石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

脱出の道

2013-10-22 20:32:31 | Weblog



 昔のことだけれど、星新一のショートショートが好きだった。忙しい合間に現実から離れて、ちょっと心が遊べるからだったろう・・。
最近ふっと立ち寄った本屋で、星新一の未読のエッセイを見つけた。
その「嘘とフィクション」の中に

「嘘つきというと政治家と結びつける人があるが、これに私は異論がある。政治家は嘘つきではない。なぜなら、嘘をついているとの意識が無く、とんでもないことをそう信じているらしいからである、そうでなかったら、ああ、ぬけぬけとはできない。一種の精神異常と呼ぶほうがいいのではなかろうか。」

 昔も今も、どういう人がこの世を動かしているのかということを、この一文によって妙に納得してしまった。
昨今の、異常な状況を否応なく見せられていて、こちらこそよくも発狂しないでこの国に留まっていられるものだと思うのだけれど、現実において、私にはどうすることもできず世においてはフリーズ状態。


 そんな私の唯一の望みは聖書に置ける神の約束。もし、聖書に出会ってなかったなら一体何を信じて、どのように生きる事ができただろう・・。病んでしまう他なかったかも・・。

私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。(ピリピ3:20)

イエス様は日々の暮らしの中で、みことばの約束が真実であることを経験させてくださったから・・、みことばをそのままに信じて、主の再臨を待ちつつも、すでに私の思いは主のもとに帰っている。

主はこう仰せられる。「あなたの泣く声をとどめ、目の涙をとどめよ。あなたの労苦には報いがあるからだ。・・主の御告げ。・・彼らは敵の国から帰って来る。
あなたの将来には望みがある。・・主の御告げ。・・あなたの子らは自分の国に帰って来る。(エレミヤ31:16~17)
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神と共に喜ぶために

2013-10-21 15:35:18 | Weblog
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「イサクはその地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た。主が彼を祝福してくださったのである。」(創世記26:12)

聖書には人の頑張りによる収穫は書かれていない。イサクがどの様に頑張ったなんて書いてない。

 5タラントのたまものを用いて種を蒔くなら、誰であっても5タラントの収穫を得るのである。人の努力の上に神様が積み上げるのではない。
その種には5タラントの実が備えられてあり、神様の完全な満足の分が備えられてあるから・・。
2タラントの種も1タラントの種も、神様の喜びであり完全な満足であることにはかわりがない。なぜなら、神様はすでに完全であるから。

 人はただ、与え主を信頼し、従順によって、種を蒔くだけである。それに人の何かを付け加える事は汚れである。
キリスト者が蒔くのは神の国の種なのだから・・。

「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。
地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。(マルコ4:26~28)



 礎石はキリストである。
パウロは人間発のすべてを塵芥として捨て、与えられたタラントを完全に用いたのだ。
「私は今まであれこれをして働いてきました。その上に神のたまものを用いて働きます。」
それは違う。そんなものは汚れていると思う。
パウロを用いるのは神様である。圧倒的な備えが彼の上に働いて事を成し遂げさせたのである。

よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。(マタイ25:23)

「神様が私を喜んでくださる」という・・それこそが人の最上の喜びであり、満足であり、幸いである。その喜びのためにみこころを求めるのだ。
父なる神様のみこころは人が神と共に喜ぶ事にあり、救い主イエス様と共に喜ぶことであって、私たちの稼ぎにあるのではない。稼ぎの嵩なんかわずかなことなのである。


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主の備えによって

2013-10-17 14:37:14 | Weblog


これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ。」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります。」と答えた。
神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」(創世記22:1~2)


 神様から、空の星のように子孫を増やすと約束されたひとり子を、捧げよと求められたアブラハム。
しかし、彼の行動はとても単純だった。言葉の通りに翌朝早くイサクを連れて出かけた。

