「狐坂」 作 大山哲生
一
弘仁七年(816年)。
藤原行佐(ふじわらのゆきすけ)の娘、明子(めいし)は登華殿で陰陽道をさらに極めるべく精進していた。しかし、明子は最近激しい頭痛に襲われることがあった。そばに使える女の童(めのわらわ)が、心配をして薬師に薬を作らせたりしたが、いっこうに収まらないのであった。
二
昭和二十九年のことであった。
徳山俊介は京都の南にある峠山中学校の校長であった。
今年は大変だ。来年に創立六十周年行事をしなければならない。峠山中学はこの地区で最も古い学校なのである。
校舎は天井が高く弧を描いている。革靴で歩くと足音が天井に反響する。木の床には油引きをしてあり黒っぽい色をしている。廊下は下半分が腰板であるが、そこから上は真っ白い壁がそそりたつ。階段の手すりには非常に細かい彫刻が施されている。
万事、地域の熱い思いがしみこんだ学校なのであった。
周年行事は、議員でもある育友会長がえらく乗り気である。地区の他の中学校の育友会長や京都市長までも招待したいらしい。
おかげで、月に二回、午後七時から実行委員会が開かれる。この校舎は、夜の会議ともなると天井が高いせいか声がよく響き、妙にわびしい気持ちになる。
解決が長引いている生徒指導事案と相まって、徳山は少々疲れ気味であった。
三
九月はじめの実行委員会で会長から出たのは、記念行事として有名な医者に健康作りの講演をお願いしてはどうかということであった。書記の佐藤氏が、そういう話は大人にはわかっても生徒にはわかりにくいのではないかと質問した。
会長は、「この戸谷小路という医者はあちこちで講演をしているが中学生相手に講演をした実績もあり、おおむね好評だったと聞いている」と言う。
聞けば、会長が直々に声をかけて内諾はとってあるということであった。
「あとは、校長と会長の連名で正式の依頼分を出せばいけます」と会長は言った。
ある日の午後、教頭が「それでは校長先生、今から戸谷小路先生のところに依頼分を届けてきます」と言う。徳山は「ああ、ご苦労さん。よろしく頼みます」と声をかけた。
教頭が学校をでたのが午後2時過ぎ。戸谷小路という医者は京都の北の方に住んでいるらしい。電車とバスでかなり時間のかかるところである。
午後六時頃、電話がかかってきた。
「教頭です。話が長引いて今から帰ります。帰るのが遅くなるので報告は明日します」
と言う。
徳山は、その日は家に帰ることにした。
次の日、教頭は講演依頼がうまくいったと報告した。
四
翌年の十一月。
この日は、峠山中学の創立六十周年の記念行事の日である。
徳山のあいさつ、育友会長のあいさつ、来賓のあいさつとおわり、いよいよ戸谷小路医師の講演会になった。
なるほど、話はうまい。大人にも中学生にもわかるように、健康作りの大切さを丁寧に語ったのであった。
行事は滞りなく終わって、来賓も生徒も帰った。徳山は、講堂から高い丸天井を見上げながら校長室に向かって歩いた。校長室に入ると疲れがどっと出てソファーに座り込んだ。
五
次の日、徳山は戸谷小路医師へのお礼状を書き始めた。こういうときには、校長が直接お礼状を持って行くのがいいかなとは思ったが、疲れていたこともあり郵便ですませようと考えたのであった。
そのとき、校長室をノックするものがある。「どうぞ」と言うと、育友会副会長と教頭が入ってきた。
「校長先生、記念行事についてはご尽力いただきましてありがとうございました」
「無事にすんでよかったです。実行委員の方のご苦労が報われましたね」と徳山は言った。
副会長はさらに「つきましてはお礼状ですが、校長先生に直接持って行っていただきたいと会長さんからの伝言です。依頼文を教頭先生が持って行ったのも不満に思ってられるようです」
「わかりました。じゃあ直接行ってくることにしましょう」と徳山は言った。
教育委員会のことならまだことわりもできるが、議員でもある会長の言うことは絶対であるので校長といえども従わざるを得ないのであった。
六
急いで礼状を書くと、カバンに入れた。教頭にはあらかじめ地図をもらっておいたので頼りはそれだけだった。教頭は、この地図を説明しながら「ややこしかったです。もう一度いけと言われてもたどり着けないと思います」ということだった。
