石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

友とルカ5章を読む (1~11)

2006-11-30 11:15:48 | Weblog

5:1 群衆がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いたとき、イエスはゲネサレ湖の岸べに立っておられたが、
5:2 岸べに小舟が二そうあるのをご覧になった。漁師たちは、その舟から降りて網を洗っていた。
5:3 イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟にのり、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群衆を教えられた。

イエス様は、30歳まで大工として肉体労働をされていてたくましいお方だったから、押し寄せる人々を避けて、船の上から波の音にも風の音にも、かき消されないほどの大声でお話されたのね。

5:4 話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」と言われた。
5:5 するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」

ペテロは漁師としての誇りを持っていたと思うわ、イエス様は漁師ではないのですから、従うには自分の経験を捨てて素人のイエス様に従う必要があったでしょう。私たちがイエス様のお言葉に従う時も同じね。今まで生きてきて得た経験や悟りを退ける謙遜がいるようね。

それでも、ただ、黙って従うわけではなくて、ちゃんと事実を伝えていいんだ。「一晩中働いても何もとれなかった」と、ありのままに自分の気持ちや意見を言っても良いのね。大切なことは「でも、おことばどおり・・してみましょう」ということ。

ペテロは一晩中釣れない釣りをして疲れていたのに、ちゃんとイエス様のお言葉を聞いていたのは、イエス様のお話がよく分かったからなんだね。それにイエス様に姑を癒してもらったことがあったね。ひとつの信仰の経験が、次の従順につながって、信仰は成長して行くのね。

イエス様は、「深みに漕ぎ出しなさい」と言われ、お話を聞いていたペテロに、信仰を次に進めるように言われたんだね。イエス様に従う度に、イエス様がどういうお方か分かるようになるよ。ただ聞くだけでは何時までたっても、本当のイエス様の、神の力を経験できないからね。

5:6 そして、そのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになった。
5:7 そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、二そうとも沈みそうになった。
5:8 これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」と言った。

イエス様を知ると、自分の罪が分かるようになるの。神と人の違いを知るから。そして、自然にひれ伏し礼拝するの。人間が決めた礼拝の形や場所ではないけど、心の中でいつもイエス様を礼拝しているようになるわ。

5:9 それは、大漁のため、彼もいっしょにいたみなの者も、ひどく驚いたからである。
5:10 シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンにこう言われた。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」
5:11 彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。

ひとりの人がイエス様に従う時に、祝福が周りにいる人々に及んで行くわ。
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」
みことばは神様の約束よ。

「イエス・キリストのいのち」という網で、滅びに向かっている人をすくいとるの。この福音は、今では世界中で伝えられそのすべての地で、ペテロ達の働きが伝えられているから、素晴らしいことに参加したの。

彼らが、何もかも捨ててイエス様に従ったことから、彼らは「魚の大漁」という、この世の富みを与えるイエス様に、魅力を感じたというわけではないことが分かるわ。彼らが即座に従ったことから、イエス様が彼らを選ばれたわけが分かるわ。彼らには、人間が選択するような特別な才能や、学問などは何もなかったけど、神様に即座に従うような、素直な潔さを持っていたのそれが信仰。

イエス様のことばを聞いていたのは群衆だったけど、イエス様に従ったのはわずかな人々。
「信仰は聞くことから始まる」けれど「御国のことを聞いても悟らないと、悪いものが来て、その人の心に蒔かれたもの(福音)を奪っていきます」と書かれているね。
「イエス様、深みに漕ぎ出す謙遜と従順と勇気をお導き下さい。」
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

日曜日はイエス様のお話を聞く 11.26

2006-11-27 14:10:34 | Weblog

11月のメッセージの「貧しいやもめの献金」「賢い建築家」「終末の預言」(ルカ21章)は、それぞれ関係を持ってつながっていることに、気が付く読み方をするようにと教えられた。

「イエス様の目にとまったものは、貧しいやもめのレプタ2枚の献金の姿であり、弟子達の目にとまったのは荘厳な神殿であった。
聖書は日本にあふれているが、霊的には飢餓状態であって、教会はなまぬるく、自分が飢えていることにさえ気が付かない状態です。」その言葉が心に残った。

エリヤが遣わされたシドンのサレプタのやもめ(1列王記17:8~16)は、かめの残りの一握りの粉でパンを作り、息子と食べて死のうとしていた。そこに遣わされ、そのやもめに養われるエリヤ。「そのパンを私に食べさせよ」というエリヤも辛い。信仰を導く指導者の辛さを思った。しかし、エリヤを養うことによって、かめの粉は尽きない。

