* day by day *

悲喜こもごも。
1リットルの涙と100カンデラの笑顔。

ある高校では

2005年12月23日 12時16分54秒 | Weblog
四国の県立高校で、次年度から、生徒が担任教師を選択できる「希望担任制」を導入するそうだ。教師の担当教科のほかに、抱負や信条などを生徒に表示し、それを見て、生徒が希望担任の順位を選ぶというものだそうだ。ある教育学者(この人の数々のコメントを聞くたびに、しら~っとしてしまう)は、「自分で選択することで学習意欲が高まる」「キライな先生に当たらないことは、教師や学校への信頼感につながる」と述べる。一方、「人気投票になってしまい、教師によけいな負担がかかる」と述べる医師もいる。
「生徒側の目線に立てば、生徒が先生を選べるのは当然だ」と某教授はおっしゃるが、先生は生徒を選べない現実がある。先生にとって指導のしやすい生徒をチョイスしてクラスづくりができるのならば、クラス経営もスムーズだろう。そうではないところに、個々の指導の難しさがあり、そのために資質を高める努力をしていくのだと思う。
中学でもそうだが、高校は教科専任教師が授業をする。進路指導は担任教師も行うが、進路指導担当の教師のほうが進路の知識や受験のノウハウは熟知している。また、部活動をしている生徒ならば、担任教師よりも部活動の顧問や監督の教師のほうが、より密着した関係となり、信頼度も厚い。それぞれの分野で専門化していき、それぞれの場で教師との信頼関係が生まれるということだ。小学生ならば、担任教師はオールマイティの存在であり、密着度も高いが、中学生や高校生となると、そうではなくなる。
「学習意欲」など、本来の「学習」の意味から考えても、基本は「自分」だ。自分から学習する意欲や態度をもって、教師にぶつかっていけばよい。担任だけから学ぶのではなく、さまざまな教師から幅広く学べるはずだ。希望した担任ではない場合も当然あるだろう。生徒と教師とがクラスづくりをするのにマイナスとなるのだろうか。なにか問題が起こったときは「やっぱり、この先生じゃだめなんだ」と切り捨ててしまうのだろうか。人間関係においては、どのような相手であっても、理解しあえるようにお互いの努力が必要であるのだから、「この人はパス」式で決めてしまうのは、これから社会人となる若者にはマイナスだと思う。
教師の指導力不足が時に指摘されることもあり、教師の指導力を高めていくことは大切である。それは、生徒を指導する教師自身が自覚をもって高め実践していくことが基本だろう。今回の取り組みは、それを生徒側に指摘させようとしているような気がしてならない。また、生徒の希望担任の選択基準はどういうところにあるのかはわからないが、その基準で選択される教師のストレスが指導意欲の低下につながらないように配慮してほしい。生徒に気に入られること=よい教師。生徒と教師の関係は、この単純な構図では計れないものがあるのだ。


医学部学生たちの感覚

2005年12月17日 11時42分24秒 | Weblog
九州の某大学の医学部学生が『うさぎ狩り』というブログを開設したそうだ。その内容たるや、「さぁ、うさぎを狩るぞ~」として、うさぎの解剖の一部始終(だったかな?)の掲載だったそうだ。ブログメンバーのだれかが自動車を運転中に誤って野うさぎを轢いてしまい、それを自宅に持ち帰り、数人で解剖したというのだ。
大学の関係者の「倫理観に欠けている」というコメントもあったが、ひとりの関係者は「学生たちは、魚を獲っても、『魚を殺した』と表現している。言葉の芸術のようなものでもある」等とコメントした。はぁ?言葉の芸術?そんな表現のどこをどうとれば「言葉の芸術」になるというのだ。感覚を疑うわ。
人の命のもっとも近いところにいる医師を目指す医学部学生たちは、命に対して、真摯に向き合う姿勢が必要だ。そうでなければ、怖くて、命なんか預けられない。医学の道を志す過程で、当然解剖を含めた実習は必須だろう。ヒトの解剖は必修なのかどうかは定かではないが、その場に立つことがあれば、その死者に対して敬虔な気持ちをもって接していくのは、医学生としてというだけではなく、人間としてノーマルな感覚だと思う。「気合を入れて、うさぎを狩るぞ~」とおもしろがっている表現はすべきではないし、野うさぎであろうとも「命」に対する敬虔な気持ちを忘れてはならない。

