石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

日曜日にはイエス様のお話を聞く 2007.8.26.

2007-08-27 21:38:00 | Weblog
 
saltさんのメッセージ 「エペソでの出来事」 使徒19章

 アポロが去った後、パウロはエペソにやってきました。そこで12人ほどの小さな群れに出会います。この箇所の記述を巡るある種の解釈は、大きな問題を生みだしています。サタンは、「聖霊が信じた者への第二の恵みとして、信じてから後に与えられるのだ」という印象を与えようと働きましたが、聖霊は、決してそんな偽りにはアーメンさせたりしません。慎重に学び、何が正しいかを見極め、自分のものにしてください。信仰のステップとして、「信じて時間をおいてから後に」聖霊が与えられ異言や預言を語るというのは真っ赤な嘘です。

 ひとつ誰でも思いつき、そして答えられそうな質問をしてみます。パウロはなぜこの12人に「信じたとき、聖霊を受けました」という質問をする必要があったのでしょうか、こういうことを考えながら読むことはとても大事なことです。

 この箇所に限らず、聖書を読んでいてもこの種のふつうの疑問を持たずに読み流し、特有の解釈を押しつけられ、信じ込まされていることが非常に多いからです。

 私のメッセージに関しても同じことで、所詮人間がやっていることですから、いつも正しいことを語っているかどうかは怪しいものです。「ああそういう意味だったのですか」ではなく、一緒に考え一緒にみことばを検証して欲しいのです。あの賞賛されていたペレヤのユダヤ人のように、「はたしてその通りかどうかを毎日調べて」欲しいのです。

 改めて考えましょう。パウロはなぜこの12人に「信じたとき聖霊を受けましたか」という質問をする必要があったのでしょうか。パウロはいろんな町々を巡って、福音を語り、信じた人たちを励まし続けていますが、そこかしこで出会う人たちに同じ質問をしたと思いますか。

 ごく普通に考えて、パウロはこの弟子を自称する12人に、聖霊の働きを感じなかったから、そう尋ねたのだと考えられます。彼等には、禁欲的、律法的な物事に対する真剣さはあっても、喜びや自由など、いのちがもたらすキリストの香りが感じられなかったのです。パウロの見立ては当たっていました。

「いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした。」(使徒19:2)とその弟子たちは答えています。彼等は知識としても経験としても、聖霊を知らなかったのです。なぜなら、彼らはヨハネのバプテスマしか受けていなかったからです。ヨハネの授けたバプテスマは「悔い改めのバプテスマ」であって、「キリストの死にあかるバプテスマ」ではありませんでした。(ローマ6:3~4)

 ここに旧約時代の終わりと、新約時代の始まりの明確な区分があります。預言者ヨハネまで、それ以降は教会の時代です。なぜそうなのかはわかりませんが、主がそうお決めになっているのです。ヨシュアとカレブはカナンの地に入りましたが、出エジプトの最大の功労者モーセにはそれが許されませんでした。

 旧約時代の王でも預言者でも、彼らにとどまった主の霊は一時的なものであり、永遠に彼らの中にとどまるという約束などありませんでした。しかし、新約時代に与えられる救いは神の子供としての特権であり、御国を受け継ぐことの保証として聖霊が与えられるというものです。これは、旧約の時代には考えられないほど大きな恵みです。誰も思いつきもしないし、仮に思いついたとしても、口に出して願うことさえはばかるほどの畏れ多いことです。

「あなたがたに言いますが、女から生まれた者の中で、ヨハネよりもすぐれた人は、ひとりもいません。しかし、神の国で一番小さい者でも、彼よりすぐれています。」(ルカ7:28)とイエスさまはいわれました。私たちは神の国の一番小さい者の集まりかもしれません。しかし、それでもバプテスマのヨハネより偉大なのです。

 ヨハネ本人もそのことをよく自覚してこう言っています。
「花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです。あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」(ヨハネ3:29~30)

 ヨハネとは花婿の友人であり、花嫁は私たち教会です。この明確な違いが分かりますか。これは感覚の問題ではなく、教理の問題でもなく、いのちの問題であり、福音の根本に関わることです。応用や発展ではなく、土台や基礎の部分です。

