【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

現代の探検家《植村直己》 =059=

2017-11-29 06:15:31 | 浪漫紀行・漫遊之譜

○◎ Great and Grand Japanese_Explorer  ◎○

探検家になるために必要な資質は、臆病者であることです =植村直己

= Webナショジオ_“河江肖剰-新たなピラミッド像を追って”より転載・補講 =

 自分が主役になるよりは常にメンバーを影でサポートするような立場でいたい ☠

◇◆ マッキンリーの氷雪に消えた _終章_ =2/5=  ◇◆

 植村は一万二千キロの北極圏の旅から戻ったとき、リーダー犬のアンナほか4頭の犬を日本に連れ帰った。旭川市の旭山動物園がアンナとイヌートソア2号を、帯広動物園がイグルーとイヌートソア1号を引きとってくれた。その後も犬橇をひいたエスキモー犬が日本に連れてこられて、今でも北海道にたくさんの子孫がいる。

 エスキモー犬をひきとってもらったことから、植村は帯広市の人びとと強いつながりをもつに至った。帯広動物園の中村園長がその人びとの中心にいて、そのグループが帯広野外学校をつくろうとしたのである。植村を校長にして、日本にはまだ本格的なものがなかった野外学校の設立をめざした。植村は、帯広で始まり、ひろがったこの話に心を動かされたようすだった。

「北海道の、人里から離れた所に、掘立小屋を一つ建てて、水道もない、電気もないというなかで、季節に合ったサバイバル生活をやったりしたら、けっこうおもしろい訓練ができるはずです。」

 と植村は83年の9月頃、語っている(『植村直己の冒険学校』1986年、文藝春秋刊)。
 植村はこの当時、「アメリカあたりの大学で探検の講座を持っているところはありませんでしょうか」と会う人ごとに聞いてみるようになった。そして、滞在中のアメリカ人の海流学者から、アウトワード・バウンド・スクールの存在を教えられた。

 イギリスに始まり、世界17カ国に開校している本格的な野外学校である。アメリカだけでも8カ所に設けられていた(数字は1984年当時)。植村がとくに興味をいだいたのはミネソタ・アウトワード・バウンド・スクールであり、ここだけが犬橇のカリキュラムがあったからである。

 植村は、本気で野外学校のあり方を学ぶことを決心した。ミネソタのこの野外学校に「入学」するため、83年10月に渡米するのである。しかし学校側は植村が何者であるかを知っており、結局生徒としてではなく、無給の犬橇のインストラクターとして彼を雇うというかたちになった。

 彼は友人宛の手紙のなかで書いている。

《――私の野外学校(体験)は3カ月少々であったが、生徒と指導員に接触し、このような野外学校の日本での必要性を強く感じたのだった。私の夢は前から持ち続けている南極への旅の実現であるが、3~4年後を目標に是非このような学校を北海道の日高山脈の麓あたりに作りたいという、新しい夢も芽生えてきたのだった――》

 植村は「南極後」のことを考えるようになっていたのである。3~4年後、日高山脈の麓あたりで、というのは帯広の仲間たちの動きを想定してのことだ。

 まず、南極単独横断という長年の夢を果たす。それは変わらないけれど、その後の目標が見え始めていたのである。植村がミネソタの野外学校を見学したのは、一つには「南極後」のため、もう一つ公言はしなかったけれど、アメリカにいて、折あれば関係当局に南極の冒険への援助をアピールするためだった。しかし前者についてはいい感触をつかんだが、後者、アメリカの関係当局への接触は思うようにはいかなかった。日本に帰国する前に、マッキンリー冬期単独登頂を実行したのは、アメリカで自分の存在感を訴えようとした意図がたしかにあった。

 この年の8月と9月、私は頻繁に植村と会った。植村直己の冒険学校というべき1冊の本をつくり、(1)実際にサバイバル技術のために役立つ、(2)植村の冒険についての心構えがわかりやすく語られる、という内容をもりこもうと思った。

=補講・資料=

メスナーだけじゃない!すごい海外の登山家まとめ= エリック・エスコフィエ & ルネ・デメゾン

 エリック・エスコフィエ : 8000m峰速攻連続登頂のパイオニア。 1985年にはなんとガッシャーブルムⅠ峰、Ⅱ峰、K2と僅か1ヶ月で3座に登頂するという離れ業をやってのけた。 しかし、1998年7月29日にブロードピークで行方不明に。 

事故は、エリック・エスコフィエとザイルを結びあっていたパスカル・ベジェールが頂上稜線で暴風に飛ばされ、遭難したと推測されている。

 因みに ブロード・ピーク(Broad Peak)は1957年6月9日- マルクス・シュムック率いるオーストラリアの登山隊4人(ヘルマン・ブールフリッツ・ウィンターシュテラークルト・ディムベルガー)によって初登頂(無酸素)。 彼らは5月29日に最初のアタックをかけ前衛峰に達したが、すでに夕刻となっており降雪もあるため撤退した。 その後、6月9日に再挑戦し登頂に成功した。 大量の物資とポーターを投入して登るのが普通だった当時としては画期的な成果であった。 しかし、隊員の一人であるブール(8000m峰登頂者の人類第一号者)は、登頂の数週間後に近くのチョゴリサ峰(7,654m)の登山中に命を落としている。

 ルネ・デメゾン :  ヒマラヤ、アンデスやアルプスなどで冬山登山の新ルートを開拓、114の初登頂記録を打ち立てた。数々の未踏峰を開拓したフランスの名クライマー。 ザック、靴、ギアなど「デメゾン・モデル」が発売されるなど人気も高く、二冊の著作 『素手の山―岩壁に生死を賭けたアルピニスト』 ・ 『グランド・ジョラスの342時間 (1974年)』はベストセラーに。

 AFPは彼の他界を世界に伝えた。 ≪2007年にパリにて永眠。1950年代から1000以上の山に挑んできた現代登山の先駆者として称えられるフランスのベテラン登山家、ルネ・デメゾン(Rene Desmaison)氏が28日に死去したことをデメゾン氏の出版社が伝えた。 享年77歳。 デメゾン氏はヒマラヤ、アンデスやアルプスなどで冬山登山の新ルートを開拓、114の初登頂記録を打ち立てた。登山に関する著作も発表し、2005年に出版した手記集では長いキャリアを通して最も危険だった体験を詳しく語っている。(c)AFP ≫

 

動画資料 : French Climber - Eric Escoffier 1985  =クリック➡

https://youtu.be/5cDuwPBpl6o

動画資料 : Éric Escoffier, un grand combat =クリック➡

https://youtu.be/g--fcg4S2ts

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現代の探検家《植村直己》 =058=

2017-11-27 06:01:53 | 浪漫紀行・漫遊之譜

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探検家になるために必要な資質は、臆病者であることです =植村直己

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◇◆ マッキンリーの氷雪に消えた _終章_ =1/5=  ◇◆

 1984年2月、植村直己は冬期のマッキンリーに単独登頂したのち、帰らなかった。 この遭難を追跡する前に、1983年の植村について語りたい。

82年12月、アルゼンチン軍部から、南極横断旅行には協力できないと通告された。ほぼ1年間、南極のアルゼンチン基地で待機した末に、南極横断を断念しなければならない結果になった。 彼が長いあいだそれにかけてきた執念を思えば、あまりに苛酷な断念を強いられたのだった。

 83年3月、植村は帰国した。会ってみると、いつも通りの植村に戻っているようにも見えた。 「いやあ、みなさんの期待にこたえることができなくて、すみません。残念です」 という植村を、私個人としては慰める言葉をもっていなかった。 何か発言することで、重い気持ちが軽減されるわけではなかった。

 しかし、植村は大きな痛手を受けながら、南極を単独で横断する夢をまだ捨ててはいなかった。 フォークランド戦争でアルゼンチン軍部が大混乱したのは、予想外の事故だった。 もう2、3年かけて、もう一度アルゼンチンの支援を得るか、別な国の援助を考えるかして、単独横断をやりとげたい。

植村はそうはっきりと語った。 別の国の援助というとき、アメリカ合衆国が第一に頭に浮かんでいるはずだったが、アメリカ政府、軍部ともにその壁は厚い。 もちろん彼は痛いほどそれを承知していた。 今年の後半、アメリカに渡って、交渉の糸口を見つけたい、といった。 私は賛成したが、しかし有力な糸口をどのように見つけるのか、これだという方法を相談するまでには至っていなかった。

植村直己との個人的なつきあいについて、できるだけそれが話の中心にならないようにおさえてきたつもりである。 しかし、この83年については、個人的なつきあいをあるていど語っておく必要があるように感じられる。というのも、次のステップに足をかけるまで、少しはゆるやかな時間が与えられたようなことになったから、わりとよく植村と会うようになっていた。私としてはフィルムで見た植村の「暗い顔」がどうしても気にかかっていたということもある。

 5月8日と9日、植村と一緒に千曲川上流部でキャンプした。 かねて知り合いだった雑誌「ビーパル」編集部の依頼で、キャンプしながらのインタビューを行なったのである。 ゆっくり昔の話でもすることで、少しは気分転換になるかもしれない、と考えた。 植村にとってはとてもキャンプの部類には入らないことは承知していたが、山菜をとり、野外料理をつくり、同じテントで眠ることは、私にとってはいい体験になるはずだったし、事実そうなった。

 日が暮れた頃、テントから少し離れた下の谷川で、養魚場で買った10匹ほどのイワナを植村が腹出ししてくれた。 処理したイワナをバケツに入れて戻ってきた植村が、妙に緊張した顔をしていた。

 何かあったのかと尋ねると、「イヤ、イワナのお化けが出そうで」と短く答えた。 北極圏で孤独な犬橇旅行を続けた大冒険家が、谷川に夜が下りてくるのを怖がったのである。 私は頬笑みながらも、植村のなかにある繊細な感受性を思わずにいられなかった。

 冒険旅行での食べ物、とくにアザラシの生肉について。 犬橇のこと。 厳しい旅のさなか、テントで風の音を聞きながら思うこと。 そんな話題が、とりとめもなく、思いだすままにくりひろげられた。

私はインタビューアーとして、何かを系統立てて聞き出そうとはしなかった。 キャンプ・ファイアーの炎を見ながら植村が話し、私がポツリポツリ聞く。インタビューというより雑談のようになった。 その記録は一部が「ビーパル」に載ったし、のちに1冊の本にもなった(『植村直己と山で一泊』小学館文庫)。

=補講・資料=

メスナーだけじゃない!すごい海外の登山家まとめ = ビクター・サンダース & ウーリー・ステック

 ビクター・サンダース(Anthony Victor Saunders)は、英国の登山家。 UIAGM(国際山岳ガイド連盟)認定の山岳ガイド、スキーインストラクターを務める。 ガイド資格取得以降は先鋭的登攀よりも商業公募隊のガイド、隊長としての8000m峰登頂が多くなっている。 彼はミック・ファウラーと並ぶイギリスのビッグウォールクライマー。 標高差2000mの垂直の大岩壁「ゴールデンピラー」をたった二人のアルパインスタイルで完登した登攀はいまだに輝き褪せることが無い。

 ロンドンのAAスクールで建築家として学ぶ傍ら登山の経験を積み、1980年代から90年代にかけて数多くの困難な未踏峰、未踏壁をアルパインスタイルで攻略した。 1996年にUIGM資格を取得し専業ガイドとなる。 2003年にはSNGM(フランス国家山岳ガイド)の資格を取得しシャモニーに拠点を移している。

重要な山歴は、スパンティーク峰ゴールデンピラー初登頂 / カンシュンツェ峰(マカルーⅡ峰)西壁初登頂 / ジチュ・ダケ初登頂 / パンチ・チュリⅤ峰初登頂 / 2006年にはエベレストに無酸素登頂(計5回登頂)。著作も幾多あり。

ウーリー・ステック : 「スイス・マシーン」の異名をとり氷壁を猛スピードで駆け上がる超高速クライマー。 その姿はほとんど蜘蛛そのもの。
冬季ヨーロッパ三大北壁のスピード登頂記録を持つスイスの登山家。 2008年ピオレドール賞、8000m峰は6座に登頂。
間違いなく現代最強登山家の一人だったが2017年にエベレストの順応トレーニングのために登ったヌプツェで滑落死してしまった。

プモリ西壁初登(2001年) / アイガー北壁新ルート"The Young Spider"(2006年)  / 2008年 アイガー北壁ソロ 最速登頂記録・2時間47分33秒 及び グランドジョラス北壁ソロ 最速登頂記録・2時間21分  / 2009年 マッターホルン北壁ソロ 最速登頂記録・1時間56分 / 2011年 シシャパンマ南西壁ソロ 10時間30分 /  2013年 アンナプルナ南壁ソロ / 2015年 アイガー北壁ソロ 最速登頂記録更新・2時間22分50秒  / タボチェ峰東壁単独初登 / チョラッシェ峰北壁単独初登 / ガッシャーブルムⅡ東峰北東壁初登 等々のソロ・クライムに異彩を発揮。 

尚 小生の壺公夢想https://thubokou.wordpress.com/2015/10/12/】にて詳細記載。

 