証人喚問

2005年12月16日 15時41分09秒 | Weblog
耐震強度擬装問題で、姉歯元1級建築士や黒幕とされる総研社長や木村建設関係者が承認喚問を受けることになった。「NHKなんて見ませんから」と言っていたわたしも、この日だけはNHKの国会中継を見た、最初の数分だけだけれど。最初は自民党の議員で、アンタなにやってんの、自分のパフォーマンスの場じゃないんだから~とあきれてしまう数分だった。ちゃんと質問しなけりゃ意味ないでしょうに、全く。・・・と、ちゃんと見ていたのはここまでで、あとは仕事の準備をしながら、ところどころ見聞きしていた。当事者たちは「わたしだけが悪いんじゃない」「わたしはなにも知りません」「そういう意味で言ったのではありません」等々、逃げと責任転嫁の繰り返し。あきれます、ほんとにあきれます。真実はまだ憶測のなかに隠れたままだ。
この事件が発覚したときは、姉歯元1級建築士のあの対応のしかたに怒りのみの報道が多かったけれど、最近は、なにやら彼に同情的になっていると思うのは、わたしだけ?子どものころの家庭環境や病弱な妻の報道、知人や恩師のコメント、職業のもつ地位の低さなどから、「しかたなくさせられた」「しかたなくしてしまった」「この状況ならばしてしまうのも理解できる」といった彼の立場を擁護するような雰囲気を漂わせる報道になっているのが気にかかる。彼の上にいる大きな組織の利己的な力(立証はされていないが)を罰しなければならないが、どんな事情があっても、プロのプライドを捨てた行為は弁護の余地はないのだ。彼の行為は、たくさんの人たちを不幸にしたのだ。彼はその重みをどのように感じているのだろうか。「わたしにも罪はある。しかし、わたしだけでできることではない」と言った彼の言葉に、真摯な謝罪の姿勢は感じられなかった。いたずらをした子どもが「悪いことをしたのは、ぼくだけじゃないもん」と、連帯責任によって自分の罪が軽くなるとでも思っているのと同じようなものだ。

新聞正常化販売

2005年12月13日 01時07分10秒 | Weblog
時々、新聞の折込みチラシに入ってます。「数か月間購読無料サービス、○○入場チケット、洗剤など、新聞購読契約のためのサービスはしません。新聞内容の充実に努力します」といった内容だ。「正常化」というところから、今までの勧誘の仕方は正常ではなかったということだ。「ご理解のうえ、ご協力をお願いします」と言われても、そういう勧誘をしていたのは、新聞店の営業さんでしょうに。「3か月無料サービスしますから、とってくださいよ~」としつこく勧誘していたのは、販売店の方だったのでは?新聞購読料金は以前は集金だったが、その集金時には「○○のチケットがありますから、もってきましょうか」と、やけに親切だったし、銀行口座引き落としになるときは、「チケットがほしいときは、いつでも言ってくださいね、もってきますから」だった。購読者がなにも言っていないのに、この親切な対応はどうでしょ。「正常化」結構。購読者の数の多少ではないだろう。内容を充実させて、読者をひきつければよいのだ。
ちなみに我が家は、新聞を2年毎に2社を交代で購読している。読者の声の欄も社説も、それぞれに雰囲気が違いその新聞のカラーがでていておもしろいし、1社の方向に染まるのはよくないと思っているからだ。

食い違い

2005年12月10日 23時20分13秒 | Weblog
高校1年の男子生徒が自らの命を絶った。彼が短いメッセージを残しただけであったために、自殺の原因は不明であるが、生きていけないほどの苦しみや絶望感があったのだろう。
彼はスポーツ好きで、学業成績も優秀だったそうな。バレーボール部に所属していたが、その高校はバレーボールの強豪高校で、先輩後輩の上下関係や連帯責任性をはじめかなり厳しい部内の規律があったらしい。また、彼の発声をものまねしたりして、からかわれていたという。そういったことが原因であったのか、家出をした後で不登校になっていた。母親は、学校でのイジメが自殺の原因だとし、学校側は、イジメが原因であるとは言い切れないと主張していた。
気になったのは、「あれ(ものまね)をイジメだとすれば、世の中はイジメだらけになる」「学校だけの問題ではなく、家庭の問題(家出)もあると思うが、お母さんはそれでは不満なんでしょう」といった言葉だ。そもそも、「いじめられている」と感じるのは本人であって、他者が「どうってことはないだろう」としてしまうのは不適切だ。本人が「イジメ」だと感じたら、それは「イジメ」である。本人にとって、他者からの働きかけを苦痛に感じたのならば、本人の心に寄り添ったケアをしていかなければならない。その対処のなかで、イジメに対する考え方や対応を指導していくこともできるだろう。また、母親が納得するかどうかという問題ではないはずだ。母親が納得すれば、学校長の心痛は半減されるのか。
突然息子をなくした母親の心情を思うと胸が痛いが、息子の数々の行動を見直すことも必要なのかもしれない。どちらが悪いのかと責任追及するよりも、一人の若者が命を落としたというその事実のなかでは、その若者の心情を思いやることが大切なのではないか。

