石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

ことば

2007-06-29 18:40:02 | Weblog
私は聴覚障害の次男を連れて聾学校の幼稚部に通っていた。聾学校は遠く、帰りにまわる塾はもっと遠かった。帰りはすっかり日も暮れて、みぞれ混じりの風がホームを吹き抜けていた。

語彙を増やすために塾に行き、絵本を買い、何をするときもキュードスピーチを用いて話し続けた。無数にカードを作り絵日記を書いて教え、彼が覚えた言葉を記録にとって数えていた。

しかし、その日はもう力尽きてしまって、癖になっているキュードスピーチを使って、ホームで小さな息子に「心細いね」と、ぽろりと弱さをこぼしてしまった。
それから数日して、暮れゆくホームでなかなか来ない電車を待っているとき、息子はつかんでいる私の手を引いて「こころぼそいね」とぽつりと言った。

その時私は、つないでいる手を通して心がひとつとなり、言葉が自然に息子のものになっていたことを知った。形容詞を教えるのは難しいなんて聞いていたけれど、言葉はこのようにして用いるものであるという、当たり前のことに気づいた時だった。
それから彼は、本を読んで共感したり感動したりとそんな中で、自然に言葉をどんどん覚えていった。

今私は、みことばに感動したり、共感したり、驚いたり、喜んだり、時にはちょっと困ったりしながら、イエス様を知ることの喜びを味わっている。
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キリスト者だから

2007-06-28 14:42:09 | Weblog
大空、そして無数の星々・・美しい青い地球を創造され、支配して居られるお方。
その主が、いま、私の内に居てくださる。それは、なんて不思議なこと!

この、みじめで今も罪深さそのままな者の内に・・
洗濯をしているときも、草むしりをしているときも、リビングでテレビを見ているときも、歩いているときも片時も去ることはなく居てくださる。

私の内を十字架の御血潮で洗って、聖所を建てて住まわれた。
ああ、私はいったいどうすればよいのだろう!

私は・・みことばに耳を傾けよう
私は・・「アバ、父」とすべてのことをお話しよう
そして、私は笑ったり、泣いたり、怒ったり、喜んだりしよう・・
主の中で 。
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やっぱり寂しい

2007-06-27 22:39:54 | Weblog


 日に日に暑さが増してきているのに、どうして聞こえないのだろう・・。以前は、寝苦しい夜やっと寝付いた頃にけたたましい声で私を起こしたホトトギス・・。そんな時は窓の戸を少し開け、一瞬の雲の切れ目から差す月光が裏山の森を照らす時、見えるはずもない声の主を追ってみたりした。

昔覚えた歌夜鳴く鳥の悲しさは、親を訪ねて・・や・・鳴いて血を吐くホトトギスとか・・とても切実な鳴き方をするから、その声を聞くと心がゆれる。

だから、居ない夏はとても寂しい。
居なくなられては困る。夜中に起こされても、もう、うるさいなんて言わないから戻ってきて、けたたましい鳴き声で私を掻き立てておくれ「夏だよー夏だよー」って。確かにお前の声は夏に似合っている。

ウグイスは沢山鳴いているのにホトトギスが居ないのは、ウグイスが賢くなって、もうホトトギスの赤ちゃんポスト役なんてしなくなってしまったのかなぁ・・。
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生かされて

2007-06-26 10:49:47 | Weblog
saltさんにメッセージのプリントを頂き忘れてしまった。先週もお休みしてしまって、待っていてくださるお方にはもうしわけないことをした。
どうぞ、メッセージはemiさんのブログの方からよろしく。

今週のメッセーは、使徒12章だった。
いつもメッセージの前に、メッセンジャーご自身で読まれる聖書朗読。一章は結構長いときもあるけれど、読まれている間聖書を目で追っていると、今まで自分で読んでい時には読み飛ばしていた箇所に気付きが与えられる。

「ところが、ペテロの声だとわかると、喜びのあまり門を開けもしないで、奥へ駆け込み、ペテロが門の外に立っていることをみなに知らせた。彼らは、『あなたは気が狂っているのだ。』と言ったが、彼女は本当だと言い張った。そこで彼らは、『それは彼の御使いだ。』と言っていた。しかし、ペテロはたたき続けていた。彼らが門を開けると、そこにペテロがいたので、非常に驚いた。」(使徒12:14~16)

