石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

聖絶のこと

2014-01-29 10:07:18 | Weblog


 旧約聖書の記述で、敵を皆殺しにするという聖絶は愛の神にはそぐわない・・そう思っていた。
しかし、神は愛の神であると同時に聖なる神である。神の聖さ・・、その聖さの故に御子の命を持って罪を処理し、義を打ち立てられたのだったが・・。

この地の多くの王が集まって、共にイスラエルと戦おうとした。
しかし、ギブオンの住民たちは、ヨシュアがエリコとアイに対して行なったことを聞いて、・・(ヨシュア記9:3)


 彼らは計略を巡らし、イスラエルの中に逃げ込む事を選んだ。それは、神に身を任せるという選択に思えた。必ずしも巧く行くという保証は何処にもなかったのだから・・。
彼らはイスラエルの進撃の中に神のわざを認めていたのだ。だから、敵対する事ではなく、憐れみを乞う方を選んだ。何と賢いことだろう・・。

「ご覧ください。私たちは今、あなたの手の中にあります。あなたのお気に召すように、お目にかなうように私たちをお扱いください。」
ヨシュアは彼らにそのようにし、彼らをイスラエル人の手から救って、殺さなかった。(ヨシュア記9:25~26)


 聖絶から逃れる道は備えられていたのだ。
計略を巡らせて助かろうとしたことは、人間的に見て卑劣とも思ったりするけれど、人の行いにおいて、造り主なる神を神とすることこそ唯一の「聖」であり、救われない罪汚れとは、造り主を認めずに、好き勝手に神々を作りそれを拝んで造り主を侮ることである。そこにあるものは絶対の断絶だから、その中に神の愛は及ばないのだ。

今、異邦人の私たちが救いに預かっていることに、彼らの立場が重なるように思えた。私たちが唯一の神を神として、キリストの家族に入れられたのは、ほとんど一方的な備えだったのだけれど、聖霊の助けによって創造主なる神を神とすることができたからだ。ギブオンの人々ほどにへりくだった心を持っていたか・・それは怪しいことだけれど。


すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。(1コリント45:22)

 造り主を否定することは、そのことによって死を選ぶことであって、聖絶の民の中にはすでにいのちはなかったということになる。
死者は葬らなければ生きる者にまでその腐れは及ぶから、だから、聖別することはやむを得ないことなのだろう・・。主に在って生きる者を守るために・・。

 今も聖絶はある。
天国、その永遠のいのちに入るには神との和解が唯一の条件である。キリストの十字架の贖いを信じ受け入れることで、神の備えてくださった救いが自分のものとなるからである。永遠の滅びからの救いには、御子を信じる信仰が必須なのである。

あらゆる計算を尽くして、あらゆる考えを巡らせて、みことばを探り、造り主なる唯一の神、救い主を知ろうとすることは正しいことである。そこに至ろうとすることは賢いことである。
今日この命のある間に、救われるべき方法を探す者には、必ず助け主のお導きがある。ギブオンの人々は、限りある命のためにさえそうしたのだ。


すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。
こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。(2コリント5:20)


イスラエルの歩みの中にご自身を証してくださった主が、今も私たちの中に御わざを現してくださいますように。
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冬晴れに・・

2014-01-27 22:28:59 | Weblog


 今日は雲一つない冬晴れ・・何時ものコースをしっかり手を振りながら歩く。本当はあまりに良いお天気なので、もっとゆっくりと味わって歩きたいのだけれど・・。

野は冬枯れて、まだ青空を映すオオイヌノフグリも姿はない。顔を上げて、暖かい太陽を受けて歩く・・広い通りに車も無く、人っ子ひとり歩いていないから・・この道を歩く時は、私の心は開けっ放しで、道いっぱいに広がっている。


 私は此処で自転車に乗れるようになった。子供達も此処で練習をした。バイクも此処で慣れたのだ。
まるで私のための道のよう・・、なんて贅沢なこと。半分皮肉もあるのだけれど・・道というものは作りやすい所に造るみたい?
まあ、いいか・・私は此処でどれほど楽しんだことだろう。


 日曜日には主人と礼拝に行くことがすっかり当たり前になった。特別な感慨もないけれど、朝からリラックスできるようになった。
寒くても、雨が降っても、風が吹いても車で行けることはとても楽だし、帰りにスーパーによって買い物をするときも、一緒だったらなぜかリラックスしている。ああ、礼拝中もゆったりしているなぁ・・。

