独りぐらしだが、誰もが最後は、ひとり

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放蕩息子の更なる告白 (百三十六話)     佐藤文郎

2019-08-21 13:52:50 | 日記
   因果関係 

 水難事故が多い。私も川や海ではなかったが溺れ死ぬ寸前だった 
 “ボウフラ”の浮いているドラム缶、(戦時中,消火用に水の入ったドラム缶が、そこは仙台市で、レンガ造りの高裁が目の前に見える、道端に埋めてあった)。四歳の私は伸び上がる様にして、ボウフラがウヨウヨ泳ぎ廻っているのを近所の子供達と見ていた。そして私は、もっと良く見ようとジャンプして水面に顔を近づけようとするとバランスを失い落ちてしまい、夢中でもがき苦しんだのを憶えている。あと数秒で溺れ死んでいたろう。水も一杯吞み込んだ。
 それと、腸チフスに罹り九死に一生を得たこと、この二つの事象の因果関係を知っているのは、私一人だけであるということ。しかも、気が付いたのは半世紀もたった頃、偶然気がついたのである。
 にょっきりとドラム缶から出ている子供の足を、通りかかった牛乳屋の小母さんが見つけて引き上げた。そして、ずぶ濡れになって泣いている私を家に連れて行き、ドラム缶に落ちた事、もがいている二本の足を持ち上げた事を、ばあさんと母に説明した。すると、何事にも動じないばあさんは、母に「はい、すぐ砂糖湯をつくって飲ませなさい」と言った。この断片的な記憶は鮮明である。とくにばあさんが、砂糖湯を、と言っている姿は脳裏に焼き付いている。ドラム缶の汚水の中に、ボウフラが浮いていた事など牛乳屋の小母さんも、ばあさんも,母も、知らない。それどころか、私自身忘れていたのである。母の話だと黒い幌付きの車に、母と私が載って病院にゆき隔離されたと。一つ上の姉の話では、病院には入れず、ばあさんと二人で外から手を振ったと言った。おそらく姉も検査を受け、家も消毒された筈である。なにせ、私の中で鮮明になったのは、ばあさんは勿論,母も他界してからである。それにしても近所の目もあったろうに、腸チフス患者が出たこと。その原因も判明しないまま、どういう結論に至ったのだろう。現代では考えられない。戦後の食糧難の頃でもあるまいし、戦地から父が帰還して、この腸チフスのことが、話題にのぼった事も一度もないなんて。入院してからの事はよく憶えている。四十度の熱が十日間続いたそうである。熱にウナされ、看護婦さんや白衣の先生が、心配そうに何度も覗きに来たのを憶えている。「何号室の人が亡くなった」と噂しているのを聞いたこともある。深夜に、母が廊下のむこうで氷を砕いているのも耳をすまして聴いていた。快方にむかい、二日後に退院という日が来た。
 親切な看護婦さんが居た。私を抱っこして看護婦室に連れて行った、お菓子を、一個ではなかったが、三分の一ほど食べさせてくれた。その後のことも良く憶えているが、その午後だったろうか、トイレに連れて行かれて出たうんこが真っ黒だった。イカの墨のようだった。大騒ぎになった。その後の事は母に聴いたのだったと思う。婦長さんの指示で医師には言わない事にして、うんこの黒いなかにマッチ棒の先ぐらいの黄色い部分が有り、そこを最終検査に出した。そうして、退院許可が下りたそうである。
 看護婦さんは、どれほど嬉しかったろう。抱っこして何度も頬を押しあてた。
 ボウフラの浮くドラム缶に落ちた事故と、腸チフスで隔離入院したことが私の中で、その因果関係に疑いが芽吹き、確信に変わったのは六十歳の後半になった頃である。姉はまだ健在だが、あとは誰もいなくなっていた。
 別の話だが、つい最近、「伊達家の黒箱」が仙台の伊達家資料館に展示されていることを知らせてくれた人がいた。直接私に関係はないのだが、私は、何となくそういう事を予想したように、以前「放蕩息子の更なる告白」(六十五話)として、母方の刈谷半右衛門伯父の「我が家の記録」の一部をとりあげさせてもらった。東京帝国大学に調査研究の依頼を受けて貸し出している最中、大震災の難に遭ったという。大槻文彦博士の鑑定を乞うたわけではないのに、聞きつけて博士の方からの訪問だった。博士には、伊達騒動の事を書いた著書があり、黒箱の資料には新たな事実があったからだ。
 また、〘大正天皇、東北ご巡幸のみぎり、盛岡にて天覧を、仰ぎ後大正七年文献の資料にと、東京帝国大学〙へとなり、大正天皇への天覧は、建前であり、刈谷家からまず宝物をひっぱり出す事であり、後は何とでもなると暗躍組は分かっていた。五年間も返さなかったのだから、震災があっても無くても、返すつもりはなかったと思う。地位も名誉もある人品骨柄申し分無い人達が、中間に何人もの古物商や骨董屋をかいして、最後に現在の伊達家当主に連絡したはずである。東京帝国大学になど最初から行っていないのではないか。公序良俗を掲げ、表を柔和で装いながら悪を行い、自分にも、ひとにも、そのことを気づかせないですまして終えるのである。【伊達家の黒箱】は旧伊達藩、現在、岩手県内に在住する刈谷家のものである。大正天皇に天覧を仰いだあと、その同じ人達が再訪問すると、うやうやしく、当家の名誉とやらをちらつかせながら、東京帝国大学への調査研究を依頼した。

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