「全焼の生け贄」という衝撃的な言葉であったけれど、アブラハムは知って居たのだ。
神様にとってイサクはかけがえの無い者であり、どれほど必要であるかという事を・・だから、「神ご自身が、全焼のいけにえの羊を備えてくださる」ことを信じて疑う事はなかった。

だから、とことん従ってイサクをほふろうとする行為は、神様に対して「さあ、どうする」と問う行為でもあった。命がけの丁々発止ではあるけれど・・。

「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」(創世記22:12)

アブラハムの勝ち!
信仰による行為は、時にこのように神様とのぎりぎりの勝負となることがある。でも、その度に神様は負けてくださる・・愛のゆえに負けてくださるのだ。


 主に在って、自身のあがなわれた者としての価値を正しく知り、必要とされていることを知って居ることはとても重要である。
そのことを知らなければみこころを求めることは出来ない。
人は「私のイサク」を差し出すことを求められはしないかと、そのことを恐れて主を避けてしまうから・・。

でも、主の御愛を知っておれば、主の必要を満たすことは痛みつつも喜びでもあり、より主を知る事の祝福のゆえに、アブラハムのように大胆に捧げることができるのだと思う。
なによりも、主の御前に自身を全焼の生け贄として捧げることは、経験して初めて知る醍醐味である。


 イサクは主が与えてくださったのであり、神と人の喜びのためであったのだ。
みこころのままに彼を捧げたアブラハムは主の喜びとなり、この時イサクを賜った目的を果たしたのだ。

たとえ試練のための呼び声であったとしても、アブラハムが呼びかけられた時のように、私も「はい。此処におります」と近しく答えられるところに居たいと願おう・・。
主がその信仰と勇気をも準備してくださるから。

「これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、
わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。
あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」(創世記22:16~18)
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求めなさい。捜しなさい。叩きなさい。

2013-10-11 14:20:12 | Weblog


さて、レメクはその妻たちに言った。「アダとツィラよ。私の声を聞け。レメクの妻たちよ。私の言うことに耳を傾けよ。私の受けた傷のためには、ひとりの人を、私の受けた打ち傷のためには、ひとりの若者を殺した。
カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍。」(創世記4:23~24)


 神様が殺人者カインにしるしを与えてくださったのは、100パーセント憐れみに拠ることである。レメクの言葉には、憐れみの上に胡座をかいて思い上がる恐ろしさを感じた。
でも、人はそのようなことをする愚かさを持っている。自戒を込めて・・そのような者は滅びる。

聖書に書かれている言葉は玉石混淆であり、いのちに関わる神のことばから、腹立ち紛れの人の言葉まである。決してすべてが神のことばではなく、用いてはならない箇所もある。
注意して読めばわかることもあるけれど、聖書全体から主を知ることによって初めて分かってくることがある。

ヨブ記には人の知恵による正しい言葉が山盛り書かれているけれど、神様とは何の関係もない言葉である。
大切なことは聖霊の導きによって切り分けることで、それは主を知るための必須条件である。私たちにはイエスさまがおくってくださった助け主が居られるのだから。


 なぜ神様がそのような紛らわしいことをあえてされたのだろうか・・。価値あるものを得るにはそれなりの代価を支払うべきであるから、代価を支払うチャンスを残してくださったのではないか・・。
もちろん、いのちの代価はイエスさましかいないのだけれど、神様は私たちにも差し出せるものを残された。
それが求めることであり、叩くことであり、私たちの主を知りたいという熱心である。

「あなたの立てた指導者が間違っていたから・・」そんな言い訳は、アダムが「あなたのおかれたこの女が・・」と言ったことと同じであり、御前に何の言い訳にもならない。
エバが差し出してもアダムには食べない自由があったのである。

結局食べたアダムがすべての責任を負うことになったように、私たちにも自分で主に聞くという自由があるのであり、それによって責任は自分で負うのである。
みことばは自分で読むものであり、直接主に聞くことは主が求めて居られる私たちの捧げ物なのである。

