良い子の歴史博物館

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武烈王(金春秋)

2005年02月20日 | 人物
新羅の第29代の王。
朝鮮半島で、高句麗百済、新羅の3国に分かれて争っていた中から、
一躍、新羅が他の二国を滅ぼして統一朝鮮を作り上げたのが、この王である。

この人の行動力は凄い。
即位前の王子だった頃、自ら、唐、高句麗、日本に赴いている。

時に新羅は高句麗と百済の南北からの挟み撃ちに遭い、滅亡寸前だった。

642年、百済が新羅を侵略し、次々と新羅の四十余城を攻略した。
金春秋の娘婿も百済軍によって斬殺されている。
百済への報復を決意した金春秋は、高句麗に行って援助を請う。
しかし高句麗王は金春秋を監禁してしまう。
金春秋はやっとのことで密かに故国に窮状を訴えた。
新羅は1万の軍勢を出し、金春秋の解放を高句麗に要求する。
こうして、釈放されたのだった。

647年、新羅は金春秋を孝徳天皇の統治下の日本へ派遣する。
日本書紀によれば、金春秋は容姿端麗で、巧みな話術の持ち主だったらしい。
彼は日本の実情を把握し、豪族連合に過ぎない大和朝廷の弱点を知った。

さらに、唐の太宗に援軍を要請するため、648年に長安を訪問している。
唐の記録でも、金春秋が美男子で、笑顔を絶やさない好人物であったことが記されている。
高句麗、日本、唐を自ら訪問した王族というのは、日本では考えられない。

唐から海路での帰国の途上、金春秋一行を高句麗軍が拿捕する。
従者の一人が機転を利かせて、金春秋を逃がし、自分が王子の服装を身に付けた。
高句麗軍兵士たちは、王子と間違えて、従者を殺害した。
危機一髪で逃れた金春秋は従者の遺族を厚く報いたという。

654年に、52歳の金春秋が即位し、武烈王となる。
655年、百済・高句麗が新羅北部を攻略。
武烈王は唐の高宗に援軍をたのむ。
高宗は軍を派遣し、高句麗を攻撃した。

唐は657年に遊牧国家である西突厥を滅ぼしたので、
対高句麗・百済戦に全力を傾けることができるようになった。

唐・新羅連合軍 vs 高句麗・百済軍の戦いは、
唐・新羅の大勝利で終わる。
660年に百済が滅亡した。
661年に残念ながら武烈王は死ぬ。
が、新羅の優勢は止まらなかった。

今度は、日本が百済復興軍に参加するが、
663年の白村江の戦で唐・新羅連合軍に敗れる。
日本軍は兵力こそ圧倒していたが、
指揮不統一の弱点を抱えたまま、完全に壊滅した。

668年に唐・新羅軍が高句麗を滅ぼす。
670年に新羅と唐の間で、武力紛争が発生する。
676年に唐軍が朝鮮半島から撤退し、新羅による朝鮮半島統一が完成した。

武烈王の巧みな外交術で、高句麗、日本、唐を操り、
その結果、一番の弱国であった新羅が最終勝利者となったわけだ。

2 コメント

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滅亡寸前から ((プの遺産)
2005-02-26 02:24:16
ひっくり返したのがかっこいいですね。

半島は今も昔も大変な所なのですね。
大変な所 (cfsasaki@管理人)
2005-02-26 07:55:08
(プの遺産さん

いらっしゃいませ。



隋は高句麗遠征に失敗した挙句、滅びます。

唐も太宗の時代に遠征に失敗して敗北を喫しています。

高宗になって、新羅と手を組んで、高句麗・百済を滅亡させますが、その後、新羅に追い出されます。

唐にとっては、朝鮮半島は魔物。疲れるだけで利益が無かった。