今日は、ダビデは王となるべくして、神様から油注がれているにもかかわらず、サウル王から命をねらわれて逃げ回り続けたこと。その時、ダビデはチャンスが2度もあったのに、サウル王を討たなかったこと。そんなダビデの信仰についておしゃべりをしていた。
ダビデはその時、気違いを装って逃れるほどに恐怖を感じていた。サウル王を討てば王になれる、邪魔者はすぐに取り除くことができる。そんな時、部下は「今こそ神があなたにチャンスをあたえられたのです。」なんて言う。
私だったら「そうかな・・」と飛びついてしまうかも知れない・・。試みの時は確かにある。と・・ダビデはその時に手を下さないで、神様にサウルの命をお任せした。それは自分の命も自分で守らなかったと言うこと。
もし、この時にサウルを討っていたとしても、それがダビデの弱さからだったら神様は罰しないと思う。だって、アブラハムに対しても妻のサラを妹だと言って、王に差し出すというとんでもないことをした時、それが彼の弱さから出たことなら神様は彼を罰してはおられないから。
でも、ダビデが神を畏れてサウルに手を下さないということで、神様はダビデに義を得させて下さった。試みは、神様が私たちに義を得させるチャンスとして、置かれているだけかもしれないね。なんて話ている間も、車はもう暗くなった道をひた走る。
聖書は、信仰のない普通の人には馬鹿げた本でしかないだろう・・。だってこのような信仰は絶対に理解できないと思うから。
ダビデは決して自分の力を使おうとはせず、逃げることしか出来ないような弱い者となり、まるで愚かもののように自分で判断をせずに、ただ、ただ神様にお任せしている。
「私は、信仰の初めに聖書を全部読んだ、その時はなんか不思議な本やなあと思った。それでも続けて読むことができたのは、守られていたからだと思う」と姉妹は話された。聖書は理路整然となんかしていない。人間の知恵や知識では知ることは出来ない。どこかで自分の判断を捨てて、飛び込まないと絶対にわからないいのちの世界。でも、そこに連れて行ってくださるのは主だけ。そんなことも良く通じ合って、一致できるおしゃべりがとても楽しい。
夢中になって話している間にもう40分も走っていて、いつもの明るい駅に着いていた。お礼を言って車から降りた時、主にあるいのちの交わり、そして、いつも助けられている感謝が混じり合って、2月の寒風の中ででも私の内はホカホカとしていて、自然に感謝があふれてくる。ずっと、私たちはふたりではなかった、主が共にいてくださった。
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石ころ
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