「ペテロはたたき続けていた」このことばにハッとした。今日もう一度読み返したとき、もっとはっきりとこのことばが分かった。


正直なところ、私は最近ブログを書くことに行き詰まり、息苦しさの中で「もう書き尽くした。」と、店じまいを決心をしていた。ただ、「石ころ」は次のみことばから取った「叫ぶ石」なのに、店じまいなどできるものではないことも知りつつだったけれど・・。

「『祝福あれ。主の御名によって来られる王に。天には平和。栄光は、いと高き所に。』するとパリサイ人のうちのある者たちが、群衆の中から、イエスに向かって、『先生。お弟子たちをしかってください。』と言った。イエスは答えて言われた。『わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。』(マタイ19:38~40)


ペテロのように、何故か主によって生かされた者は語らずには居られぬだろうと・・信じ難く心の頑な人々に、その心の戸を叩き続けてでも話さずにはいられないだろうと・・。ヤコブのように死ななかったペテロは、その主の救いのわざを知る限りの、全てのことを伝えなければならないのだと語られたような気がした。


メッセージの題は「主の主権」だった。
ヤコブの死も神の前に尊く、聖徒は同じ神様の恵みの中にいる。ペテロのように生きても、ヤコブのように死んでも、ただ、鳩のように素直に「アーメン」と感謝をして受けたいと思った。けれども、時に生きることの方が死ぬことよりも難しいけれど、主の庇護の元にあるのだから、一日ずつ生きて話させてくださる言葉を文字にしたい。

「・・・どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからですというのは、話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです。」(マタイ10:19~20)
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日曜日にはイエス様のお話を聞く 2007.6.10

2007-06-11 20:26:33 | Weblog

saltさんのメッセージ
「神がきよめたものをきよくないと言ってはいけない」 使徒10章

 ペテロはコルネリオに遣わされる前に、夢の中で単純な夢を3回も見ました。その幻が伝えたメッセージは「汚れた動物を殺して食べなさい」ということでした。

 何でも食べる日本人にとっては、それほど大したことのように思われないかも知れませんが、ユダヤ人にとっては、この食生活におけるタブーを破ることは、律法を軽んじることであり、神を侮る行為でした。さらに食生活においての律法を守ることは、ユダヤ人と異邦人を区別する具体的なしるしでした。このように同じ日常生活の規範を守ることで、ユダヤ人どうしの連帯は強まります。

そして、自分たちが気をつけて避けているものを平気で口にする異邦人は、ユダヤ人にとっては「軽蔑の対象」となるのです。イエスさまの時代のユダヤ人たちは、ローマの支配を受けていたので、ユダヤ人の屈折したプライドは、ますます形式的な律法重視や歪んだ愛国心につながっていきます。サマリヤ人に対する嫌悪も同じ根から生まれている感情です。使徒たちは、全世界に福音を宣べ伝えるべきことを聞かされてはいましたが、異邦人がユダヤ人と同じように救われるなどとは、全く考えていなかったのです。

 後に異邦人世界がキリスト教社会となってからは、ユダヤ人たちは、キリストを十字架につけた民として迫害されるようになります。面白いと思いませんか、人間の宗教というものは、全く唯我独尊で排他的なのです。ユダヤ教からキリスト教を見ても、キリスト教からユダヤ教を見ても、人間中心の考えから出てくるものは全く同じなのです。

 この「何を食べるか、何を飲むか」という問題は、異邦人が教会に加えられてからも、偶像に捧げられた肉をどう扱うかという問題へと発展していきます。偶像に捧げられた肉なんて言うと、現在の私たちとは直接関係のない話題だと思うかも知れませんが、この問題はクリスチャンがこの世にあふれる文化と関わっていく上で大事な鍵なのです。この点については、また機会を改めて詳しくお話しすることにしましょう。

 ペテロは、汚れた動物を食べることを拒みました。しかし、声がしました。「神がきよめた物を、きよくないと言ってはいけない。」(使徒10:15)このことばが、コルネリオとの出会いと響き合って、ペテロは神さまの計画を理解します。汚れた動物とは異邦人を指しています。