時々、ちょっと呆けているなんて思うことがあるけれど、そんな主人を私は頼りにしていたんだ・・と改めて発見。
イエス様は、主人にとってタイミング良く導いてくださったのだろうけれど、私の荷も軽くしてくださったのだ。こうなってみて感じたこと。


 最期の望みは、霊の体を頂いてリアルな主にまみえること。ああ、その日がなんと遠く感じられることか・・。
御前ではきっと言葉を失って、ぼうだの涙を流すことだろう・・。
主に拭って頂いた後は、終わりのない喜びの歌を歌い続けるだろう・・。
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「モーセの息子」の中の誤り

2014-01-24 15:40:07 | Weblog


「 神の人モーセの子孫は、レビ部族の者として名を呼ばれた。」(Ⅰ歴代23:14)

油菜さんに教えられて探し見つけたみことば。モーセの子孫に対しての記事があった。先日書いた記事は早とちりだった。
「モーセさん。ごめんなさい。」
それから、見てくださっていた方にもごめんなさい。ご存じだったかも知れませんが・・間違いに忍耐していてくださったのでしょう。


 それでサラは心の中で笑ってこう言った。「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。」(創世記18:12)

年老いた不妊のサラは、「来年男の子ができる」と告げられた主の言葉を聞いていて笑った。彼女は不信仰に笑ったのだ。しかし、神様の評価はこうである。

「信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。」(ヘブル11:11)

 主は私たちの不信仰を覆ってくださる。そうでなければ、いったい誰に完全な信仰などあるだろう・・。
まことに、主は私たちが塵に過ぎない事を知って居てくださるのだ。

アブラハムも、モーセも、バプテスマのヨハネも不完全な人に過ぎなかった。しかし、彼らは主に選ばれ、主によって立てられ、主にその足りなさを覆われて用いられたのだった。


 みことばは本当に甘い。神様の一方的な恵みに満ちて、御子を賜るほどの愛が何処にも満ちていて、みことばの森を散策する時は心楽しい。

時に早とちりしたり、勘違いしたり・・そんなこともあるけれど、主はご自身の御真実によって必ず間違いは教えてくださるから、恐れることはない。
「パンを下さい」と言っている者に、「石を与える事などない」との主の御約束があるのだから・・。

油菜さんと共に、みことばを指し示して語り合う事はとても楽しい。間違いは教えてくださると信じているところに、何でも語れる自由がある。
モーセの息子の事を書いたとき、「間違いがあったら、誰かを通して教えてください」と祈っていたのだった。

すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。(エペソ3:18~19
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靴を脱げ

2014-01-21 14:37:08 | Weblog


神は仰せられた。「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」(出エジプト3:5)

すると、主の軍の将はヨシュアに言った。「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」そこで、ヨシュアはそのようにした。(ヨシュア記5:15)


 主は、モーセにもヨシュアにも靴を脱ぐように求められた。彼らがこれから歩む神のわざを前にして、その聖なる働きのためであった。


「昔、イスラエルでは、買い戻しや権利の譲渡をする場合、すべての取り引きを有効にするために、一方が自分のはきものを脱いで、それを相手に渡す習慣があった。これがイスラエルにおける証明の方法であった。」(ルツ記4:7)

油菜さんとお話ししているとき、この箇所を教えてくださった。それで、みことばから確認することが出来た「権利の放棄」

主の働きのためには権利の放棄を求められる、完全な従順を求めておられる。その時モーセは多くの言葉を語っているが、それに比べてヨシュアは「そのようにした」と、一言で書かれている。


 ヨシュアはモーセと共に居て、神様のわざを多く経験している。モーセにはそのような経験はなかった。主に従順するには明らかにヨシュアのほうが有利だ。
クリスチャンホームに育って、主の恵みを多く経験している事はとても幸いなことなのだ。

「ヨシュアはそのようにした」というその行いは、モーセを見てもわかるように非常に難しい事である。
自分の権利、自身の命を守る計画、世にあって身を守ってきた知識を主の前に捨てて、みことばに従って生きるという事がどれほど難しいことか・・、実際にみことばを生きようと願った者なら知っている。

 ヨシュアが靴を脱ぎ、まったく主のお言葉の通りに聞き従うことによって、エリコの城門を崩すことが成るのである。そのとき、少しでも人の判断や賢さが入り込んでいたら絶対に不可能であった。すべてはいかに主に従順したか・・それだけなのだから。

