石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

耳にしたとき実現する言葉 (ルカ4章)

2015-08-31 16:52:48 | Weblog



 イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。
イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。
イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。
預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。
「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。
主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」(ルカ4:15~19)

 素晴らしい祝福と解放のみことばを、主の霊に満ちた救い主、イエスから直接聞くことができるとはなんと素晴らしい恵みであろう。
そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。(ルカ4:21)

聞いたその時、今まさに救いはその人の「アーメン」によって実現するのである。
読み上げられたイエス様の、権威ある豊かな霊の現れを人々は認めほめたたえた。
皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」(ルカ4:22)

しかしイエスをほめる口から、「ヨセフの子ではないか」というつぶやきが起こる。「知って居る」という賢さ、頑固さが聖霊の働きを否定するのだ。
聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。(マルコ3:29)

あえて聖霊を否定する不信仰の中で主が御わざが行われないのは、そこでは何を見ても理屈を言うだけだからである。御わざは御父の御名が崇められるために成されるものであり、ご自身が神の子であることを証明するためになさるのではない。
聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。(Ⅰコリント12:3)

総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。
しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。(ルカ4:29~30)


イエス様を喜んだ人々も、イエス様のことばが彼らのプライドを逆なでした時殺そうとした。
しかし、主は殺されるのではなく、御父の時にご自分から十字架の死に向かわれるのであり、誰もイエス様を殺すことはできない。時が来るまで主はいつも真昼に真ん中を歩かれた。

  人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。
ところが会堂に、汚れた悪霊に取りつかれた男がいて、大声で叫んだ。
「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」
イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った。(ルカ4:32~35)


悪霊もわめき立て、「お前は神の子だ」と言いながら、多くの人々から出て行った。イエスは悪霊を戒めて、ものを言うことをお許しにならなかった。悪霊は、イエスをメシアだと知っていたからである。(ルカ4:41)

イエス様は、悪霊にご自身を証することはお許しにはならなかった。
神の御子イエス様を証することが赦され、賛美も礼拝も、御父と御子の交わりも、それは私たち神の子とされた者の特権である。それはとても誇らしい光栄なことである。

朝になると、イエスは人里離れた所へ出て行かれた。群衆はイエスを捜し回ってそのそばまで来ると、自分たちから離れて行かないようにと、しきりに引き止めた。
しかし、イエスは言われた。「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。」(ルカ4:42~43)


イエス様を世に引き留めることは誰にも出来ないけれど、今イエス様のみことばに留まることは、誰にでも赦されており、「アーメン」と言う者を約束の祝福をもって主は待って居てくださる。
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荒野の試み (ルカ4章)

2015-08-29 14:34:02 | Weblog


さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、
四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。(ルカ4:1~2)

新共同訳を読んで「荒れ野の中を“霊”によって引き回され・・」この記述に衝撃を受けた。しかし、イエス様が経験してくださったことにより、私たちはどのような時にも心強い。勝利してくださった方が居てくださるのだ。

聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。(ルカ3:22)

イエス様の場合は水のバプテスマと聖霊のバプテスマは同時だったのだ。イエス様はすべてに人と同じ手順を踏んでくださったから、私たちはイエス様をすべてにモデルにすることができる。

聖霊に満ちて帰ってこられたイエス様を待っていたのは荒野と悪魔だった。それも40日間も引き回され誘惑を受けられた。
すべてが終わって空腹を感じられたときに、みことばを用いた誘惑が待っていたのだ。
聖霊のバプテスマさえ受ければすべてokではなく、みことばさえ知って居ればすべてokでもない。定められた日数を経て経験を積んだようでも、悪魔の誘惑はさらに続くのだ。

イエス様は、悪魔がささやくみことばを聖霊によって読み解かれた。
そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」
イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。(ルカ4:3~4)


イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。(ヨハネ4:32)
まさに、イエス様の本当の食べ物は「御父のみこころ」、御父が捨てられたときイエス様の命は尽きた。イエス様は御父によってこの地上を生きて居られた。

そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。
だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」
イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」(ルカ4:6~8)


