  肩身が狭いでしょうなあ、きっと。

     外国語ばかりか、あらゆるところに単位が取りやすい配慮がなされていて、その分、確実に未発達な頭脳を抱えて、知的に旺盛な他の大学の卒業生たちに混ざっていくことになりますからな。

     単位の上での楽勝大学は、人生上の未来で楽勝を保証してはくれないでしょうからなあ

     …そういえば、イスラム法の授業が廃止されたことはお聞き及びですかな?

隠居  なんとな!

太郎  まあ、長年、開講しない状態が続き、あって無きがごときイスラム法ではありましたが…

次郎  それだけではございません。

    外国の法についての2013年のカリキュラムいじりというのも、まあ、スゴイもんでございまして。

     もともと比較法、英米法、ドイツ法、フランス法、イスラム法、EU法、アジア法とあったものが、2013年からは、なんと、外国法(英米法)、外国法(アジア法)、外国法(大陸法)に統廃合されたんでございます。

太郎  EU法と比較法なんぞの廃止は、現代世界の動向に意固地に背を向けての、みごとなまでに思いきった措置ですな。

    学問的閉じこもりとでも言うんでしょうかな、こういうのは。

     こうした統廃合についてはひと悶着もふた悶着もあったんでございますが、なんせ、カリキュラムを作っているのがシロウト集団の委員会でして、それをクロウトのふりをしたシロウトまがいが、教授会でボーヨーと通しちまうものでございますから、たちが悪い。


    そんなヒトビトが指導部なんでございますよ、この大学は。

隠居  岸田秀という心理学者がむかし書いておったのを思い出すのう。

     「現代社会での最大の問題は、無能な上司を組織からいかに排除するかだ」と。

     ま、「無能」と言っているのは岸田秀なわけで、わたしは彼の言葉を思い出しただけなんじゃが。

     …うん、逆の意味の発言も思い出すのう。

     「幕僚にとって最大の喜びは、自分より優れた指揮官に仕えることである」。

     これはドイツ国防軍陸軍中将ハンス・シュパイデルの言葉じゃったが。

     …まあ、ともかくもじゃ、そういう珍妙なカリキュラム変更に批判は出なかったのかのう?

太郎  非常勤講師組合からは出たようですが… なにせ、非常勤講師というのは、今の日本の大学では…

隠居  メッテルニヒが言っておったのう、「オーストリアでは人間は男爵から始まる」と。

     「大学では、人間は専任講師から始まる」らしいからのう

太郎  恐ろしいことでございます。

     大学という場所は、隠微な人種差別が大手を振ってはびこっている場所でございますからな。

隠居  いやはや。「物を云ふことの甲斐なさに/わたくしは黙して立つばかり」。

     こんな感慨を抱かされるのう。これは宮沢賢治の詩『野の師父』にあるが。

次郎  どうやら、大学には、キング牧師がなおも必要でございますな。

    「I have a dream that one day,…」という、あれ。

太郎  あの人は、ほんと、いいことを言いましたな。

     「どんな場所にある不公正も、あらゆる場所の公正さへの脅威である

   Injustice anywhere is a threat to justice everywhere」とか、

     「問題になっていることに沈黙するようになったとき、我々の命は終わりに向かい始める

  Our lives begin to end the day we decide to become silent about things that matter」とか。

隠居  そのとおりじゃ。

     しかし、非常勤講師組合はなかなか頑張っておるようだな。

     『エコノミスト』元編集長だったビル・エモットが、「本当のリベラリズムとは、権威を公然と疑う自由によってこそ人びとは幸せになりうる、という信念のことである」と言っておったが、この精神を貫徹しておる組合らしいな。

     彼らには、ロバート・ケネディの言葉も贈ってやりたいわい。

     「新しいアイディアや冒険に恐れおののき、人類共通の問題に無関心を装い、今日の生活に満足し切っている人間には未来などない」とな。

次郎  いやあ、威勢よくなってきましたなあ。

     ところで、旦那さま。いつも旦那さまとお呼びするばかりですが、お名前は、じつはなんとおっしゃるのですかな?

隠居  わたしか、わたしはラインハルト・ドーズィーという。1820年の生まれじゃ。

太郎  とおっしゃいますと、はて、現在は…193歳、ですか?

隠居  そうは見えんかな?

次郎  見えるもなにも、…ご高齢とは見えますものの、さすがにそれほどのお歳とは…

隠居  驚くにはあたらない。ここは『大鏡』の国。

     あの本では、190歳の大宅世継と180歳の夏山繁樹とが、藤原北家や道長を軸として宮廷の歴史を縷々と語るではないか。

太郎  ううむ。『大鏡』とは… 知らなんだ…

次郎  話にも聞いたことがござりませぬ。

隠居  これはこれは困ったことじゃ。

     どれ、中央学院大学には、外国人留学生用の「日本語科目及び日本事情に関する科目」とやらも準備されておるようじゃから、ひとつ、そこにもぐり込んで習ってきたらよかろう。どうじゃ?

