【一事が万事論】
++++++++++++++
人間の脳みそは、それほど器用に
はできていない。
ひとつの場面では誠実で、別の場面
ではそうでない……というようなことは
本来、ありえない。
ひとつの場面で不誠実な人は、あらゆる
場面で、不誠実と考えてよい。
これを私は、勝手に、『一事が万事論』
と呼んでいる。
3年前に書いた原稿を、手直してして、
ここに添付します。
++++++++++++++
●正直
京都府にある、A農産F農場(養鶏場)で、鳥インフルエンザが発生した。同時に、大量のニワトリが、死んだ。
その農場では、そのときすでに数千羽のニワトリが、不審な死に方をしていたにもかかわらず、それをあえて無視して、ニワトリを出荷しつづけたという※。そのため、その二週間後には、鳥インフルエンザウィルスは、ほぼ西日本全域に広がってしまった(3月2日朝刊※)。
当の責任者は、「まさか鳥インフルエンザだとは思わなかった」「静かに眠るように死んでいったので、おかしいなとは思っていたが……」などと、テレビの報道記者に答えている。
しかし同じころ、つまりその養鶏場で、ニワトリが不審な死に方をしていたころ、私の地元の小学校でも、鳥インフルエンザの話は、子どもたちでさえ知っていた。学校で飼っていたニワトリが死んだだけで、学校は、そのニワトリを、保険所へ届けていた。いわんや、養鶏場のプロが、そんなことを知らぬはずはない。「おかしいな?」ではすまされない話なのである。
……という話を、書くのがここでの目的ではない。
人間の正直さは、どこまで期待できるかという問題である。朝食をとりながら、ワイフと、それについて話しあった。
私「もしぼくだったら、正直に届け出ただろうか?」
ワ「いつ?」
私「最初にニワトリが死に始め、鳥インフルエンザにかかっているかもしれないと思ったときだ」
ワ「むずかしいところね」と。
新聞の報道によれば、「通報の遅れが、被害を拡大させた」(Y新聞)ということらしい。そして農水省の次官も、「(通報が遅れたのが)残念でならない」とコメントを出している。さらに京都府の知事は、「被害について、県のほうで補償することになっているが、しかし(補償するのは)考えざるをえない」と述べている。
「不正直もはなはだしい」ということになるが、本当に、そうか?
はっきり言えば、日本人は、子どものころから、そういう訓練を受けていない。アメリカの親などは、子どもに、「正直でありなさい(Be honest.)」と、日常的によく言う。しかしこの日本では、そうでない。むしろ「ずるいことをしてでも、うまく、すり抜けたほうが勝ち」というような教え方をする。そのさえたるものが、受験競争である。
それはさておき、今でも『正直者は、バカをみる』という格言が、この日本では、堂々とまかりとおっている。『ウソも方便』という言葉さえある。「人を法に導くためには、ウソも許される」と。どこかの宗教団体の長ですらも、「ウソも100ぺんつけば、本当になる」などと言っている。
これらのことからもわかるように、世界的にみても、日本人ほど、不誠実な民族は、そうはいない。ほかにも、たとえば、日本人独特の、「本音(ほんね)と建て前論」がある。
つまり口で言っていること(=建て前)と、腹の中(=本音)は、ちがう。またそういう本音と建て前を、日本人は、うまく使い分ける。だから反対に、アメリカ人やオーストラリア人と接したりすると、「どうしてこの人たちは、こうまで、ものごとにストレートなのだろう」と思う。
つまりそう「思う」部分だけ、日本人は、正直でないということになる。
誤解がないように言っておくが、「建て前」とういうのは、「ウソ」ということ。とくに政治の世界には、この種のウソが多い。
本音は「銀行救済」なのだが、建て前は、「預金者保護」。本音は「官僚政治の是正」なのだが、建て前は、「構造改革」などなど。言葉のマジックをうまく使いながら、たくみに国民をだます。
が、その原因を掘りさげていくと、戦後の日本の金権体質がある。もともと金儲けの原点は、「だましあい」である。とくに商人の世界では、そうである。そういう「だましあい」が、集合して、金権体質になった。(……というのは、少し乱暴な意見に聞こえるかもしれないが、大きくみれば、そういうことになる。)
というのも、この話になると、私より古い世代の人は、みなこう言う。「戦前の日本人のほうが、まだ正直でしたよ」と。「正直というより、「純朴」だった? どちらにせよ、まだ温もりを感じた。