確かに朽ち行く地上のものを願うなら悪魔を礼拝するが早いだろう。主が準備してくださるものは永遠の天の国なのだから・・。
イエス様は「あなたの神」と言われた。一人ひとりの「我が主、我が神」を拝み、主だけに仕えることこそ聖さである。
その時、一人ひとりを名で呼んで、主となってくださるのである。

そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。
というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』
また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。』」
イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。(ルカ4:9~12)


イエス様は教えてくださった。私たちは悪魔に何も証明する必要はない。それは聖霊がしてくださることである。それは罠である。

あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。
この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。(ローマ8:15~16)
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まぶねの中に(ルカ2章)

2015-08-27 13:13:22 | Weblog



ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、
初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。(ルカ2:6~7)


時は御父のみこころ、世には生涯イエス様の場所はなかった。
「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」(マタイ8:20)

けものを養う飼い葉桶に枕してくださった主だから、心の底の底までさらけ出すことができる。
主はそれらを取り扱ってすべてを聖め、養い育ててくださるから、主との交わりの中に安息することができる。

「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」(ルカ2:14)
天の大軍は救い主の誕生を賛美するけれど、地で喜び歌うのは野宿の羊飼いのみ。まことにイエス様はこの世に身の置き所のない者の喜び、ただ一つの望みである。

シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。
「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。
――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」(ルカ2:34~35)


主の祝福は、朽ち行く身にみこころが成就することである。人の思いの成就ではなく・・。
みことばは人の心を刺し貫くが、主に居るなら癒して立ち上がらせてくださるお方である。

御子は、救い主を待ち望むシメオンの腕に抱かれた。
今、キリストを内に抱いて感謝にあふれる私たちに備えられている祝福は・・。
「私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」(詩編23:6)新改訳

子供の頃のイエス様は、創造の始めに造られた神のかたちのままに、気高く美しかったことだろう・・。

幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。
イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。(ルカ2:40.52)


イエス様は幼い頃からご自身を知って居られた。その上で完全な人として両親に仕え、やがて世に仕えて、その身のすべてを費やし御父のみこころを成就してくださった。
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香り

2015-08-26 23:47:28 | Weblog


花瓶から 部屋に流れる甘い香り
以前は この香りには気付かなかった

あんたのことも気が付かないことばかりだった
色の褪めたTシャツを着せたことなど
今頃気付いて・・

息子は叱るけれど
薄暗い部屋が落ち着くのだよ
タカサゴユリの白さが慎ましく・・

しんとした部屋には 夜気がしのび来るから
そおっと窓を閉めて 所在なくぼおっと座っている
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祝福の子 (ルカ1章)

2015-08-24 17:10:38 | Weblog



ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった。
二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。(ルカ1:5~6)


しかし、「非の打ち所のない正しさ」によって彼が用いられたのではない。神のご計画、一方的憐れみによることである。

天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。(ルカ1:13)

「あなたの願い」とあるから彼は祈っていたのである。しかし彼は祈りがかなえられると信じていなかった。

そこで、ザカリアは天使に言った。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」
天使は答えた。「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。
あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」(ルカ1:18~20)


すべてにおいてそうであるが、神様の良きご計画の成就は主の忍耐によるのである。
信じられないことは語れない。だから神様はそのことが成るまで彼の口をふさがれた。このことは憐れみである。
話せなければ信じるふりをして嘘を吐くことはなく、またみことばを否定して罪を犯すこともないからである。


マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」
マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。(ルカ1:34.38)


マリアは懐妊の疑問を脇に置いて、「アーメン」とみことばどおりに受け入れた。それは恥と死を覚悟してのアーメンである。婚約者の承諾もないこのことは、姦淫による石打の死を意味していたからである。婚約者ヨセフの承諾は後のことであったから・・。


エリザベツの備えはマリアを守ることにもなったろう。まるで孫のようなマリアと主に賜った胎の実をいとおしみ、神を賛美して三ヶ月を過ごしたのである。
その日々は乙女マリアを主の母へと育てる備えであり、どのような非難にも確信をもって過ごすことができるためであった。主はまことにご真実である。