太郎  いや、旦那さま、それが… 日本事情Ⅰ、Ⅱ、Ⅲは各授業、ひとつひとつで4単位も取れ、しかも「専門教育科目の教養系科目への単位の振り替えを認める」とあって、留学生がごっそり集結している場所。もぐり込めますことやら。

次郎  しかも、この大学の最近の留学生は日本語のわからない者が急増しておるそうでございまして、専門科目の講義をする教員たちも、なんだか言葉の通じぬ外国の広場で演説でもしているような気分だそうでございます。

隠居  やれやれ、次から次とわけのわからぬ問題の尽きぬ大学じゃわい。

     それなら、近頃、いちじるしく頑張っておる角川ソフィア文庫の「ビギナーズ・クラッシック日本の古典」のシリーズでも読んでおきなさい。なかなか勘どころを心得たいい作りをしておる。

太郎  でも、本を買って読むなんて、面倒でございますなあ。

次郎  インターネットのウィキペディアなんかでもようございますかの?

隠居  ああ、あれか。あれでもいいが、かえって難しく書かれておることもあるから、どうかのう。

     いろいろと、質や目論見の点でもまちまちなのが交ざっておるらしいしのう。

    法学部長の大村・大先生みたいに、自ら略伝やら業績やらを載せてプレゼンしてしまう輩もおるところだそうだし…

太郎  旦那さま、彼こそは、現代のエル・シドでございますかな?

隠居  いやいや、エル・シドほどの大物ではあるまい。

     打算、名誉欲、虚栄心… そんなものには長けておるようじゃがな。小粒のプチ・シドロモドロ、といったところじゃろうて

    なあに、必要とあれば、またわたしが虚偽の仮面を剥いでやろうというもの。

次郎  いやあ、旦那さま、うまいところへ話が落ち着きましたな。

隠居  うむ。それでは、我孫子散歩を続けるとしようかのう。


                終


*ラインハルト・ドーズィーは実在した人物。
Reinhart Pieter Anne Dozy (Leiden, Netherlands, 21 February 1820 – Alexandria, Egypt, 29 April May 1883) was a Dutch scholar of French (Huguenot) origin, who was born in Leiden. He was a scholar of Arabiclanguage, history and literature.
http://en.wikipedia.org/wiki/Reinhart_Dozy


<父と息子の会話篇(1)> ホー学部、スポーツなんたらコース

2013-03-16 16:28:34 | 受験生情報

   法律を勉強したくないアナタも、この大学の法学部なら〈法学士〉サマになれる?

父 :おい、お前も来年は受験生だ。サッカー部の活動に熱心なのはいいが、どの大学へ行きたいの
    か、そろそろ考えなくてはな。

息子:オヤジ、俺もパンフを請求したりネットで資料を集めたりして、それなりに考えてるんだよ。
    んで、チューオーガクイン大学ってところの法学部を受けてみようかと思ってる。

父 :え、中央の法科?志を高く持つのはいいが、お前にはちょっと厳しいんじゃないか?

息子:チューオーじゃなくて、チューオー『ガ・ク・イ・ン』!

父 :なんだ、そりゃ。そんな学校、とんと聞いた事がないわな。中央大学の分校か?

息子:まあ、明治と明治学院みたいなもん。箱根駅伝に出てるんだよ、知ってる?

父 :何にせよ、社会科学の素養を身に付けるのはいいことだな。法律を学べば、体系的思考も修得
   できるし、ともかくツブシがきく。こう見えて、お父さんも法学部卒だ。どれ、資料を見せて
   みなさい。

息子:(おもむろにパンフを開きつつ)中央ガクイン法学部は『公務員100人構想』をウリに
   してるんだよ。

父 :そりゃ結構。ほう、最近の大学は法学部でもいろんなコースがあるんだな。

         (しかし一読してハタと気付く)

   お前、まさか、この『スポーツシステムコース』ってのを考えてるんじゃあるまいな?

息子:(ドキ!)何か問題でも?

父 :このカリキュラム表の黒字で強調されている、『コース必修科目』とやらをよく見ろ!

   法学部のくせして、法律関係の必修は〈法学〉・〈憲法〉・〈民法I〉・〈民法II〉・
   〈刑法総論〉しかないじゃないか!


   4単位かける5科目で、法律はたったの20単位で済ませられるじゃないか

   あとはなんだ、〈スポーツ法学概論〉?〈スポーツ行政論〉?〈スポーツ組織論〉?
   〈スポーツ・リスクマネジメント論〉に〈スポーツ指導論〉が必修か。
    これも4単位かける5で、20単位か。

   お前、法学部出て何になるつもりなんだ。体育の先生にでもなるつもりなら、まっとうな
   教育学部に行け。

   『公務員100人構想』とやらが聞いて呆れるわい。

   そもそも公務員試験に受からんだろうに。

   おや待て、他にも〈スポーツ健康科学論〉だの、〈スポーツ文化論〉だの…。これみんな
   法律系科目と同じ4単位かい…。

息子:(ヤバ…)でも体だけ動かしてりゃ卒業できるわけじゃないし…

父 :父さんはだまされんぞ!

