最前線の育児論byはやし浩司(Biglobe-Blog)

最前線で活躍するお父さん、お母さんのためのBLOG
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●奇妙なチンパンジーの実験

2009-11-23 10:33:47 | Weblog
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   09年 11月 23日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【口の悪い子ども】

●ビダンシ、ビジョ

 子どもたちは、口が悪い。それが、ふつう。当たり前。悪いといって、子どもを、押さ
えこんでしまっては、いけない。一応は叱っても、別の心では許す。そのおおらかさが、
子どもを伸びやかにする。
 
 で、私は、子どもたちが、私のことを、「ジジイ」「クソジジイ」「バカジジイ」などと言
ったときは、すかさず、こう教えるようにしている。

私「もっと、悪い言葉を教えて、あげようか」
子たち「教えて」「教えて」と。

 そこで私は、「いいか、教えてやるけど、君たちのパパや、園長先生には、言ってはだめ
だよ」と言う。そしておもむりに、こう教えてやる。「ビダンシ(美男子)」と。

 すると、子どもたちは、うれしそうに、私に向かって、「ビダンシ」「ビダンシ」と言い
だす。

 ……という話は、以前にも書いた。で、この話には、つづきがある。

 先週、そのことを年長児クラスで教えると、「ママには、使ってはだめ?」と聞いた子ど
もがいた。

私「ママは、女の人だから、ビダンシでは、おかしいよ。女の人には、ビジョ(美女)と
いうんだよ。ビジョという言葉は、悪い言葉だから、使ってはだめだよ」と。

 しかし母親に「美女」というのも、おかしい。そこで思わず、こう言ってしまった。「ビ
ジョじゃあなくて、オーネンのビジョ(往年の美女)かな?」と。

 「しまった!」と思ったが、遅かった。子どもたちは、今度は、参観している母親たち
に向かって、「オーネンのビジョ」「オーネンのビジョ」と言い出した。

 口がすべるとは、こういうことをいう。私はよくこの種のヘマをする。

 しかし教室の中には、いつもの明るい笑い声が、とびかった。ついでに私も、大声で笑
う。私はその雰囲気が、好き。楽しい。これがあるから、幼児教育は、やめられない。

(補記)

 大切なことは、「おとなの優位性」を子どもに、押しつけないこと。
ときにおとなは、バカになり、あるいは子どもに負けたフリをしながら、自信をもたせる。
「おとな(先生)を負かした」という思いが、自信につながる。
その子どもの未来を、子ども自身が明るくする。

 たまたま、BW教室でのやりとりを、YOUTUBEに収めたので、興味のある人は見てほしい。

http://www.youtube.com/watch?v=Ck5MMauSzSE


Hiroshi Hayashi++++++++Oct. 09+++++++++はやし浩司

【団塊ブルース】

●10月21日も終わって……

老いることが、わびしいのではない。
老いていく人を見るのが、わびしい。
老いていく人を見ながら、その人に
自分の未来像を写し重ねる。
それがわびしい。

死ぬのがこわいのではない。
死ぬときは、死ぬ。
しかし簡単には死ねない。
それまでに、いろいろ苦しむ。
もがく。
それがこわい。
どうやって死ぬか。
それがこわい。

私がほしいのは、休息ではない。
遊ぶことでもない。
私がほしいのは、生きがい。
私を必要とする人が、ほしい。
仕事があれば、さらによい。

私がこわいのは、孤独。
だれにも相手にされないという孤独。
だれにも必要とされないという孤独。
だれも愛する人がいないという孤独。
だれにも愛されないという孤独。
その孤独がこわい。
孤独は地獄。
人がこの世で味わう、最悪の地獄。

だから私はしがみつく。
細い糸だが、それにしがみつく。
それから手を放したら、私はおしまい。
生きる意味を失う。
明日が今日と同じとしたら、
来月が今月と同じとしたら、
私は生きる意味を失う。
それがこわいから、しがみつく。
希望という細い糸にしがみつく。

今日も映画俳優の、M洋子という人が亡くなった。
76歳だったという。
もうすぐ私は62歳になる。
その年齢から、「私もあと14年か」と、計算する。
私にとって、「死」というのは、そういうもの。
刻々とやってくる。
少しずつやってくる。
残された時間……それが私の人生。

老いることがこわいのではない。
それまでに、何かができればよい。
が、何もできなかったら、私はどうなる。
どうする。
何もできなかったことを悔やみながら、死ぬ。
私は、それがこわい。

体力も落ちていく。
気力も落ちていく。
知力も落ちていく。
集中力も落ちていく。
今でさえ、そこに何があるか、私には、わからない。
この先、それがもっとわからなくなる。
急がなければならない。
もっと急がなければならない。
「時」という電車に乗り遅れたら、
私は希望を失う。
そのまま私は奈落の底に……。