要するに、「異邦人も神さまがきよいとされたら、きよいから受け入れなさい。ほら、たとえばこのローマ人を見なさい。」というわけで、非常に敬虔なコルネリオという人物と出会うのです。このような例を見ても明らかなように、神さまのみこころは、人間の考えとはかけ離れています。そして、すべての必要を私たちの願いや思いを超えて満たされるということです。神がきよいとみなすのです。私たちは自分をきよくすることは出来ません。そして、私たちの感覚や評価は関係ありません。

 私たちは、救われる人を捜しまわらなくても、出会うべき人たちに出会うように主がコーディネートしてくださるのです。これは、無気力・無責任な予定調和の発想ではありません。そのような大きく委ねる心を持って主に自分の計画を託すことです。

 人間はイベントやキャンペーンが大好きです。自分でがんばって手柄を上げ、達成感や成就感を味わいたいのです。聖書研究会や祈りや牧会や伝道そのものが生き甲斐なんておかしいと思いませんか。私たちはイエスさまのいのちの一部であって、皆が家族なんです。それで終わりです。いのちは放っておいても成長します。楽しい家族はべつに遊園地に行かなくても日常が楽しいんです。

 主はすべてのひとにとって主なのです。すべての人をお造りになった神は、ほとんどの人に忘れ去られ、無視されていたとしても、圧倒的な影響力と支配権をお持ちなのです。

「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」(ヨハネ1:3)

「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」(ヨハネ1:11)
主はすべての人をご覧になって、あらゆることを知っておられます。コルネリオの祈りのや施しはちゃんと主が覚えておられたのです。

 教会が人為的に世に対して影響力を持とうと張り切ると、おかしなパン種を持ち込むことになるのです。だから、イエスさまは「パン種に気を付けなさい」とおっしゃったのでしょう。

 イエスさまは、私たちがたった二匹の魚と五つのパンしか持っていないのは、初めからご存じです。私たちは何も仕込まなくてもいいのです。このボロボロの現状で、ただイエスさまだけを見つめて平安な心で感謝して待っていればいいのです。「えーっそんなことでいいの?」と思うかも知れませんが、それが出来なくて、いつも自分でやりくりしてジタバタするから、惨めさや欠乏を味わうことになるのです。私たちは、あらゆることに貧しいものです。しかし、主はあらゆることに圧倒的に富んでおられるのです。

 私たちは、自分の信仰によって、家族や友人がこうなってああなってといろいろ考えてしまいます。そして、私たちの教会は、もっとああなってこうなってと、これも思いめぐらします。イエスさまはきっとこの問題については、こんなふうに、あの問題についてはあんなふうに導いてくださるだろうと、祈りを重ねながらも青写真を描いたりもします。それは必ず人間が考えることです。

 しかし、そんな前向きな信仰のビジョンやイエスさま像さえ、偶像となり、サタンにつけ込む余地を与えます。ペテロはイエスさまがやがて受けられる苦しみについて示されたとき、そんなことは起こりえないと考えました。そして、イエスさまを引き寄せていさめ始めました。ペテロは、正しい信仰告白をした次の瞬間、自分中心の信仰の大風呂敷を広げ始めたのです。これは、人間が必ず陥る過ちです。

 ペテロはあらゆる点で使徒たちの魁(さきがけ)でした。一番始めに信仰告白をしたのもペテロでした。
「あなたは、生ける神の子キリストです」(マタイ16:16)この告白がすべてであり、この信仰が岩、すなわちペテロなのです。
イエスさまは言われました。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。」(マタイ16:17)
つまり、ペテロが信仰告白できたのは、彼が誰よりも早く鋭く、イエスの神性を見抜いたからではありません。父が示し、気づきを与えてくださったからです。

 もう一度確認しましょう。イエスさまは何とおっしゃっていますか。ペテロに真実を明らかにしたのは誰ですが。父です。教会を建てると言っている主語は誰ですが。イエスさまです。
「父が与えた信仰の上にイエスさまが建てるのでなければ教会は建たない」のです。だから、人間が勝手に作った教団はくだらないことでもめたり、宣教師が勢いで建てていった教会の建物は空っぽになるんでしょう。

 次の瞬間、ペテロのキリスト像は、彼の偶像となりました。彼の伝道プラン、イエスさまの栄光への道の青写真は十字架ぬきのおめでたいものでした。十字架を通らないものは全部偽物です。イエスさまは、「下がれ、サタン。」と一喝されました。

