偏平足

里山の石神・石仏探訪

石仏635山吉田・浅間山(静岡)双体像

2016年01月22日 | 登山

山吉田・浅間山(せんげんやま) 双体像(そうたいぞう)

【データ】 山吉田・浅間山 519メートル▼最寄駅 天竜浜名湖鉄道天竜線・金指駅▼登山口 静岡県浜松市北区引佐町の西黒田集落▼石仏 浅間山の山頂、地図の赤丸印▼地図は国土地理ホームページより


【案内】 山吉田浅間山へは、南側の静岡県浜松市北区の西黒田集落から林道を利用して登った。しかし山頂に並ぶ⒓基の石造物は全て愛知県新城市側を向いていて、その一つに「三州八名郡山吉田村浅間山之碑」の銘があったので、この山を山吉田・浅間山として案内する。
 その山麓には下吉田、上吉田の集落があり、明治の合併で山吉田村になった経緯はある。とはいえ浅間山之碑が立てられたのは「享保十七年壬歳(1732)」、その当時から山吉田村で通っていたのかもしれない。この年は、富士信仰を庶民に広めるきっかけを作った身禄(1671~1733)が入定する前年である。もっとも身禄は富士山北側の吉田口を拠点にした行者、駿河や三河の富士信仰は南側の富士宮・村山を拠点としていた。



 浅間山に並ぶ⒓基の石造物、そのほとんどが石祠で、そのなかに丸彫りの神仏あるいは神銘碑が納められている稀に見る宗教空間。そのなかから左端に立つ双体像を取り上げる。入母屋造りの室部に納められたその像は高さ27、巾26センチの小さな浮彫像。向かって右は宝珠のようなものを持ち、左が合掌。男女の区別は判然としないが、仏菩薩のようでもある。しかし銘はみあたらないし、思い当たる仏菩薩や神もない。山麓の人たちに訪ねる時間もなかった。ご存知のかたがあったらご教示願いたい。



 双体像以外にも、丸彫り像が2体祀られているが、この神名もわからない。双体像の左に並ぶ石祠のうち丸味のある流れ造りはいずれも「安政二年(1855)」に山吉田村の人たちが村中安全を祈願して立てた石尊・大日・白山の神々である。



【独り言】 石祠型墓石 石祠内に祀られた神仏を見た山吉田浅間山の帰り、登山口の西黒田の集落の墓地で写真のような墓石を見ました。それは屋根と扉がある室部からなり、内部に五輪塔を二基納めるのが基本のような石祠型墓石でした。五輪塔のかわりに銘だけのものもありました。この地方では神仏ばかりでなく、先祖も石祠に納めて供養したようです。ただこの形式をとるのは古い墓石で、近世中期からの墓石はどこにでも見られる駒形や角柱に戒名を入れた墓碑のようです。


 昨年の⒓月に出かけた山形の白鷹町黒鴨の墓地でも、同じような五輪塔を二基納めた石祠=写真上=を見ました(注)。このような墓石はこれまでに関東から山梨・長野・静岡でも見ています。その地域をみると甲斐の武田の領地とその周辺に限られます。その祖型の一つとみていいものが山梨にあります。北杜市白州町花水の清泰寺の再興者とされる曲渕氏は戦国時代の武田氏の家臣、その墓石が石祠型で内部に五輪塔が納められています。
 これらの地域のその後の石祠型墓石内の五輪塔をみていきますと、江戸時代の初期には男女の区別がない双体像にかわっていきます。その後この墓石は衰退し、板碑から変化した墓碑が主流になっていきます。ところが同じ江戸時代の初期に、石祠型墓石内に納められていた男女の区別がない双体像と同じ石仏が登場します。双体道祖神です。その地域は石祠型墓石がある地域とまったく重なります。このような経緯を取り上げたのが拙著『東国里山の石神・石仏系譜』(平成26年、青娥書房)の「祠内仏は道祖神の原型か」でした。
(注)黒鴨は米沢藩領。この地方に多い石祠型墓石のほとんどは、越後から転封された上杉藩士の墓。米沢市の林泉寺に並ぶ石祠型墓石の一つは、武田信玄の六男・信清を弔たったもの。信清は武田滅亡後に上杉に嫁いだ姉を頼って、上杉家とともに越後から米沢に移った。


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