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オーウェン・ラティモアと太平洋問題調査会の暗躍

2018-06-19 10:17:22 | 戦勝国史観


 マッカーシズム(赤狩り)の最中、最大の標的となったにも関わらず、遂に最後まで尻尾を出さなかったアメリカ人の反日活動家、オーウェン・ラティモアは、1900年生まれ。中国の天津育ち。両親は中国で英語の教師をしていた。中国で新聞社や貿易会社勤務を経て、1933年、太平洋問題調査会(IPR:Institute of Pacific Relations)のメンバーになり、その機関紙『パシフィック・アフェアーズ』で編集長を務めた。

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ラティモア(左)と毛沢東 延安1937年


 IPRはYMCAを母体として、1925年にホノルルに設立されたNGOの学術団体。アジア研究の草分け的存在で、その太平洋会議に新渡戸稲造が日本代表を務めたことで有名だが、新渡戸の死後、共産主義者の巣窟と化し、反共国家にしてソ連、中国と対立する日本を目の敵にする反日組織へと変貌していく。ロックフェラー財団などから潤沢な資金を得て、反日パンフレットを大量に拡散し、アメリカの対日経済制裁を後押しする原動力となった。中華民国代表には、後に駐米大使としてアメリカ政府に対日強硬策を迫った胡適がいる。カナダからは、外交官のハーバート・ノーマンが参加。戦後、GHQで暗躍するものの、共産スパイの嫌疑をかけられ、エジプトで自殺している。日本太平洋問題調査会のメンバーの中には、その後、近衛文麿のブレーンになった者も数多くいた。1936年、朝日新聞の尾崎秀実もカリフォルニアで開催されたIPR総会に参加し、そこで西園寺公一と出会い親友関係となる。その後、西園寺の紹介で近衛文麿の朝食会にも参加するようになった尾崎は、41年、ゾルゲ事件に連座して死刑となった。

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 1937年、ラティモアは共産主義的な色彩の強いアジア専門学術誌『アメラジア』一行と共に、中国共産党の拠点、延安を訪問し、毛沢東や周恩来、朱徳らと面会している。戦後、赤狩りの最中、『アメラジア』はFBIの家宅捜索を受け、多数の政府機密書類を隠し持っていたことが判明している。写真右端のトーマス・ビッソンは、後にIPRの編集を経て、戦後の日本でGHQの憲法制定や財閥解体に携わるも、ヴェノナ・ファイルの公開でソ連のスパイであったことが判明している。

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 『パシフィック・アフェアーズ』や『アメラジア』でラティモアが親中反日の論陣を張る一方、親日的な本を執筆するアメリカ人もいた。『暗黒大陸・中国の真実』を著した元外交官のラルフ・タウンゼントや、『中国の戦争宣伝の内幕』を書いたジャーナリストのフレデリック・ヴィンセント・ウイリアムズなどだ。ラティモアは彼らを舌鋒鋭く批判している。日本の真珠湾攻撃後、こうした親日家は日本のスパイの濡れ衣を着せられて逮捕されてしまうが、逆に親中派は米国政府に重用されていった。

 1941年、ラティモアはルーズベルト大統領から蒋介石の顧問に任命され、重慶に滞在。真珠湾攻撃の12日前、ラティモアはアメリカの対日融和外交に反対し、中国国民党軍の士気が危機に瀕しているとする電報をルーズベルト大統領の補佐官、ラフリン・カリーに送った。これを聞いたハル国務長官は、これ以上、時間稼ぎはできないと判断し、日本に強硬な要求をつきつけるハル・ノートを発出することになる。ハル・ノートを書いた財務次官捕のハリー・デクスター・ホワイトも、ラフリン・カリーも、ソ連のスパイであったことが後に判明する。

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 日米戦最中の1944年、ラティモアはアメリカの戦争プロパガンダ機関、戦争情報局(OWI:United States Office of War Information)の太平洋作戦部長となった。ジョージ・マーシャル参謀長がOWIに命じて作成させた反日プロパガンダ映画“The Battle of China”にもIPRが関わったとされる。この映画では、日本を悪魔化するべく、南京大虐殺と田中上奏文を描いているが、どちらも中国国民党が喧伝していた反日プロパガンダで、戦後、後者は捏造だと判明している。そもそも、日本が世界征服を企んでいた証拠とされた田中上奏文は、1929年に開催されたIPR京都会議で中国代表が持ち込んだものだが、信憑性が低いため、撤回された代物だった。が、その後、雑誌に報じられて注目を浴び、満州事変後は信憑性を帯びていると解釈され、遂にはアメリカの反日プロパガンダに採用されるに至った。現代の慰安婦問題と全く同じようなデマの一人歩きである。

 

 同年、副大統領ウォレスが中国を訪問した際にもラティモアは同行している。このアレンジを行ったのも、ルーズベルト大統領の補佐官でソ連のスパイだったラフリン・カリーだった。カリーはカナダ生まれのエコノミストで、真珠湾攻撃前、フライングタイガーの中国派遣に暗躍する。戦後、世界銀行創設に貢献するが、赤狩りの最中の1954年、コロンビア滞在中にアメリカ旅券の更新を拒否され、そのままコロンビア帰化を余儀なくされる。