イエスさまはペテロが憎くて叱ったわけではありません。しかしながら、ペテロなりの主への思いは、サタンのものだったのです。勿論、人間は神さまのロボットでも操り人形でもありません。全部が全部「自動的」「受動的」というわけではありません。ペテロは何もかも捨ててイエスさまに従った結果として、この地点まで導かれてきているわけです。私たちの側からは何をすべきなのでしょうか。「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、クリスチャンとして働きなさい」と言われていますか。「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」です。

 ペテロはイエスさまを愛しましたが、それは最後まで自己中心の愛でした。人は神の愛には応えられないことを学びます。しかし、あえて主はペテロに三度お聞きになりました。「あなたはわたしを愛しますか。」(ヨハネ21:15、16、17)

 私たちは完全な神の愛に包まれ、イエスさまのよみがえりのいのちを生きながら、この世を生きていくのです。不完全な人間は、完全なみことばを通して主のみこころを知り、それに自由意志で応答しながら道を定めていきます。どんなに慎重に歩んでも、私たちは時に失敗し、罪を犯し、人や神を傷つけるでしょう。でも、それでも常にいつも神の愛によりかかりたいと思うその思いを主は大切にしてくださるのです。

 かって、ペテロはガリラヤ湖で大漁の奇跡を見せられたとき、言いました。「主よ。私のような者から離れてください。罪深い人間ですから。」(ルカ5:8)
 
 しかし、もうそんなことは言いません。ペテロは、罪深い自分から主が離れて行かれてはどうにもならないことを学びました。もはや、自分の信仰でも、忠実さでもなく、ただ主の完全な愛のゆえに自分が生かされていることを知ったのです。ペテロはこう答えています。
「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」(ヨハネ21:17)と。

最後に、この時代背景における聖霊の働きについて整理しておきます。使徒の時代は、新約聖書が書かれていない時代です。ですから、そのような過渡期には、ペテロが見たような幻があったり、確かに聖霊が下られたとわかるような目に見える現象をともなったりと言うことがあります。

しかし、今日使徒を自称する誰かが、聖書の記述を否定するような新しい幻を見たりすることはありません。また、聖霊が下るときには、聞いていた人全員が異言を話すなどのしるしをともなわなければならないと考えたりするのは間違いです。使徒2章、8章、10章のしるしを伴う聖霊の記述は、ペンテコステ、サマリヤ、異邦人へという福音の流れと主のみこころを共通理解するためのしるしなのです。
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「おかあちゃん」

2007-06-07 21:25:48 | Weblog
 
 夕食が終わって、主人はテレビ、私はPCに向かって居ると電話が鳴った。
「あ、おかあちゃん!」長男の嫁さんの元気な声が聞こえてきた。彼女のその呼びかけが私は大好き。本当はもう、おばあちゃんなんだけど・・

 長男が横浜に就職して、やがて出会いがあって彼女を見せに帰って来た。その時も息子は子どもの頃のままに「おかあちゃん」と私を呼んだ。私は内心ヒヤリとしていた。以前からその呼び方は「あぶない」と思っていたけれど、注意する間もなく自立してしまったので注意しそびれていたのだった。

 しかし、それは私の杞憂だった。嫁さんは何の抵抗もなく、息子と同じように私を呼んだ。むしろちょっとおもしろがっているように・・。
そして今、孫は息子達を「とーちゃん、かーちゃん」と呼んでいる。嫁さんゆわく「子どもが沢山いるところでも、呼ばれたらすぐに分かるから便利だよ。」なるほど・・

 彼女はプロのイラストレーター、帰ってくるとカバンやTシャツにイラストを描いてもらう。FAXにサラサラと書いたイラストの孫がとても楽しい。私は繊細な彼女にちょっと戸惑うときもあるけれど、そんな特技に一目置いているし、会う度、彼女に興味津々なのだ。

 電話は、昨日送った野菜とお菓子が届いたと弾んだ声だった。体調が良さそうで良かった!二人目の孫を見るのももうすぐ・・。
こんな家族の日々を守ってくださっているイエス様に心から感謝!
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アバ、父