「この救いについては、あなたがたに対する恵みについて預言した預言者たちも、熱心に尋ね、細かく調べました。彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされたとき、だれを、また、どのような時をさして言われたのかを調べたのです。彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのための奉仕であるとの啓示を受けました。そして今や、それらのことは、天から送られた聖霊によってあなたがたに福音を語った人々を通して、あなたがたに告げ知らされたのです。それは御使いたちもはっきり見たいと願っていることなのです。」(Ⅰペテロ1:10~12)

 もう少し、苦く厳しい指導をしておきましょう。今日の多くの教会はこのヨハネのバプテスマしか知らない段階にとどまっているのではなく、ヨハネのバプテスマさえ知らないし、知らないから教えないところが多いのです。「悔い改めずに信じよう。あなたは愛されるために生まれた。ありのまま、そのままのあなたでいい。信じれば、神様はあなたの一生を良いもので満たし、すべてのことが益となるのです。さあ預言だ。異言だ。祝福だ。リバイバルだ。」って・・・・こんなの嘘でしょう。

 ヨハネの教えたことがベースにあって、さらにイエスの死にあずかるバプテスマです。そうでなければ、なぜ福音書はヨハネから始まるのですか、イエスさまがあえて公生涯のはじめにヨハネのバプテスマを受けたのですか。

 このふたつのバプテスマの違いを理解せず、間違ったかたちをいのちの信仰だと思いこむことは悲惨な結果をまねきます。
 だからイエスさまは
「古い皮袋に新しい酒を入れると、革袋も裂けるし、ぶどう酒も流れ出てともに駄目になる」と言われたのです。(マタイ9:17)

 この12人とのやりとりの後、パウロは、会堂で3ヶ月、ツラノの講堂で2年間教えました。この間、パウロを通して驚くべき奇跡がいろいろと起こりました。その現象を見たユダヤ人の魔除け祈祷師のある者たちが、イエスの御名を使ったエピソードがでてきます。

 このときの悪魔の答えがおかしいですね。
「自分はイエスを知っているし、パウロもよく知っている。けれどおまえたちは何者だ。」(使徒19:15)

 この様子が伝わって、聞く者に恐れが生じ、イエスの御名を崇めるようになったと書かれています。多くの人が自分のしていることをさらけ出して告白し、魔除けなどに関する多くの書物を焼いて、はっきり過去を断ち切ったのです。(使徒19:18~19)
この箇所をさきほどの文脈の流れの中で読んでくれば、何が大事なのかそのポイントを読み違えることなど、まずないはずです。

 ルカは事実を記録しているにすぎませんが、その意図は明確です。では、馬鹿らしさをこらえつつ質問します。聖書は、不思議な現象や力を追い求めることを勧めていますか。それとも、イエスの御名を恐れ、罪を告白して、過去を断ち切ることを勧めていますか。

 書かれた意図を曲解する人々は、みことばの教えに耳を傾ける前に、自分たちの主張や教理が強く存在しています。それが邪魔になって、何と義務教育レベルの国語力を失ってしまっているのです。

 さらに、宗教が金儲けと一体になっている様子も描かれています。アルテミス神殿の銀細工は、それで商売をする人たちの懐を潤していました。御利益に預かりたい人々の欲望と、そんな宗教グッズを販売して利益を得たい人たちが互いの欲望を金で交換して繁栄させた町それがエペソです。

そんな町にとって、「人の手がつくったものなど神ではない」と発言するパウロは迷惑千万でした。エペソは大混乱に陥ります。町中が大騒ぎになり、何が原因で騒いでいるのかわからないまま騒ぐ人まで現れます。ルカはそんな様子や群衆の心理を巧みに描いています。

 この混沌とした状況を見事な政治的手腕で鎮圧する人物が出てきます。エペソの町の書記役にあたる人物です。彼は問題点を整理して、集会を解散させることに成功します。これは非常に良いことのようにも思えますが、あながちそうとも言えません。

 実はこういう存在は、銀細工人以上に警戒が必要です。
福音を是認するかに見える人々の合理的政策が、信仰を骨抜きにする可能性は大いにあります。書記役の発言や決定は、パウロのことばに感動し、そのメッセージを受け入れたためではなく、ただ町の治安を維持するためのものです。信仰のない人々の政策の中に教会活動が巻き込まれていくことは、非常に危険です。