動画資料Ueli Steck New Speed Record Eiger 2015 =クリック➡

https://youtu.be/NfpYNr7es0Y

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現代の探検家《植村直己》 =057=

2017-11-25 06:14:39 | 浪漫紀行・漫遊之譜

○◎ Great and Grand Japanese_Explorer  ◎○

探検家になるために必要な資質は、臆病者であることです =植村直己

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◇◆  南極の夢 =4/4=  ◇◆

 フォークランド戦争が、中止の直接的な理由になった。フォークランド諸島(アルゼンチンにとってはマルビナス諸島)の帰属をめぐっての紛争を、その経緯も含めてどう評価するかは、ここでは語らない。 ただ腑に落ちないことがある。 3月19日に戦争が始まり、6月14日にアルゼンチン軍の降伏によって終結している。アルゼンチンとイギリス両国の間に条約も交わされた。 戦争だから南極の冒険どころではない、というのなら、なにも12月まで待たなくてもわかっていたことではないか。

 戦争の後で、アルゼンチンの政権が交替し、軍部の人事にも大きな変化があった。 国民にとって、何ら益することのなかった戦争というので、批判が大きかったのである。 サンマルティン基地で待ちつづけている植村にとっては、軍の勢力図が大きく変わったのが痛かった。頼りにしていた軍幹部が多かれ少なかれ傷つき、現場(サンマルティン基地)に指令する系統が乱れた。アルゼンチン当局の責任を軽々にうんぬんしても仕方がないとしても。

 フォークランド戦争が原因だったのか。あるいは、どのようなかたちでそれが原因になったのか。私にはよくわからない。ただ、6月14日に戦争が終結した後、ほぼ半年後の12月になって、軍当局は援助中止を通告してきた。 そして痛ましい植村が残った。 その理由はどうであれ、植村がこれまでとってきた誠心誠意主義が通じなくなっている。 そういう場所に彼が立つに至っているのを私も思い知らされた。

 夢の達成に向けて、もう一度仕切り直しをするにしても、少し休養して気持をほぐす必要がある。私はそんなふうに思い、帰国してからの植村に意識してたびたび会うようにした。

 83年の5月8日と9日、雑誌「ビーパル」のインタビューをするためという名目で、彼を千曲川上流のキャンプに誘った。これは結果として『植村直己と山で一泊』(小学館文庫)という本になった。

 この年の10月、アメリカに渡って、ミネソタ州の「ミネソタ・アウトワード・バウンドスクール」の視察をし、また若者たちの指導をすることにもなった。 それ以前に、北海道帯広で植村を慕う有志が集まって、植村を校長にした野外学校ができないかと模索しはじめていた。 二つの動きは、気分の上で繋がっている。植村はけっして南極をあきらめてはいなかったが、「南極後」に何をするか、ポツポツとではあったが考えはじめていたのである。

 私は植村の気配を感じて、むりやりに『植村直己の冒険学校』(文藝春秋)という本をつくるための長いインタビューをはじめた。 8月から9月にかけて、全部で50時間に及ぶインタビューになった。 歩く。 退く。 休む。 眠る。 等々の項目を立てて、植村のサバイバルのコツを語ってもらったのである。

 しかし、植村が翌年2月、厳冬期のマッキンリーから帰ってこなかったことで、本になるのは大幅に遅れた。同僚の設楽敦生の協力を得て1冊の本にまとまったのは86年の8月だった。 前の「公子さんのこと」の章で紹介した、植村公子さんへの長いインタビューがある(「コヨーテ」No.6 2005年6月)。 その中で、公子さんのある発言がずっと気にかかっていた。

《南極へ出かける一年ぐらい前かな、冬期エベレストで失敗して帰ってきた後ですけど、「夢は一つぐらい残しておいてもいいんだ」といったことがあって、私はそれを聞いてゾッとした。 心のなかがスーッと冷たくなりましたもの。》

 インタビューアーの私は、この発言についてそれ以上突っ込んではいかなかった。 黙って、無視するみたいに通りすぎた。 たぶん私は狼狽したのである。 植村は、あの鋭い直観力で、夢が実現しないままこの世から去るのを予感していたのか。 そう思った瞬間に言葉が出なくなった。

 いろいろに思いをめぐらせることができる、公子さんの発言であり、彼女が伝える植村の発言である。 めぐらせる思いのなかには、植村は43歳の生涯を84年2月に閉じ、私は馬齢を重ねて何のためともわからない植村についての文章をこうして書いているということがある。

=補講・資料=

メスナーだけじゃない!すごい海外の登山家まとめ= トマジ・フマル & ビクター・サンダース

トマジ・フマル : スロベニア出身。 未踏ルートの過激な登攀を行うソロ・クライマー
1996年にアマ・ダブラム北西壁単独登攀でピオレドール賞。
1999年には登頂にいたらなかったものの成功率0%、死亡率40%の「自殺ルート」といわれるダウラギリ南壁核心部を突破。世界中を驚愕させた。 2009年にランタンリルン峰登攀中に遭難死。

ビクター・サンダース : ミック・ファウラーと並ぶイギリスのビッグウォールクライマー。標高差2000mの垂直の大岩壁「ゴールデンピラー」をたった二人のアルパインスタイルで完登した登攀はいまだに輝き褪せることが無い。2003年よりシャモニーに拠点を移しガイド業を営んでいる。

主たる山行記録 = スパンティーク峰ゴールデンピラー初登頂 ・ カンシュンツェ峰(マカルーⅡ峰)西壁初登頂 ・ ジチュ・ダケ初登頂 ・ パンチ・チュリⅤ峰初登頂 ・ 2006年にはエベレストに無酸素登頂(計5回登頂) 
2003年よりシャモニーに拠点を移しガイド業を営んでいる。

※ ピオレドール賞(Piolet d'Or)は、優秀な登山家に贈られる国際的な賞。フランスの登山『モンターニュ(Montagnes)』と『グループ・ドゥ・オート・モンターニュ(Groupe de Haute Montagne)』が主宰している。 1991年に創設。候補者は両誌によってノミネートされ、両誌の編集者、前年の受賞者、その他招待者等から成る審査員達によって決定される。 ピオレドールは、フランス語で「金のピッケル(手斧)」と言う意味。 「登山界のアカデミー賞」の異名を持つ。

動画資料: Top-5 Dangerous Mountains to Climb  =クリック➡

https://youtu.be/Qr-ThTIT90s

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現代の探検家《植村直己》 =056=

2017-11-23 06:15:01 | 浪漫紀行・漫遊之譜

○◎ Great and Grand Japanese_Explorer  ◎○

探検家になるために必要な資質は、臆病者であることです =植村直己

= Webナショジオ_“河江肖剰-新たなピラミッド像を追って”より転載・補講 =

 自分が主役になるよりは常にメンバーを影でサポートするような立場でいたい ☠ 

◇◆  南極の夢 =3/4=  ◇◆

 冒険そのものは、十分に可能だ。しかし、技術的には可能であるとしても、アルゼンチンとアメリカ、2つの国の協力を得られなければ、行動がとれない。そこにこそ大きな困難があることを、植村はこの段階ですでに予知していた。今回、アルゼンチン基地に入ったのも、南極単独横断の偵察のためとは、一言もいっていない。見学し、報道することが目的ということで、軍の許可を得た。

 アメリカの協力については、まだ正式に打診したわけではなかったが、タイム・ライフ社に相談はしてみていた。アルゼンチン軍よりさらにガードが固そうなことは感触として得ていた。いずれにしろ、両国の軍の協力が南極単独横断の成否をきめる要になるだろうと、植村はこの時点で予見していた。そしていっぽうでは、なんとかなる、なんとかしなければ、と植村らしい陽性の楽観もあった。そうでなければ帰国してすぐ後、同年5月に犬橇習得のためにグリーンランドに行くことなどできなかっただろう。

 もう数日で船が出港地であるウシュアイアに帰りつくという日、植村は船上でギョッとするようなことを書いている。

 浮氷の多い海面を見ていると、きっと北極海もこのような感じなのだろうと思う。

《……この南極横断の許可がアメリカからとれない場合、北極点旅行にきりかえるか。ここまで南極横断のために進めてきている以上、許可がでないので中止などといわれても引きさがれない。これを北極点にきりかえて決行しなければならない事になるかも知れない。そのためにもこの春のグリーンランド行きは、トレーニングの他にも北極海の氷の偵察も重要になってくる。》(1月28日付)

「引きさがれない」という。「北極点にきりかえて決行しなければならない」という。そんなふうに植村は考えているのか、とこの偵察行を終えた後に日記を見せられて、私は少し驚きながら思ったのだった。南極単独横断という大きな夢を彼は生きようとしているのは確かだが、そのいっぽうで、とにかく行動していたい。日本にいて平凡な日々を送りたくない。体を動かしたいのだな、と私は思った。

 私事にからめていうと、私は71年11月30日付の植村の手紙を受けとっている。発信はブエノスアイレスから。アルゼンチン海軍からベルグラーノ基地に入るための正式の許可が下りたことが報告されている手紙である。その末尾に、スケジュールが書きとめられていた。それによると、72年1月上旬、ウシュアイア港を出発。1月いっぱいベルグラーノ基地滞在、偵察。2月上旬又は中旬、帰港。2月下旬、ブエノスアイレスから東京へ。

 そこまでは、この通りに進んだ。その後につぎのような3行があった。

3月末~7月 グリーンランド /   10月 東京→南極(マクマードル基地) /   11月上旬 南極横断出発

 私は、現実的に考えてこうはいかないだろうと思った。マクマードル基地とはアメリカ軍のそれである。ただしそのアメリカにはまだ正式に接触してはいない。アメリカの軍関係に犬橇横断への援助をもちかけるには、当の植村が犬橇に習熟していることを説明しなければならない。それだけとっても、南極横断に実際に向かうのは、まだしかるべき時間を経ての後だと私は考えた。

 そして予想通り、植村がグリーンランドから帰国したのは73年の7月である。74年の5月に結婚。同年11月、北極圏一万二千キロの犬橇旅行のために、出発点のグリーンランドに向かった。

 南極の夢は前方に輝いているまま、植村自身の行動はそれに向かって直進はせず、大きく迂回することになる。しかしこの迂回は、それ自体が冒険史上の壮挙になるものであったことは、この連載で既に見てきた通りである。

 ここまでは、南極単独横断の夢がどのように現われ、どのように根を下ろしたかをみるために、72年の日記をややくわしくたどってみた。

 そして10年後の82年。長年の夢を実現すべく、植村はウシュアイア港からアルゼンチンのサンマルティン基地に向かった。アルゼンチンの南極軍事基地の一つで、ここを基点にして犬橇による単独横断を行なう。アルゼンチン軍部の協力の約束をすっかりとりつけ、グリーンランドから犬と犬橇を運びこんだ。コースも方法も、アルゼンチン軍部の協力だけで実行できるようなものを考えた。

 2月3日から植村は日記、メモを丹念につけはじめている。

 毎日放送のディレクターやカメラマンが同行し、単独行の開始にそなえている。植村はこの取材に全面的に協力し、放送用の原稿を、たとえばサンマルティン基地のスタッフ紹介とか、周辺に見る動物たちとか、項目にわけて書いたりもしている。

 しかし慎重な準備と、じりじりするような待機のすえに来たのは、軍は協力できない、よって行動の中止という結論だった。長い待機の末に、植村のあのいいようのないほどの暗い顔がある。冒険を開始し、その結果として失敗したわけではない。出かけられないのだから、この長すぎる待機は長すぎるという意味しかもち得なかったのではないか、とさえ思ってしまう。だから日々の経過を追いかけることは、ここではやらない。

=補講・資料=

メスナーだけじゃない!すごい海外の登山家まとめ=ルイス・ライハルト & アレクサンドル・オディンツォフ

 ルイス・ラインハルト : 通常ルートからバリエーションルートへ、ボンベの使用から無酸素登頂へとより困難な登山に進んだ「ヒマラヤ鉄の時代」の象徴的な人物で8000m峰で数々の輝かしい記録を残した。 エベレスト東壁ルート初登攀では南東稜から無酸素登頂を目指した日本隊の前に出て登頂。 小西政継は「彼らが先行したのが無酸素登頂の大きな助けになった」と語っている。

現在はサンフランシスコ大学の生理学/生化学教授。主たる山行記録 = K2無酸素登頂(世界初)・エベレスト東壁ルート初登頂 ・ ダウラギリ世界第三登 =

 

アレクサンドル・オディンシォン : 未踏壁・新ルートを狙うロシアのビッグウォールクライマー。ジャヌー北壁登攀では取り付きから山頂まで最短距離で一本線を引いたような狂気のルートを開拓し世界を驚愕させた。「ロシア人最強登山家投票」の上位常連。 

主たる山行記録 = 2004年ピオレドール賞受賞 ・ ジャヌー北壁 ロシアンルート初登頂 ・ トランゴ・タワー北西壁新ルート =

 

動画資料 エベレスト東壁 =クリック➡

https://youtu.be/9Wsabm91nl0 

 