2007-06-06 23:21:52 | Weblog
私は自分の必要を、自分のことばで自分の口でいつでも自由に祈る。
全知全能の神様が私の「父」だから。
私は「子」とされたのだから自分で祈り、自分で何でも欲しいものを求める。
癒しでも、お金でも、守りでも、導きでも・・。

でも、最近あまりお金や物を求めることはなくなった。満たされているから・・。
私の「父」はすべてのものを持っておられる御方だから、私の今日はいつも満ち足りている。
だから、とりたてて願う物はない。


癒しの賜物を持っておられる方に「祈ってもらう」というお話をお聞きした。
そのことを考えていたけれど、やはり私にはちょっと不思議・・。

私も親だから子どもにねだられることもある。今では滅多にないけれど・・
それが私に出来ることであり、子どもの願いをかなえてやれることなら、それは私の喜びである。
子どもが自分の願い事を私に直接話さずに、仮にどんなに私の親しい人であったとしても、他人を介して求めてきたなら私はとても傷つくだろう・・。ましてご真実な神様ならなおさらに・・そう思えてならない。


「あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。」(ガラテヤ4:6)
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おしゃべり その2

2007-06-05 19:54:09 | Weblog

今日は、洗濯物を干しかけたまましばらく井戸端会議を楽しんだ。
お隣がシロアリ防除の工事をされたので、その様子を聞きいていたのだけど、主婦が4人も集まれば、話はどんどん広がって止まるところを知らない・・

子どもの近況や、孫の誕生のことからお産の話し。ムカデに噛まれた話から、ゴキブリが出た時最近の男は結構恐がりで逃げ腰、結局女が自分で処理したと大笑い。
先日頂いた山蕗の佃煮が、とても上手に炊いて居られたので、早速くわしく炊き方を聞いていたけれど、彼女はそう言う料理は玄人はだしなので、たとえレシピを頂いても同じようには出来ないことは分かっている。よもぎ団子からとち餅まで作られ実に上手い。

「主人が車で連れて行ってくれるから、今度一緒に摘みに行って作ろう。」と誘われたけれど、そこで私は逃げ腰になってしまう。これが私の弱点、そこまでの熱心がない。「すごく蛇が恐いから嫌」とやっと断った。「大丈夫、あそこに蛇は居ないよ」それは嘘だろうと思う・・

昼からも、友を迎えて気の置けないおしゃべりのひとときを楽しむ。
先週、先々週は暗いトンネルに迷い込んだような一人きりの時を過ごしていた。でも、本当はひとりではなく主とおしゃべりをしていた。
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日曜日にはイエス様のお話を聞く 2007.6.3

2007-06-04 19:39:11 | Weblog

saltさんのメッセージ 「目からうろこ」 使徒9章
  
 急にものごとの真相や本質がわかるようになることを、「目からうろこ」と言います。この表現は、よくご承知のように今日ともに学ぶ使徒9章が出典です。

「目からうろこ」には3つの重要なポイントがあります。ひとつめは、徐々にではなく急にわかるということ。
ふたつめは、その明らかになる真相や本質は常に変わらず自分の外側にあったということ。
みっつめは、遮られていたものが取り除かれる事が解決の糸口だということです。

「目からうろこ」が落ちたことによって、迫害者サウロが、兄弟パウロとなります。これほど劇的に人生の転換が描かれている例は他にないでしょう。「目からうろこ」ということばが、パウロから離れて一般的に世界中で使われる慣用句となったのもうなずけます。

 パウロはなぜイエスさまを信じる人々をこれほどまで激しく憎んだのでしょうか。
パウロにとってみれば、神が人になることなど、断じてあり得ないことでした。たとえ万にひとつ神が人の姿をとったとしても、人となった神が抵抗することもなく、人の手によって惨めに殺されるということなどあり得ないと信じていたのです。ですから、イエスさまを神と信じている人々は神を侮り冒涜する者であり、そのような人たちを罰することこそ神のみこころにかなうことであると考えていたわけです。勿論ご自分を神だと宣言されたイエスさまは、大嘘つきのとんでもない男で、激しい憎しみの対象だったのです。

 アナニヤの言葉にもあるように、パウロの名前は情け容赦のない迫害者として、クリスチャンたちの間に知れ渡っていました。(使徒9:13)そんなパウロですが、ステパノの死後、ますます迫害の度合いに拍車がかかったようです。(使徒8:3、9:1~2)