私が子どものころは、相手をだますにしても、どこかで手加減をした。が、今は、それがない。だますときは、徹底的に、相手をだます。それこそ、相手を、丸裸にするまでだます。
つまり「マネー」万能主義の中で、日本人は、その「心」を見失ったというのだ。
いろいろ意見はあるだろが、もしあなたなら、どうしただろうか。飼育していたニワトリが何千羽も死んだ。行政側に報告すれば、処分される。鳥インフルエンザではないかという疑いはある。しかしはっきりしているわけではない。今なら、売り逃げられる。うまく売り逃げれば、損失をかなりカバーできる。そんなとき、あなたなら、どうしただろうか。
正直に、行政側に報告しただろうか。それとも、だまってごまかしただろうか。
こうした一連の心理状態は、交差点で赤信号になったときに似ている。左右の車はまだ動き出していない。しかし今なら、走りぬけることができる、と。それともあなたは、交差点で、信号を、しっかりと守っているというのだろうか。
もしそうなら、あなたは多分、F農場のような立場におかれても、行政側に報告したかもしれない。報告するとはかぎらないが、報告する可能性は高い。
しかし赤信号でも、「走れるうちは走れ」と、その信号を無視するようなら、あなたは100%、行政側に報告などしないだろう。あなたは、もともとそういう人だ。
つまりこれが、私が前から言っている、『一事が万事論』である。
日々の行いが月となり、月々の行いが年となる。そしてその年が重なって、その人の人格となる。そしてそれが集合されて、民族性になり、さらに人間性になる。
その日々の行いは、「今」というこの瞬間の過ごし方で決まる。
私「ぼくなら、F農場の責任者のように、だまっていたかもしれない。もともと、そんな正直な人間ではない」
ワ「でも、やはり正直に報告すべきよ」
私「わかっている。だからぼくは、できるだけ、そういう状況に、自分を追いこまないようにしている」と。
おかしな話だが、私は、道路を自転車で走っているときも、サイフらしきもの(あくまでも、……らしきもの)が落ちていても、拾わないで、そのまま走り去ることにしている。拾うことにより、そのあと迷う自分がこわいからだ。正直に交番へ届ければ、それですむことかもしれない。が、それもめんどうなことだ。
だからそのまま見て見ぬフリをして、走り去る。「あれは、ただのゴミだった」と。
だから私は、F農場の責任者を、それほど責める気にはなれない。責める側に立って、さも善人ぶるのは簡単なことだが、私には、それができない。「とんだ災難だったなあ」「かわいそうに……」と、同情するのが、精一杯。
それが私の本音ということになる。
(040302)(はやし浩司 正直)
※……「同農場は2月20日から鶏の大量死が始まっていたのに、府に届けず、25、26日には生きた鶏計約1万5000羽を兵庫県の食肉加工会社処理場に出荷、感染の拡大につながり、強い批判を浴びていた」(中日新聞)
「当初、行政側が把握していた情報は、結果的にどれも誤りでした。実際にはA農産の養鶏場から大量死が発覚した後の、先月25日と26日に、あわせておよそ1万羽の生きたニワトリが兵庫県八千代町の鳥肉加工業者「AB」に出荷されていました。
「AB」で加工された1万羽は、京都、兵庫、島根など14の業者に出荷され、ほとんどは返品されたり、業者が廃棄しましたが、少なくとも150キロの肉がスーパーや飲食店などに、卸されていました」(TBS inews)と。
●『金によってもたらされた忠実さは、金によって裏切られる』(セネカ「アガメムノン」)
【追記】
正直に対する、国民の意識は、国によって、かなりちがう。オーストラリアでは、親は、いつも子どもに向かって、「正直でいなさい」と言っている。うるさいほど、それを言っている。
しかしこの日本で、私は、親が子どもにそう言っているのを、聞いたことがない。「あと片づけしなさい」とか、「静かにしなさい」というのは、よく聞くが……。
これは「誠実さ」に対する感覚が、国によってちがうためと考えてよい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 一事が万事 一事が万事論 正直 誠実)