しかし、主の備えられた「ヨハネ」と言う名は親族を落胆させた。主の備えられた良きものは、すべて主を喜ぶ者のためである。
彼は荒野に住み、バプテスマを施し主の道を備えたが、ヘロデ王に理不尽に殺されて世を去った。
彼は地で精一杯働いた。イエス様は彼を評価された。しかし、私たちの望みはイエス・キリストによる天の国である。

はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。(マタイ11:11)

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猫の額で

2015-08-22 13:18:46 | Weblog



高砂百合が開いて
ツクツウボウシが鳴いて
昨夜はリリリリ・・コオロギまで
秋の気配はいきなりだ

昨日あれほど痛んだ腰が
今日はケロリと治っている
ふふふ・・まだまだ
だから今日は庭の草取り

ミズヒキソウは残して
リュウノヒゲも残して
センリョウの赤ちゃん達も・・
スミレに気をつけて
苔は大事 
シダも・・
結局 草を愛してる

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権威 (マルコ11章)

2015-08-21 14:45:10 | Weblog



 また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」
*もし赦さないなら、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちをお赦しにならない。(マルコ11:25~26)


「恨んではならない」ではなく酷い仕打ちを受けて恨んだとしても、主に在って赦しなさいである。
「十字架にまでかかってあなたを赦してあげたのだから、わたしに免じて赦してあげなさい」と聞こえる。

恨みを抱えた心はイエス様との交わりの妨げになる。それは人間関係のことではなく主と私の問題である。それらは主に明け渡して過ぎ去らせてしまう絶対の必要がある。
恨みや憎しみから解放され主とのまじわりを妨げるものがなくなると、甘いいのちの安息がやってくるから・・。

信仰には、主との関係を妨げるものを取り除き続ける「行い」が求められる。それがどれほどのことであっても、永遠の救い主の価値を知るならすぐに出来ることである。大げさに心を占領しようとするものに騙されてはならない。
従順しなければ永遠のいのちまで失うことになり、それほど損なことはない。
みことばに従うには感情を交えず、理性で賢く計算するべきである。


「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか。」
イエスは言われた。「では、一つ尋ねるから、それに答えなさい。そうしたら、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。
ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい。」(マルコ11:28~30)


権威について権威である方に罠を設けた宗教者たち。もし、「父から受けた権威」とイエス様が答えるなら「神を冒涜している」と罪に定めることが出来るから・・。

彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。
しかし、『人からのものだ』と言えば……。」彼らは群衆が怖かった。皆が、ヨハネは本当に預言者だと思っていたからである。
そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスは言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」(マルコ11:31~33)


イエス様は彼らの罠に罠を仕掛けられた。神を恐れず人を恐れることは誰にとっても罠である。十字架の時は御父のご計画によるのであり、人が支配することではないから人に任せることはなさらない。
イエス様はどんなことでもお出来になるお方なのに、父なる神様のご計画通りに歩まれた。

私たちもイエス様に倣ってすべてをお委ねするなら、世に翻弄されることはなく罠に嵌ることもない。たとえその時肉の目にどんなに危うく見えようとも、そこで主の最善を経験することになる。

私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。(ピリピ1:21)新改訳
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何を求めるのか (マルコ11章)

2015-08-20 16:32:48 | Weblog




「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。
もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」(マルコ11:2~3)


そこが戦いの場であるから、聖書の預言の通りにロバの子に乗って入城されたイエス様。
ロバの子は主のご計画のとおりに繋がれていた。みことばは真実であるから、みことばが先立つときすべての必要は備えられてあり心配ご無用なのだ。このことはキリスト者の生命線である。

そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。
我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」
こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。(マルコ11:9~11)


それぞれの願いと計画をもって、人々は歓呼の声でイエス様を迎えた。
人にとってヒーローは期待通りに願いを達成できなければなんの価値もない。イエス様は彼らの願いを叶えるために来られたのではなく、御父のみこころを行うために来られた。そのことを知った時人々は「十字架につけろ」と叫んだ。

エルサレムにも主の居場所はなかった。

翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。
そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。(マルコ11:12~13)