徳山は、市電とバスを乗り継いで京都の北の方に行った。ガタコト道をしばらく走った。そのとき、車掌の女性が『次は骸小庵、戸谷小路医院はここでお降りください』と言った。
ムクロコアンなんて聞いたこともなかったが、戸谷小路医院という言葉がでたので徳山はバスを降りた。
降り立ったところはかなりの山のなかであった。朽ちた板にかすかに「戸谷小路医院はこちら」という字が読み取れる。徳山は案内に従って山の中に分け入った。どこをどう歩いたのかわからなくなり途方に暮れていると、子狐が前の方にいる。徳山はなんとなく子狐のいる方へ歩く。近づくと子狐はさらに前の方にいる。結局徳山は、子狐に導かれるまま歩いた。
しばらくいくと、古い家があった。柱には『骸小庵』とある。徳山はここで道を尋ねることにした。
「すみません」と声をかけると、薄暗い庵の奥から「はい」といって女性が出てきた。徳山は驚いた。言葉も出ないほどの美人である。母校の水橋高校の妖精とうたわれた同級生の中井千里にそっくりだ。
「中井さんですか」と徳山は聞いた。
「いえ、私は中井というものではありません」
「えーと、戸谷小路医院はどちらのほうでしょうか」と徳山は聞いた。
「ここでございます」とその女性は言う。
「どういうことかよくわからないのですが」
「私は今から千二百年前の者で、藤原行佐(ふじわらのゆきすけ)の娘で、名を明子(めいし)と申します。今は、あなたの心にある女性の姿を借りてお目にかかっております」
「えーと、なるほど」徳山は驚きのあまり間の抜けた返事をしてしまった。
七
「戸谷小路先生に会いに来たのですが」
「戸谷小路は、七十七日前に死にました」
「え、だって昨日話をしていただいたんですよ」
「戸谷小路は、そちらで話をするのをえらく気にかけておりました。だから昨日は、新仏の死体を借りてそちらにうかがったのです」
そういえば、昨日講演会のときに教頭が、戸谷小路医師はえらくやせた、まるで別人のようだと言っていたのを思い出した。
「戸谷小路医師のことで、千二百年前のあなたがなぜ出てこられたのですか」と徳山は聞いた。
八
「藤原行佐一族は代々陰陽道を極めてまいりました。私は、内裏の中の登華殿より千二百年後を貫視し、今ここに仮の姿でお目にかかっております。実は戸谷小路は私の子孫でございます。戸谷小路は独り身で、亡くなったあとも誰も弔う者はおらず、戸谷小路の霊が登華殿にいる私にしきりに話しかけてまいります。それは時に激しい頭痛となってあらわれたのでございます。仕方がないので私が千二百年の後を貫視し、こうやって仮の姿を保ち、弔っているのでございます」
「にわかには信じがたい話です。実は戸谷小路先生にお礼状をもってきたのですが」
「わかりました。そのお礼状はいったん戸谷小路の仏前に報告した後お返しします」
そういうと、その女性はお礼状を仏前においてなにやらお経のようなものを唱えたのであった。そして再び徳山の前に来ると、礼状を返してくれた。礼状には茶色くろうそくがたれて張り付いていた。
「それではおいとましますが、どの道をたどれば帰れるのか検討がつきません」
「わかりました。そこにいる子狐に案内させます。あなたは、あの子狐の後を追っていけば必ず帰れるでしょう」
九
徳山は外に出てひとつ伸びをした。振り返るとそこに庵はなく、朽ち果てた木が数本横たわっているだけであった。どうやら千二百年前の明子が貫視をやめてしまったようだ。
徳山は少し身震いをして前を向き直った。すると五間ほど前に子狐がちょこんとすわって徳山を見ている。それから、来たときと同じように徳山は子狐が案内するとおり歩いた。
徳山はすでに方向感覚が麻痺しており、どの方向に歩いているのか検討がつかないのであった。
やがて、都会の喧噪が聞こえ、遠くの方に砂ぼこりの中に自動車のヘッドライトの揺れているのが見えた。
徳山は家に帰ってどこを歩いたのか調べて見た。宝ヶ池の付近を抜けて松ヶ崎のあたりまで行ったようだった。そのあたりであの骸小庵にいきあたったものと思われた。
徳山はおそらく夢でも見たのだろうとカバンを整理すると、あの礼状が出てきた。広げてみると茶色いろうそくがべったりと張りついていたのであった。
人々はこの話を聞いて、京都松ヶ崎に狐坂という地名が残っているのはこのことだと語り伝えたとか。