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人間の脳みそは、それほど器用に
はできていない。
ひとつの場面では誠実で、別の場面
ではそうでない……というようなことは
本来、ありえない。
ひとつの場面で不誠実な人は、あらゆる
場面で、不誠実と考えてよい。
これを私は、勝手に、『一事が万事論』
と呼んでいる。
3年前に書いた原稿を、手直してして、
ここに添付します。
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●正直
京都府にある、A農産F農場(養鶏場)で、鳥インフルエンザが発生した。同時に、大量のニワトリが、死んだ。
その農場では、そのときすでに数千羽のニワトリが、不審な死に方をしていたにもかかわらず、それをあえて無視して、ニワトリを出荷しつづけたという※。そのため、その二週間後には、鳥インフルエンザウィルスは、ほぼ西日本全域に広がってしまった(3月2日朝刊※)。
当の責任者は、「まさか鳥インフルエンザだとは思わなかった」「静かに眠るように死んでいったので、おかしいなとは思っていたが……」などと、テレビの報道記者に答えている。
しかし同じころ、つまりその養鶏場で、ニワトリが不審な死に方をしていたころ、私の地元の小学校でも、鳥インフルエンザの話は、子どもたちでさえ知っていた。学校で飼っていたニワトリが死んだだけで、学校は、そのニワトリを、保険所へ届けていた。いわんや、養鶏場のプロが、そんなことを知らぬはずはない。「おかしいな?」ではすまされない話なのである。
……という話を、書くのがここでの目的ではない。
人間の正直さは、どこまで期待できるかという問題である。朝食をとりながら、ワイフと、それについて話しあった。
私「もしぼくだったら、正直に届け出ただろうか?」
ワ「いつ?」
私「最初にニワトリが死に始め、鳥インフルエンザにかかっているかもしれないと思ったときだ」
ワ「むずかしいところね」と。
新聞の報道によれば、「通報の遅れが、被害を拡大させた」(Y新聞)ということらしい。そして農水省の次官も、「(通報が遅れたのが)残念でならない」とコメントを出している。さらに京都府の知事は、「被害について、県のほうで補償することになっているが、しかし(補償するのは)考えざるをえない」と述べている。
「不正直もはなはだしい」ということになるが、本当に、そうか?
はっきり言えば、日本人は、子どものころから、そういう訓練を受けていない。アメリカの親などは、子どもに、「正直でありなさい(Be honest.)」と、日常的によく言う。しかしこの日本では、そうでない。むしろ「ずるいことをしてでも、うまく、すり抜けたほうが勝ち」というような教え方をする。そのさえたるものが、受験競争である。
それはさておき、今でも『正直者は、バカをみる』という格言が、この日本では、堂々とまかりとおっている。『ウソも方便』という言葉さえある。「人を法に導くためには、ウソも許される」と。どこかの宗教団体の長ですらも、「ウソも100ぺんつけば、本当になる」などと言っている。
これらのことからもわかるように、世界的にみても、日本人ほど、不誠実な民族は、そうはいない。ほかにも、たとえば、日本人独特の、「本音(ほんね)と建て前論」がある。
つまり口で言っていること(=建て前)と、腹の中(=本音)は、ちがう。またそういう本音と建て前を、日本人は、うまく使い分ける。だから反対に、アメリカ人やオーストラリア人と接したりすると、「どうしてこの人たちは、こうまで、ものごとにストレートなのだろう」と思う。
つまりそう「思う」部分だけ、日本人は、正直でないということになる。
誤解がないように言っておくが、「建て前」とういうのは、「ウソ」ということ。とくに政治の世界には、この種のウソが多い。
本音は「銀行救済」なのだが、建て前は、「預金者保護」。本音は「官僚政治の是正」なのだが、建て前は、「構造改革」などなど。言葉のマジックをうまく使いながら、たくみに国民をだます。
が、その原因を掘りさげていくと、戦後の日本の金権体質がある。もともと金儲けの原点は、「だましあい」である。とくに商人の世界では、そうである。そういう「だましあい」が、集合して、金権体質になった。(……というのは、少し乱暴な意見に聞こえるかもしれないが、大きくみれば、そういうことになる。)
