知るは楽しみなり

~考えるためのヒント = ただの備忘録~

【読んでみよう】『徒然草』(89段)

2005-07-10 18:23:23 | 雑話拾遺
〈原文〉
 「奥山に、猫またといふものありて、人を食らふなる。」と、人の言いけるに、「山ならねども、これらにも、猫の経あがりて、猫またになりて、人取ることはあなるものを。」と言ふものありけるを、何阿弥陀仏とかや、連歌しける法師の、行願寺のほとりにありけるが、聞きて、一人ありかん身は、心すべきことにこそ、と思ひけるころしも、ある所にて夜更くるまで連歌して、ただ一人帰りけるに、小川の端にて、音に聞きし猫また、あやまたず足もとへふと寄り来て、やがてかきつくままに、首のほどを食はんとす。肝心も失せて、防がんとするに力もなく、足も立たず、小川へ転び入りて、「助けよや、猫またよや、猫またよや。」と叫べば、家々より、松どもともして走り寄りて見れば、このわたりに見知れる僧なり。「こはいかに。」とて、川の中より抱き起こしたれば、連歌の賭物とりて、扇、小箱など懐に持ちたりけるも、水に入りぬ。稀有にして助かりたるさまにて、はふはふ家に入りにけり。飼ひける犬の、暗けれど主を知りて、飛びつきたりけるとぞ。(文章は『ビギナーズ・クラシックス 徒然草』による)

〈内容〉
 「山奥に、〈猫また〉というのがいて、人を喰うらしい。」
と、ある人が言ったところ、
「山じゃなくて、ここいらでも、猫が年をとって化けて、〈猫また〉になって、人を取って喰うことがあるという話だ」
と言う人もいた。何阿弥陀仏とかいう連歌をしていた坊さんで、行願寺のあたりにいた人がいて、これを聞いて、『一人で歩く人間は、気をつけなきゃ』と思っていたころのある日、ある所で夜遅くまで連歌遊びをして、たった一人で帰った時、小川の傍で噂に聞いた〈猫また〉がまっすぐ足元にすっと寄ってきた。すぐに飛びついてきて、首のあたりに食いつこうとする。肝をつぶした坊さんは、この攻撃を防ごうにも力がなく、腰も抜けて、小川に転落して
「助けてくれぇ!〈猫また〉だぁ!んぎゃ~」
と叫んだので、あっちこっちの家から松明を灯して走りよってみると、この近くで見かける坊さんだ。
「これはどうしたことだ」
と、川の中から抱き起こしてみると、連歌でとった賞品の扇や小箱などの懐に入れて持っていた物が水に浸かってしまっていた。ぎりぎりで助かったという様子で這うようにして家に入った。
飼っていた犬が、暗闇でも主人と知って飛びついたんだそうだ。

〈コメント〉
 飼っている犬に、暗がりでじゃれつかれて、「化物だぁぁぁぁぁ」とパニックになる。〈猫また〉の前ふりがなくても、充分怖い。明るい部屋でも、誰もいないと思っていたのに、背後から「だ~れだ」とやられるだけでもビックリするものね。暗闇の獣は100倍怖いよ。
 〈猫また〉は、年をとった猫が化けたもの。尾っぽがふたつに分かれる。たまたま手元にあるドナルド=キーン英訳の『徒然草』("Essay in Idleness", Tuttle, 1981)の注では、

  A fabulous beast, said to have eyes like cat and the body of a dog.

となっている。……なんかイメージ違う。
 さて、『徒然草』というと、何やら堅苦しいイメージがあるけど、笑い話風のものも結構多い。まぁ、笑い話「風」であって、そこで伝えようとしている事柄にはそれなりの内容ということになるのかもしれないけど。
 土屋博映1998は大学受験に特化した辞書だけど、これには入試頻出名場面集が付録になっている。この「奥山に猫またといふもの」も収められている。【よみどころ】のコラムには、

  世のなかで、化物などというものは、皆このようなもので、「まやかし」によるものだということを言おうとしたものと思われる。(p.433)

とある。どうやら、兼好の意図はそんなところにあったらしいぞ。深いね。「疑心、暗鬼を生ず」ですね。
 「化物は心の持ちよう」という考え方は一つの説得方法であるらしく、怪談話の名作『真景累ヶ淵』(三遊亭円朝・岩波文庫〈緑3-2〉・1956年)でも化物は「神経病」からということで話を進めている。「昔の人はみんな〈物の怪〉を信じていた」などというのはやっぱり暴論なのでしょうね。

〈参考資料〉
角川書店編 2002 『ビギナーズ・クラシックス』 角川ソフィア文庫
三遊亭円朝 1956 『真景累ヶ淵』 岩波文庫〈緑3-2〉
土屋博映編著 1998 『MD』 朝日出版社
Kenko (translated by Donald Keene) 1981 "Essay in Idleness" Tuttle

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