山が動かないなら・・・
自宅警備員をしていると、しょっちゅう何らかの勧誘の電話がかかってきたり、
リフォームの勧誘とかセールスとか、いろんな人たちが来訪されたりする。
先日、婉美なご婦人がキリスト教の勧誘に来宅した。
説明というか勧誘が長引きそうになってきたので、
「実は、友人が近くの教会で牧師をしてまして・・・」
「まぁ! じゃ、毎週 日曜日は礼拝に行ってらっしゃるの?」
「いえ、おれ、クリスチャンじゃないし・・・、最近は、どっちかというとイスラム教のほうに興味が・・・」
「イスラム教? どこに興味を持たれたんですか?」
「イエスはたくさんの奇跡を起こしたっていうでしょ? ウソくさいと思わない?
モハンマド(マホメット)は、そんなん、無いんですよ。」
「・・・・」
「たとえば、『マホメットの奇跡』というのがあるんですけど・・・、
マホメットが、あるとき、『私は山を動かすという奇跡を起こすから、みんな集まれ!』
と言うと、たくさんの人たちが奇跡を見ようと集まりました。
マホメットは『向こうの山をこっちに動かしてみせる。』と言って、大きな声で
『山よ、こっちへ来い!』と叫びました。・・・・・山はもちろん、動きません。
3度ほど叫んでみても山は動きません。
そこでマホメットは言ったのです。
『諸君、私は3度も山に呼びかけたが、山は動かない。だとすれば、
こっちから歩いていこう。』、これが『マホメットの奇跡』といわれているものです。
山が近づいたのだから結果は同じじゃないか、というわけであり、
奇跡と言われているものでも、こんな程度のもんです。」
気が触れているのか・・・というような憐憫の表情を残して、
そのご婦人は去っていった。。。。
Webにもいろいろ形を変えて紹介してあるエピソードなのだが、元々は
フランシス・ベーコンのエッセイ( 英語のサイトです。Reviewの4行目から)の、
If the hill will not come to Mahomet, Mahomet will go to the hill
の部分のこととされている。(「山」でなく、「丘」なんですね。低い山のようです。)
要は、自分の考え方1つ、ということです。
病は気から、とも言うし・・・
組織の目指す方向にギャップを感じるとき、
自分をその方向に合わせるしかサバイバルの道はない。
それがわかっていてもできないから、ひとは悩む。
心を空っぽにして受け入れなければ、新しいものは入りようがない。
その、すさまじい体験の事例としては、やはり、中村天風が最適だ。
( 宇野千代著「天風先生座談」 )
さわりの部分だけ紹介すると、(「魂が震える話」 )
「お前の頭の中はな、私がどんないいことを言って見ても、そいつをみんな、こぼしちまう。お前の頭の中には、いままでの役にも立たないへ理屈がいっぱい詰まっている以上、いくら俺が尊いことをいって見ても、それをお前は無条件に受け取れるか。受け取れないものを与える、そんな愚かなことは、俺はしないよ。」
中村天風については、あらためて紹介したい。
あまりにも大きい存在だ。
______________________________________________________
教えるほうにも、教わる側にもタイミングというものがある。
その絶妙の時機のことを「啐啄同時(そったくどうじ)」、あるいは
「啐啄同機(さいたくどうき)」という。
『卵の中のヒナ鳥が殻を破ってまさに生まれ出ようとする時、卵の殻を内側から雛がコツコツとつつくことを「啐」といい、ちょうどその時、親鳥が外から殻をコツコツとつつくのを「啄」といいます。
親鳥の啄が一瞬でもあやまると、中のヒナ鳥の命があぶない、早くてもいけない、遅くてもいけない、まことに大事なそれだけに危険な一瞬であり啐啄は同時でなくてはなりません。』
押しつけはダメ、放任もダメ。
きちんと成長の度合を観察し、巣立ちたがっているときを見極めて教示する。
大切なのは、機が熟すまで、ひたすらに「待つ」ことである。