 ステパノの殺害に賛成の票を投じ、その死に様を見たときに、パウロは何か特別なものを感じ取っていたはずです。ルカはステパノの殉教の場面で、証人たちの着物がパウロの足元に置かれたことを唐突に記録しています。(使徒7:58)パウロはステパノを殺すことに賛成していたとも書かれています。(使徒8:1)これらは文学的な伏線というような技巧として記されたのではなく、パウロの霊的な葛藤のポイントを明確にしているのだと思います。

 パウロの回心については、使徒の働きに3回出てきます。この9章の部分がルカの客観的な記録だとしたら、後の2回はパウロ自身の主観的な回想だと言えます。
26章におけるアグリッパの前の証言では、パウロは、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。」(使徒26:14)というイエスさまの声を聞いたと言っています。しかし、9章には、後半の「トゲのついた棒」に関することばはありません。

 私は実際にパウロが聞いたことばは前半の部分ではないかと思います。後半は、そのパウロ自身が耳に聞こえたことばの裏に感じたメッセージだったのだと思うのです。「なぜわたしを迫害するのか」と言う言葉の裏側に、パウロの複雑な心のうちを察しつつ、とりなしておられるイエスさまの姿が、ステパノをはじめ、パウロが縛り上げ引きずり出して牢に入れた人々のいくつかの表情と重なったのだと思うのです。だから、クリスチャンを迫害することが正しいと信じながらも、その信念に基づいて行動すればするほど、苦しくなるという矛盾の中で葛藤していたのです。

 パウロはたずねます。「主よ。あなたはどなたですか。」それは疑いようもなく、自分が仕えてきた主であるとわかっていました。しかし、それはイエスのようでした。そんなわけがないという強い否定の気持ちが働いていました。

 神は光です。いくら視力がよくても光がなければ人はものを見ることができません。しかし、強すぎる光は眩しすぎて見ることを妨げます。そこで光なる神は、闇の中にご自分を示され、その光を見るようにと十字架の上で輝かれました。しかし、パウロの目にはイエスは大嘘つきか、精神異常者でした。

 パウロの知識、経験、彼の積み上げてきたすべてのものが、「イエスは神の御子ではない」と判断していました。しかし、自分が憎み嫌うイエスが、真実に仕えてきた神の声で語られるのを聞いたのです。パウロは混乱しました。

 それは一瞬の混乱ではなく、3日間続きました。そして飲み食いもできませんでした。まさに3日間死んだようになり、そして、アナニヤに手を置いて祈って貰って初めて見えるようになりました。その時、目からうろこのようなものが落ちたのです。「うろこのような」というのは、落ちた物質に関わる比喩ですが、「目からうろこのようなものが落ちた」というのは、目が見えるようになったことの比喩ではなく、本当に物質が落ちたのです。

これ以降、別に目から何も落ちなくても、思いもかけない新しい知識を得たり、考え方が少し変わっただけで「目からうろこ」という表現を使いますが、パウロの場合は本当に目から何かが落ちたのです。3日間目が見えず、飲み食いも出来ずに死んだようになりました。

 本来キリストを信じるということは、それぐらい決定的な出来事です。キリストを信じる前と後のビフォー.アフターがはっきりしていることは、当然のことなのです。

 人は自分が育ってきた延長線上に信仰をプラス・アルファすることはできません。キリストを信じることは、自ずと生活のすべてを変えるのです。それはパウロの意志や正義感の強さによってもたらされる変化ではありません。それはキリストの光がもたらす変化です。

 暗闇の中でいくらあがいても私たちは変わることはありません。大事なことは、恐れずに光の方に来ることです。
「立ち上がって街に入りなさい。そうすればあなたのしなければならないことが告げられるはずです。」(使徒9:6)

 パウロには当面なすべきことだけが簡単に伝えられました。パウロは自分の予定を捨てて単純にそれに応じたのです。その結果、パウロはアナニヤと出会い、本来縛り上げて引きずり出そうと思っていた相手から祝福を受け、目が開かれたのでした。こうして、主にあって最も大きな働きをすることになる人物が誕生します。