 
 その困難さを思っているとき、イエス様が弟子の足を洗ってくださったことを思いだした。
権利にしがみつく肉の力、惜しむ命、饒舌な己の賢さ・・それらとの止む事のない格闘の中で、罪を脱ぎ捨てる事ができない苦しみの中で、イエス様がすでに洗ってくださったことを思いだした。
出来ないから、出来ない事だから・・イエス様は備えてくださった脱出の道。
此処にすべてを下ろして安息せよと備えられていた救い。

互いに足を洗い合うことを求められているキリスト者。そう、私たちは互いにそれが困難である事を知って居る。だから、忍耐をもって覆う愛をイエス様に頂いて、共に完成させてくださる事を主に祈り求めよう。
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癒し主に在って

2014-01-16 14:23:46 | Weblog


 主人と医大へ行く。先日のエコー検査の結果を聞くために・・
昨日はうっとうしくてイライラしていた。病院という所では、こちらの言いたい事が通じないという絶望感があったから・・。
しかし、主人のために作って居たみことばノートから、一つのみことばがクローズアップ、

何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもって捧げる祈りと願いによって、あなた方の願い事を神に知って頂きなさい。
そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(ピリピ4:6~7)


みことばを受け取った。
しかし、布団の中でまだすっかり安息できない自分に、「私はなんと不信仰なのだろう」と・・しかし、そのことさえも主にお委ねしていつの間にか眠っていた。


 病院は連休明けで混んでいて採血には時間がかかっていた。ぽつねんと椅子に掛けていたとき、となりの若い女性から「今日はとても混んでいますね。」と声を掛けられた。
それから、彼女が癌の治癒から4月で5年目を迎える事を話された。

「それは、良かったですね。」というと、「不安なんです。」と言われたので私は驚いた。よくお聞きすると、抗がん剤を使っている間はそれで安心する。3ヶ月毎にお医者さんにかかっている時もそれで安心する。けれども、5年目ですべてが終わる事が不安なのだと話された。

「主人は肝臓癌が消えたのです。でも、薬やお医者さんにまだ頼るところがあります。あれは心の病気にすり替わった依存症なのだと私は思うのです。」と話すと
「ご主人の気持ちがすごく分かります」と身を乗り出すようにして言われた。

「でもね。良くなったのは事実であれば、今は健康なんだから、もう向きを変えないと・・」「そうですね、何かもっと楽しい事を見つけたらいいのですね。」と「なんだか楽になりました」と明るい声で話されたとき、丁度彼女の番となり「ありがとうございます」と言って立たれた。私も「こちらこそ」って心から返した。
採血が終わって去って行かれるときも、笑顔で会釈をしてくださった。なんだか心がほっこりとして、イエス様に彼女を顧みてくださるように祈っていた。


 今日示されたことは、ちゃんと向き合って話すことだった。コミュニケーションの訓練、苦手な人に向かっても忍耐強く話せるように努めなければならないということ。私は人との交わり・・人を信じて熱心に訴えるという努力が足りない。すぐにあきらめて逃げてしまうところがある。

この年になって・・なんて思うけれど、神様は年を取ったからと言って手綱を緩めるお方ではない。そのことは聖書からもよく知っている。
むしろ、年寄りにはなを厳しいお方のようでもある。御国に行くまでに成すべき事はちゃんとさせなさるお方、天国行きの切符を持っているから自動的に到着というほど甘くはない。

だから、医師と向き合ったとき、恐れずにちゃんと必要な事をお聞きしようと思っていた。消化器内科では肝臓癌はそのままということ。つまり消えたままってこと。
「リンパ腫瘍がちょっと大きくなってきてます。」と言われた時、「また、小さくなることもありますよね。」と言うと、「えらい期待してはりますな」と言われたので「当たり前ですよ」ってつい強く言ってしまった。

なぜ医師は、自力で治るってことを厭うのだろう・・なぜそのことに一切期待しないのだろう・・それがまるで悪い事のように嫌うのだろう・・不思議だ。
主人が来るとき「『もう、良くなったから来なくてもいいです。』って言ってくれないかな・・」と言った。
「だって悪くないのに通っているのだからそれはないでしょ。」なんてちょっと意地悪いことを言ってしまったけれど・・それも事実。