というのも、この話になると、私より古い世代の人は、みなこう言う。「戦前の日本人のほうが、まだ正直でしたよ」と。「正直というより、「純朴」だった? どちらにせよ、まだ温もりを感じた。
私が子どものころは、相手をだますにしても、どこかで手加減をした。が、今は、それがない。だますときは、徹底的に、相手をだます。それこそ、相手を、丸裸にするまでだます。
つまり「マネー」万能主義の中で、日本人は、その「心」を見失ったというのだ。
いろいろ意見はあるだろが、もしあなたなら、どうしただろうか。飼育していたニワトリが何千羽も死んだ。行政側に報告すれば、処分される。鳥インフルエンザではないかという疑いはある。しかしはっきりしているわけではない。今なら、売り逃げられる。うまく売り逃げれば、損失をかなりカバーできる。そんなとき、あなたなら、どうしただろうか。
正直に、行政側に報告しただろうか。それとも、だまってごまかしただろうか。
こうした一連の心理状態は、交差点で赤信号になったときに似ている。左右の車はまだ動き出していない。しかし今なら、走りぬけることができる、と。それともあなたは、交差点で、信号を、しっかりと守っているというのだろうか。
もしそうなら、あなたは多分、F農場のような立場におかれても、行政側に報告したかもしれない。報告するとはかぎらないが、報告する可能性は高い。
しかし赤信号でも、「走れるうちは走れ」と、その信号を無視するようなら、あなたは100%、行政側に報告などしないだろう。あなたは、もともとそういう人だ。
つまりこれが、私が前から言っている、『一事が万事論』である。
日々の行いが月となり、月々の行いが年となる。そしてその年が重なって、その人の人格となる。そしてそれが集合されて、民族性になり、さらに人間性になる。
その日々の行いは、「今」というこの瞬間の過ごし方で決まる。
私「ぼくなら、F農場の責任者のように、だまっていたかもしれない。もともと、そんな正直な人間ではない」
ワ「でも、やはり正直に報告すべきよ」
私「わかっている。だからぼくは、できるだけ、そういう状況に、自分を追いこまないようにしている」と。
おかしな話だが、私は、道路を自転車で走っているときも、サイフらしきもの(あくまでも、……らしきもの)が落ちていても、拾わないで、そのまま走り去ることにしている。拾うことにより、そのあと迷う自分がこわいからだ。正直に交番へ届ければ、それですむことかもしれない。が、それもめんどうなことだ。
だからそのまま見て見ぬフリをして、走り去る。「あれは、ただのゴミだった」と。
だから私は、F農場の責任者を、それほど責める気にはなれない。責める側に立って、さも善人ぶるのは簡単なことだが、私には、それができない。「とんだ災難だったなあ」「かわいそうに……」と、同情するのが、精一杯。
それが私の本音ということになる。
(040302)(はやし浩司 正直)
※……「同農場は2月20日から鶏の大量死が始まっていたのに、府に届けず、25、26日には生きた鶏計約1万5000羽を兵庫県の食肉加工会社処理場に出荷、感染の拡大につながり、強い批判を浴びていた」(中日新聞)
「当初、行政側が把握していた情報は、結果的にどれも誤りでした。実際にはA農産の養鶏場から大量死が発覚した後の、先月25日と26日に、あわせておよそ1万羽の生きたニワトリが兵庫県八千代町の鳥肉加工業者「AB」に出荷されていました。
「AB」で加工された1万羽は、京都、兵庫、島根など14の業者に出荷され、ほとんどは返品されたり、業者が廃棄しましたが、少なくとも150キロの肉がスーパーや飲食店などに、卸されていました」(TBS inews)と。
●『金によってもたらされた忠実さは、金によって裏切られる』(セネカ「アガメムノン」)
【追記】
正直に対する、国民の意識は、国によって、かなりちがう。オーストラリアでは、親は、いつも子どもに向かって、「正直でいなさい」と言っている。うるさいほど、それを言っている。
しかしこの日本で、私は、親が子どもにそう言っているのを、聞いたことがない。「あと片づけしなさい」とか、「静かにしなさい」というのは、よく聞くが……。
これは「誠実さ」に対する感覚が、国によってちがうためと考えてよい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 一事が万事 一事が万事論 正直 誠実)