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現代の探検家《植村直己》 =055=

2017-11-21 06:17:05 | 浪漫紀行・漫遊之譜

○◎ Great and Grand Japanese_Explorer  ◎○

探検家になるために必要な資質は、臆病者であることです =植村直己

= Webナショジオ_“河江肖剰-新たなピラミッド像を追って”より転載・補講 =  

 自分が主役になるよりは常にメンバーを影でサポートするような立場でいたい ☠ 

◇◆  南極の夢 =2/4=  ◇◆

 なんだか、一緒になって喜びたいような、卒直このうえない記述である。

 しかし、私はこのような昂揚感もさることながら、もっと静かで、ある意味では平凡な記述のなかに現われる植村の視線に心打たれる。そして、そういう一節を読んだときこそ、南極大陸横断を実現させたかったという思いが、大波のように心中に起こるのである。日記は1月12日付、船はまだ南極の海を航行中だ。

《今日66度を越えて南極圏に入り、これより以南は太陽が沈まないのだ。夕食後、例によって映画を見た後、甲板に出てみると、夜中の12時を過ぎているというのに、日本の夏の6時頃のように明るい。太陽が地平線の上に大きく輝いているのだ。太陽は1時間たっても、まだ、水平線のうえをころげて落ちようとも、昇ろうともしない。

昨日もそうだったが、今日も夜中になって西の空は青空が少しのぞいており、そこから太陽が我々にこの素晴しい光景を見てもらわんと顔を出したのであった。残念なことに今日は太陽の光を受けとめ、はねかえす氷山がない。一面荒波の海であった。》

 冒険家という以前の、植村の自然を見る目がここにはある。変ないい方だけれど、彼が冒険家であることからさえも自由であることを示しているようで、私は特別に心ひかれるのかもしれない。植村の登山家・冒険家としての出発点のいちばん底のところに、こういう目と心があった。

 しかし、いっぽうで植村は南極横断の可能性を検討する視線を働かせつづけてもいる。

 到着した1月14日、空軍中佐が親切に勧めてくれるのにしたがって、ヘリコプターの第一陣に乗せてもらった。上空から氷と雪の世界を一望できた。

 内陸から氷河がせり出してきている。ヒマラヤの氷河にくらべても、さほど危険は感じられない。さらに内陸に向うと、棚氷の氷原がえんえんと広がっている。平らで氷の山ひとつない。「これだったら私は南極大陸横断は出来ると直感で感じとった」。

 ヘリコプターは基地に着陸。雪上に降りて歩いてみると、雪がかたい。もぐらない。ヒマラヤの雪とそうかわらない、重そうなザラメ雪である。

 植村はここでも、まちがいなく「出来る」と思った。

 もちろん、初日の風景一瞥であり、氷雪の感触である。横断の困難が細かくチェックされたわけではない。しかし、こういう観察のなかに、私は植村らしさを自ずと感じてしまう。

 一つは、自然を見るときに直観力(植村は直感と表記しているが)を頼りにしていること。そしてもう一つは、その直観力は、これまでの体験がいつも判断基準として働いていることである。氷河の姿も、足もとの雪質も、身をもって体験したヒマラヤのそれと比較されている。

 植村は冒険家だから、第一に行動の人である。ただしその行動には、いつも体験の積み重ねが導いているところがあった。このような偵察旅行にこそ、植村の思考法がよく見えるといえるかもしれない。

 植村はベルグラーノ基地に滞在中、さらにヘリコプターに乗せてもらうなどして、横断の可能性をさまざまな角度から検討した。

 基地はフィルヒナー棚氷の末端にあり、ずっと平らな氷原がつづく。クレバス帯があるにはあるが、かつてアルゼンチン隊がウィーゼル車によって南極点まで行ったとき、そのクレバス帯を無事通過している。自分はウィーゼル車よりずっと軽い犬橇でやるのだから、より安全に通過できるはずだ。

 これは1月17日付の記述によっているのだが、その日記にはさらに目を引くことがある。

 植村は偵察にはアルゼンチン基地に入ったのだが、横断旅行の出発点は南極大陸の反対側にあるアメリカ基地にしたいと考えていた。旅の後半、南極点からこのベルグラーノ基地までは、背中に風を受ける追い風になるはずだから、橇に帆をあげることによって、橇を曳く犬たちの負担はずっと軽くなるはずだ云々。

 これは後年、北極点グリーンランド単独行のとき、グリーンランドの氷床上で実際に橇に帆を立てて走った、その最初の思いつきである。注意すべきは、この72年の南極偵察行は、グリーンランドで犬橇の操縦を習得する前であるということだ。頭がくるくると回転し、ややせっかちに胸がふくらんできている感じがある。それはまた、南極の氷雪を実際に踏んでみて、「何か見れば見る程、自分の計画に対する自信がもててきた」ゆえの、喜びの表現だったのだろう。

 1月18日、ベルグラーノ基地を離れる日、植村は偵察行の結論のように書いている。

《私の南極大陸の単独横断が、果して実現するかどうか? 自分の行動的には、これから訓練を行うことで、横断のテクニックの点では充分可能性はある。ここ5日間の滞在であったが、自分ではやれる自信を充分にもった。というより肌で確かめた。だがしかし、自分でいくらやれると思ったところで、私を助けてくれる人がいなくてはできないのだ。

アルゼンチン、アメリカの両基地である。アルゼンチンの方は、到達予定地であり協力は求められるが、アメリカの基地より出発に当り、私の物資を運んでもらわなくてはならないのだ。タイム・ライフ社の方でアメリカの基地使用に関し、ナショナル・サイエンス・ファウンデーションの方にPushしてやると言ってくれていたが、いったいどこまでやってくれるのか。》

 

=補講・資料=

メスナーだけじゃない!すごい海外の登山家まとめ=ピエール・ベジャン

ピエール・ベジャン(1951–1992、フランス)は K2北西稜初登頂、カンチェンジュンガ単独初登頂など ヒマラヤ高峰をアルパインスタイルで攻略した世界最強くらいまーのクラスの一角。世界第三位の高峰カンチェンジュンガの単独無酸素登頂は不滅の金字塔を打ち立てたのは1983年であった。

カンチェンジュンガとはチベット語で「偉大な雪の5つの宝庫」の意味。主峰の他に西峰=ヤルン・カン(8,505m)、中央峰(8,478m)、南峰=カンチェンジュンガII(8,476m)、カンバチェン(7,903m)が並ぶ。衛星峰に囲まれていて、最高点を中心に半径20Kmの円を描くとその中に7000m以上の高峰10座、8000m級のカンチェンジュンガ主峰と第II峰の2座が入り、壮大さは比類がない。さらにこの山がインド北東部の観光地・タージリンの丘陵上から手に取るような近さで眺められることも、この山を古くから人に親しませる理由となった。

このカンチェンジュンガにポーランドのイイジ・ククチカとアルトゥール・ハイゼルが冬季初登頂。 1987年12月20日 - 山田昇、三枝照雄らが南壁新ルートで登頂。 しかし、1992年10月11日にアンナプルナ南壁での新ルート開拓を目指した=ピエール・ベジャン=が南壁で墜死。 パートナーのジャン=クリストフ・ラファイユは落石で右腕を骨折し、確保するギアもほとんどない状態で、一人で数日かけて下山する山岳事故を起こし登山界が震撼した。

マナスル西壁 アルパインスタイル / カンチェンジュンガ 単独無酸素登頂 / K2北西壁

動画資料『アンナプルナ南壁 -7,400mの男たち』 =クリック➡

https://youtu.be/byjXthMgHUw

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現代の探検家《植村直己》 =054=

2017-11-19 06:20:40 | 浪漫紀行・漫遊之譜

○◎ Great and Grand Japanese_Explorer  ◎○

探検家になるために必要な資質は、臆病者であることです =植村直己

= Webナショジオ_“河江肖剰-新たなピラミッド像を追って”より転載・補講 =

 自分が主役になるよりは常にメンバーを影でサポートするような立場でいたい ☠ 

◇◆  南極の夢 =1/4=  ◇◆

 植村直己のいいようもない暗い顔をたしかに見たはずなのだけれど、確認できないままだ。1982年の12月、南極の一角、アルゼンチンのサンマルティン基地で、南極横断の支援ができなくなったと、アルゼンチン陸軍から告げられた後の植村の横顔。それがいいようもなく暗い表情だった。

 毎日放送が取材で植村に同行していて、スタッフによって撮影された映像のはずなのだが、見たと思ったのは私の錯覚かもしれない。後で確めたところでは、植村が南極横断を今回はあきらめなければならなくなった経緯を無線で東京と話している映像はあったのだけれど、私が「見た」と思った暗い顔ではなかった。

 私の錯覚なのかもしれない。83年3月に帰国した後、私の勤務先だった文藝春秋に訪ねてきてくれたときに、私が遠くから一瞥した表情を、いつのまにかテレビで見た場面と重ねあわせて、見たつもりでいるのかもしれない。断念した彼の横顔は、慰める言葉を失なうほど、暗く重かった。

 82年2月から10カ月間、サンマルティン基地でいたずらに待機したのちの結果である。同年4月、アルゼンチンと英国の間でフォークランド戦争が勃発、戦争は6月半ばにいちおう終わったが、その余波によって植村支援が不可能になった、という話である。私は植村の無念はいかばかりかと思うしかなかった。なるほど、そういうことなのか、とやや疑わしいような思いもあったけれど、どうすることもできなかった。そして植村の暗い顔だけが脳裡に焼きついた。

 たんに10カ月の待機時間ではない。

 植村にとっては、抱いた夢の実現に向けての長い時の流れがあった。この連載の最初の章から折にふれて述べてきたことと多少重複があるかもしれないが、植村が「南極の夢」と呼んでいたことの、その軌跡をここでもう一度追ってみよう。

 1972年1月14日、植村は初めて南極大陸を自分の目で見た。アルゼンチン海軍の船に乗船して、南極のアルゼンチン基地の一つであるベルグラーノ基地に到着したのである。その日の日記に彼は書いている――。

《マッキンリー登頂以来、この南極にかけてきたのだ。何一つ疑う心なくして。》

 ここでいうマッキンリー登頂とは、70年8月の単独登頂のこと。同年5月、日本人としてエベレストに初登頂した余勢を借りるようにして北米最高峰にさっさと登頂し(8月26日)、五大陸最高峰登頂者になった。頂上に立ったときに、次の目標は南極の単独横断だと心に決めた。引用した2行は、そのことを指している。

 私自身が植村の口から南極への夢を聞いたのは、70年の9月末、マッキンリー登頂後に帰国した植村が、東京の仙川の建設現場でアルバイトをしていたときだった。日時をはっきり覚えていないのだが、バラック建ての飯場のがらんとした広い畳の上に、彼は大きな南極地図を広げてその計画を語ったのだったが、山が専門だと思っていた男が唐突に南極大陸横断といったのに驚くばかりだった。結局は彼の夢のもちようを納得したのだったが、このときはほとんど何も書かれていない白い大陸のその白さだけが奇妙に心に残った。

 しかし、南極への夢を抱いたのは、この「マッキンリー登頂後」というのも、わずかに曖昧さを残すのである。

 植村は69年の冬、エベレスト越冬隊員として、ヒマラヤ高地のクムジュン村で越冬した。このとき、過去の世界放浪の日々を思いだし、将来の自分について思いをめぐらして、南極で何かできないだろうかと、幻のように心に浮かんだことがあった。それはなにげなく記録されているけれど、計画というほどの意思を示してはいない。一過性の幻のようなもの、だった。

 しかし、ある時間が経った後に、幻が深く根を下ろした計画として、改めて姿を現わす。並はずれた粘着力をもつ、いかにも植村らしい発想のあり方であり、夢の生長の仕方でもあった。

 1972年の初めての南極偵察日記は、全文活字化されている。雑誌「コヨーテ」の2009年6月発行、No.37に掲載された。1月5日から2月2日までの日付をもつこの日記は、30歳の植村の生き生きした心の弾みを伝えているが、格別に印象深いくだりを少しだけ拾い出してみよう。

 まず、先に2行だけ書き出した所がふくまれている、ベルグラーノ基地到着の日、1月14日の記述。

《ちょっとのぞいてみるかと起き上がってベッドから下り、窓から顔を出して船先の方をみると、白い起伏のある線が青い空と接している。流氷の水平線ではない。
 南極大陸だ。氷に覆われた南極大陸だ。確かに陸地の氷だ。太陽がさんさん輝いていてギラギラ光っている。
 生まれて初めてみる南極大陸だ。いや俺はやってきた、遂にやってきた。神は私に南極の道を開けてくれたのだ。もう俺の心は宙に浮いたように、顔のしまりがなくなってしまった。ねむいどころではない。大陸だ。マッキンリー登頂以来、この南極にかけてきたのだ。何一つ疑う心なくして。
 私はズボンとシャツをひっかけ、羽毛服を着て、部屋の外にとび出し、操縦室に上った。そして太陽にキラキラ光る方向に双眼鏡をすえてみると、見える、見える。波のない海面に落ち込んだ氷は次第に高くなって、ゆるやかな地平線をつくっている。
 太陽はまさに今日初めて南極に入らんとしている私のために、さんさんと照ってくれているかのように、雲をはらいのけ、空は一面、濃紺の海をつくっている。》

=補講・資料=

メスナーだけじゃない!すごい海外の登山家まとめ=エド・ヴィエスチャース

エド・ヴィエスチャース : アメリカ人最初の全14座完登者。 エベレストにはなんと6度(うち3つは無酸素)の登頂を果たしている。 シシャパンマ主峰と中央峰の間のナイフリッジに跨った写真はあまりにも有名。 映画「エベレスト」に主演のほか、「バーティカル・リミット」にも出演している。