 「目からうろこの回心」はパウロ特有のものではありません。すべての信者にとって、パウロが経験したターニング・ポイントがあったはずです。しかし、サタンはこの事実を曖昧にしようと必死に働くのです。

 私たちはいつどんな風に主と出会い、どんなみことばに従った結果、何がかわったのでしょう。パウロはここぞという場面で、自分が救われた証を単純に繰り返し語りました。

 パウロがそこにこだわったのは、すべてのことを主がしてくださったということです。パウロは目からうろこをとってくださったのが主であることを知り、他の人たちの目からうろこをとってくださるのも主であると知っていたからです。パウロは自分で自分になったのではないと知っていたのです。

 勿論説得力のある話し方や、分かりやすい解き明かしは必要です。しかし、人を変えることが出来るのは人の何かではなく主によります。主の語りかけに人が応じるかどうかです。みことばを聞いた者が示された光の中へ一歩踏みだしてくるかどうかにかかっているわけです。

 私たちは、この世での知識や経験を増せば増すほどに、両目に硬く張り付いたうろこを厚くしています。それは真実を見極めることを妨げるに十分なものです。
 人の目には人の子イエスの中に秘められた神の本質か見えません。人の目には人の子イエスの中に秘められた完全な人間性が見えません。クリスチャンを自称する多くの人々は、聖霊の光なしに、当てずっぽうで嘘を言っているのです。

 ターニング・ポイントのはっきりしない人のことばは信用ならぬものです。その人は、聖霊のはたらきを魔術の延長線上に考えたサマリヤの魔術師シモンのように、信じてはいても信じてはいないのです。ペテロも悔い改めを命じています。

「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。」(ヨハネ3:18~21)

 教会の交わりの光の中で、メッセージや賛美の光の中で、自分をさらすならばどんどん変えられていきます。しかし、どんなみことばを聞いても、闇の中で心を閉ざしていては何も変わりません。

 私たちの目のうろこは本当に落ちたでしょうか。
そのうろこは、信仰を働かせていなければ、いつでも私たちの目に張り付いているものです。私たちがみことばによらず、自分の見たところにより、知恵と経験とに基ずいた過去の行動パターンで、漫然と日々を過ごしているなら、それは闇の中での感情の変化に振り回されます。話の座標軸は「楽かしんどいか」「嬉しいか悲しいか」自分の状態に関することです。
一方光の中を歩む人には、常に喜びと感謝があります。もちろん、状態の良し悪しや感情の起伏はあっても、決してそれには振り回されないのです。

 最後に、もう一度パウロのビフォー.アフターの違いの大きさを考えてみましょう。本当にイエスさまに出会えば、人は180度変わります。あの激しい迫害者が、最も福音の奥義を理解し、いのちがけで誰よりも広く深く福音を伝える人となるからです。私たちは、善良でまじめに生きている人こそ福音に近い人だと思いがちです。信仰に関して取り立てて強く反対せず、一定の理解を示してくれる人たちを何となく認めてしまったりもします。

 しかし、人間の資質に関することや、過去の経歴などは、何の関係もないのです。イエスさまとの出会いは全てを一変させます。神のはたらきが、牧師や宣教師の子どもたちに世襲で受け継がれていくことや、自動車学校や三流大学よりもレベルの低い学校によって保証されることがいかに馬鹿馬鹿しいことであるかは、聖書をまともに読めば誰でもわかることです。

神さまはサウロを「選びの器」として選びつつ、彼の無茶な活動をある程度放っておかれる方です。(使徒9:15)さらに、アナニヤやバルナバといった優秀なしもべに、直接指示して導かれるのです。神さまの導きは大胆にして繊細です。私たちはこの偉大な御方の御手に自分を委ねれば良いのです。
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おわび

2007-06-01 19:55:48 | Weblog
5月15日「礼拝」において、とんでもない誤りがありました。

「駅に一年間もお迎えに来て頂いていたけれど・・」
とありましたが、これは2年間の間違いです。ご苦労をおかけした年月を間違えるなんて本当に心からお詫びいたします。

知らせていてくださった姉妹に感謝いたします。それでも、まだ気づかないでいましたが、今日、全く他のことを調べているときに気づかせて頂きました。
誤りにも忍耐して下さり、祈り支えていてくださいました方々に心から感謝いたします。
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