ワイフも、すっかりバーさんになった。
やわらかい白髪が、秋の風にそよぐ。
それを見て、私もジーさんになる。
あえてジーさんになる。
いっしょに、歳を取りたい。
私だけ、この世に生き残るのは、ごめん。
ジーさんになるのが、いやなのではない。
ワイフだけが、バーさんになるのがいや。
自分だけ、取り残されるのがいや。

明日こそは……と、自分に気合を入れる。
明日こそは、思う存分、生きてやると、
自分にそう言って聞かせる。
しかしそんなこと、もう何千回も
繰り返してきた。
そして夜になると、決まって、こう言う。
「今日もだめだった」と。

この無力感。
この脱力感。
しかしそれに負けたら、私も、おしまい。
ここはふんばるしかない。
そしてまた自分に言って聞かせる。
「明日こそは、がんばろう」と。
「明日こそは、いいことがある」と。

ワイフが寝じたくに、とりかかり始めた。
化粧を落として、パジャマに着替える。
それが終わると、血圧を測る。
そのころ、いつも私にこう言う。
「そろそろ寝る?」と。

そこにある「死」から目をそむけながら、
そこにある「孤独」から目をそむけながら、
そこにある「老い」から目をそむけながら、
バカになったフリをして、私も寝じたくを始める。
今日も、これでおしまい。
みなさん、ごくろうさま。
おやすみなさい。

(09年10月21日夜)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●相手を助けるチンパンジー(奇妙な実験)

++++++++++++++++++++

先日、奇妙な実験が、テレビで報道されていた。
何でも、チンパンジーには、共助の心、つまり相手を助ける心があるという。
テレビで報道された範囲での私の判断だから、誤解があるかもしれない。
それに実験の主宰母体は、あの天下の京都大学霊長類研究所。
まさか?、とは思うが、私が感じた疑問をここに書いてみたい。

なおこまかい部分については、記憶によるものなので、不正確である。

++++++++++++++++++++

【実験の内容】

2つの檻(おり)がある。
金網でできた檻。
それぞれに、1匹ずつのチンパンジーが入れられている。
たがいに相手の姿が、よく見える。
2つの檻の間には、チンパンジーの腕が楽に通るほどの、穴があいている。

1匹のチンパンジーの檻の前には、リンゴが置かれている。
しかし手が届かない。
このチンパンジーを、チンパンジー(A)とする。

そこで実験者が、もう1つの、別の檻に入っているチンパンジーに、杖(つえ)様の棒を
渡す。
杖を渡されたほうのチンパンジーを、チンパンジー(B)とする。

チンパンジー(B)の檻に、杖があることを見た、チンパンジー(A)は、金網越しに、
手を伸ばし、杖を渡すようにせがむ。
このとき、「杖を渡せ」というようなジェスチャを、チンパンジー(A)がしてみせる。
腕を穴に通し、チンパンジーは、手先で「それをよこせ」というようなジャスチャをして
みせる。
(ここが重要だから、念のためにもう一度、書く。
チンパンジー(A)が、チンパンジー(B)のほうに手を伸ばした。)

チンパンジー(B)は、杖様の棒を、チンパンジー(A)に渡す。
その棒を手にしたチンパンジー(A)は、その棒を使って、リンゴを手前に引き寄せ、リ
ンゴを手に入れる。
チンパンジー(A)は、リンゴを食べる。

【考察】

 以上が、実験のあらましである。

この実験を通して、報道番組では、「チンパンジーには、共助の心がある」というような
ことを、おおげさな言い方で賞賛していた。
つまりチンパンジー(A)が、リンゴを手にすることができるよう、チンパンジー(B)
が、チンパンジー(A)を助けた、と。

 しかし、ちょっと待ったア!
この実験というか、実験結果から引き出された結論は、お・か・し・い!
どう考えても、お・か・し・い!
この実験だけで、チンパンジーに、「共助の精神」、つまり他人を思いやる(やさしさ)が
あると判断するのは、おかしい。
無理がある。

 もう一度、実験の流れを、よく読みなおしてみてほしい。
(テレビでは、2度、同じ実験を繰り返して見せていた。)

【疑問】

 チンパンジー(A)は、隣にいるチンパンジー(B)に向かって手を伸ばし、棒を渡す
ように合図した。
ここにも書いたように、「それをよこせ」と言っているかのようなジェスチャだった。
それに応えて、チンパンジー(B)は、杖様の棒を、金網越しに、チンパンジー(A)に渡し
た。