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 ラティモアは戦後の極東アジアについて、「天皇は排除されるべき」「朝鮮半島はソ連の傘下に置けばいい」「アメリカは中共政府を承認すべき」「国民党政府への援助を打ち切るべき」といった提案している。そんなラティモアが一番攻撃していたのが、アメリカ大使として日本に10年滞在した経験のある知日家のジョセフ・グルーだった。グルーは日米開戦を阻止することに尽力し、ルーズベルト大統領と近衛首相とのトップ会談を本国に強く要請したが、国務省内の極東局長で親中派の巨頭、ホーンベックに潰される。開戦後は帰国して1944年5月にホーンベックに替わって極東局長に就任した。その後、国務次官になったグルーは、天皇制を残すことを保証する降伏勧告を出す提案を行ったが、新国務相のバーンズに却下され、原爆投下、日本降伏後に辞任した。

 グルーは占領軍の一員として日本に戻ることを潔しとせず、ニューズウィークの外交問題編集局長ハリー・カーンら反共・親日グループを結集してアメリカ国内にアメリカ対日協議会(ACJ:American Council on Japan, ACJ)という親日ロビーを作り、財閥解体や公職追放者など極左的な日本統治に反対する運動を展開する。親中派のラティモアはそんなグルーを目の敵にして批判している。

 1945年末、国共内戦が勃発すると、トルーマン大統領はジョージ・マーシャル将軍を中国に送り、国共の連立政権を樹立させようとするが、失敗。国務省の中国専門家「チャイナ・ハンズ」から国民党に否定的で共産党を評価する情報を得ていたマーシャルは、連立失敗を国民党の責任と見做し、武器供与を禁止してしまう。結果、共産党が内戦に勝利し、アメリカは中国内の利権を全て失うことになる。1949年、中国共産党が国民党に勝利したことを受けて、ケネディ上院議員(後の大統領)は、中共に有利になる外交を続けた国務省とその顧問だったラティモアを激しく批判している。

 1950年、マッカーシズムの最中、「チャイナ・ハンズ」と呼ばれた中国専門家、外交官と共に、ラティモアは、中国を失った責任を厳しく糾弾され、ソ連のスパイであったか否か、議会で追及される。その結果、アメリカでの学究活動が難しくなり、1963年、イギリスへ移住した。「赤狩り」は長く続いた米民主党の容共政策を終わらせる足がかりとなった。「赤狩り」で名を馳せたニクソンやレーガンは、その後、大統領として共和党の反共政策を担うことになる。

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 上院の公聴会では、グルー大使の下で参事官を務めた大阪生まれの元外交官、ユジーン・ドゥーマンが証人に立った。ドゥーマンはラティモアが彼とグルー元大使を攻撃してきたことを不快に思っており、ラティモアが戦後の日本に対して「カルタゴの平和」(ローマ帝国がカルタゴにしたような徹底的な隷属化)を課すよう最も強く主張していた事実を証言している。具体的には財閥の排除と天皇陛下の国外追放だった。

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ロバート・ニューマン著『Owen Lattimore and the "loss" of China



 ソ連のスパイ活動を暴いたヴェノナ・ファイルからラティモアの名前は見つからなかったが、元ソ連軍参謀本部情報局のアレクサンダー・バーミンは、ラティモアがソ連のスパイであったと証言している。ソ連のスパイと親ソ的な共産主義者の識別は難しいが、ラティモアのケースは後者で、「正規のスパイではないが、ソ連の思惑通りに動いてくれ、並みのスパイより影響力の強い人物」といったところではないかと思われる。

 東西冷戦下、IPRは容共的団体と見做され、企業などからの財政援助が激減し、1961年に解散を余儀なくされた。機関紙『パシフィック・アフェアーズ』の編集部のみ、バンクーバーのブリティッシュコロンビア大学に移転し刊行を継続している。

 ルーズベルト政権の12年間は、アメリカが最も共産主義的だった特異な時代であり、ソ連や中国共産党を過剰に美化し、日本の帝国主義的な拡張政策を目の敵にした結果、不幸にも日米戦に突き進んでしまった。帝国主義を憎むリベラルな政治思想に、白人のアジア人に対する人種差別が加わった結果が、本土空襲や原爆投下のような大量虐殺に結びついた。しかしながら、同じアメリカの中に親日・反共勢力も共存しており、冷戦の開始と中国の共産化で左右の力関係が逆転した結果、日本の占領政策を途中で軌道修正することができた。憲法9条はルーズベルト時代の容共姿勢を引き継いだGHQ民政局が失権する前に生み出した最後の負の遺産とでもいうべきものであろう。

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 IPRはNGOの学術団体ながら、ルーズベルト政権の対日経済制裁、日米戦争、中共政権誕生に大きな影響力を発揮した。現在、反日的なアジア研究学者やアジア太平洋ジャーナル:ジャパン・フォーカスの中に、IPRの残影を見ることができる。慰安婦像問題などで、外国メディアにおける反日言論を放置すると、取り返しのつかないことになることを、IPRの歴史が物語っている。


初稿:2018年1月3日


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