その映画「エベレスト」の主演を務めたのがアメリカのトップクライマー、エド・ヴィエスチャーズ。 アメリカ人として初めて8000m峰全14座完全無酸素登頂を達成したが、そのうち1992年のK2遠征では大量遭難で死亡したマウンテン・マッドネス社のスコット・フィッシャーとパートナーを組んでいた。 この1992年のK2遠征では同じく死亡したアドベンチャー・コンサルタンツ社のロブ・ホールも入山しており、ホールのザイルパートナーだったゲーリー・ボウルが急性高度障害で人事不省に陥った際にボウルを引き摺り下ろすのを助けてロブ・ホールの窮地を救ったのがこのヴィエスチャーズだったのである。

そして1994年にはアドベンチャーコンサルタンツ社のガイドとしてロブ・ホールと共にエベレストに登頂していた。 しかし、96年の大量遭難が発生した際にヴィエスチャーズ達は2000m下のキャンプ2におり、撮影を中止し救助に急行しもののロブとフィッシャーの二人を助けることはできなかった。

 大事故の2週間後に彼は登頂したが、その際にはフィッシャーの死体のそばで数分間座り込んで語りかけていたという。

動画資料エベレストのデスゾーン(閲覧注意!) =クリック➡

https://youtu.be/Yjaas3xdz1c 

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現代の探検家《植村直己》 =053=

2017-11-17 12:46:53 | 浪漫紀行・漫遊之譜

○◎ Great and Grand Japanese_Explorer  ◎○

探検家になるために必要な資質は、臆病者であることです =植村直己

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◇◆  公子さんのこと・・・・・ =4/4=  ◇◆

 植村の手紙の見本のような一通を、下に全文引用しておく。__《今日3月29日、グリーンランド最後の村シオラパルクを出て3日目。内陸の氷床を越えて海峡をわたるため、標高1000mの氷床の上で悪天にとざされている。昨日より氷床越えを始めたが、強い風の吹き抜けるところで内陸氷床は白く波立つ荒波のように、うねりをなし、なかなか前進できず。今日は一夜明けた天気は、荒れだし犬も吹き飛んでしまう強風が吹き、これから何日かかる〔か〕わからないカナダ旅の始まったばかりに、少しでも前進させようとテントをたたみ、犬を走らせたものの視界のきかない強風の犬橇は顔を凍てさせてもがけど、進めず、氷床で2日目の幕営。___テントの外は目も開けていられない地吹雪、犬はテントの前で風を背中に向け顔を腹わきにつっこみ、まるくなって死んだように身動き一つしない。シオラパルク滞在中、エスキモーに「トコナラヤカイ」(死ににゆくのか)とわが1人旅を心配された。 しかし、私には、どうしても1人でやらねばならなかった。テントが風にブンブンなりタイコの音のように鳴りひびいて、テントの中で、君の便りをくりかえし読んでいる。 3/29》__

 これはまだ冒険の旅の日々を報告する手紙としては、穏やかなほうである。公子さんは旅先の植村に手紙を書き、手紙をもらい、東京で静かに生きていることで植村を強く支えていた。 そういう構図が伝わってくる。 冒険家の妻であることの辛さと喜びと、どちらが大きかったのだろう。

 大冒険家は東京にいるとき、いつも陽気で明るくて、不器用で照れ屋で、つまりは極地やヒマラヤにいる彼の姿を想像できないほどだった。 また怒らない男だった。 いや、内心は怒っているのかもしれないが、それを人前にはけっして出さないようにした。 しかし、公子さんによると、家にいると月に一度ほど、生理みたいに怒りが爆発して、公子さんがその怒りの受けとめ役になってしまうのだった。

 急いでつけ加えておくと、74年に結婚して84年にマッキンリーに行ったきりになるまでほぼ10年だけれど、実質的に2人が一緒に暮らしたのは半分の5、6年ということになる。

 先にいった「コヨーテ」のインタビューで公子さんが語っているのだが、植村の定期便のような怒りは、ごくつまらないことからはじまる。 冷蔵庫のなかに残っていたはずのものがない、捨てたんだな、と怒る。 捨ててないというと、「どうして公子ちゃんそんな嘘つくの」と始まって、2、3日かそれ以上、怒りがつづいたようだ。

 怒りがふっと収まると、植村はつきものが落ちたようにわれに返る。われに返って、こんどは公子さんに対し、真剣に、深刻に謝る。「それをさせたくない、謝らせたくないと思うから、怒らせないようにしようと思うんだけど、自分のなかのものを全部出さないと収まらなかった」と公子さんは語っている。

  結局、植村は自分のなかのエネルギーが爆発しないと収まらなかったのだ。公子さんは2、3年たって、そういう植村のエネルギーのあり方に察しがついた、ということらしい。  植村にとっても、公子さんにとっても切ない話である。

 けれども、今そのような話を聞いて思うのは、この怒りの定期便は、植村が公子さんに全身をあずけるようにして頼りにしていた、その現われ方の一つであるということだ。 植村にはそうするより他になかった。

 そして公子さんは次のようにもいっている。 《結婚してだいぶ経ってのことですが、だんだん外に対して怒れるようになったと思います。 ある報道関係の人に、すごく怒ったことがあって、この人、変ってきたなと思ったことがありました。 そんなふうに、外に対して自分の怒りの気持ちを出せるようになってきてから自宅の生理も収まってきたんです。 それに、植村も年をとっていったのかもしれません。》

 怒りのエネルギーは、そんなふうにあるべき方向にむかうようになったのだろう。 しかし、自分の冒険の結果については、植村は公子さんにもその深い落胆を、多くは語ろうとしなかった。ひとりで、黙々と背負っているようだった。

1980年の、植村が隊長になってこころみた、冬期エベレスト登山の不成功。さらに82年から始まった、南極単独横断とビンソンマシフ登頂の冒険行。これも長い待機の果てに、フォークランド紛争が勃発して不成功に終った。植村は、二つの行動の結果に、深くこだわっていたと思われる。

 公子さんは『植村直己 妻への手紙』のあとがき(「夢中で暮らした十年間」)のなかで、次のように書いている。__《……厳冬期のエベレスト、南極のビンソンマシフと失敗が二度続いて彼の中に穴があいたように感じました。その穴の大きさや深さを窺い知ることはできませんでしたが、時折その穴に入り込んでいる彼を見るのは辛いものがあり、失敗は自分自身どうしても許せなかったのでしょう。 その果てが厳冬のマッキンリーになり自爆してしまったと哀しく思うのです。 堂々めぐりのなかから抜けられなかった。 ちょっと気持ちをそらせば違う生き方だって出来たのにと切なく思うのですが、それとて長い時間の中からの結果論であって、当時はとにかく夢中で暮らしていて今となってはあの頃の緊張感が懐かしいのです。》

 私はこれにつけ加えたり、これを解説したりする言葉をもたない。

 

=補講・資料=

メスナーだけじゃない!すごい海外の登山家まとめ=ヴァルテル・ボナッティ(2/2)

ヴァルテル・ボナッティ(Walter Bonatti)は1954年にK2初登頂を狙う遠征隊に参加する。 24歳で最年少であった。 遠征自体は成功したが、ボナッティは仲間から不当な非難を受け、8100m地点までの登攀に終わる。 しかも、心に深い傷を負うことになる。 その経緯はK2遠征の最終段階になり、第8キャンプにいる隊員達でさらにもう一つキャンプを作る必要があった。 隊員のリーノ・ラチェデッリの体調は良かったが、アキッレ・コンパニョーニは消耗が激しかった。 コンパニョーニは「自分は翌日の最終キャンプの設営に加わるが、その後なお不調なら、アタック隊員としてボナッティに交代してもらう」と切り出し、ボナッティは酸素ボンベを荷上げするために下降することとなった。

ボナッティは下から登ってきたフンザ人ポーターと合流して最終キャンプ目指して登り返すが、コンパニョーニとラチェデッリは体調の良いボナッティに自分達の立場が脅かされることを恐れて、約束より高い場所にキャンプを設営していた。 ボナッティとフンザ人高所ポーターのマフディ(Mahdi)は最終キャンプを発見できず、8100メートルの高度で露天ビバークを強いられる。 声の届く距離にいた登頂隊の2人は夜になって呼びかけに反応し、「そこにをボンベを置いて下山しろ」という。

ボナッティは彼らが迎えにくることを望んだが、それ以後いっさい応答はなくなった。 ボナッティとポーターは強風に耐え、翌朝にボンベを残して下山。 登頂隊の2人は酸素ボンベを回収し、K2初登頂に成功する。 ポーターは重度の凍傷を負い、手足の指の切断を余儀なくされた。

その後コンパニョーニは報告書に「酸素ボンベの気圧が低く、頂上に着く前に酸素ボンベが切れた。 抜け駆けして頂上を目指していたボナッティが酸素ボンベを吸ったからだ」と書き、イタリア山岳会の公式見解となる。 しかしボナッティは酸素マスクや混合弁を持っておらず、ボンベを使うことは不可能だった。 ボナッティは失望し、後に裁判を起こして身の潔白を訴えることになる。 そして50年後の2004年、沈黙を守っていたラチェデッリがチェナーキとの共著“K2 il prezzo della conquista”でボナッティの訴えを認め、イタリア山岳会も2007年にボナッティの説明が正しいことを認めた。__

彼の輝かしき山岳活動に対し、イタリア政府は2004年12月にイタリア共和国功労勲章(カヴァリエーレ・ディ・グラン・クローチェ)を授与するも、K2登頂で確執のあるアキッレ・コンパニョーニとの共同受賞であったため、彼は後に勲章を返上した。 そして、2012年6月にフランス政府から最高位の勲章であるレジオンドヌール勲章(コマンドゥール)を授与された。

 

動画資料: アイガーよ永遠に  =クリック➡

https://youtu.be/tJxNr4ZW6eo  

動画資料: K2 - Full Climbing Documentary  =クリック➡

https://youtu.be/_q69eO-F9qg

 

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

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現代の探検家《植村直己》 =052=

2017-11-15 06:11:45 | 浪漫紀行・漫遊之譜

○◎ Great and Grand Japanese_Explorer  ◎○

探検家になるために必要な資質は、臆病者であることです =植村直己

= Webナショジオ_“河江肖剰-新たなピラミッド像を追って”より転載・補講 =

 自分が主役になるよりは常にメンバーを影でサポートするような立場でいたい ☠

◇◆  公子さんのこと・・・・・ =3/4=  ◇◆

 植村が公子さんと結婚したのは1974年の5月18日。前述したように、結婚直前までヒマラヤのダウラギリに遠征偵察隊として行っていて、帰国するや否やバタバタと挙式したのだった。 新婚生活約半年の後、11月22日に日本を出発してグリーンランドに向い、年の瀬も迫った12月29日に西海岸のケケッタを出て一万二千キロの旅が始まった。

 妻のほうからすれば、そしてごく常識的な見方からすれば、茫然とするしかないような成り行きという以外にないだろう。___「暗闇の中に暗中模さく、俺を助けてくれ」/「君が俺のことを心配してくれて、思ってくれて、本当に俺は幸せものだと感じている」___ この冒険は自分の使命である、これだけはやらなければならない。 そう自他に宣告するかのようにいって、日本を飛び出す。飛び出した後で、ほとんど毎日、日記のような手紙を書き、終りのほうで上に引用したような1行2行を書きしるす。全体の姿を見れば、まったくのわがまま、といえなくもない。

 しかし植村にあっては、使命のように冒険があり、出かけていけば唯一無二の心の支えとして公子さんがいる。 両方が真実であり、両方にすがりつくようにして生きているのである。 植村は、生真面目なほど、生きる拠り所を求めつづけ、それを必要としていた。 冒険と日常生活がそんなふうに絡んでいるとき、日常生活の側に置かれて夫の冒険を見つめつづける公子さんの立場を思うと、この人はよほど聡明であるのに違いないという私の印象はいよいよ強まるのである。

 作家の南木佳士氏が『植村直己 妻への手紙』について、これ以上ないようなみごとな書評を書いているが、そのなかで「収録されている手紙には生活の匂いがしない」と指摘している。 あるのは、これからの冒険旅行の予定、酷寒の地での犬橇旅の詳細、そして、手紙の末尾にある、妻への一方的な気づかい。植村について、「こういう人が町で生きてゆくのは大変だったろうな」と思うと同時に、「この種の手紙を受け取り続けた妻もそれ以上に苦労したのではないかと考え込んでしまう」と南木氏は書いている。

 まさにそのとおりで、公子さんが、これは私ひとりだけの「北極圏一万二千キロ」の旅だったという意味が、そう考えることではっきり現われてくる。 植村には植村らしい気づかいがいつもあったことは確かである。彼はそれを手紙のなかで率直に出している。まだコペンハーゲンでグリーンランドの旅の許可が下りるのを待っていたとき、大使館付に公子さんの手紙が届いた。

