一粒のからし種

憲法のこと。原発のこと。少しずつ書いていきたい。

地方公共団体の役割をどうするのか。

2016年08月31日 00時09分52秒 | 雑感




 現行憲法94条。

 「地方公共団体は、その財産を管理し、事務を処理し、
  及び行政を執行する権能を有し、法律の範囲内で条例を
  制定することができる」。

 上記は現行日本国憲法の94条である。

 これを自民党の憲法改正草案ではいくつか削除してある。
 一つは「その財産を管理し」であり、もう一つは「及び
 行政を執行する権能を有し」である。

 さて地方公共団体から「財産の管理」権を取り去ったらどうなるのだろう。
 地方行政はまったく国の言うがままに何でも唯々諾々と窓口業務を行うだけの
 機関になってしまわないか。これが本当に地方「自治」と言えるだろうか。
 「自治」という以上独立性を維持しなければならないのではないか。
 そうだ。地方自治は国(国家)の付属物ではないのである。

 また「行政を執行する権能を有し」の部分を削除してしまったのは、どんな魂胆がある
 のだろうか。

 たとえば、現在沖縄県民や県知事が国を相手どって争っているが、自民党は「行政を執行する権能」を
 地方公共団体から奪うことで、沖縄県をはじめとした都道府県との問題を国主導で簡単に解決したいとの
 思惑があるのではないかと思う。

 今回、参議院議員に、元歌手で沖縄県出身の議員が当選した。
 この議員は自民党の草案が現実に憲法として成立した時、沖縄県民がどのような辛酸をなめる
 ことになるのか、わかっているのだろうか。
 この議員が自分や自分の故郷の人々の首を絞める行動を安易に取らないことを祈る。







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自主憲法制定という人たちが憲法をつくったら。

2016年08月30日 00時02分03秒 | 日記


 自主憲法制定を謳う人々がどんな憲法を作りたいと考えているかが
 結実したのが、自民党の憲法改正草案である。
 戦後すぐに日本人が自ら憲法を制定していたらどんな憲法が発布されていたか。
 実際に作られた草案は、明治憲法とほとんど変わりがなかったそうだ。
 そしてさらに言えば、今回の自民党の憲法改正草案は明治憲法への回帰である。

 自民党が長期政権を担ってしまったおかげで、この国では義務教育あるいは高校の
 授業で、「憲法」に関する授業が奪われてしまった。
 終戦直後の5年ほどは、中学一年生に素晴らしい教科書が渡されていたのに、一部の
 政治家の思惑によって、平和憲法を学ぶ機会が取り去られた。

 現在の状況下では、憲法改正(改悪)の審議が進展するのは間違いない。
 碌に学ぶことをしない自民党の議員が、幹部の言いなりに改正(改悪)に賛成をする
 ことになると思われる。

 私たち国民は、自分たちでこの平和憲法を守る義務がある。
 そして私たちは現行憲法を学ぶ義務がある。
 さらに国会で発議された憲法原案を学ぶ義務がある。
 何も知らないで投票することがあってはならない。

 新しいから「よい」という理屈はこの場合成り立たない。
 戦後70年。曲がりなりにも「人権」が守られてきたのは今の憲法の御かげである。
 「時代にマッチした憲法をつくろう」などという言葉に騙されてはいけない。
 戦争をするのが「時代にマッチしている」とでも言うのだろうか。

 私たちの子どもや孫、その子孫を戦争体験者にさせてはならないのだ。

 これは杞憂ではない。
 また私は現在のどの政党も支持していない。
 護憲は私の信条である。
 いまよりもっと優れた憲法草案なら改憲派になってもいい。
 しかし、現行憲法をしのぐ草案が今作られる可能性は低いだろうと思う。

 (憲法は一度改悪したら、さらにどんどん悪くなる。今食い止めるしかない)。






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個人を尊重すること。

2016年08月29日 00時00分23秒 | 日記




 自民党の憲法改正草案の第13条。

 「全ての国民は、人として尊重される。
  生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、
  公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、
  最大限に尊重されなければならない」。


 「人として」のところは、現行憲法では「個人として」となっている。
 「人として」などというのはどこかの歌手が流行らせた歌のようだ。
 こんなものは憲法の条文にはあいまいすぎる表現である。

 「個人として」尊重されるというのは、人種や民族、宗教や性別のすべてを乗り越えて
 一人ひとりが大切に尊重されるということである。
 自民党の憲法改正草案では「個人」がまったく無視されている。そのかわりに「家族」や
 日の丸・君が代にシンボライズされた「日本国」を尊重せよと言って必死である。