やもめは、エリヤにパンを焼く時、「死ぬ前に息子を喜ばせること」を捧げて主を第一にした。そんなやもめだとご存じだから、神様はエリヤをおくって下さった。望みをこの世には置いては居ないから、だからやもめたちはすべてを投げ出せたのだろう。この世のものは神殿でも崩れる時が来る。


私は、勇気をふるって献金箱に財布ごと投げ入れても、「貧しいやもめの献金」とは違うと思う。主は侮られるお方ではないから、イエス様が目を留められたということは、真実この貧しいやもめには、もう何も残っていなかったのだと思う。

人生で1度きりのチャンスに、また、ピンチに、世の目に見えるものには拠らず、すべてをみことばに賭けて、イエス様を選び取る時、主は必ず御目を留めてくださることを知っている。それは、飛び込む前には一寸先も見えない闇のようでも、飛び込めばそこには、甘いイエス様のお褒めのことばがある。世では決して味わえない、いのちを養う甘いみことば。聖書には貧しいやもめのその後は書かれていないけれど、彼女もイエス様のお褒めの言葉で、もう何も要らないほどに満足したのだろうと思った。


見よ。その日が来る。・・神である主の御告げ。・・その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである。 アモス8:11
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「おはようボンジュールハロー」

2006-11-22 19:24:02 | Weblog

ラジオにセットしてある目覚ましの「おはようボンジュールハロー」ですごく気持ちよく目覚める。6時頃に一度目覚めたけれど、もう一度うとうとしていた。最後までCDを聞いてゆっくり起きる。若い頃には、どれほどこれをしたかったことか!何時も眠かったなァ・・。

主人は、私が起きる前のコーヒーとトーストの時間が楽しいらしくて、一緒に起きると「もっと寝とけ」と不機嫌に言う。ひとりで新聞を読んだり、ゆっくりくつろぎたいのだろう。私は、自分では意識して居ないけれど、うるさいことがあるらしい。でも、直らないよ。私には何がうるさいのか分からないから。気を利かせたつもりが「ええから、放っといてくれ」と言われることが時々ある。

だから差し支えない時には、時間差を付けて起きるという、平和な方法を取っている。それでも、土曜日や日曜日は忙しくて、そんなにゆっくりしていられないので、寝起きには注意しないと、ちょっとした衝突がある。例に挙げられないほどの些細なことだけど、主人は高血圧、私は低血圧。後からゆっくり起きて行くと機嫌が良いし、私も楽なので結構なことだけど・・。

私が着替えを済ませて新聞を読む前に「お祈りをしようか」と主人から誘う事が多い。二人で頭を突き合わせて、みことばを読んで、静かな朝を感謝して、今日の、家族のお導きを祈る。離れている子供達のことも、孫のことも日々祈る。

祈る前から、イエス様は私たちに良い計画を持っていてくださることを知っているけれど、祈ることは御前に静まること。イエス様にお会いすること。朝、祈っていなくて、何らかの出来事が起こると不安を覚えるけれど、祈った時には「大丈夫、イエス様のお導きの中で起こったことなら」と平安がある。

主人はそれから出かける。畑のことも在ればちょっとした仕事のこともある。私はそれから新聞を読みながら、トーストとコーヒーの朝食。それから聖書を読む。インターネットでブログを見て、また、聖書を開くことも・・。だから、掃除や洗濯が遅くなることが多い。主婦としては、ちょっと気がとがめることもある。

でも、こんな平凡な日々が私には至福の時、感謝の日々。すべてイエス様の細やかなお守りの内にある。受ける価値のない者が憐れみを受けている。


わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、
あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、
あなたの一生を良いもので満たされる。 詩編103
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

イエス様の備え

2006-11-20 15:15:27 | Weblog

電話で、義理の叔母の訃報を知った。そう言えば、近頃しきりに彼女と一緒に居た頃が思いだされ、恨みに思って当然なことまで、なぜか懐かしく想い出していた。電話を受けて、その訃報の準備が私の中にされていたと知った。

祖父の家で同居していた叔父達の住まいは二階。明るくて綺麗な床の間に、黄色い毛糸で夜会巻きをした人形が沢山並んでいた。義理の叔母は、癇性で完璧主義、他人に厳しい人だった。祖母の死後、中学を卒業したばかりの私に「親も財産も無い子なんて」と面と向かって言った。

