石ころ

祝福による民が多くて狭い(ヨシュア記17章)

 

ヨセフ族はヨシュアに告げた。「あなたはなぜ、私にただ一つのくじによる相続地、ただ一つの割り当て地しか分けてくださらないのですか。これほど数の多い民になるまで、主が私を祝福してくださったのに。」(14)

 

主が祝福してくださったなら祝福に応えるべきであり、祝福によって増えた民の数によって狭くなったと不満を言い立てるのは、数が増しただけの無力で中身の無い姿を現している。祝福を受けて増えた民はその祝福に相応しい実を結ぶべきである。

 

良きものをたまわっても用いることをしないで、ただ数を数えて満足しているだけならアッと言う間に貧しくなる。用いない賜物が持っている財を食い尽くし、用いないたまものは高ぶりをもたらして災いとなる。

 

あなたがたのところにいたとき、働きたくない者は食べるな、と私たちは命じました。(Ⅱテサロニケ3:10)

 

命はたまものである。産み出された者は命の与え主に応答してみこころを求め、熱心に主を知ることを求めて生き、そのことに一生を費やさなければならない。創造主に無関心で在るなら、その命は永遠の滅びを見ることになるからである。

 

ヨシュアは彼らに言った。「あなたが数の多い民であるのなら、森に上って行きなさい。そこでペリジ人やレファイム人の地を切り開くがよい。エフライムの山地はあなたには狭すぎるのだから。」(15)

 

多くをたまわりながら働くことなく必要を要求するだけなら、主の祝福は何と空しいことであろう。
多くの民を持つなら多くの働きをして、多くの地を支配し神の栄光を現さなければならない。主は彼らに山地と平地を用意しておられるのだから。

 

ヨセフ族は言った。「山地は私たちに十分ではありません。しかし、平地に住んでいるカナン人はみな、ベテ・シェアンとそれに属する村々にいる者も、イズレエルの平野にいる者も、鉄の戦車を持っています。」(16)

 

主に信頼せずに敵を見て何もしないことは、主が与えて下さった地を恐れて荒野を40年彷徨った日々と何も変わっていないことになる。

 

「此処は偶像の地で宣教が難しい」という言葉を聞くことがある。その言葉は「天地創造の神は偶像よりも力がない」と言っているように聞えた。
祈りと主の備えによって目の前に広がっている地に出て行き、経験しているみことばを語り伝えるだけで良いのに、そのとき主が手を取って導いていてくださるのに・・。

 

ヨシュアはヨセフの家、すなわち、エフライムとマナセに言った。「あなたは数の多い民で大きな力がある。あなたには、くじによる割り当て地が一つだけではいけない。
山地もあなたのものとしなければならない。それが森だとしても切り開いて、その隅々まであなたのものとしなさい。カナン人が鉄の戦車を持っていても、強くても、あなたは彼らを追い払わなければならない。」(17~18)

 

人が作った鉄の戦車と、人を造り生かしてくださっている主のどちらが強かろう。彼らは主をすっかり忘れて、自分の中を覗き込んで乏しい命を惜しんでいる。主に在ってこそ命は終わりのない輝を得るのである。

 

彼らは、主の祝福によって増えた民の数を養うものをヨシュアに要求するが、此処には自ら出て働く場所がある。主からたまわった祝福は、地を主のご支配下に置くための武器である。

狭くて不自由なのは出て行かないからであり、何もしない民が増えれば乏しくなる。主にその養いを要求するのは幼子のすることである。


目を上げれば行くべき地が広がっている。主はみこころを成す者と共にいてくださり、勝利を準備して成長の喜びを味合わせ、彼らの勝利は神の平和をもたらせて戦いを終わらせるのである。


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