《早速読み、残された公子君の気持を知った。 46-8の野崎荘、空屋になった家も残されたものにとって、そんなに淋しいことがわかる気がする 。同情もこのCopenhagen(コペンハーゲン)で強くしているが、何もしてあげられない。この北極計画は私にとって、是が非でもやらなければならない使命であった。待つ身は行動をとっているものより長くつらいことと思うがカンベンしてくれ。 俺とて、今までの行為と違って今度は自分のためにやるということばかりでなく、バックにいる公子君の為にもどんなことがあろうと、成功して帰らなければならないと、すごい意志のささえとなっている。》(12月5日付)

この後に、現地で世話になった人たち宛に、日本語でいいから毛筆でクリスマス・カードを書いて送ってくれ、と依頼しているのがおかしい。公子さんを慰めるのも、頼りにするのも、植村にとっては両方が本気なのだ。

 2月15日、メルビル湾の薄い新氷の上を走っていた植村の橇が海に落ちた。 植村自身は間一髪で氷の上にのがれたが、犬と橇が海につかるという危機があった。 運よく橇が浮いて助かったのだが、このとき植村はまっさきに公子さんの顔を思い浮かべたと、『北極圏一万二千キロ』(文春文庫)で書いている。それにひきかえ、公子さんへの手紙では、海水に落ちたけれど、とっさに逃げて助かった、と短く報告しているだけだ。 植村の心づかいを見ることができるのである。

 もう一例。その後、チューレ基地を過ぎてカナックに到着した後、植村はゆえ知らぬ憂うつに襲われ、旅を続けられるかどうか思い悩んだ。一万二千キロの旅のなかでも、いちばんの心の危機に襲われた。それについては彼自身が詳しく書いている(3月5日付の日記)。

 しかしこの危機についても、公子さん宛の手紙にはごく短くふれているだけ。《3月4日、グリーンランドを終え、どうにかチューレにたどりついたものの、これから続くカナダ、アラスカへの旅を思うと、ちっとゆううつなり。》

 ここでも、自分の心のなかに踏みとどまって、家で待つ妻にあまり心配をかけまいとする植村の思いがあるようだ。勝手なことをしていながら、いっぽうであくまでも心やさしい。そういう矛盾のなかに、植村の生きている姿がある。

=補講・資料=

メスナーだけじゃない!すごい海外の登山家まとめ=ワルテル・ボナッティ(1/2)

ヴァルテル・ボナッティ(Walter Bonatti, 1930年6月22日 - 2011年9月13日)は50~60年代を代表するイタリアの登山家。 北イタリアのベルガモ生まれ。 アルピニズムの結晶ともいえる人物だが、あまりに妥協を許さぬその姿勢から周囲と衝突し足を引っ張られる事も少なくなく、K2初登頂の際にはチームメイトの妨害を受けアタックメンバーから外されるという事態にも追い込まれている。 2011年に癌のため永眠。 パートナーは、事実婚だが、イタリアの名女優ロッサナ・ポデスタである。

1948年夏にレッコのグリーニャの尖峰で初めて本格的な岩壁登攀(クライミング)を行った。 翌年の1949年には早くも難ルートのピッツ・バディレ北西壁、モンブランノワール針峰)西壁、グランドジョラス北壁の登攀に成功する。 資金が乏しいため、初期の登山はごく基本的な装備しかなかった(自分で作ったハーケンを多用していた)。 最初の数年間、ボナッティは製鋼所で働き、土曜の夜シフトが終わったらそのままクライミングに向かったという。 1951年にはモンブラン山塊のグラン・カピュサン東壁を初登攀、1953年にはチマ・オヴェスト北壁の冬季初登攀を成し遂げた。 1954年に山岳ガイド資格を取り、クールマイユールに移った。

1954年にK2初登頂を狙う遠征隊に参加する。 24歳で最年少であった。 遠征自体は成功したが、ボナッティは仲間から不当な非難を受け、8100m地点までの登攀に終わる。 しかも、心に深い傷を負うことになる。 その経緯は後述するが__K2から戻った後も欧州アルプスで多くの初登攀を成し遂げる。 1955年にモンブラン、プティ・ドリュ南西岩稜を単独で初登攀。 1958年にはカラコルムガッシャーブルムIV峰に初登頂。 1963年にグランド・ジョラス北壁を冬季初登攀。 そして、1965年にマッターホルン北壁を新ルートから冬季単独初登攀をやってのけ、先鋭的な登攀から引退した。

彼は上記のごとく、50~60年代の欧州山岳会の理念=スーパーアルピニズム=を実戦するを代表するスーパースターであった。 ロープ(ザイル)を積極的に使用して安全確保(ハーケン使用)を図りつつより困難な岩壁を克服する登山スタイル。 人工的な補助(安全確保)道具の積極的使用で未知なる高峰を克服する人工登攀のスペシャリストであった。 しかし、岩壁にノミとハンマーで埋め込みボルトを固定・附設して、手がかりや足場にする器物の人工的埋設行為に対し、「不可能を取り除いてしまい、未知の要素は消え、冒険性を無くしてしまう」として、使用に反対した。

動画資料: 映画「K2 初登頂の真実」予告編  =クリック➡

https://youtu.be/tL09D0V_WXc 

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現代の探検家《植村直己》 =051=

2017-11-13 06:15:18 | 浪漫紀行・漫遊之譜

○◎ Great and Grand Japanese_Explorer  ◎○

探検家になるために必要な資質は、臆病者であることです =植村直己

= Webナショジオ_“河江肖剰-新たなピラミッド像を追って”より転載・補講 =

 自分が主役になるよりは常にメンバーを影でサポートするような立場でいたい ☠

◇◆  公子さんのこと・・・・・ =2/4=  ◇◆

 公子さんは例年、加藤さんと連れ立って、正月を京都で過ごしていた。74年も、という話をしていたら、植村が話に入ってきて、その折にぜひ自分の田舎の日高町に来てくれないか、という。公子さんはいちおう植村家への手みやげを用意して、京都に行った。

 京都に着いて2日目の朝、公子さんのもとに、母方のおばあさんが亡くなった、という電話があった。京都で植村と会う約束があった、同じ日のことである。その晩、京都の宿で加藤さんもいれて長々と話し合ったけれど、結論は出ず。公子さんはおばあさんの葬式に出るために東京に戻った。

 植村も怒ったようすだったから、この話は終ったかな、と公子さんは思っていた。しかし、正月が過ぎると、植村はマツバガニをおみやげに公子さんを訪ねてきた。その後、日曜日などに、野崎家に夕食を食べにくるようになった。

 2月に、植村の長兄修さんと次兄が連れ立って、野崎家に結納をもってきた。公子さんの母親も納得して、話がそこで本決まりになった。というところまでは、まずはよくある展開といっていいだろう。その後がおかしい。こともあろうに植村は、結納の翌日、ネパールに旅立ったのである。「公ちゃんあとは全部まかせるから」といって。明大炉辺会(山岳部OBの会)のヒマラヤ偵察隊員として、ダウラギリの偵察に赴いたのだ。

 そして5月、予定より1週間遅れて帰国。あわただしく日取りを決め、5月18日、近所の氷川神社で式を挙げた。仲人は明大山岳部の大先輩、大塚博美氏(後に日本山岳会会長)だった。結婚までの経緯を長々とたどったのは、これがいかにも植村流だからである。

 ひとりで思いをめぐらし、自分では清水の舞台から飛び降りて、プロポーズしたつもりでいる。あたりまえに考えれば、彼の強烈な思いは、相手に半分もつたわらない、となっても仕方がない。公子さんはそれまでの長くはないつきあいのなかで、そのような植村流をちゃんと察していたに違いない。

 ダウラギリに飛び出していって、カトマンズとかさらに山の近くから、何度か公子さん宛てに手紙を書いている。手紙はすべて(かほとんど)が、『植村直己 妻への手紙』(文春新書、2002年刊)に収録されている。

 その3月28日付の一通から。《このヒマラヤ山中にも、心はいつも東京にあり、我々の5月の式のことが心配であり、便りせずにいられません。私の今の予定では4月末頃、または5月始めには東京へ帰ることができます。私の5月の希望としては、公ちゃんの希望の日程で式をあげてもらえば結こうです。(中略)式その他の件、公ちゃんの判断で総てきめて下さい。たいへんかってな言い方で申し訳けございませんが宜しくお願い致します。(後略)》

 結納の翌日飛び出して行って、あとはどうぞよろしく、というのはもちろん身勝手でもある。しかしいっぽうで、早くも公子さんに頼りきっている、ともいえるのである。植村にとっては、頼りきる相手として公子さんがいた。公子さんがそういう自分を受け入れてくれると確信した。これはその後もずっと変わることがなかった。

 この少し前、3月17日付の手紙に、「公ちゃんとの出合は私の人生を総てかえ」た、と書いている。「俺のような悪人につかまってしまったと、一生を棒にふってしまったとあきらめて下さい」とも書いている。言葉の飾りでいっているのではない、植村の真からの思いだろう。頼りにされるほうとしては、いわくいいがたい大変な人生を送ることを強いられるだろうが、それはひとまずおく。

植村が遭難した年の6月、私は文藝春秋6月臨時増刊号「植村直己・夢と冒険」の編集を担当した。そのとき、公子さんがこんなものがあります、といって見せてくれた24葉の山のスケッチがあった。植村が公子さん宛てに、毎日のように書き送った「山の絵本」ともいうべき絵と文章である(これも『植村直己 妻への手紙』に収録されている)。

 最初の3月31日は、「テルタンにて」とあって、次のような文章(イラスト参照)。現地で入手した和紙に、ペン書のスケッチと詩のような文。ヒマラヤの清澄な空気が伝わってくるような手紙である。植村の心の柔らかい部分が、1枚1枚から溢れ出てくるように見えて、私は驚嘆した。

『植村直己 妻への手紙』(文春新書)は、植村がいなくなってからずいぶん時を経て編まれた1冊である。そこで公子さんは心やさしい、短い文章をあとがきのように書いている。冒頭の1行に、《これは、私ひとりだけの「北極圏一万二千キロ」、そして、植村直己物語です。》とあるように、一万二千キロの旅のときの手紙が圧倒的に多い。

=補講・資料=

メスナーだけじゃない!すごい海外の登山家まとめ=テリス・ムーア

後にブッシュパイロット、官吏となりアラスカ州立大学の学長も勤めた多才な登山家。 1932年のミニヤコンカ登山では高度馴化の生理学的システムも判明していず、登山に適した化学繊維も無い時代、満足な数のポーターも揃えられない中、正確な測量、動物・鉱物サンプルの収集などを行いながら、一人の死者も出すことなく登頂し生還した。 第二次大戦後に恵まれた装備で挑んだ隊が大量の遭難死者を出していることからも彼らが克服した困難の大きさがわかるだろう。

1993年に老衰で死去するも、彼がアメリカ登山界に残した足跡は大きい。 ≪ ミニヤコンカ 初登頂 / サンガイ山 初登頂 / ボナ山 初登頂 / フェアウェザー山 初登頂 ≫

※ ミニヤコンカ : ヒマラヤ山脈の各峰の標高が正確に測定される前は、標高30250フィート(9220m)とされ、世界最高峰に位置づけられたこともあり、古くから登山の対象となっている。しかし、急峻な地形と「頂上に騙される」と遭難者が評する不明確な山頂、目まぐるしく変化する天候の為に登頂に成功した者は20名に満たず、世界でも屈指の難峰となっている。

初登頂は当時としては異例とも言える少人数の隊によって達成された。当初、エベレストより高い可能性があると目されていたアムネ・マチン峰の遠征隊として12人の参加が予定されていたが、戦争の勃発により登頂許可が得られなかったため遠征が頓挫。一部は無許可のままアムネ・マチン峰へ向かったが、リチャード・L・バードソル、テリス・ムーア、アーサー・エモンズ3世、ジャック・セオドール・ヤングの4人はミニヤコンカの測量および登路偵察、大型獣の標本採集を目的とした西康遠征隊を結成した。

満州事変の混乱に加えて中華民国軍はチベット軍との戦闘も行っていたため、最寄の都市である打箭爐周辺でも人足や駄獣の大規模な徴発が行われており、資材の運搬要員の確保にも困難を極めた。結果として最終的にベースキャンプより上でも活動したハイポーターはわずか2人、ヤング隊員は第1キャンプへの荷揚げを完了すると撤収の際に必要なポーターの手配と折衝をするために下山したため、終盤の登山活動は3人で行われた。

エモンズが手を負傷したため最終アタックはバードソルとムーアの2人で行われ、6700m地点に設営された第4キャンプから9時間半かけて登頂に成功した。なお、登頂前に4人はより綿密な測量活動を行い、ミニヤコンカの標高は7587m(24891フィート)、測定誤差±25m(85フィート)と現在の計測値に非常に近い数値を算出している。この標高の登頂は1931年に登頂されたインドのカメット峰(7756m)に次ぐ世界第二位の記録だった。

 

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現代の探検家《植村直己》 =050=

2017-11-11 06:33:44 | 浪漫紀行・漫遊之譜

○◎ Great and Grand Japanese_Explorer  ◎○

探検家になるために必要な資質は、臆病者であることです =植村直己

= Webナショジオ_“河江肖剰-新たなピラミッド像を追って”より転載・補講 =

 自分が主役になるよりは常にメンバーを影でサポートするような立場でいたい ☠ 

◇◆  公子さんのこと・・・・・ =1/4=  ◇◆

1974(昭和49)年5月、植村直己は野崎公子と結婚した。植村はこのとき33歳、公子さんは少し年上の姉さん女房である。植村はどこかの組織に所属して公的な役割を担ったりしたことはなかった。だから公私二つの顔をもつ必要もなかったのだけれど、冒険家として名前を知られるようになると、彼のふるまいのなかで多少は公私の区別というのが意識されはした。その区分でいえば、結婚と家庭は私的な部分である。