 福音は政治や経済とは決して並び立つものではありません。私たちはそのことを肝に銘じる必要があるでしょう。

 使徒19章は、「聖霊の名を借りたパフォーマンス」「しるしや不思議に惑わされること」「お金を集める宗教の愚かさ」「群集心理や政治と信仰」といった今日的なテーマに関して、極めて鋭く深い示唆を与えてくれる箇所だと言えます。

 パウロは、このエペソの教会に対して、手紙の中で、この世を支配する霊的な力や流れについて、またそれに立ち向かう方法について述べていますが、それは、このような背景をもとに書かれていることを覚えてください。

 
「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」(エペソ2:1~3)

「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」(エペソ6:10~12)
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息子と聖書を読む 2007.8.25

2007-08-25 20:57:21 | Weblog
 
ウザのことについて、今日は息子とゆっくり話し合った。
「もし、神の箱がひっくり返ったらどうなったのだろう・・箱の中身を見てたくさんの人が死んだことがあっただろう・・」
「それはわからないけれど、神様が箱をとおして私たちに、神様を知るためのメッセージを送っておられるということだと思うから、すべては神様のみこころだと思う。そもそも、神の箱は担ぐべきだったでしょう・・人の勝手な判断で神様の方法を変えるということは神様を軽んじているということ。」
「ウザはどうするべきだったのだろう」
「ウザは通りすがりの人じゃなかった、その車を制御していたのだからよく見張る責任ががあると思う。危険を察したときにはすぐに止まるべきだったと思う。箱がひっくり返りそうになったとき安易に自分の手を出したのは、自分の仕事の重大さがわかっていない。神の箱がひっくり返りそうになったとき、その行進をただちに止めるべきだったと思う。信仰の生活の中で、違う!と、危険!と気が付いたときにはすぐに『止めて』静まることがとても大切だと思う。神の箱を無事に運ぶことができるのは、そこに神様の赦しと助けが無ければできない。今、私たちがみこころを行おうと思うときにも、神様の赦しと助けが必要だと私は思うよ。」
「今、神の箱が見つかったとしても、あまり意味はないね。」
「歴史的な意味はあると思うけど・・、イエス様のあがないによって私たちは赦しの中にいるからね。恐れることはないよね。」
「十字架によって、至聖所の幕が切り落とされ、恐れずに神に近づくことができるようにされているということだね。」

 今、この恵みの時代に居るということはなんと感謝なことだろう・・。イエス様によって私たちは多くの自由の中に居る。一方的な赦しと救いの中にいる。だからこそ、この自由の中でみことばに聴いて、助けを受けあやまりのない歩みをしたいと思った。

  
「神が、主の契約の箱をかつぐレビ人を助けられたとき、彼らは七頭の雄牛と七頭の雄羊とをいけにえとしてささげた。」(Ⅰ歴代15:26)

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「ダビデの弱さ」

2007-08-23 15:17:57 | Weblog

 先日から体調が悪くて、聖書を読むこととやむを得ない家事をするくらいで何もできない。
「どうしても必要なことはわずかです。」を思い出しながら動けないときには仕方がないと思うことにした。それに足の具合も悪くて動かさない方がよい、と整骨医にも言われているからとあきらめて、最近は寝ころんでBSで音楽を聞いたり・・金魚をながめたり・・ほとんどぼんやりしている。

 思い当たる薬は買って来て飲んではいるがそう簡単に効くわけもない。体が弱ると右耳のヘルペスが出てきて痛む。次々と日和見に弱いところが出てくる。「なあに、すぐにケロッと治るさ、そしたら、あれもこれもしたくなる。ちょっとした夏バテだろう。」と自分に言いつつ・・。

 病院に行く元気はない。先日足を診てもらうために、思い切って整形外科に行ったけれど、なんと午前9時過ぎに行って、「本日の受付は終わりました。」だった。夜の診察に回してくださいと頼んだけれど、それも受付を始める前に来て待っていた人たちで埋まっているとのことだった。呆れてもう二度と行けないとあきらめた次第。


でも、それでゆっくりと聖書を読むことはできる。Ⅱサムエルを読んでいる。

 ダビデは大きな罪をいくつか犯しているけれど、いつも主を畏れていた。我が子、アブシャロムに追われて逃げていくときの姿は驚きだ。戦おうとせずにすぐに逃げ出した。また多くの戦士を引き連れているその前で、泣きながら逃げている。ののしられ呪われ、石をぶつけられてもされるままになっている。ひたすらに逃げるだけなのはサウルの時と同じ。いくら我が子といえども殺されそうになったら戦うのではないか。日本でも戦国時代にはざらにあった話。

