道の駅「きさいや広場」で起床。
近くにあるMacで久しぶりに朝Mac。身支度を整え、遊子水荷浦(ゆすみずがうら)に。三浦半島がここにもありました。遠くからもわかります。
土日祝日しかやっていない茶屋。奥のほうで大学院生がcafeをやっていて、いろいろ話をすることができました。
ここから登ります。
これ本当に作ったの、という感じです。
水はこの溝を流れてくるそうです。
ひとつづつ積んだのでしょうね。
しばらく声も出ませんでした。
半農半漁。はまち、鯛の養殖で今は豊かなそうです。最初に作ったのは江戸時代ですが、今残っているのは大正、昭和のもの。
ところどころサツマイモを栽培していますが、昔、ネズミが大発生して、ジャガイモに転作したそうです。
昔は半島全部にあったそうですが、崩れたり、作付けをする人がいなくなったり、今ではここ、水荷浦集落だけになったそうです。40戸しかないそうですがよく残っています。感心したり、まねはできないね、わずかなみかん畑をジャングルにしたしね。
南下して道の駅「みしょうMIC」で休憩。何か食べるものはないかと・・道の向かい側に立派なお店がありました。おまけに日替わり定食650円。
立派な個室で、
日替わり定食650円をいただく。これは650円では食べれないでしょう。
雨が止んだので、外泊へ。約12㎞。走りやすい道でした。
全体を映せないので絵葉書の複製。
細い道を歩いていくと
遠見の窓。
食堂とみやげ。
家を取り払うと分かりやすい。
よく見ると家の建ってないところが多い。
よくもこれだけ積んだものだ。「未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選」、「美しい日本の歴史的風土100選」、「日本の美しいむら農林水産大臣賞」に選定されているらしい。
「幕末に外泊地区の東側に隣接する中泊地区の人口が増加し、地区の主導者が各家の二男以下に分家移住を提案した。これに応募した人々により移住がなされ、地名を「外泊」と名付けた。中泊に隣接する入り江の谷を埋めて水路を確保し屋敷地を造成した。全戸の入居が完了したのは明治12年(1879年)頃であった。屋敷地の造成や石垣の積み上げは全て入居者の手で行われた。」(引用)
外泊から引き返す途中に「紫電改展示館」がありました。
「1978年11月、愛媛県南宇和郡城辺町(現・南宇和郡愛南町)久良湾の海底で1機の紫電改が発見され、翌1979年7月に引き揚げられた。
1945年7月24日に約200機のアメリカ軍を迎え撃つため343空の約20機が発進、豊後水道上空で会敵し戦闘となった。その戦闘による未帰還機6機のうちの1機で、戦闘301隊の所属機体とされる。」(引用)大村から飛び立ったそうです。
この時、未帰還機に乗っていた6名のパイロットは特定されていますが、残念ながら機内から遺骨は見つかりませんでした。乗っていた可能性のある人たち。
ちばてつやの「紫電改のタカ」に出てくる源田実率いる松空343航空隊、「剣部隊」が呉空襲の任務に就いた後、大村へ進出していました。同隊が撃墜した敵機は150機、戦死・未帰還者は78名と言われています。
ゼロ戦に比べ、太い胴体、力強さを感じます。
燃料タンクを見るのは珍しい。燃料タンクを弾が貫くとタンクの内張のゴムが締り燃えるのを防いだそうですが、「ゼロ戦燃ゆ」ではそのゴムがうまく作動しなかったそうな。
足の引き込み穴。
引き上げるときの写真がありました。
新明和、元の川西航空機で復元が行われました。日本で見られるのはここだけ。スミソニアン博物館で見たことがありますが、そのときより、はるかに立派に見えます。
この後、高知県に入りましたが、道の駅のレベルが低くてうろうろした結果、明日の予定も考え、道の駅「大月」に停泊。
本日のコース。
本日の走行距離・・・138km
本日までの航跡。
本日までの累積走行距離・・・539km