DALAI_KUMA

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夢(2)

2014-01-03 22:56:19 | 物語


写楽を語る上で、1700年代の江戸を総覧してみる必要があるようだ。

1779年、老中田沼意次が政権を握る。

田沼は、悪化する幕府の財政赤字を食い止めるべく、重商主義政策を採る。

内容は株仲間の結成、銅座などの専売制の実施、鉱山の開発、蝦夷地の開発計画、俵物などの専売による外国との貿易の拡大、下総国印旛沼の干拓に着手する等の政策を実施した。

その結果、幕府の財政は改善に向かい、景気もよくなった。

しかし、社会の初期資本主義化によって、町人・役人の生活が金銭中心のものとなり、そのために贈収賄が横行した。

なんとなく、今の安倍政権を彷彿とさせる。

都市部で町人の文化が発展する一方、益の薄い農業で困窮した農民が田畑を放棄し、都市部へ流れ込んだために農村の荒廃が生じた。

意次は対策を打ち出すが、失敗し逆に事態を悪化させてしまった。

その中にあって財政難に陥っていた諸藩は米価の値上がりを借金返済の機会とし、検地により年貢の取立てを厳しくしていった。

浅間山噴火から東北地方を中心とした天明の大飢饉などで一揆や打ちこわしが続発し、その他にも役人の賄賂などがあったため、田沼意次は失脚する。

天明6年(1786年)8月25日のことだった。

その後に登場したのが、松平定信だ。

いわゆる寛政の改革(1787年- 1793年)において、定信は吉宗の享保の改革を理想とした緊縮財政、風紀取締りによる幕府財政の安定化を目指した。

田沼が推進した重商主義(商業重視)政策を否定し、朱子学派保守勢力による重農主義を採用した。

蘭学の否定や身分制度の徹底も並行して行われた。

だが、人足寄場の設置など新規の政策も多く試みられた。

しかし、寛政5年(1793年)には、仙台沖で寛政地震(死者44人以上)が起こっている。

こうした時代背景を基に写楽は華麗に登場した。

1794年(寛政6年)5月から翌95年の正月までの10ヵ月間で、役者絵、相撲絵の版画約140点を製作した。

写楽は、それまでの常識を覆す雲母(きら)摺りの豪華な背景と、リアルな表情と姿態を描き、日本を代表する浮世絵師の一人として世界に知られている。

そして写楽は、レンブラント、ベラスケスと共に、世界三大肖像画家の1人であると言われている。

「しゃらくさい(洒落さい)」の本来の意味は、「身分不相応なお洒落をする事」、「成金が形や容姿だけを真似た、俗っぽい事」、「鼻持ちならない」と云うことらしい。

これが「写楽」の名の由来とも云われる。

逆に「写楽」が「しゃらくさい」の語源とも云われている。

写楽の生涯や正体は不明な点が多かったが、幕末の考証者・斎藤月岑(げっしん)は「増補浮世絵類考」(1884)で「写楽は江戸八丁堀に住む阿波藩の能役者の斎藤十郎兵衛」と記載した。

そして、この天才絵師をデビューさせた稀代の出版プロデューサー、「蔦屋重三郎(つたやしげさぶろう)」の存在も忘れる訳には行かない。

蔦屋は、歌麿を売り出したことでも知られている。

ちなみに、総合メディアショップの「TSUTAYA」の名の由来も、会長の増田氏がこの「メディア・レヴォリューショナー」の様になりたい、と云う「夢」を込めた命名であるという。

夢って、繰り返すものなんですね。


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