福音は、投げ与えられたものなら何でも食べる犬や豚の餌ではなく、自身で吟味して真理を探し求める人のものである。

聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。
求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。(マタイ7:6~8)

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奉仕

2013-10-09 15:00:02 | Weblog


 汗だくになって真実な奉仕をされる姉妹と働いて、感動することがある。
「彼女をマルタと言うのは違うな・・」そんなことを考えていて、ふっとペトロの姑を思い出した。とても短い記述だけれど私の大好きな箇所・・。

それから、イエスは、ペテロの家に来られて、ペテロのしゅうとめが熱病で床に着いているのをご覧になった。
イエスが手にさわられると、熱がひき、彼女は起きてイエスをもてなした。(マタイ8:14~15)


彼女は何の躊躇もなく、イエスさまをすぐにもてなしている。
熱病を患ってすぐに立ち働くことは驚きだったけれど、その反応の素直さが心に染みた。
彼女の奉仕は、マルタの奉仕とどう違うのだろう・・。

彼女はイエスさまに触れら、すべてはイエスさまから出ていた・・。そう、イエスさまの愛を受けて、力を受けて、奉仕が始まっていた。順序が大切なのだ!

人が愛を込めて働こうとしても、無い所から絞りだそうとするようなもので、やがては疲れてしまう。マルタのように・・。
どれほど働いても良い。でもイエスさまから出発しないと、人には出来ないことなのだ。

しっかり主に繋がって行えば疲れることはなく、愛も力も知恵も泉のようにわき出してくるのだろう・・。
そうして共に働く人にも、そのイエスさまを分かち合うことができるだろう。

ペテロの姑の料理は美味しかっただろう・・。イエスさまは喜ばれただろうなぁ・・。
私もこのような奉仕が出来たらいいなぁ・・。

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エデンの園

2013-10-07 22:53:58 | Weblog
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そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。
神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。(創世記1:26~27)

 神様は人を創造されたとき、ご自身に似たものとして造られたのだ。今となってはそれを自身に置いて見るとき、信じがたいほどの驚きである。
人のためにすべてを備え、その富のすべてを与えてくださるほどの祝福!彼らには何一つとして欠けたものはなく、エデンの園は充ち満ちた幸いの地であった。

神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2:16~17)


ただ、神と人の間には決定的な一線があり、造られた者は造り主の意に沿って存在し、造り主に従属するものである。
だから、すべてが許され与えられているエデンの園にあって、唯一の戒めが置かれた。「善悪の知識の木からは食べてはならぬ」

それは神と人を区別するためのものであった。蛇の言葉のように「神のようになる・・」ことへの戒め。
それを犯したとき、アルファでありオメガである方との区別のために、人の命を限りあるものとせざるを得なかったのだ。

神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」(創世記3:22)

 
 人が神のようになるとはどういうことか・・。その結果何が出来るようになったのか・・、それは善悪を知ったことだという。
つまり、完全であったときの人は善も悪も知らず、すべては造り主にあったのだ。

正しい方はただひとりであるから、人は人を正しいとすることもなく、悪とすることもなかった。判断はすべて神の愛の中であった。人は無条件に喜びの対象であって「それは非常に良かった」のである。

しかしその実を食べた時から、エバは蛇を、アダムはエバを悪として訴え、自身を主張するようになってしまった。それは今世に蔓延している。
唯一正しいお方の権利を奪って、自分たちのものとして思いのままに用いている。


 しかし、今は恵みの日、イエス・キリストといういのちの木が人の前に置かれているのだ。誰でもその実を、ただ信仰によって食べることが赦され、神と共に生きるいのちの道が開かれて居る!

今は、御子の十字架によるあがないによって、御子の血に洗われ真に「アバ父」と呼ぶ子として頂いた。
創造の初めに勝る幸いを得て、エデンの園での豊かな交わりが私たちの内に再現される望みがある。エデンのあの園に帰ろう。
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