紅白歌合戦

2005年12月07日 10時24分26秒 | Weblog
先日、年末の恒例行事の国民的イベントとなっているNHKの紅白歌合戦の出場者が発表された。恒例といっても、わたしは最後に見たのはいつだったのか思い出せないくらい前に見たきりだ。なんでも、出場者が決まる前には、視聴者から好きな歌や聴きたい歌を投書してもらうそうな。でも、「その投票結果は、反映されてない」とレポーターが言っていた。じゃあ、投票する意味ないよね。NHKがチームでも組んで、出場者を選べばいいんじゃないですか。
と、こういうことを書きたかったのではなくて。
司会者も歌手も、紅白のギャラは少ないそうだが、紅白に出場することは、歌を歌うことを生業としている人たちにとっては、一種のステイタスになっているらしい。他局の番組に出演するときには、本当かどうかは定かではないけれど、紅白に出場したか、していないかで、ギャラも変わってくるそうな。そりゃ、一生懸命になるし、出場する感激もひとしお、気合も入るだろう。
紅白を1年の締めくくりとして楽しめる人はともかく、パスするわたしにとっては、なんでそんなハクづけ番組のために受信料を払わなければならないのよ、となってしまう。NHKの朝の連ドラも話題になった(なっているんだろうか、まだ)プロジェクトXも見ないが、放送受信料は規則であるからということで、年間約24000円の受信料を銀行で自動引き落とししている身からは、もう少し質素にマジメにやってよ、と言いたくなる。紅白にしろ、朝の連ドラにしろ、騒ぎすぎなんじゃないですか。
NHKの数々の不祥事が発覚した以降、受信料の不払い者はまだ増えている状況だ。不払い者には罰則を設けるという話もあったけれど、どうなったんだろう。受信料をきちんと支払ってもらえるような番組づくり、局員の姿勢を見せてください。



再犯?

2005年12月03日 01時07分51秒 | Weblog
広島の女児殺害事件の詳細が徐々にわかってきたようだ。
加害者は本国で、女児に関する犯罪を犯したことがあり、偽名を使って日本に入国したらしい。密入国ではないのに、偽名で入国?パスポートを偽造したということだろうか?それに、本国ではまだ裁判途中らしい。
今回の犯罪の供述も、意味不明だ。自分ではない自分が罪を犯したと主張することで、責任回避を狙っているのかな。
聞けば聞くほど、怒りがこみ上げてくる。

2日にまた、小学1年生の女児が下校途中で行方不明になるという事件が起こった。その場所から数キロ離れた場所で、殺害された女児の遺体が発見されたが、行方不明の女児かどうかは不明らしい。

幼い無抵抗の子どもを狙う犯罪は許せない。

外国人就労者

2005年12月01日 14時39分58秒 | Weblog
広島の小学校1年生の女の子が下校途中で殺害されて、ダンボール箱に入れられて遺棄された事件から1週間後に、犯人が逮捕された。まだ自供はしていないらしいけれど、犯人と断定されている。いたいけな子どもが命を奪われてしまうことの怒りと悲しみで胸がいっぱいになる。どこの家庭でも、子どもをもつ親は「知らない人についていってはいけない」と言ってるはずなのに、それでも、子どもを狙った事件がなくならないのは、犯人の手口が巧妙化しているからなのだろうか。犯人が逮捕されたからといって、女の子が生き返るわけではない。両親の悲しみや苦しみは一生続くんだろうな。。。女の子のご冥福をお祈りします。

逮捕されたのは、外国人就労者。わたしの実家は三重県なのだが、そこにある家電メーカーや自動車メーカーでは、外国人就労者が多い。逮捕されたペルー人が住んでいた広島でも、自動車メーカー等での外国人就労者が多いようだ。いわゆる出稼ぎに来日している外国人は年々増加している。豊かな国「日本」で就労して、母国の家族に送金する。それだけではなく、日本で蓄えをつくり、母国で○○長者になるのも夢じゃない、という甘いうたい文句もまことしやかに流れているようだ。でも、現実は厳しい。日本の生活水準の基準からは低賃金で、その賃金のほとんどを母国へ送金し、自分はその残りで生活をする。周囲の環境に同化できる人や、同国人同士が交流できる人はまだよいが、文化の違い、言葉の違いから、ひとりや2~3人で孤立化してしまう外国人就労者も少なくはない。そういう人間関係だけではなく、就労場所が不安定だったり、雇用関係がうまくいかなかったりすれば、たちまち生活に支障をきたしてしまう。こういった状況が、外国人就労者犯罪の増加の原因のひとつだろう。外国人就労者を受け入れるだけではなく、その後の生活状況を見守りながら、精神的支援をしていかなければならないのかもしれない。労働力として期待するのならば、それに見合った支援もしていく必要があるんだろうな。