近付いて行かれても、イエス様の空腹を癒すたった一個のいちじくもなかった。主はご自分のためには何のわざも為さらなかったのだ。
しかし、今私たちはなんでも祈り求めることが許されている。私はこのことに驚嘆している。そうして何を求めるのかという答えを此処に知った。
主の必要を満たすものを願うべきと・・時が良くても悪くても。

そこで、ペトロは思い出してイエスに言った。「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています。」
そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。
だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。(マルコ11:21~24)

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共に働いてくださる主 (マルコ16章)

2015-08-19 14:41:32 | Weblog



 女たちも弟子もイエス様から復活のお話しを聞いていたのに、直ちに受け入れることができなかった。
なんと頑なだろうと思ったけれど、今みことばをそのままに信じきることが出来ない自分自身に、彼らと同じ不信仰を知った。

信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。
手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。(マルコ16:17~18)


 女たちは、イエス様のお体が朽ちないように守ろうと一晩中まんじりともせず、墓を塞ぐ石を転がす目当てもないままやって来た。
彼女たちのしたかったことは昔の習わしどおりに、イエス様の遺体に香油を塗ることだった。それが彼女たちの計画であった。

計画がみことばに基づいているなら、墓石が動かしてあるだけで悟ることができた。天使の説明にも「やはり!」と悟るだろう。
ありえないことが起こったとき、そこに主の働きを見ることができるのはみことばを思い出すからである。


 その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。(マルコ16:14)

しかし、幸いなことにイエス様の方から彼らに来てくださった。イエス様に叱られることにはなぜか甘さがある。イエス様が叱られる時は私たちを良く知って居てくださるからである。

それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。
信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。(マルコ16:15~16)


主が「信じない者は滅びる」とはっきりと語られた。だから、弟子はイエス・キリストを伝えるのである。
そのとき、主も共に働いてみことばの真実であることを証してくださる。それは私たちが証することではなく、私たちは真っ直ぐにみことばを伝える者である。

主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。
一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。(マルコ16:19~20)
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裂かれた心と幕 (マルコ15章)

2015-08-18 14:43:09 | Weblog



そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」
同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。(マルコ15:29~31)


 自分を救えないイエス様、それは人には本当に愚かなことだ。十字架に付けるような者のために、天の栄光を捨てて罪人となるとは・・。
人は自分を救う者を誉め、「天は自らを助ける者を助く」この格言が大好きだ。また、自分を支配する者を崇め仕える者を軽んじる。
正に、イエス様は真逆のお方であった。

昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。(マルコ15:33~34)

イエス様は、十字架で人の罪のすべてを負ってくださった。いったいそれはどれほど恐ろしいものであろう。罪を経験したことのないイエス様の恐怖はいかばかりであっただろう・・。
罪を負った者は罪人である。神様は罪を見過ごしに出来ないお方ゆえに、罪人となった御子を見捨てられた。心臓が裂けるほどの恐怖は御父との断絶。

しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。
すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。(マルコ15:37~38)

イエス様の御身が裂けたとき、人と神を隔てていた至聖所の幕も天から地に裂かれた。
今、私たちは何時でも主の内に在って、御父と御子と聖霊によるお交わりが赦されている。いや、歓迎されている。イエス様がそのために御身を裂いて備えてくとださった場所であるから・・。

 女たちは終始イエス様を見つめていた。お苦しみも葬りも目を反らさずじっと見ていた。
女は弱い者だからそこに居続けることができた。弱いからイエス様から目を離せない。弱いから守られ、そのことを知って居るから味わう深みがある。

しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。(Ⅱコリント12:9)新改訳

アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフが来て、勇気を出してピラトのところへ行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。この人も神の国を待ち望んでいたのである。(マルコ15:43)

彼は復活を信じていたから勇敢であった。もし、キリストの死に復活がないなら誰がこのような危険を冒すだろう・・。
信仰によって勇気を得た人々によって福音は世界に伝えられ、今私たちもその恵みに預かっている。


十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。(Ⅰコリント1:18)新改訳
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