 私は植村の生きた軌跡を追いかけてみようとしてはいるが、もったいぶった評伝を書こうとしているのではない。だからそれを理由に「私的な部分」にどさどさと踏み込んでいくつもりもないし、また必要もない、と考えている。

 しかし、いっぽうで思うのは、植村直己という、全人格が冒険家で成り立っているような男にとって、この結婚はじつに大きな意味をもっていた、ということだ。植村について何事かを語ろうとするとき、公子さんとの生活を無視するわけにはいかない。

 お断りしておきたいのは、公子さんとは植村亡き後もずっとつきあいが続いて、今に至っている。だから率直にいって書きにくい。書きにくいけれど、自分が植村夫妻のことをどう見たかについて、できる範囲で記しておかなければならないと考えている。結婚する相手が見つかった、という照れくさそうな、また嬉しそうな植村の話を聞いてまもなく、つまりは電光石火という早業で彼は結婚した。

 相手は植村の住んでいた下宿の近く、板橋区仲宿にある江戸時代から続く豆腐屋の娘で、野崎公子さん、といった。ここで私の個人的な思いを書いてもしかたがないが、少しずつ公子さんと話をするようになってもつようになった印象は、じつによくものが見える、賢いひとだなあ、ということだった。その賢さをキラキラと表に出しているのではなく、あったかい雰囲気のなかにくるみこんでいる。そしてこの印象は植村がいなくなって28年経た今でもゆらぐことなく、変わらない。

 同じ仲宿の商店街で、公子さんの友人である加藤八重子さんが営むトンカツ屋で顔を会わせたのが、2人の出会いだった。

 前年の73年7月、ほぼ1年間のグリーンランド滞在から帰国した。このグリーンランド滞在は、南極横断のために犬橇の操縦を身につけるためのものだったが、帰国早々に植村は別の企画、北極圏一万二千キロの犬橇旅行の構想を語りはじめていた。息せき切って、来月からでも出かけたいという彼に、もう少し時間をかけて準備する必要があるのではないか、といった覚えがある。彼は74年11月にふたたびグリーンランドに渡るまで、約1年間の時間的余裕をもった。そのときに、公子さんとの出会いと、結婚があった。

 ただ、私は当時、公子さんとの結婚のいきさつについて、ほとんど結果を知ったのみだった。詳しく知るようになったのは、むしろ植村が居なくなってから、というより、2005年2月にこころみた公子さんへのインタビューで、ようやく全体の流れを知ったのである(インタビュー「しんしんと積ってくるもの」は、雑誌「コヨーテ」の同年7月号に掲載)。

 この公子さんへのインタビューは、「私的な」植村を知るための、貴重な記録である。それはこの文章が依拠することになるものの一つである。

 会ったのは73年の7月というから、植村が帰国して間もなくである。以下、特に注記がないかぎり、公子さんの話である。《夏の夕暮れだったんですね。えーと、一九七三年の七月です。トンカツ屋さんが始まった時刻に、「公ちゃん、この人さ、このあいだグリーンランドから帰ってきたんだってよ」と紹介してくれた。へえ、と思って見たら、お風呂帰りだったんです。お風呂帰りの艶やかな顔にしては汚かったんですよ。なんだかちびたものを身につけていて。へえ、とか思ってそれだけでした。》

この通りだったのだろうけれど、この話の向うに、一目惚れしてドギマギしている植村がいる、と思うと微笑ましくなる。8月に1回、9月に1回というふうにトンカツ屋で会って、植村がエベレスト登頂者であることなど、彼が何者なのかをしだいに公子さんが知るようになった。11月には、加藤さんも一緒に三ツ峠にハイキングに行ったりして、少しずつ親しくなった。というより、植村が加藤さんに「公ちゃん呼んでください」と頼むことがしょっちゅうになった。

=補講・資料=

メスナーだけじゃない!すごい海外の登山家まとめ= スティーブン・ベナブルズ

80~90年代を代表するイギリスの登山家。 エベレストなどの超高所以外にも世界各地の未踏峰・未踏壁で数々の輝かしい成果を上げた。

= 人はとかく成果のみで判断される。特にクライマーとかいう性格悪そうな連中の中には、登ったグレードで人を評価する馬鹿者もいるようだが。 スティーブン・ベナブルズという一線級の登山家が、家族との関わりを中心に据えた人生の記録を克明に本(『Ollie)にまとめ上げたということに、まず驚かされる。
 日本には、ロクスノなどのメディアを通じて、細々と海外諸国の登山家達の動向が伝えられるわけだが、家庭での顔までは知る由もない。 登山家である前に、人間であり、家庭がある。 そんな当たり前のことを、あらためて同書をもって知る。
 
 小さい子供を抱えながらも登山活動を続け海外各国を飛び回るベナブルズの姿に、やはり登山で飯を喰っているプロなのだなと思わされる一方、自閉症・白血病との闘病のために様々な医療関係者と関わり、揺れ動く心の描写はやはり人の親なのだと考えさせられる。

 同じイギリスのアリソン・ハーグリーブス女史の遭難死が、スティーブン・ベナブルズ氏にも大きな衝撃を与えた様子が正直に述べられている。 共に山に登ったこともある二人、ハーグリーブス遭難後、ベナブルズはハーグリーブスの旦那と子供をK2の見える場所まで連れて行くのだが、ハーグリーブスの幼い娘がK2を指さして「Is that Mummy?」と尋ねた時には、相当こたえたらしい。

 ベナブルズ自身が先年にヒマラヤ・パンチチュリ5峰で下降中に重傷を負いながらも生還できたこと、息子のOllieのことを思い、運命というものを考えさせられたと書いている。 山で妻を亡くした家族を前に、息子が闘病生活を送り自分は奇跡の生還を果たしたベナブルズの想いは複雑の一言では表現できないものがあっただろう。=

スティーブン・ベナブルズ(stephen venables)の主たる登攀記録: エベレスト東壁新ルート初登頂(イギリス人初無酸素登頂) / パンチ・チュリV峰 初登頂 / シヴリン峰 初登頂 / ソル・タワー 初登頂 / プンバ・リ峰 第二登(新ルート初登頂) / クスム・カングル南西稜 初登頂

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現代の探検家《植村直己》 =049=

2017-11-09 06:16:13 | 浪漫紀行・漫遊之譜

○◎ Great and Grand Japanese_Explorer  ◎○

探検家になるために必要な資質は、臆病者であることです =植村直己

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◇◆  北極点単独行—-冒険家にとっての記録 =5/5=  ◇◆   

 ほぼ同時に出発した人びとが、目的地に先に到着した。 口惜しい、という感情が湧くのはごく自然のことかもしれない。そこまでは端から見ていても、推察の範囲内にある。 口惜しいなんて思うのは愚かしいよ、と植村を批判する気にはなれない。 そんなふうに思いながら、冒険家にとって記録とは何なのだろうか。と私は改めて考えてしまった。 植村の北極点単独行は、北極探検史上どのような位置にあるのか。

 北極点に初めて到達したのは、先にもふれたように、1909年、アメリカのロバート・ピアリである。(フレデリック・クックは自分のほうが先、と主張したが、現在ではピアリの到達が定説になっている。) ピアリ以後の北極点到達をざっと見てみよう。

 1926年、バード(アメリカ)が飛行機で北極点往復。 /  1958年、アメリカの原子力潜水艦ノーチラスが北極点を通過して北極海を横断。 /  1968年、アメリカのプレーステッド隊がスノーモービルで。 /  1969年、イギリスのハーバート隊が犬橇で。 /  1971年、イタリアのモンジーノ隊が犬橇で。 /  1978年、日大隊が犬橇で。同年、植村直己が犬橇、単独で。 ついでに記しておくと、79年、ソ連隊がスキーによって。 87年、風間深志がバイクによって、北極点に到達している。

 こうしてみると、植村の単独、犬橇での到達は、単独という点がひときわ光彩を放つ記録であることがわかる。 「単独で」という冒険は植村以前に誰もやりとげていない。 まぎれもなく植村の偉業である。

 しかし別の角度から見ると、それまで誰もやっていないことの実現に価値を置く冒険家に(現代の冒険家に)、めざすべき行動の範囲はきわめて狭くなっているのは事実なのである。 「犬橇による単独行」しか、誰もやらなかったことは残されていなかった、ともいえるのである。

 20世紀に入って、世界の地理上の空白は北極と南極ぐらいしか残されていなかった。 南極点に誰かが立ってしまえば、「初めて」の「初」は、もう残されていない。 わずかに「単独であること」が「初」に結びつく。 現代の探検家あるいは冒険家のやりにくさ、がそこにはっきり見えている。 そう考えると、植村にとっては、長年の夢である南極も含めて、残された数少ない「初」を実現するのは時間とのあらそいでもあった。 「初」がみな無くなれば、冒険のあり方が大きな方向転換を余儀なくされるだろう。 植村直己は、ちょうどその転換点に立っていた男であるともいえる。

 北極圏を舞台にした、西洋人の探検の歴史を思い返してみると、その最初の動機は欲得ずくであった。 大航海時代に、スペインとポルトガルに東洋への航路を独占されて、イギリスとオランダは北まわりに中国に達することを考えた。 王室の支援を得て、北西航路、北東航路をひらくための船団がたびたび組まれて、一時は流行の観をなした。 そして欲得ずくではあったけれど、北まわり航路の探索には、やはり人間が未知なるものを手にしたいという冒険心が働いていたことも無視できない。

 スペインとポルトガルが、南まわりで東洋に達する制海権を失うと、北まわり航路への情熱が冷えこんでしまう事態もあった。そして19世紀になると、経済的利益以上に、北極圏はどうなっているのかという知的好奇心から(あるいは冒険心から)、氷の海に乗り出していく冒険家が数多く出現した。数多く出現して、数多くが悲惨な死を迎えた。

 そのなかには、フラム号を氷に囲ませて、氷の流れに乗って北極点に到達するという、驚くべき発想で航海(?)を実現したノルウェーのナンセンがいる。しかし氷の流れは北極点をかなり大きく外れて、試みは成功しなかった。

 また、16世紀以来延々とつづいた、北西航路の開拓に、ついに成功したノルウェーのアムンゼンがいる。アムンゼンはバフィン湾からカナダ、アラスカの北極圏を通過し、ベーリング海峡に到達した。1906年のことである。

 植村直己は、16世紀以来、北まわり航路を探し求めた冒険者たちがつらなる長い列の、いちばん末端に位置している。いちばん最後ではあったけれど、「単独であること」が、植村をその位置につけた。

 私の勝手な思いこみでそういうのではない。北極点グリーンランド単独行を無事成功させた翌年(1979年)2月、植村はイギリスのバラー・イン・スポーツ賞を受賞した。この大きな賞の受賞が、植村の位置を自ずと物語っている。

=補講・資料=

メスナーだけじゃない!すごい海外の登山家まとめ=サー・クリス・ボニントン(2/2)

クリス・ボニントン :  主な登攀歴 / 遠征隊長

1970 アンナプルナ1峰南壁 (ドゥーガル・ハストンドン・ウィランスが南壁初登頂、イアン・クラフが死亡) / 1972 エベレスト南西壁敗退 / 1975 エベレスト、5人が南西壁初登頂 (ダグ・スコット、ドゥーガル・ハストン、第二次登頂隊ピーター・ボードマン、パルテンバ・シェルパ、ミック・バーク)、バークが死亡 / 1978 K2西壁敗退、ニック・エスコートが死亡 / 1982 エベレスト 初の北東稜完登に挑むが敗退、ピーター・ボードマンとジョー・タスカーが死亡 ※ボニントンは隊長として参加したこれらの遠征では、頂上には達していない。

動画資料Sir Chris Bonington at 80 years old =クリック➡

https://youtu.be/feiPn7pcOBY

動画資料Sir Chris Bonington Reflects On A Life Of Climbing =クリック➡

https://youtu.be/S1fwwlt-PpU

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

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現代の探検家《植村直己》 =048=

2017-11-07 06:15:24 | 浪漫紀行・漫遊之譜

○◎ Great and Grand Japanese_Explorer  ◎○

探検家になるために必要な資質は、臆病者であることです =植村直己

= Webナショジオ_“河江肖剰-新たなピラミッド像を追って”より転載・補講 =

 自分が主役になるよりは常にメンバーを影でサポートするような立場でいたい ☠ 

◇◆  北極点単独行—-冒険家にとっての記録 =4/5=  ◇◆  

北極点到達への難関・クラック(開水面)の問題に行く前に、橇をひく犬について、ここで取りあげておくべきかもしれない。 一万二千キロの旅でも、橇をひく犬についてはずっと悩まされつづけた。 だから植村の公刊された冒険の記録及びその元になっている日記を読むと、犬橇で旅をする限り、犬の悩みはついてまわると私などは思っていた。 あの旅でも犬を途中で補強して、大幅に編成を変えたこともある。