私の友人関係を壊されもした。疲れて寒い道を仕事から帰ってきたら、玄関は鍵が掛けられていて入れなかったことが時々あった。じっと待つことは寒くて、用もないのに町中歩き回って叔父達の帰りを待っていた。その当時、私は彼女の期待に添えないことをすまないとも思っていたのだけれど。それは通じなかった。

それでも、私は彼女のわずかな親切を思い出す。手編み機が得意だった彼女が、セーターを編んでくれた。メリヤス編みだけで、ゴム編みの手間も省いたそのセーターに、愛を探って暖かいと思ったこと、授産所で手提げ袋の内職があると教えてもらって、休日などに頑張ってしたこと。給料のほとんどを食費に取られたけれど、夕食のご飯のおひつを、冷めないように毛布で包んで置いてくれたこと。

どうして50年も経った今、こんなにリアルに思い出すのだろう。懐かしささえ感じるほどに・・それも訃報を聞く前から。不思議な神様の備えを思う。私にとって、叔父をすでに亡くして、今、彼女の死は私のひとつの時代の終わり。死ぬほど寂しかった過去が終わったということ。

そんな過去を、イエス様はやさしく覆って、私の心に備えてくださった。憎しみが残れば傷つくけれど、愛が残ればすべてが美しくなる。今はあふれる愛の中に置かれている。永久に変わることのないイエス様の愛と、家族の愛。

1ペテロ 1:24
「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。
しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

日曜日はイエス様のお話を聞く 11.19

2006-11-19 23:44:34 | Weblog
「終末の預言」という題でルカ21章7から36節までを通して語ってくださった。
私にとって、特に心に残ったことはやはり聖書の読み方。


「あなたがたの見ているこれらの物について言えば、石がくずされずに積まれたまま残ることのない日がやって来ます。」ルカ21:6
彼らは、イエスに質問して言った。「先生。それでは、これらのことは、いつ起こるのでしょう。これらのことが起こるときは、どんな前兆があるのでしょう。」21:7

イエス様の「これらの物について言えば」と言う言葉を、弟子は注意深く聞いていて、「それでは、これらのことは」と質問しており、神殿が崩されると言うことだけではない、他にももっと大きな出来事があることを現していること。それを弟子達はちゃんと聴き取っていたから、イエス様の十字架と復活ということと結びつけて理解することが出来た。


このことを知って、私は弟子達が、イエス様の十字架と復活でどうして、神殿のお話が理解できたのだろうと思った居た疑問が解けた。私の聖書の読み方がいい加減であったということ。何時も言われる「ちゃんと読めば書いてある」を今日も教わる。

この当時を生きていた弟子達には、イエス様は型破りで、罪人を受け入れたり、安息日に癒しを行ったり、律法を破っているようにさえ見えることをされた。なんの権利もないのに神殿の商売を妨害された。弟子達には、イエス様のそんな言動に自分を従わせながら、みことばを注意深く聴き取ると言う訓練がされて行った。

聖書を読む姿勢を教えられ、訓練を受けて行くことの大切さ、みことばに自分を従わせながら、注意深く読みとり、注意深く聴くことがどれほど大切であるかと思った。そうしないとイエス様を正しく知ることは出来ない。

すべてがアメリカによる支配の中にあって、今、多くのあやまった情報があふれる。それらを丸飲みすることなく、聖書にちゃんと照らして吟味すること。聖書は終末だから特別にこうしなさい、とは言っていない。この時代の混沌と閉塞を受け入れつつ、落ち着いて普通の生活をし、十字架にかかられた方を示し、主の助けの中で導かれる時、悔い改めをお伝えするそんな生活を導かれた。


駅から家まで20分ほどの距離を歩いた。歩くにはちょうど良い気温。暗い道に落ち葉が積もっていて、カサカサと踏むたびに乾いた音を立てていた。月もなく暗い道だったけれど、心が明るかった。知らないことを教わり、疑問が解けてゆき、イエス様を知ることの望みは感謝に満ちて嬉しい。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

ヒヨドリ

2006-11-17 15:07:53 | Weblog

6月に、昨年に続いてヒヨドリの姿を玄関先の椿の木に見つけた。頻繁に何かをくわえて往復している。よく見ると、椿の枝に、枯れ木やナイロンのロープや枯れ葉などを組み合わせて、舟形の巣が出来ていた。数日後、ヒヨドリの姿は消えた。「あれ?止めたのかしら」と思っていると、大きな尻尾を巣からピンと出して、卵を抱いている姿を見つけた。

