風わたる丘

「夢語り小説工房」サブサイト


小説を探すには、私のサイト「夢語り小説工房」から検索すると便利です

第87回古都旅歩き 創作「義満の怨念」

2016-07-01 15:52:11 | Weblog

~メインサイト「古都旅歩き」

 

  創作「義満の怨念」 作 大山哲生

 足利尊氏が京都に幕府を開いて以来、足利幕府は着実に勢力を強めていった。そして、その勢力は足利義満のころに最も大きくなり、すべての権力を掌握するに至ったのである。それは朝廷の力をもしのぐといっても過言ではなかった。

京の室町のお屋敷は花の御所と呼ばれ人々はその壮大さ・美しさに驚いたのだった。

しかし、義満は花の御所だけでは飽き足らず、ひそかに天皇になりたいと考えていた。そのためには、朝廷や他の公家からも一目おかれなければならない。

 京には御所があるが、その御所をしのぐのが伝説となった法成寺であった。法成寺は藤原道長の作った寺で、広い境内には豪華なお堂がいくつも建ち、丈六の阿弥陀如来が九体並んでいた。それは藤原氏の権力を象徴するかのごとくであった。この法成寺を作ったことで道長は『御堂関白』と呼ばれたほどであった。

 法成寺はその後火災などで荒れ果て、今や無量寿院と法華堂などが残るのみであった。

 義満は、その伝説の法成寺を越える寺を作りたいと考えたのであった。

 義満が、まず目をつけたのは、西園寺公経の北山の別荘であった。当時、北山の別荘は池には碧い水が輝き此岸の極楽浄土とたたえられたほどであった。義満は、公経からこの別荘を譲り受けた。その後多くのお堂を建て豪華絢爛な別荘に作り替えたのであった。

寝殿や金閣と呼ばれた金箔をはった舎利殿を作り、さらに池や植栽を整備して相国寺から七重大塔まで移築した。それは、御所をしのぐ規模であり、北山の別荘はいつしか北山第と呼ばれるようになった。

 絵師・庭師・細工職人なども北山第のために腕をふるい、その豪華絢爛さは北山文化として一時代を築いたのであった。

応永四年、義満は贅を尽くした北山第に後小松天皇を迎えた。これにより公家たちに自分の方が天皇より権力が上であることを示したのであった。

義満は得意の絶頂にあった。義満は将軍職を譲ったあとも、北山第に役人を通わせ全権を掌握し続けたのだった。義満はこの北山第をこよなく愛し、亡くなるまでここに住んだ。しかし、天皇にはなれなかった。

義満が亡くなったあとは、遺言により北山第は禅寺になり、名を鹿苑寺と称することになった。

しかし義満の死後しばらくすると寺は次第に荒れていき、七重の大塔は落雷で消失、寝殿などは南禅寺や建仁寺に寄贈された。

応仁の乱では京の市中は焼け野原になった。寺という寺、屋敷という屋敷が消失したのであった。北山第も例にもれず、戦乱に巻き込まれほとんどが焼け落ちた。

しかし、金閣と呼ばれた舎利殿だけが奇跡的に無傷で残った。それはまるで、義満のこの世への執念であるかのようであった。

あの金閣は義満の怨念が乗り移ったに違いない、鹿怨寺金閣だと人々は語り伝えたとか。

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 第87回古都旅歩き 西陣界隈... | トップ | 二階堂校長の事件簿  「音楽... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事