   このコースの演習科目を見てみろ!〈スポーツ学演習I〉の必修2単位だけじゃなく、
   演習科目は全て〈スポーツ学演習II〉・〈スポーツ学演習III〉・〈スポーツ
   学演習IV〉で満たせる、となってるじゃないか。しかもこれも各々4単位だし!!

息子:(父をなだめつつ)でも卒業するには、結局は他の科目も履修することになるよ…

父 :その卒業単位の中には、さっき言ったスポーツなんたら科目も含まれるんだろ!

息子:そりゃそうだけど…(2013年度から導入されるという新カリキュラムによると、
   さらに〈キッズスポーツ論〉・〈トップスポーツ論〉・〈ライフスポーツ論〉の3科目
    計12単位も新設されるから、これらの科目を選択しさえすれば、そのぶん、法律科目も
   教養科目も履修しなくて済んじゃう、なんてラッキー、ってのは黙っておこう…)

父 :オマケに体育の実技科目までも用意されてる、ときてる。〈スポーツ学実習I〉・
   〈スポーツ学実習II〉・〈スポーツ学実習III〉・〈スポーツ学実習IV〉・〈スポーツ
   学実習V〉もある。これで5単位丸儲け、じゃないか!

息子:(グゥの音も出ず)

父 :つまるところ、卒業に必要な単位127のうち、スポーツ関係で48単位もとれることになるな。

   法律系科目の必修はさっき見たように5科目20単位だけだな。

   語学の必修単位が、たった8単位だけか。

   国語の授業〈日本語実践〉が4単位、それにコンピュータの授業〈情報処理論〉4単位が、
   必修だな。

   127-20(法律の必修単位)-48(スポーツ関係の単位)-8(語学必修単位)-8(日本語と
   コンピュータの授業)=43か。

   この残りの43単位は、〈環境社会学〉や〈環境経済学〉なんかの非法律系の専門科目と、
      〈平和学〉だの〈文化人類学〉だの〈歴史学〉だの〈日本語操作法〉だの〈人文地理学〉
      だの〈自然地理学〉だの〈地学〉だのといった教養科目を、11科目ほどとって、
      お茶を濁せばいいのか。

          <トチュウですが、ここで、受験生情報です!> 

   2013年度の新入生から、スポーツ関係で60単位とれるようにナリマ~~ス!
   メンドウな語学も4単位だけでスムようにナリマ~~ス!
      
   オ・ト・ク!
   法律科目はこれまでどおり5科目20単位でスマセラレマ~~ス!

          トチューですが、ここで、在校生情報です!
   2013年度からの新入生用カリキュラムにある〈キッズスポーツ〉
   〈トップスポーツ〉〈ライフスポーツ〉(いずれも各4単位)は、
   ごハイリョにより、在校生の皆さんも、履修可能とナリマ~~ス!
   そうです。スポーツ関係で、皆さんも、最大60単位トレマ~~ス


   してみると、物権法や債権法のみならず、刑法各論も商法も民訴も刑訴も家族法も
   知らないまま、また行政法も税法も労働法も履修せず、基礎法や外国法・国際法は素通り、
   これでリッパに卒業できる、法学士サマになれるってわけだ。いやはや大した法学部だよ。

   この大学、法律の教員は何人居るんだ?

   全く、羊頭狗肉(ようとうくにく)もいいところだ!法学部の看板下せ、と言いたいねぇ。

   法学部じゃなくて、『亜・法学部』だな。

息子:オヤジ、その「アッ・ホーガクブ」ってなんだよ。

父 :熱帯と亜熱帯の関係だ。

   ともかくだな、似非スポーツ専門学校へ行く気なら、受験料も入学金も学費も出さん!
    将来を良く考えろ!運動だけやってても、メシは食えんぞ!

               ―――[翌日、サッカー部の部室にて]―――

息子:てなかんじで、チューガク院法学部スポーツシステムなんたらコースの話をしたら、オヤジに、
    こっぴどくおこられちゃったよ。 

友人:あのコースじゃ法学部とは名ばかりだ。法律をほとんど勉強しなくてもいいからな(笑)

   でもさ、サッカー続けていくにしても、もっとイイ大学を選んだ方がいいぜ。そりゃあ試験
   なしに推薦で入学、学費も免除で、ってなら別だけど。でもそういうスポーツ・エリートは、
   もっと実績のある大学から呼ばれるだろ。

   サッカー続けたいんなら、それなりの大学へ入って、法学部なら法学をキチンと勉強して、
    マトモに就職して、実業団や地域のクラブで、という手もあるし。

息子:だったら、しっかりした会社に入らなきゃなぁ。やっぱ、チューガク院法学部のスホーツ・
   オタク・コース卒では就職できないか?

友人:まず門前払いだな。公務員試験だって、法律を勉強しなきゃ受からないだろうし、警察も
   消防も採ってくれないだろ。仮に採用されたとして、昇進してエラクなるには、法律関係の
   筆記に受からなきゃ。

   ともかく、チューガク院の法学部だけはオススメできない、ヤメトケ。マトモな大学の
   法学部にしろよ。

息子:わかった。俺、チューガク院の健康オタクコースやめて、他のコースにするかな。
   それとも、□和□□か、△△経済△△にするかな。

        (合掌)