しかし、これで肝臓癌に関しても終わりではなく「また、2ヶ月後にでも顔を見せてください。私がエコー検査をしますから」と言われたので、まだ続くのか・・ってカッとしたけれど、此処はなんとかコミュニケーションを・・と、通う事の大変さを訴えて3ヶ月後になった。
確かに忍耐を持って話せば幾らかは通じるのだった。


 血液内科の医師は必ず丁寧に触診してくださる。手を触れるということをしないものなぁ最近のお医者様は・・。
しかし、今日は何時もとかなり違ってお話しがちぐはぐだった。矛盾している所があった。何か都合の悪い事でもあるのかなぁ・・そんな感じ。
「これは、癌なのですか」と尋ねてみると、「癌です。」とおっしゃった。しかし、「開けてみないとわからないでしょう。見ずに癌だなんだとは言えない」ともおっしゃる・・。

「来月に大きくなっているかどうか様子を見てから、切って検査をするかどうかを決めます。」と言いつつ・・、「一ヶ月単位でどうなるってものでもはない・・」とも言われたので、その意図がさっぱりわからない。
つまりわからないのだ。だから取りあえず検査を続けたいのだろう。


 帰りの電車の中で主人がぽつんと言った。
「初めから、何もしないで放っておいたらどうだったろう」
「今と同じ事でしょう。だって何の治療もしていないし、薬も飲んでは居ないのだから・・」
「そういうことや」主人の顔色が明るくなっていた。何かから解放されたみたいに・・。
「そのことに気付いてくれて嬉しいわ」私は心からそう思った。気付かせてくださった主に感謝。

それでも、この問題が表面化したことは神様のお導きなのだと思う。良いご計画があってのことなのだと知って居るから、これからも付き合う事になるだろう・・。しかし、もう癌に振り回される事はない。

神を愛する人々、すなわち神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています。(ローマ8:28)
神様は、この問題を主人の前に置いて信仰を一歩進めてくださった。
御国に行くためのお導きなら、そのための苦労なら喜んで何処まででも付き合う。その道筋において人からどのような扱いを受けようとも、主のご真実なことは知って居るから・・。ただ、主のご計画が成りますように。


 翌日掛かり付け医の所に行って結果をお伝えする。先日は険悪なやりとりとなったけれど、私はなを彼に期待をしてコミュニケーションを学ぶ事になるだろう・・。それは主から与えられた課題のようだから・・。
コミュニケーションというものは、あきらめないで人と向き合う心が必要なのだとと思い定める。

弱虫なくせにかんしゃく持ちで、すぐに逃げようとする私にはしんどいことだけれど、それこそ命じられた主は真実なお方だから、きっと私にもそのことをしてくださると信じよう。


 今日、主人は何事もなかったかのように、頼まれた桜の木の枝下ろしの仕事に手をつけた。きっと心に一区切り着いたのだろう・・。
私も続いていた憂鬱から抜け出す事が出来た。実際は何が良くなったわけではなく、むしろ不安が増しているはずなのに・・そんな恐れはもう何処にもない。
いのちは主のもの。「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」
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モーセの息子

2014-01-11 15:47:00 | Weblog

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「あなたはイスラエルの長老たちと一緒にエジプトの王のところへ行って言いなさい、『ヘブルびとの神、主がわたしたちに現れられました。それで、わたしたちを、三日の道のりほど荒野に行かせて、わたしたちの神、主に犠牲をささげることを許してください』と。」(出エジプト3:18)

 神の命令を受けたときモーセは自分を見て固辞した。「口下手な私には、とてもそんな責任は持てません。」というわけだろう。

基本的に神様のご計画を、人が成し遂げられると思う方が間違っている。それは自分に対する信仰であって、神様に対する信仰ではないのだから。
信仰は、「あなたならこのような私にでも、そのことを成し遂げさせる事がお出来になります。」と告白するはずである。


 旧約を読んでいて、モーセの息子の記述が殆ど無い事に疑問を持った。甥であるアロンの息子達の事は多くの記述があり、良いにしても悪いにしても、主は彼らを最大限に用いておられる。
たとえ罰せられる事があっても、神に全く無視されることよりは、はるかに幸いだと私は思うから、この状態はなんだろうと・・思い巡らせていた。