 そのあとチンパンジー(A)は、その棒を使って、リンゴを手前にたぐり寄せ、リンゴ
を手にした。

 つまりチンパンジー(B)は、チンパンジー(A)の求めに応じて、棒を渡しただけで
ある。
ここが重要だから、念を押しておきたい。
チンパンジー(A)の置かれた状況を見て、チンパンジー(B)のほうから、棒を渡した
のではない。
もしそうなら、つまり、チンパンジー(B)のほうから、積極的に棒を渡したのなら、「チ
ンパンジーには、共助の精神がある」ということになる。
「ほら、この棒を使って、お前のほうに、リンゴを引き寄せろ」と。

 しかし実験では、2回とも、チンパンジー(A)のほうが、金網越しに手を伸ばし、棒
を渡せと催促していた。

【共助の精神?】

 この実験だけで、チンパンジーに、相手を助ける心があると判断するのには、無理があ
る。
また実験者(研究者)が、「チンパンジーの別の高い知能が証明された」というようなこと
を言っていた。
が、この言葉には、「?マーク」を、10個ほどつけたい。

 繰り返すが、チンパンジー(B)は、チンパンジー(A)の求めに応じて、棒を渡した
だけである。
自分のほうから、棒を、チンパンジー(A)に渡したのではない。
さらにつぎの点が、重要である。

 リンゴを手にしたチンパンジー(A)は、自分でそのリンゴを食べた。
半分に割って、チンパンジー(B)に渡すというような行為が、そのあとにでもあれば、
それこそ「共助の心」があったということになる。
しかし残念ながら、そういうことはなかった。

【補記】

 チンパンジー(A)の立場で、もう一度、考えなおしてみよう。
何しろ相手は、天下の京都大学。
京都大学霊長類研究所。
いいかげんな批評をすると、私のほうが、逆に袋叩きにあう。
だから、ここは、慎重に!

 チンパンジー(A)は、自分の檻の前に、リンゴがあるのを見た。
しかし手を伸ばしても、リンゴには届かない。
が、横の檻を見ると、もう1匹のチンパンジー(B)がいて、その横には、杖様の棒があ
る。
棒が手に入れば、その棒を使って、リンゴを引き寄せることができる。
チンパンジーに、その程度の能力があることは、すでに証明されている。
そこでチンパンジー(A)は、金網越しの手を伸ばし、棒を渡すように、チンパンジー(B)
にせがむ。
それに応じて、チンパンジー(B)は、チンパンジー(A)に、棒を渡す。

 今度は、チンパンジー(B)の立場で考えてみよう。
チンパンジー(B)も、リンゴを見つけたはず。
自分でそのリンゴを取ろうとしても、手は届かない。
であるとするなら、なぜそのときチンパンジー(B)は、自分で、棒を使って、リンゴを引き
寄せなかったのか、ということになる。

あるいは棒を使っても、届かない距離ということを、チンパンジー(B)は知っていたの
かもしれない。
それともチンパンジー(B)は、能力的にチンパンジー(A)より、劣っていたというの
だろうか。
もし劣っていたとするなら、さらに高度な精神的作用を必要とする、「共助の心」は、期待
できないということになる。
何度も書いたように、チンパンジー(B)は、チンパンジー(A)の求めに応じて、棒を
渡しただけである。
テレビで見たところ、そのようにしか見えなかった。

 つまりそれだけの実験というか、それだけの話なのである。
どうしてこの実験だけで、チンパンジーには、相手を助けるために行動する能力、つまり
(相手を思いやるやさしさ)があると言えるのか?

 多分、こうした実験結果(?)は、おおげさな論文となって、あちこちで発表されるに
ちがいない。

しかしおかしいものは、お・か・し・い。
……ということで、感じたままを、ここに書いてみた。

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Hayashi 林浩司 BW チンパンジー 京都大学 京都大学霊長類研究所 共助 共助の
心 チンパンジーの実験 思いやり ほかの仲間を助けるチンパンジー 疑問)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●映画

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今週は、見たい映画はなし。
少し前、『火天の城』(邦画)を見てきた。
が、途中でギブアップ。
「時間がもったいない」と感じ、
途中で劇場から出てきてしまった。

+++++++++++++++++++

 週に1度は、劇場へ足を運ぶ。
映画を見る。
私たち夫婦は、そう取り決めている。
ボケ防止のため。

 しかし先々週くらいから、見たい映画が
パタリとなくなってしまった。
しかたないので、ときどきDVDを借りてきて
見ている。

 今は、映画も、シーズンオフ?
クリスマスや正月が近くなれば、また楽しい映画も
出てくるはず。
それまでがまん。


Hiroshi Hayashi++++++++Oct. 09+++++++++はやし浩司

●住めば都(人格のスケール)

+++++++++++++++++++

ワイフがこう言った。
「私は浜松が好きだわ。
ちょうどいい大きさで、住みやすいわ。
大きすぎず、小さすぎず……」と。

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 浜松市の人口は約80万人(政令都市)。
ワイフが言ったことに対して、私はこう言った。