 でも、ダビデはこのすべての出来事の中で、主を畏れて主のみこころがなるようにと願い結果のすべてを神様にお委ねしたのだろう。それにしてもダビデはなりふり構わず踊って主を喜んだり、泣いて逃げ回ったり・・、その姿は、王という自分の権威に執着していてはできないこと。ダビデは神様の前に本当に無邪気に見える。きっとそんなダビデを神様は愛されたのだろうと思った。


「彼がのろうのは、主が彼に、『ダビデをのろえ。』と言われたからだ。だれが彼に、『おまえはどうしてこういうことをするのだ。』と言えようか。」ダビデはアビシャイと彼のすべての家来たちに言った。「見よ。私の身から出た私の子さえ、私のいのちをねらっている。今、このベニヤミン人としては、なおさらのことだ。ほうっておきなさい。彼にのろわせなさい。主が彼に命じられたのだから。たぶん、主は私の心をご覧になり、主は、きょうの彼ののろいに代えて、私にしあわせを報いてくださるだろう。」(Ⅱサムエル16:10~12)
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「ウザ」

2007-08-21 10:39:53 | Weblog


 次男には旧約聖書ばかり読んでいた頃があった。そして、この箇所「ウザ」によって躓いていた。
「なぜ?神様はこんなに理不尽なのだ。神の箱を彼は守ろうとしただけなのに、なぜ神に殺されなければならないのか・・」

 しかし、今日この箇所を私は通読していて気づかされた。
ウザになってはいけない。罪に汚れた者の判断で神様を守ろうなどとしてはいけない。不信仰によって神様を守ろうとすることはあまりにも愚かなこと。

 人に対する神様のご計画に対して私たちは割り込み、神様を守ろうと人の判断で手を出すことがあるけれど、それは本当に恐ろしいことだと思った。そこには不信仰があり、ただ、信仰を持って待つことができないだけであることが多いから。

 ダビデが神様の宮を建てることを願ったとき、逆に神様が彼の家を永遠に建てると約束されたように、私たちが神様に何かできることはあり得ず、どんなときにも私たちが神様によってすべて与えられ助けられる者にすぎない。

 私たちにできることとは「もし、神の赦しと助けが在れば何かをすることができる。」それだけだと思う。
礼拝も、日々の祈りもみことばの時もすべては主の赦しの中で、助けの中であるのだと思う。元々、人はすべてただちに主に打たれて死ぬべき罪の者に過ぎないのだから。


「こうして彼らがナコンの打ち場まで来たとき、ウザは神の箱に手を伸ばして、それを押えた。牛がそれをひっくり返しそうになったからである。すると、主の怒りがウザに向かって燃え上がり、神は、その不敬の罪のために、彼をその場で打たれたので、彼は神の箱のかたわらのその場で死んだ。」Ⅱサムエル6:6.7
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もう一度金魚!

2007-08-13 08:11:30 | Weblog

 お隣のひろたんが金魚でいっぱいの袋を下げて来て、「おばちゃん、金魚あげる。」と差し出してくれた。「いっぱい釣ってん、百ほど・・」満面の笑みを浮かべて差し出してくれるので、思わず「うわー・・嬉しい!」と喜んで受け取ってしまった。

 大慌てで金魚セットを取り出しきて、ひろたんの指示に従って準備をした。もう一度チャンスが与えられたのだと思って素直に嬉しくなった。
ひろたん金魚はとても元気で、どん欲に餌を食べるし元気に泳ぎ回っている。その様子を見ても、先日の金魚がかなり弱っていたのだとよく分かった。

 やはり、にぎやかに金魚鉢で泳いでいる金魚たちを見ていると飽きない。家族が入れ替わり立ち替わり金魚のそばで眺めている。特になんということもなく、みんな勝手に泳いでいるだけなのに・・・。

 この間は余計な物を入れたので失敗をしたのだと思えて、今回はシンプルに必要最低限に・・と思っていたけれど、ららさんから教わったサイトで調べた結果、あきらかに餌の与え過ぎ・・。ひろたんが「餌、餌」と言ったから・・なんて言い訳をしてみても、もう失敗はしたくないので今日からは食事制限をする。(これ私にこそ必要なんだけど・・)