 それにしてもこの北極点単独行では、さまざまな事情で強い犬を手に入れることができなかった。 さまざまな事情の筆頭は同時期に日大隊の大がかりなチームが、北極点をめざした、ということがある。 しかも日大隊がグリーンランドなどであつめた114頭の犬が空輸中の事故で全部死亡した。 その結果、もう一度犬の買い付けが行なわれ、値段が高騰したという事実がある。

 要するに植村は何頭かを除いてほんとうに良い犬を手にすることができず、最初17頭で出発した後、行動の途中で何度か犬を補強せざるを得なくなった。

そうはしたものの、なかなか思うような犬のチームができなかったのである。 そのうえ、雌犬はリーダー犬のクロ1頭と思っていたところ、なんとシロと名づけた犬が雌だったことが後からわかって、このシロが行動中に出産するというハプニングまであった。 シロをテントの片隅に入れ、仔を産ませたのはおめでたいことではあったけれど、よけいな手数ともいえることだった。

 結局、北極点到達まで、まじめに橇をひいたのは7頭ぐらいで、他の犬たちは食べるだけ食べて橇の動きにぶら下がっていたようなもの、と植村は報告している。 にもかかわらず、3月28日あたりでようやく乱氷帯を抜け、橇は距離をかせぐようになった。 1日、20キロから多いときは40キロ進んだ。 そうなってからの、後半戦の問題は、3番目に挙げた、クラック(開水面)の出現である。

 氷の上を進む。 いつの間にか流氷帯のはずれに出ていて、目の前に黒々とした開水面が横たわっている。 また、テントを張っていた氷が裂けながら動いていて、目が覚めて驚くこともある。 北極点は海水上の一点であり、それをめざして海水上の氷の上を進むのだから、氷の動きにまきこまれるのは十分に予想がつくことだが、私のようなシロウトには悪夢のようなものとしか思われない。

《進退きわまった。 孤島に取り残される。 大きな氷の動きにまきこまれる。 死の危険がキナくさくにおった。 氷島すれすれに流れてくる高さ七、八メートルもの大氷山が、何につまずいたのか重心を失って大音響とともに海中に横倒しとなり、それがまた海中から頭をもたげてくる。 (中略)……黒い北極海が口をあける。 凄惨な光景だった。 映画のスローモーションを見るような非現実的な光景だった。 私はうろたえ、なす術がなかった。》

 それでも植村は冷静さをとり戻す。 流れてきた氷のブロックをとらえ、思い切ってブロックの橋を渡る。 旧氷のなかに入り、旧氷上にようやくテントを張る。 北極点が近づき、気温がマイナス20度と上昇するにつれて、この間水面に行く手をはばまれ、進路を微妙に変更させられる。 そういう危険を乗り越えての、56日目の北極点到達だった。

 4月26日、まだ北極点の100キロほど手前に、植村はいる。 植村はアラート基地との交信で、日大隊がこの日中に北極点に到達するのを知る。 たまたま同時期に北極点をめざした日大隊について触れておかなければならない。

 日大隊と自分は、方法も目的も違っている。 自分の北極点単独行は断じてレースであってはならない。 植村はきっぱりとそう考えていた。 日大隊と出発前に顔を合わせたし(日大隊はエルズミア島ヘクラ岬が出発点)、出発もほぼ同時期になったが、競争意識にわずらわされることはなかったのは事実だ、と書いている。

 にもかかわらず、である。 日大隊が先に北極点に到達するのを知ったとき、「口惜しさが、思いがけず、不意に襲ってきた」。 なぜなのかは自分でもよくわからない。 しかし、ただ、口惜しい。 一日中、「口惜しいな、口惜しいな」と、呪文みたいに呟きつづけた。

 ほぼ同時に出発した人びとが、目的地に先に到着した。 口惜しい、という感情が湧くのはごく自然のことかもしれない。そこまでは端から見ていても、推察の範囲内にある。 口惜しいなんて思うのは愚かしいよ、と植村を批判する気にはなれない。

=補講・資料=

メスナーだけじゃない!すごい海外の登山家まとめ=”サー” クリス・ボニントン

クリス・ボニントン(Sir Christian John Storey Bonington、1934年8月6日- )は、英国の登山家。 生涯でヒマラヤに19回遠征。 遠征隊長として、イギリス隊のエベレスト南西壁初登攀、アンナプルナ南壁初登攀を成功に導いた=前記・ドゥーガル・ハストン参照=:。

ボニントンは16歳でクライミングを始めた。 ロンドンのユニバーシティ・カレッジとサンドハースト王立陸軍士官学校で学び、1956年に英国戦車連隊に配属された。 北ドイツで3年間過ごしたあと、陸軍野外学校で登山指導員として2年間過ごした。 その間、1958年にプティ・ドリュ南西岩稜のイギリス人初登攀、1961年にモンブラン・フレネイ中央岩稜の初登攀に成功した。 1960年にはイギリス・インド・ネパール陸軍合同隊遠征に参加し、アンナプルナ2峰(7937m)の初登頂に成功した。 1961年に陸軍を除隊しユニリーバに就職、マーガリン部門で働いたが9ヶ月で辞職し、プロの登山家・探検家・ジャーナリストとなった=この背景には、親友の遭難があり 後年 70歳を超してから彼の未亡人と再婚する=。

1970年からは自ら遠征隊を組織する。 同年、アンナプルナ1峰南壁をめざす遠征隊を編成し、隊員2人が南壁の初登頂に成功。 当時ヒマラヤの大岩壁はまだ登られておらず、高所クライミングにおける最先端の登攀だった。 これによりヒマラヤ「壁の時代」の幕が切って落とされる。 2年後にはエベレスト南西壁遠征隊を組織するが敗退=遭難事故が発生=。 しかし1975年に再度、遠征隊を編成し、エベレスト南西壁の初登攀を成功させる。

ボニントンは1974年に、諸々の登山の功績に対して、英国・王立地理学会から金メダルを贈られた。 また、ボニントンは1976年に、エベレスト南西壁初登頂を導いた功績を認められ大英帝国勲章(CBE)を受賞した。 1996年には彼のスポーツへの貢献のためナイト(Knight Bachelor)に叙された。 2010年にはアウトワード・バウンド協会への貢献を称えられてロイヤル・ヴィクトリア勲章(CVO)を授与された。

動画資料 THE CLIMBERS - Chris Bonington =クリック➡

https://youtu.be/FM4IRSs_lIU  

動画資料 Mount Everest, "Hard way", 1975 =クリック➡

https://youtu.be/XGebNw5eH1E   

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現代の探検家《植村直己》 =047=

2017-11-05 06:24:28 | 浪漫紀行・漫遊之譜

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探検家になるために必要な資質は、臆病者であることです =植村直己

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◇◆  北極点単独行—-冒険家にとっての記録 =3/5=  ◇◆   

 3月23日頃までの、アラート基地との交信では、泣き出さんばかりの植村がいる。 もちろん、いたずらに弱音を吐くだけの男ではないけれど、沈黙がちの植村から、この行程のすさまじさが推測できた。

 23日まで、18日間かけてようやく50キロ、それから少しはかどって28日までで約100キロ。 目算では1日20キロから40キロは進みたいところだったから、旅程は大幅に遅れた。 それにしても、鉄棒1本で乱氷と格闘する姿は、記録を読んでいても痛ましいほどである。植村自身も、俺は何のためにこんなことをしているのかと、頭をかかえこむ日もあった。

 そして出発早々、3月9日に白熊に襲われて、かろうじて生きのびることができたのである。 3月9日の明け方。 犬の鳴き声が止み、犬の足音とはちがう響きがきこえた。 はっきりと目が覚めた瞬間、異様な鼻息がきこえ、足音からすると10メートル離れていないだろう。

 ライフルはシュラフの横に置いてはあるが、弾をこめていない。 起きあがって弾を装填すれば、その音で白熊はまっすぐこっちに向かってくるだろう。それに出発前にライフルの手入れをするのを怠っていた。 照準も合っていないし、もし油が凍っていれば、弾をこめても発射できない。

 植村になすすべはなかった。犬たちが白熊に向かって吠えかけ、白熊を釘づけにしておいてくれれば、何かできるかもしれないが、犬の鳴き声はまったくしない。

 足音が近づいてきた。枕元のすぐ外で、臭いを嗅ぐ鼻息がし、巨大な足がテントの上から横向きの植村の頭を押えつけた。ああ、俺は死ぬ。「公(きみ)ちゃん、俺は死ぬよ」と、この瞬間公子夫人に心のなかで語りかけた。

 しかし白熊は、テントを揺さぶり、部分的に裂いたけれど、植村の体に直接襲いかかりはしなかった。テントの外で、アザラシの凍肉を食べ、鯨のラードを食べ、犬用のペミカンを食べ荒した。

 絶対に身動きしてはならない。 呼吸音にさえ、気づかれてはならない。 植村は全身にふき出すような汗をかきながら、身動きせず、長い長い恐怖のときを過した。 不意に、足音が遠ざかっていった。 白熊がゆっくりテントから離れていった。助かったのだ。 状況からすれば、奇蹟的に、といってもよかった。

 植村はしかしあわててテントの下から這い出そうとはせず、十分に時間を置いてからシュラフのファスナーをはずした。テントの外に出てみると、「輪カンジキほどの大きさの、爪の方が広く踵の方が小さい白熊の足跡が点々とついていた」。ドッグフードの入ったダンボールがひっくり返され、鯨の脂肪を入れたポリバケツが、紙屑のようにズタズタに切り裂かれていた。

 1974年から76年にかけての北極圏一万二千キロの旅でも、何度か白熊に遭遇したが、このように不意打ちにあったのは初めてのことだった。肝が冷えるほどの恐怖を植村は体験した。

 翌3月10日。 味をしめた白熊は、再びテントをめがけてためらうことなくやってきた。 植村はライフルに手入れをし、再襲来にそなえていた。 何発か銃を発射し、この白熊を仕止めた。 また、襲われた3月9日に、アラート基地と交信。 3月10日には飛行機が来て、予備のテントをはじめとする必要物資を投下していった。

 翌3月11日。相変わらずものすごい乱氷に行く手を阻まれながら、植村はこんなふうに書いている。 《心をひきしめて、自分自身をとり戻さなければ。きびしくとも、現状を正確に把握し、反省し、そこから勇気を奮い起すのだ。大体、こんな目にあうのも、どこか準備に手ぬかりがあったからではないか。あるいは準備の手順の立てかたが間違っていたからではないか。》

 いざというとき、物事をできるだけまっすぐにとらえて、自分自身を立て直す。 これまでの冒険でも何度も見てきた植村が、ここにもいる。

=補講・資料=

メスナーだけじゃない!すごい海外の登山家まとめ=ドゥーガル・ハストン(2/2)

スコットランド最強のクライマーと呼ばれるようになったドゥーガルは、’63年にアイガー北壁、’64年にドリュ西壁などを登り、引き続き向かったグランドジョラス北壁でジョン=ハーリンと出会います。この時は天候悪化で敗退したのですが、この出会いがきっかけで、彼は’65年のクリスマス前、アイガー北壁ダイレクトルート冬季初登攀に誘われます。

その登山は’66年3月に、ドイツ隊と競合し、最後は協力しあって成功します。 しかし、ここでジョン=ハーリンが墜落死し、彼はジョンが経営していた、スイスのリゾート地レイザンの登山学校を引き継ぎます。 以後スイスを活動拠点にします。
(余談ですが、彼は’63年に大学を中退し、’65年4月にまた交通事故を起こして60日間収監されています。 以後彼の笑顔を見る機会は一層少なくなったそうです)

彼はスイスに行っても自堕落な生活が治らず、クラブ・ヴァカボンドという酒とドラッグが溢れているところで毎晩酔いつぶれていたそうです。 そんな中でも’68年にはパタゴニア・セロトーレ、’69年にはヨセミテ(このときの記録はダグ=スコットの『ヒマラヤンクライマー』に出ています)に遠征し、地元アルプスで冬季登攀したりしています。

そして’70年、クリス=ボニントン率いるアンナプルナ南壁の初登攀、’755年エベレスト南西壁初登攀、’76年マッキンリー南壁初登攀に成功します。 最盛期といっていい活躍ぶりですが、エベレストではピーター=ボードマンらの強さを見て取り、自分がいつまでも第一人者ではいられないと自覚したのか、この頃から小説を書いたり、登山学校のカナダ支部を設立するべく準備します。 しかし、’77年の1月18日、近郊の200m級の山、ラ・リオンダーツ北東壁のスキー滑降に出かけ、雪崩に巻き込まれて遭難死します。享年36歳。

一見華やかな登山人生の彼ですが、どこかアウトロー独特の暗い雰囲気が醸し出されています。 女性関係も単純ではなかったようで、破滅的な生活を送った挙句の死に方という気がしないでもないです。 組織登山においてもきちんと結果を残し、晩年は生活に変化も見られたようなので、もっとこれからの人生を見せて欲しかったようにも思うのですが。

しかし、彼の功績は登山史上にきっちりと名前を残している立派なものです。 彼の名前を知らなかったという人は、これを機に明と暗双方の角度から彼を知ってください。 それによって何かを学び取ることができれば幸いです。