「M町(人口3万人弱)の人も、同じことを言うよ。
G市(人口30万人)の人も、同じことを言うよ。
名古屋市の人だって、同じことを言うよ」と。

 昔から『住めば都』という。
どんな町でも、長く住めば、体の方がそれに慣れ、その人にとっては、住みやすいところ
になるということ。
浜松市で生まれ育ち、以来、ずっとこの町に住んでいるワイフにしてみれば、当然のこと。
浜松がいちばん、住みやすい。

●心のスケール

 医師以外の人は、あまり知らないかもしれない。
しかし医師の世界には、医師だけの世界がある。
たとえば旅行社にしても、デパートにしても、さらに建設会社にも、医師用専門会社というのがある。
なぜあるかということについては、今さら、ここに書くまでもない。

 で、その医師たちは、医師たちだけで交際する。
医師たちが一般の人たちを避けているのではない。
一般の人たちが、医師の世界に入り込めない。
つきあいの仕方がちがう。
お金の使い方がちがう。

●居心地

 そこで人は、自分と同じようなレベルの人とつきあうようになる。
レベル、年齢、同趣味、類似した仕事、同じような生い立ち、学歴など、共通点が多けれ
ば多いほど、よい。
その人にとって、居心地のよい関係ということになる。

 そしてその関係は、10年とか、20年とか、長い年月をかけて、作られる。
先に書いた医師の世界も、その一例ということになる。

 そこで『住めば都』。
住んでいる町の大きさに、標準はない。
大きな町に住み慣れた人は、小さな町を窮屈に思う。
小さな町に住む慣れた人は、大きな町を、住みにくく思う。
それは自然な反応であって、とくに問題はない。

 しかし(心)については、もう少し深刻に考えたほうがよい。
大きな心の人は、求めて、心の大きな人と交際するようになる。
小さな心の人は、求めて、心の小さな人と交際するようになる。

 ここでは便宜上、(大きな心)(小さな心)という言葉を使ったが、要するに(人間性)
の問題と考えてよい。
しかもその人間性は、相対的なもの。
私が大きいとか、あなたが小さいとか、そういうことを書いているのではない。
上には、上がいる。
下には、下がいる。
そういう意味で、相対的なもの。

●ある夫婦

 あるところに、インチキばかりしている女性がいた。
やることなすこと、インチキ。
小細工、ウソ、ごまかしは、日常茶飯事。
それがその女性の行動規範になっているため、恐らくその女性は、自分でもそれを意識し
ていないのではないか。
ごく自然な形(?)で、それができる。

 で、私が不思議に思ったのは、そういう女性を妻にもつ夫はどうなのかということ。
その女性の夫も、見たところ、夫は、ごくふつうのサラリーマン。
もの静かで、おだやかな感じのする人だった。

 そこでワイフに、「もしぼくが、あの女性の夫なら、ああいう妻には耐えられない。それ
に妻が目の前で、そういう行為を重ねていたら、妻を注意するだろう」と。
するとそのワイフは、こう言った。

 「知らなかったの? あのダンナも、似たような人よ。
ほら、『似たもの夫婦』って、言うでしょ。
あのダンナも、インチキな人よ」と。

 そう言えば、その女性の周囲にいる人、つまり、その女性の親しい人たちも、みな、似
たような人たち。
『類は友を呼ぶ』の格言どおりである。

●上の人

 一方、恩師のTK先生は、会うたびに、私にこう言う。
「上の人と交際しなさい」と。
TK先生が言う(上の人)というのは、「人格的に高邁な人」という意味である。

 その先生の言葉には、重要な意味が隠されている。
人というのは、環境によって、大きな人にもなるが、反対に、小さな人にもなってしまう。
『人は環境の産物』。
そしていつの間にか、良循環は良循環となり、反対に悪循環は悪循環となり、その人の大
きさを決めていく。

●子どものレベル

 町について、住みやすい、住みにくいというのは、あくまでも(慣れ)の問題。
しかし人間関係において、つきあいやすい、つきあいにくいというのは、その人の(努力)
の問題。

 よく「子どものレベルを知りたかったら、子ども友人を見ろ」という。
そう言っているのは、この私だが、自分の子どものレベルは、子どもがつきあっている友
だちを見ればわかる。

 あなたの子どもが、あなたから見て、好ましい友だちとつきあっているなら、あなたの
子どものレベルも、同じほど高いということになる。
そうでなければそうでない。

 以前、こんなことがあった。
ある子ども(中学2年生・男子)が、祭りで酒を飲んでいて、警察署へ補導されてしまっ
た。
母親は、「友だちにそそのかされて、酒を飲んだだけ」と、懸命に自分の子どもをかばって
いた。
が、あとで私がいろいろ話を聞くと、むしろその子どものほうが主犯格だったことがわか
った。

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