 愛だけでは育てられない正しい知識が必要だった。主は決して失敗されないお方。なにしろ造り主だから・・主は私たちのいのちのことを誰よりもよくご存じのお方だから、こんなに安心なことはない。主は私たちに与え過ぎることもなく、足りないこともないようにいつもぴったりで、グッドタイミングに必要を満たしてくださるお方だから、こんなに平安なことはない。
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金魚が死んだ

2007-08-10 14:24:58 | Weblog

 金魚が毎日死んでいった。一匹頑張っていたボスも死んでしまった。
「いのちは神様のもの、私にはどうしょうもない。」そんなふうに自分に言って、普段しない庭の草引きをしたり、忙しくして気を紛らわしていたけれど、主人が帰ってきて「今度もっと元気なの。買こうたるわ。」と言われたとき、「いのちのことだよ・・」なんて言ってすねる気持ちにはなれなかった・・。素直に「気遣ってくれているんやな・・」と心に染みた。

 金魚鉢を掃除したとき底にヒルが這っていた。なぜ入ったのだろうと考えたけれど、どうやらホテイ草を買って入れたときに付いてきたのだろうと思える。「余計なことをしてごめんね。」どんなに後悔してもいのちはもどらない。いのちは儚い、もろいものだから愛おしい。そして、いのちを扱うことはおおざっぱな私には・・・もう無理。

 ヒルは、今までいなかったところにも増えていると主人が言っていた。今、仕事に行っている山にも、昔は居なかったヒルやアブやハエが多いという。「ここ数年、山が気持ちの悪いところになってしまった。」と嘆いていた。

鹿が増えて木が食い荒らされ、いたるところに鹿の糞が落ちると、そこにハエやアブが増え鹿がヒルを運んで広げる。これは主人の解説。でも、昔から山仕事をしている主人の言葉は笑い過ごせない。自然が変化していることは小さなことから現れており、そこにいる人にはよくわかる。

 ブログに金魚を住まわせた。これはいいね、死なないから・・・。
本当は、すぐにブログにかけなかったほどカナシイ・・・
でも、金魚の死を悲しむ資格は私には本当はない。身近な人たちの死をどれほど悲しんだのだろう・・・永遠のいのちを知らずに死んだ人たちのことを・・。


「私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。」(ローマ8:22)
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悪意

2007-08-09 15:49:50 | Weblog

 ブログ「石ころ」の場合、本当に感謝なことだけど99%は愛に満ちた善意のコメントであり、私はそのコメントに育てられたり、励まされたりしている。
以前ある方に「石ころには、今までひとつの悪意のコメントもありません。」と話したことがあったけれど、話したその夜に悪意のコメント受けた。私には初めてのことでショックだったけれど、以前から息子に忠告されていたことでもあり削除して終わりにしようと思った。

 でも、例え消しても汚された思いは心に残っていた。再び悪意のコメントらしきものを見つけて削除した後も、「嫌だなあ・・何かそういうものにつけ込まれるようなものが私にあったのかなぁ・・」と尾を引いていた。

 しかし、それらの根のような罪は決して私と無関係ではなく、私はただ表に出さないようにしているけれど、持っている一面であると気づかされた。アダムからの罪の血筋を引く者にとって避けようもない事実。そんなものをやたらとばらまき、いやがらせをすることはないけれど、上品ぶってみてもすべてを語れるような者ではない。取り繕いの者・・。


 イエス様は完全に聖い御国から、この罪に満ちた地上に下って来てくださった。すべての者の罪や汚れを負って十字架にかかり罪を購ってくださった。そして信じる者を縛りつける罪から、罪の責め苦から解き放ってくださった。

 私は取り繕ってイエス様に自分のきれいなところ(実は何もないけれど少しはマシと思える状態)を見せたいし、誰にも言えないような罪の部分の真ん中にお迎えしたくはないけれど、イエス様はそこにこそ入ることを望んでおられるのではないか・・。そのために来てくださったのだから。散らかった押入にお客様を迎え入れる人は居ない。それは失礼だからでもあるけれど、何よりも自分が恥ずかしいのだけれど、最も恥ずかしい罪の中に来ていただいて「こんな者を助けてください!」と罪を告白するとき、そこから脱出させてくださるのがイエス様。