動画資料: Mount Everest, "Hard way"  =クリック➡

https://youtu.be/XGebNw5eH1E 

動画資料: Chris Bonington : The Everest Years (c.1985)   =クリック➡

https://youtu.be/BgYKVmfck-s  

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現代の探検家《植村直己》 =046=

2017-11-03 06:08:48 | 浪漫紀行・漫遊之譜

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◇◆  北極点単独行—-冒険家にとっての記録 =2/5=  ◇◆

 植村自身が、この無線機の使用について次のように書いている。 極地ではたとえばオーロラが出たりするとたちまち電波状態が悪くなる。 いつも使用可能というわけではない。 《また、交信が可能だとしても、突然のアクシデント(中略)が起きたとき、いくら緊急連絡(エマージェンシー)を送っても、救援の飛行機が飛来するためには、最低十二時間はかかるから、とても間にあわない。 私は通信網に頼りすぎてはならないことを肝に銘じている。 自分以外を頼りにすることは、冒険旅行においてきわめて危険なのはいうまでもない。》

 無線機が命を保証する部分は、なくはないけれど、ごくわずかということは、冷静に考えればすぐにわかることだ。この北極点単独行は、大々的に募金を行なったこともあって、国民が注目するところとなった。 その視線を意識して植村は無線の持参を決意したところがあるのではないか。 もう一つ、ここでいっておきたいことがある。 費用のことである。

 北極点単独行でもグリーンランド縦断でも、食糧をはじめとする物資の補給を飛行機を使って行なうことが不可欠になる。 ピアリが1909年に初めて北極点に到達したのは、大勢の人数が参加して次々に物資を先に送り、それを使いながら旅をしたからであった。 これを極地法というが、単独行ではもちろんこの方法は使えない。 飛行機による補給を採用するしかない。

 いうまでもなく、飛行機による補給は、これまでの植村の冒険からすればケタ違いに金がかかる。 マスコミの一部は、そのことをあげつらって植村の冒険を疑問視した。 私はこの言説につき、あまりにバカバカしくて反論する気にもならなかった。 植村の冒険は、テレビ局や新聞社がくわだてる大規模なイベントにくらべれば、費用は最小限である。 飛行機の補給のための大口出費を除いたら、ギリギリの費用で計画全体が運ばれている。

 ただし、単独行だから、植村一人にかけられる費用としては、その金額はあるいは大きいと見えるかもしれない。 植村は、冒険終了後、その費用の一部を背負って、講演とかイベント参加とかで文字通り涙ぐましいほどの努力をして、自ら負担した。 有力組織の金づるに乗っかっての冒険とはまったく違うのである。 私は最後までつましく生きた植村を思う以外にない。

 さて、コロンビア岬の植村に戻ろう。 初日から植村は乱氷帯に悩まされた。 自分を運んできた飛行機が飛び去った後、植村は静まりかえった氷と雪の世界で、まずルートの偵察をはじめた。 気温はマイナス51℃。 近くにある10メートルほどの氷のブロックによじ登り、北の方面を眺めて愕然とした。 こんな光景が目に映った。

《飛行機の上から何度か観察して、ある程度覚悟はしていたつもりだが、やはり愕然とした。 なんというものすごい乱氷帯なのだろう。 機上から見た乱氷は、けっしてその正体を見せてはいなかったのだ。 いま私の行く手に、ひとつとして同じ形のない大小の氷のブロックがひしめきあっていて、視界の果てまで続いている。 薄明の中に濃淡の変化をつけて浮びあがる氷のブロックの堆積は、あまりに圧倒的で、むしろ幻想の中の光景のようだ。》

 薄明の中に、とあるのは、まだ北極圏の空に太陽が戻ってきていないからである。 太陽が水平線の低い位置に顔を出すようになったのは3月9日からだった。 初日の3月5日は、打ち続く乱氷の光景に圧倒されたまま、テントを張って、二重の寝袋のなかに身を横たえるだけだった。 6日は周辺を歩きまわって橇のルートを探索しただけ。

 翌7日から、苦闘がはじまる。とても橇の上に乗っているどころではなく、エスキモーが用いるトウという長さ3メートルほどの鉄棒をふるって、乱氷を自分の手でくずし、犬たちが走る道をつくる。

 以後、3月28日頃まで、乱氷の「氷の藪の中」で右往左往する日が続いた。 もちろん、ほんのわずかながら、北をめざして進むことは進んだ。 しかし1日に2キロから5キロほど、というのでは、誰よりも植村当人があせらざるを得ない。 トウで道をつけていくのは、体力の消耗もきわめて激しい。

=補講・資料=

メスナーだけじゃない!すごい海外の登山家まとめ=ドゥーガル・ハストン(1/2)

ドゥーガル・ハストン: ダグ・スコットやクリス・ボニントンのパートナーとしてアンナプルナ南壁やエベレスト南西壁の初登攀を成功させたイギリスの最強クライマー。 若いころはいたずら落石合戦や山小屋荒らし、遭難者の遺品のネコババなどに手を染める手の付けられない悪童だった。
 交通事故を起こし二度も収監されるなど私生活でも破滅型の人間だったが、マッキンリーで連日のビバークを強いられ、ダグ・スコットも躊躇する状況で発した「まだ凍傷になっちゃいないんだろ?」は彼の心身のタフさを示す名言としてよく知られている。 1977年にラ・リオンダーツでスキー滑降中に遭難死

 1940年4月19日、スコットランドの首都エジンバラの郊外の田舎町で、パン職人の息子として生まれました。 子供時代は、学校や教会に欠かさず通う結構真面目な生活を送っていたようで、地元の有力者で後に国会議員になる人物の設立した「カリー・ユース・クラブ」というアウトドアの会に 入会しる。 ここで彼はエジンバラから100km離れたグレンコーという場所で、初めてロッククライミングを経験し、すっかりはまって友人と近くの川辺や鉄道の切り通しでクライミングの真似事をしている。 また、『8000mの上と下=ヘルマン・プール』=』『星と嵐=ガストン・レヴィファ=』などの本も読みふける。

 しかし、この後16歳ぐらいから友人と悪事にも手を染めます。 酒を飲んで喧嘩なんていうのは当たり前で、落石合戦と言って、山の上から石を落としたり、遭難者のものらしきアックスや時計を持ち帰ったり、挙句の果てには山小屋の窓を割って勝手に利用したり、万引きしたり、で どうしようもない若者になっていった。

そんな彼らもクライミングには精を出し、ジミー=マーシャルという8歳年上のスコットランド・ジュニア山岳会のメンバーは、毎週末彼らをバスに乗せて岩場に行き、クライミング技術を指導した。 そして彼はドゥーガルが18歳の時ウェールズ、19歳の時ドロミテへと導きます。 ただ、彼はそんな風に実力を挙げても、恒に追い越せないロビン=スミスという2歳年上のライバルがいた。

 ドゥーガルと組んでもいつも核心はロビンがリードし、その年にはグランドジョラス北壁ウォーカー稜も完登しているなど優秀なクライマーで、いつもナンバー2の位置に甘んじていたのです。 そして20歳の時、交通事故を起こして人を死なせて、刑務所生活を送ります。 しかし、そのロビンも1962年、パミールのガルモ峰(6595m)に登頂後、遭難してしまいます。これにより、ドゥーガルがスコットランド最強のクライマーと呼ばれるようになった。 ・・・・・つづく

動画資料Annapurna South Face 1970 =クリック➡

https://youtu.be/ASs95G49OjI  

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現代の探検家《植村直己》 =045=

2017-11-01 06:22:45 | 浪漫紀行・漫遊之譜

○◎ Great and Grand Japanese_Explorer  ◎○

探検家になるために必要な資質は、臆病者であることです =植村直己

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◇◆  北極点単独行—-冒険家にとっての記録 =1/5=  ◇◆

 植村直己は、1978年4月29日、北極点に犬橇で到達。犬橇による単独行というのは世界で初めてのことだった。 3月5日にエルズミア島(カナダ領)のコロンビア岬に飛行機で降り立ち、以後56日かけて約800キロを走破したことになる。

 この冒険は、さらにもう一つの冒険と一組になっていた。 北極点到達後、帰路を少しずらしてグリーンランドの北端モーリス・ジェサップ岬をめざす。 そこからグリーンランドの広大な氷床に登り、グリーンランドの北端から南端まで、単独、犬橇で走る、というものだった。

 このグリーンランド縦断は、北極点到達が予定より遅れたため、北極点からの復路でというわけにはいかなくなって、北極点からモーリス・ジェサップ岬まで飛行機で運ばれ、5月12日に改めて出発した。 そして8月22日、グリーンランド南端のヌナタックに到着。走行距離は3000キロに及ぼうかという長大な犬橇冒険旅行だった。

 北極点単独行とグリーンランド単独縦断。 二つの異なった冒険を一続きのものとして行なおうとした発想に、植村の自信を見ることができる。 実際37歳の植村直己は、体力気力ともに充実していた。

 そうには違いないけれど、二つの冒険を一気にやってしまおうとした彼の心情については、後に改めてふれてみたい。

 植村は、3月5日コロンビア岬の一角に、17頭の犬たち、犬橇、犬橇にのせた装備と食糧とともに、ひとりで立っている。このコロンビア岬は、1909年に初めて北極点に到達したロバート・ピアリ(アメリカ)の犬橇隊の出発点でもあった。

 北極点到達までの56日間は、(1)すさまじい乱氷帯との格闘、(2)白熊の襲来、(3)悪夢にも似たクラック(開水面)をどうかわすか、の三つが行動のテーマだった。 くわしくはこの冒険の記録『北極点グリーンランド単独行』(1978年、文藝春秋)を読んでいただくしかないが、ここでは右にあげた3点に焦点をしぼって触れておきたい。 その前に、この冒険行の装備について。

 まず橇。オーロラ号と名づけたこの橇は、幅96センチ、長さ4.5メートル。 後部の長柄とランナーは固いカシ材を使い、ランナーの底部すなわち氷との接触面はプラスチック板を貼った。 床板だけが米松材である。 この橇はグリーンランドのカナックで、橇つくりの名人といわれるイッキャングワに依頼して作ってもらった。 頑丈そのものだが、150キロと並はずれて重いのが難点、と植村はいっている。

 なお、4月1日にこの橇を新しい橇と換えている(飛行機による補給時に運搬)。 新しい橇は、幅は変わらず、長さが4.15メートルと少し小さくなった。 カシ材を使わず、すべて米松で作り、ランナーはプラスチックから鉄板に換えたが、最大のポイントは重量が50キロ減って100キロ弱になったこと。 極点へのコースではそれが有効、と植村は判断した。

 次に装備類。 4重張りのテント。 幅2メートル、長さ2.2メートルで柄のない4本骨の傘のような構造で、張るのも撤収するのも1分とかからない。 シュラフ2枚。これは二重にして眠る。 それでも寒くてたまらない、と植村はいっている。 石油コンロ、食糧などは、前の北極圏一万二千キロの旅とほぼ同じである。 ただ、犬の食糧としてペミカンを大量に用意した。

 そして、橇をひく犬たち。 最初は17頭だった。

 積荷のなかで新しいのは、三つの無線機である。 まず、支援隊のいるオーロラ・ベースと交信するための1機。今度の北極点への旅は、カナダ最北の基地アラート・キャンプの近くの小屋に、後援会事務局が支援隊を派遣した。 ヨットマンの多田雄幸氏と、学習院大学の学生鈴木喜久治氏の2人。 それに随時報道陣が加わった。

 もう一つ重要な無線機は、米航空宇宙局(NASA)が開発したDCP(Data Collection Platform)。 スウィッチを入れておくと、気象衛星ニンバス6号が電波をキャッチし、植村の位置、天候などを記録して、ワシントンの宇宙科学センターに情報を送る。 スミソニアン研究所の好意によってDCPを使うことができた。

 三つ目は、ロケーターと呼ばれる非常用携帯無線機。突然海にはまったような緊急時にボタンを押すと、北極圏上空を飛んでいる飛行機がこれをキャッチして、いずれかに危急を知らせる。

 植村の冒険成功後、この無線機の使用を批判した意見があった。保険に手厚く守られた行動を冒険行といえるかどうか、と。

=補講・資料=

メスナーだけじゃない!すごい海外の登山家まとめ=マチエイ・ベルベカ

8000m冬季登頂の雄=マチエイ・ベルベカ=。 1988年にブロードピーク冬期登頂に成功し世界で始めて冬季カラコラム8000m峰の登頂と思われたが、後に17m低い前衛峰までの到達と判明し地獄に突き落とされた。 しかしその後も冬期登頂への熱意は衰えず、2013年に59歳の高齢ながらポーランドの冬期登頂プロジェクトに参加。 25年の時を経て見事雪辱を果たしたが、力を使い果たし7900m地点でチームメイトのコワルスキと共に消息を絶った。 コワルスキの遺体は発見されたものの、ベルベカの遺体は未だ発見されていない。

マチエイ・ベルベカのモニュメント : マナスル 冬季初登頂 / チョー・オユー 冬季初登頂 / ブロードピーク 冬季初登頂、下記に彼が情熱を注いだブロードピーク登山史概略を記しておく。

=イラスト:ブロードピーク=

動画資料 8000m峰の危険 =クリック➡

https://youtu.be/bRgB6uIrzdc 

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

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