主は彼に言われた、「だれが人に口を授けたのか。話せず、聞えず、また、見え、見えなくする者はだれか。主なるわたしではないか。
それゆえ行きなさい。わたしはあなたの口と共にあって、あなたの言うべきことを教えるであろう」。
モーセは言った、「ああ、主よ、どうか、ほかの適当な人をおつかわしください」。
そこで、主はモーセにむかって怒りを発して言われた・・(出エジプト4:11~14)


 神のご計画に対して人が責任をもつ事などできないのだから、モーセは「アーメン」と言うべきだったのだ。みこころを行うのに自分を省みて判断する事は愚かだ。
主に従うには無責任であるべきで、ただ、主に信頼するほかないのだと思っている。

「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。」(ローマ11:36)
だから誰であっても主が命じられた事なら、従順する限り、それを成し遂げることができるはずである。
大切な事は主が選ばれたという事実であり、そこにある神のご意志を重んじるよりほかには、祝福を受けるための選択肢はないと私は思っている。

信仰はとてもシンプルで、「はい」か「いいえ」だって・・。
主に信頼するなら、自身の弱さや愚かさを見続ける中にも、その縛りを乗り越える道に導かれ、どこかに主の証が現わされ、人ではなく御名が崇められるのだろうと・・。


 モーセは素晴らしい働きをした。イスラエルの叛逆の民を率いて40年、耐えに耐えて彼らを神様に取りなし民族を守って来た。
だからこそ、そのようなモーセだからこそ、彼の初めの一歩、そのボタンの掛け違いが、神には、怒りが燃え上がるほどに残念なことであったのだと思う・・。

主の残念は、モーセに千年に渡る祝福が与えられなかった事なのではないか・・。
彼の不信仰によって主の祝福を彼の子孫に与える事ができなくなり、それはアロンに与えられてしまった。

神様は用いる時に見ずに信じろとは言われない。私たちが塵に過ぎない事をご存じだから・・。
命じられる時はご自身のわざを見せ、信頼に足りることを知らせてくださる。神様のわざを見た上で、自分自身に返って判断する事は愚かなことだ。

それでもなを自身を惜しむ事によって尻込みしてしまうときに、主の怒りは燃え上がる。それは、近しく引き寄せてくださる神様の愛に対する拒絶だから・・。

一つの不信仰が神様の怒りを生み、後にどれほどの祝福を奪う事になって行くかを考えるとそれは恐ろしいことだ。
聖書には子孫に神の怒りが現れる記述が多くある。「親の不信仰が子に祟る」ことは事実なのだ。
それは何よりも、祝福したいと願っておられる神様の悲しみだと思う。
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産みの苦しみ

2014-01-06 21:07:13 | Weblog


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 8年前に牧師から頂いて居た洗礼申し込みの用紙を、突然土曜の夜に昨夜引っ張り出して来て「記入はコレでよいのか?」と主人が尋ねてきた。
正直、私はその成り行きに呆然として、どう反応して良いのかわからなかった。

昨年末から激しい霊の戦いがあって、外目にはなすべきことをいつも通りに行っていたけれど、心は凍り付いたままだったから・・。
苦しみがいのちの生まれるためであると分かっていたなら、耐え方も違うだろうけれど、霊にあってはまだ私の経験のない事であって、ただ深い闇に閉ざされ、脱出の道を探してもがいていた・・。

 信仰の悩み苦しみは、みことばによってのみ耐える事が出来ると、砂を噛むようであっても感情には寄らず聖書を読み続けていた。
確かにみことばは、その日その日をマナのように養って導いていただいた。

民数記22章から、
そのとき、主がバラムの目のおおいを除かれたので、彼は主の使いが抜き身の剣を手に持って道に立ちふさがっているのを見た。彼はひざまずき、伏し拝んだ。
この時、今動くと死ぬのだと教わった。

2014年、例年なら胸を躍らせて記す真っ新な日記の見開きに、無感情なままに示されたみことばを書き込んだ。

レビの家のためのアロンの杖が芽をふき、つぼみを出し、花をつけ、アーモンドの実を結んでいた。(レビ記17:8)
すべてが終わってその意味を知った。「実を結んでいた」それは主が成すのだと・・。

 教会の坂道を主人が先立って登って行く。
私が吉野を去って、やがて主人も後に行かなくなってしまった8年前にもどって・・二人で登って行く。
「この桜の支えはまだ大丈夫そうだ・・」なんて話しつつ・・。
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