今年は、下水工事が椿の木の真下で行われている。ドリルの音と埃、工事屋さんが激しく動き回っていて環境は最悪。人がとても怖くて、私たちと目が会うと鋭く鳴きながら逃げるのに、なぜか工事屋さんには全く平気で無視している。工事屋さんも、鳥の巣を知らせてもチラッと見てうなずいたきり無視して仕事。ヒヨドリは、彼らが自分たちに関心がないことを知って居る「すごい」と思った。

ヒヨドリはどちらかと言えば嫌われもの。畑の作物を荒らす事も多い。我が家のえんどうの苗も、襲われて全滅したことがあった。主人が、「ヒヨめ、えんどう苗をちぎってバラバラにまき散らしやがった」と怒っていたことがあった。それでも「窮鳥懐に入らば、猟師もこれを打たず」とばかり、主人も追っ払うことも出来ずにいる。

数日して、親鳥が頻繁に往復するようになり、かすかな声が「ピピピ」と聞こえるようになった。我慢できなくて、ちょっと留守の間に巣の中を撮影。4羽ちゃんと孵っている。良かった!顔じゅう口にして鳴きながらヒナは身を寄せ合っていた。

親の警戒心はいよいよ過敏になり、私たちが出入りする度に、慌てふためいて巣から飛び立ったり、餌をくわえて来たのに、巣に入れないと近くの木の上で騒ぎ立てる。本当にこちらの方が参ってしまう。

お隣のご主人が「勝手に巣を作っておいて、困るなあ」と同情してくださった。立て簾を立てて目が合わないように、椿の木を見上げないように、玄関の出入りは最小限にした。それでも気になって、時々半身を隠してガラス越しにそっと見ていると、突然親鳥がガラスに羽を打ち付けんばかりの勢いで向かってきた。

「攻撃された」と胸がドキドキ足がガクガクした。親鳥は餌を落としていった。二度と拾いに戻らなかったので、よく見るとカタツムリの殻を外したものが這っていた。ヒナに与えたかったけれど、親に脅された後さすがに怖くて出来なかった。

大雨の夜、私は心配でなかなか寝付けなかったけれど、きっと親鳥は翼のしたに抱いて、雛を少しも濡らさなかったのだろう。雛は何も知らずに母鳥のふところに寝ていたのだろう。父鳥も近くの枝で気配に耳を澄ませて守っていたのだろう。翌朝何事もなかったかのように彼らは元気だった。

数日後の朝、椿の枝や巣の周りに、雛が巣から出て止まって居た。親鳥は電線や、高い木の枝からしきりに鳴いて誘っている。1羽が飛んだ、尾羽がまだ無いので、親に向かって真っ直ぐなんて飛び方じゃない、何処に飛んでゆくのか分からないと言うようなおぼつかない飛び方、少し飛んでは止まり、飛んでは落ち、よじ登ってはまた飛ぶ。しかし、決して親鳥は近づかず、高いところから呼び続けている。

3羽目が高く飛んだ時、「カーァ」鋭いカラスの声に「危ない!」と私が叫んだけれど、上空から突然現れたカラスが雛に向かっていった。空中で2羽の親鳥とカラスがもつれ合い、羽が飛び散った。すごい勢いでカラスは飛び去り、2羽の親鳥が追って行った。

今年のヒヨドリの巣立ちに、自然の厳しさを目の当たりに見せられた。ヒヨドリがなぜ玄関先に巣を作り、人に怯えながらも頑張ったのかを知った。彼らを見ていると何時も感動する。それは、神様のプログラムに真っ直に生きているからだろう。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

ムベ

2006-11-16 11:36:17 | Weblog

カナン教会で、私はムベというハンドルネームを使っている。この名を漢字で書けば本名。ムベは、アケビと似た実を付ける植物。アケビは熟すとポッカリと割れて中身をさらす。けれどもムベの実は割れない。

このことを知った時、自分に似ていると思った。人前に出るのが好きじゃない。人に自分をさらすのは嫌、自分のことを話すのはもっと恐い。そんな時、星野富弘さんの詩「あけび」に出会って、心に残り忘れられなくなった。
「誰におしえられたのか、あんなにも気持ちよく 自分を投げ出せる あけびを見ろよ」
このようになりたいと思った。

イエス様に出会ったサマリヤの女は、人目を避けて来た自分を忘れ、町中走り回りイエス様を伝えた。「来て、見てください!」
私もイエス様にお出会いして、我を忘れて「石ころ」を書いている。