 イエス様はライ病人にも御手でふれて癒された方。人の嫌う罪と汚れの中にいる人々に交わって、彼等を清めて回復を与えてくださった方。イエス様は何にふれてもそれらを清めてしまうお方であり、ご自身が汚れに染まることは絶対にないお方。罪の世にこられても罪は犯されなかったただお一人の方。

だから、主に在って汚されることはないのではないかと・・、その罪や汚れを恐れる必要などないのではないかと・・。ただ私の知っているイエス様を語っていれは、綺麗に飾る必要も自分で守る必要もなく、主はご自分のものをご自分で守ってくださる。目にしたくないものは削除する知恵を与えていてくださっている。それだけでよい。心配しないですべてをありのままにお任せしようと思った。
なによりも、助けを与えてくださるイエス様、99%の優しいコメントをくださっている方々に深く感謝をして。

「悪意のコメント」ではなくスパムだそうです。(息子曰く)

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ダビデとゴリアテ

2007-08-08 11:35:04 | Weblog


Ⅰサムエル17章を読んでいて、ゴリアテの恐ろしさが詳しく書かれているなあ・・・と思った。
ダビデは、ゴリアテの前に出て行くまでに兄に厳しく叱責されている。

「いったいおまえはなぜやって来たのか。荒野にいるあのわずかな羊を、だれに預けて来たのか。私には、おまえのうぬぼれと悪い心がわかっている。戦いを見にやって来たのだろう。」

 よく分かるなあ・・と思った。敵と戦う前に味方であるべき人が立ちはだかる。人の世の常識という物差しで測られて、人の謙遜という物差しで責められる。このときにしっかり主に立っていないと、敵と戦う前に人をおそれて退くことになる。持っている1タラントを土に埋めてしまうことになり、主にとって役に立たない者となる。

 それを乗り越えたときに王から鎧を着せられたダビデ。今度は人の権威を着せられた。人の守りを着せられた。これらを断ることはもっと難しい。頑固でかたくなに主にだけより頼む姿勢を貫くことは簡単ではない。例え主に信頼していても、失敗の結果はすべてただひとりで負うという覚悟がないと進めない。人の責め言葉を恐れていては踏み出せない。主に在って人にそしられることは誉れのようなもの。

 それでも踏み出すことができるのは、主との日常の交わりがあったからだと思う。主に在るその力の経験が積まれていてこそできることだと・・。

「獅子や、熊の爪から私を救い出してくださった主は、あのペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。」

 危急の時、即座に主のみこころを成すためには、日頃の平凡な生活の中で、いつも主を味わっている必要があると思う。ダビデの強さは、荒野でひとり主に信頼して仕事をしていたからであり、いつも主にだけより頼み、人のやりくりではないところで生きていることが確信となり力になるのではないかと思う。

 ゴリアテの恐ろしさが詳しく書かれているけれど問題はゴリアテの姿ではなく、ダビデ、私たちがどれだけ主を知っているかということだと思った。現代のゴリアテはもっと巧妙に執拗に神様を嘲笑い、クリスチャンを嗤っている。

 しかし主は侮られるようなお方ではないから、現代にもダビデを興されると思うけれど、その人はみんなに侮られるような姿だろうな・・。ダビデは紅顔の美少年なのに、戦場ではそれはさげすみとなったくらいだから。


「この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はお前たちをわれわれの手に渡される。」Ⅰサムエル17:47

「主よ、みこころがなりますように。御名があがめられますように。アーメン」
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金魚

2007-08-06 14:39:53 | Weblog

 礼拝の帰り道は、何時になく駅からにぎやかだった。「ああ、今日は花火だった。」道の両側には露天が並んでいて、若者や家族連れの人たちでいっぱいだった。私はちょっと足の調子が悪くて痛むのでゆっくり歩いていて、前をゆく家族の話が聞こえてきた。小さな男の子が、「金魚すくいがしたいよ」と言い「駄目でしょう。今日はもって帰れないでしょう。」というお母さんの声が聞こえた。「でも、すくうだけならいいでしょう。」とねだっている・・・。「私も金魚すくいがしたいなぁ・・」一瞬痛みを忘れてそんなことを思った。

