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第64回京都旅歩きラストミッション 「桜の思い出」

2016-04-02 14:40:56 | Weblog

 「桜の思い出」  作 大山哲生

吉川六郎は峠山中学の校長を十年務めている。

また桜の季節がやってくる。吉川は桜を見るたびに、冷や汗が出てきそうなある失敗を思い出す。

 ある年の三月のことであった。卒業式が終わって、吉川はすぐに入学式の式辞を作り始めた。前段のあいさつ部分は例年どおりとし、「新入生の皆さん」というところからを考え始めた。年度末の忙しい時ではあったが、なんとか式辞を作り上げることができた。

 昨年は、四月になってから式辞を作ればいいやと思っていたが、四月当初はばたばたとあれやこれやで時間が過ぎていき、土日に出勤してなんとか仕上げた苦い経験があるので今年は早めに作り上げたのであった。あとは、新入生の人数を書きこまなければならないが、こればかりは当日の朝にならないと正確な人数はわからない。

 峠山中学の入学式は、生徒会会長が歓迎の言葉を述べることになっている。その言葉は儀式的なもので、この原稿も校長が作るのが慣例なのであった。

 吉川は、パソコンから昨年の歓迎の言葉のファイルを呼び出し、簡単な修正を加えたのみで、奉書紙に印刷し歓迎の言葉も完成させた。

 その年の桜は早くに咲き始め、三月末には早々と満開になってしまった。

 例年は四月七日の入学式の日にほぼ満開を迎えるので、文字通り式に花を添える。しかし、この年の入学式は、葉桜に見守られるものになった。

 入学式の朝となった。

 案の定、校庭の桜は完全に散りきってしまい、葉が出ている。

 吉川が校長室でお茶を飲んでいると、生徒会長の津上紗英がやってきて「すみません。歓迎の言葉の原稿をいただきにきました」と言った。

 吉川は、奉書紙に印刷したものをうやうやしく津上に渡した。

「よろしく頼みます」と言うと、津上は「はい」と言って戻っていった。津上は、なかなかのしっかり者で、最近は生徒会長としての貫禄が出てきた。

 いよいよ、入学式が始まった。

「学校長式辞」という司会の声。吉川は演壇にあがり、式辞を読み始めた。読み終えて自席に戻る。そのあと、来賓の挨拶やらなにやらが続いたあと生徒会長の歓迎の言葉になった。

 吉川はこのとき激しく動揺した。それは、生徒会長の原稿の中に「桜の花も満開で」という下りを残してしまったことに気がついたからなのであった。誰が見ても校庭の桜の花は皆無で葉が出ていることはすぐわかる。原稿のまま生徒会長が読んでしまったら、失笑を買うだろう。それでは生徒会長があまりにもかわいそうである。

 とは言え、いまさらどうすることもできない。吉川はパイプいすに腰掛けたまま、不安な気持ちで津上を見守らざるを得なかった。

津上は演壇に立つと一礼をし、原稿を読み始めた。

 吉川の心臓が早鐘のように打った。津上の大きな声が響く。

「桜の花も満開・・・」

 ここで津上は一瞬驚いたようで、ちらりと吉川に視線を送ったがすぐに続けて、

「・・・は過ぎましたが、・・・若葉が・・・新入生のような・・・若葉が伸びている・・・この良き日に・・・」と歓迎の言葉を最後まで読み切った。

 見事な切り返しであった。吉川はあまりにうまい切り返しにおもわず『うーん』とうならざるを得なかった。そして、ほっとすると同時に心の中で津上を賞賛した。

 式が終わって職員室に職員が引き上げてきた。ほとんどの職員は、津上の言葉がアドリブであるとは気がついていない。

 吉川は、津上の機転をほめてやりたくて、お茶を飲んでいる職員に津上の話をした。職員は感心することしきりであった。

 そのとき津上が奉書紙の原稿を返しにきた。

「津上さん、すまなかったね。桜が満開という文言が残ってしまって」と吉川が言うと、津上はにっこり笑って

「私もびっくりしましたが、なんとかうまく切り抜けられてよかったです」とくったくなく笑って教室に戻っていった。

 その後、津上紗英はあるラジオ番組の担当になった。吉川は、彼女が今日もマイクの前であの切り返しのうまさを発揮するに違いないと思うのだった。

 

 

 

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