私には少しばかりの自尊心があって、このことが時々恐くなる。自分のブログを開く時に、緊張で胸がキュッと痛むことがある。頼りとするものはイエス様だけなのだから、安心していればいいのに・・。いいえ、聖書の無知をさらけ出すことが恐い。イエス様を、あまりにも知らないことが、さらけ出されるのが恐い。

先日saltさんが話して下さった
「私たちが、神様を知っていることと言えば、『森』に例えれば、たったのはっぱ二枚程度です。」その言葉にちょっと安心している。

でも、私には聞きたい言葉がある。サマリヤの女が聞いた言葉
「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」
コメント (4)
この記事をはてなブックマークに追加

鰺を買って・・

2006-11-15 10:33:02 | Weblog

鰺を買ってきた。一匹100円!それにとても新鮮。すぐに開いて濃い塩水に30分ほど浸けて置く。竹串で開いて刺し、尾の付け根を固く結んでベランダにぶら下げておくと、私流鰺の干物の一丁上がり。寒くならないと、蝿が来るからできない。この季節を待っていた。この干物を食べるとやみつきになる。

どなたかが玄関に置いてくださっていた、白菜を洗って切り漬けにする。これだと明日には食べられる。以前は沢山に漬けていたけれど、最近は少量でないと食べきれない。それに同じものが続くとすぐに飽きてしまう。

我が家の玄関には、枝豆、小芋、青梗菜に、白菜に、大根、等々、季節毎の野菜が無造作に置かれている。主人も畑を作っているけれど、それらの野菜は主人より、不思議なことに早く出来て、すべて立派。「お前が喜んで料理するから、皆が置いていく」ちょっと悔しそうな主人の言葉。


私はこんなにも平和な此処が好き。こんな日々がとても嬉しい。此処に置いてくださったイエス様に何時も感謝している。
「美しい国日本」なんて誰も私に教えなかったけれど、誰に言われなくても、生活の中でこの国のありがたさと幸せを知っている。美しさと厳しさを知っている。どうぞ、何時までも変わりませんように・・。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

山にて

2006-11-14 14:28:40 | Weblog
桜はすっかり葉を落としていたけれど、天に無数の枝を広げ、秘かに沢山の芽を蓄えているよ。

春風に花びら散らして・・焼けつく太陽に木の葉広げて・・秋風に赤い葉散らして・・凍える日白い雪が積もっても・・じっとそこに居るだけ。

桜は置かれた場所に居るだけ。そこで花を咲かせて喜びを分け、花を散らせて何かを教え、緑を繁らせて木陰を作る。今は、誰も忘れているけれど、今はすべての準備中。

桜は造り主のプログラムのままに、人に褒められたり、重宝がられたり、忘れられたり・・・
桜はそんな日々を繰り返し、何十年も繰り返して、造り主を喜んでいる。きっと喜んでいる。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

日曜日はイエス様のお話を聞く 11.12

2006-11-14 09:11:40 | Weblog
帰りの電車の中でメッセージを読み返し、暗い車窓に時々流れる明るい光を見つつ、思いをめぐらせた。


「あなたがたの見ているこれらの物について言えば、石がくずされずに積まれたまま残ることのない日がやって来ます。」ルカ21:5.6

幕屋も神殿も形ある物はすべて崩れ去る時が来る。とは、神を礼拝する型が壊されること。そして私たちは、十字架を通って、罪をあがなってくださった、イエス様の霊と共に住む。今、私たちはキリストの花嫁であり、神と家族として共に住んでいる。

人が、神殿を建てて神を礼拝に行くのではなく、神が人となって私たちのところに来て下さった。真の大祭司なるお方、イエス様がご自身の血によって、信じる私たちを「聖」としてくださり、私たちのところに来て共に住んで下さっている。何時も何時も共に居られる。今、私はいつも主を礼拝している。

それはとても不思議なこと。私たちは、まだ古い肉を持って、体はそれによって生きており、霊のいのちは神と共にある。そのなかで時にせめぎ合い、行き来をしながら?生活をして居る。

そんなクリスチャン生活の中で、私は無駄な事や、自分という臭いに満ちた活動をするが、主は、正しい裁きによってそれらを焼いて下さる。人の手によるものは焼かれ、それらを御国に持っていくことはない。その事は大きな平安だと、此処に安息しようと思った.
コメント
この記事をはてなブックマークに追加