 翌日、主人は頼まれた河原の掃除を終えて戻ってきて、「河原の水たまりに金魚が捨ててあったよ。水の少ないところに袋ごと捨られていた。」私は、すぐに昨夜の男の子の言葉を思い出していた。「可哀想・・・ねえ、その金魚拾ってきてほしい。」主人は気軽に「そうしょうか」ともう一度河原に拾いに行ってくれた。あの子たちが捨てたとは思えないけれど、きっと持って帰れない人がいたのだろう。それにしても・・・袋ごとでは可哀想すぎる・・。

 主人が拾ってきた金魚は健気に泳いでいた。「ご縁があったんだね、」そんな気持ちで、カルキが抜けているであろう保存してあった水を入れた仮住まいに移しておいて、ホームセンターに走って飼うに必要な一式を買ってきた。拾って来ただけの金魚に、我が家にしては結構高くついたなあ・・贅沢・・。と思いつつ原付バイクを走らせていてはっと気がついた。

 
 イエス様は、この何の価値もない私にいのちをくださった!神の御子が、罪のために死んで当然な者の身代わりになって、罪を負って死んでくださり、ご自身のいのちをくださったのだ。本当にこれこそ究極の贅沢!神のいのちをいただいているクリスチャンはなんという贅沢ないのちを生きるのだろう!

 金魚は新しい環境にもすぐに慣れたらしく、ファクス台を占領して涼しげに泳いでいる。大きな出目金が一匹いて早速それは「ボス」と決まった。小さな赤い金魚たちも、これからいっしょに此処で生きていこうね。私もイエス様に拾っていただいたんだよ。
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水遊び

2007-08-01 14:57:06 | Weblog

夏休み真っ盛り、でも、あまり子供の姿を見ない・・子供たちはどこかに集められて面倒を見られているらしい。可哀想に・・・
私の子供のころには思いっきり水遊びをしたものだ。

 まずはじめは小川を堰き止めて自然にできる小さなプールの中で、流れに乗って両手を川底につけてバタバタと水をけりながら遊ぶ、ちょっと深いところで自然に体が浮くことを体験していつの間にか犬掻きができるようになった。

小川が物足りなくなったら、大川の遠浅になったところでたむろして遊ぶうちに、徐々に深みに泳いでゆくようになる。そのうち友達と大川の深いところに移動して、岩の上から飛び込んだり、川を横断することに挑戦するようになっていく。川の真ん中にある大きな岩によじ登る時は必死だったなあ・・。急な流れに逆らってつかまりにくい岩にしがみつくことは大変だった。全神経を集中してタイミングを見計らったものだ。

やがてそれにも慣れてくると次に挑戦するのは、大人たちに禁じられていた「隋道」という人工の川、それはわずかな距離でトンネルに流れ込んでいた。深くて、流れも速く、高い橋の欄干から飛び込んで流れ下る。トンネルの直前に小さな鉄の輪があって、それを上手くつかんで急流の中から上がってくるというもので、今思うとゾッとするような遊びだった。しかし、ドボ~ンと水に飛び込み急流に身を任せてながれ下り、その輪にしがみついたときのわくわくするような達成感にみんな夢中だった。子供というものは駄目だといわれるとよけいに興味をそそられる動物、絶えず挑戦していたいのだ。


 どこで泳いでいるときも大人が付き添って監視していることはなかったし、誰にどこで泳げと強いられたこともなかった。一緒に泳いでいた友達の様子などとも比べながら自分で判断してきた。子供にも自分の力は自分でわかる。また、時には子供同士で教え合うこともある。エスカレートすることもあるけれど、それは挑戦となり成長となる。背伸びして必死で友達について行く・・そんな怖い思いをしながら危険というものを体で知ることができた。
家に帰ったらバタンとお昼寝してしまったなあ・・。あのときのだる~い感覚まで思い出す。

 しかし、水は今とはまったく違っていた。あの頃は深い川でも、キラキラと川底の石が太陽を反射して光っていた。冷たくひえたお腹を、熱く焼けた石の上に腹ばいになって温めながら、川に浮かべて遊んだトマトをガブリと頬張るとき、とってもとってもおいしかった。きっと、今のトマトと比べればずっとすっぱい味だったと思うけれど・・。

 川遊びの人たちを見ていて、そんな懐かしい子供のころを思い出した。今の子供たちにはそんな自由がないとしたら本当に可哀想だ。彼らは、年をとったときに何を思い出すのだろう・・。
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