 上記の「公益及び公の秩序」は現行憲法では「公共の福祉」とあった。
 「公益及び公の秩序」は国家の意向と言っていい。
 国家の意向に反しない限りでは国民の権利を認めてやろうというわけである。
 人権の上にはつねに「公益及び公の秩序」がある。


 再々言っていることである。
 憲法は、権力者(為政者)を拘束するものである。これは国民の人権を
 守るためにそうするのだ。現行憲法はそこのところが本当にわかっている。
 自民党の憲法改正草案はその点をひっくり返して、国家を大事にし、国民の人権を
 二の次にすることに腐心している。
 こんな草案を、間違っても支持してはいけない。
 直観やイメージや、なんとなく新しい方がいいか、などの態度は慎むべきである。




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緊急事態条項(国家緊急権)は憲法を破壊する。

2016年08月28日 00時05分04秒 | 日記


 日本国憲法(現行憲法)は、緊急事態条項(国家緊急権)をおいていない。
 1946年に日本の新憲法をに関する審議をしていた当時の憲法担当大臣が
 以下のことを発言している。

 
 「民主政治を徹底させて、国民の権利を十分擁護するためには、
  非常事態に政府の一存において行う処置は、極力防止しなければならない」。

 「非常という言葉を口実に政府の自由判断を大幅に残しておくと、
  どのような精緻な憲法でも破壊される可能性がある」。

 この憲法担当大臣は金森徳治郎という御仁だ。
 この大臣の発言、今の自民党議員にぜひ読んでもらいたい。
 ことに若手の議員にはもっと憲法について真剣に勉強してほしい。
 そして憲法を守ることを決意し、自民党から足を洗ってほしい。

 濫用の危険がある。だから緊急事態条項(国家緊急権)は憲法に規定しない。
 これが結論である。
 緊急事態条項(国家緊急権)は、権力者にとっての麻薬である。
 これは取り締まらなければならない。
 もちろん取り締るのは、国民の権利であり、義務であるのだ。




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緊急事態条項は必要ない。

2016年08月27日 00時05分06秒 | 日記


 熊本地震が起こるとすぐに政府は記者会見をした。
 2016年4月15日である。
 菅官房長官が発言したのが、緊急事態条項(国家緊急権)を
 憲法に織り込もうというものであった。

 緊急事態条項(国家緊急権)とは、戦争や恐慌、大規模な災害などの
 緊急事態の時に国家が生き残るためにある。この時、三権分立は凍結され、
 人権は停止される。

 熊本地震のように、国民が大変な状況にあるときに、いかにもこんな時こそ
 緊急事態条項(国家緊急権)が役に立つとばかりに喧伝する神経がわからない。

 そもそも大規模な災害の時には、災害対策基本法がある。
 この法律によれば、非常事態の際には内閣は一時的に立法権が認められている。
 この法律を中心に活用すれば、大規模な災害の際にも迅速な対応が可能なのである。

 菅官房長官が、緊急事態条項(国家緊急権)のことを殊更に取り上げたのは、
 どさくさに紛れて、自民党の憲法改正草案をアピールするねらいがあったのではないかと思う。

 地震が起こったときにも、緊急事態条項(国家緊急権)があれば、安心だと国民に思い込ませ、
 洗脳してしまおうとの思惑である。ほとんど詐欺行為である。

 緊急事態条項(国家緊急権)は戦争とセットである。
 戦争をする気のない国民には、この条項はまったく不要である。
 たとえゴジラが攻めて来てもこの条項は必要ない。むしろゴジラよりも
 怖い。ゴジラの暴力からはうまくすれば逃れられるが、国家の暴力からは
 絶対に逃げられない。

 国家が国民を守ってくれるのは、憲法がそれを保障しているときだけである。
 自民党の憲法改正草案は国民に義務ばかり課していて、人権を守る姿勢が
 全く見えない。
 こんな草案はぶっ潰さないといけない。




 



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環境権について。

2016年08月26日 00時07分13秒 | 雑感




 自民党の憲法改正草案の第25条の二。

 「国は、国民と協力して、国民が良好な環境を享受することが
  できるようにその保全に努めなければならない」。

 こういう条文を読むときには気を付けて読むべきである。
 ここでは「国民は、国家に協力せよ」と書いてあるのである。

 「国」はなどと言うとき、人権を無視して「国家」のことを
 優先するのが、自民党の憲法改正草案である。

 上の条項はいわゆる「環境権」である。
 これは笑止千万である。
 「環境権」をうたいながら、原発を50余も製造したのはどういうことだろう。
 もっとも環境に対して害悪を垂れ流すものを作り出しておいてこの新しい権利を
 俎上にのせているのは、この憲法の悪しき部分を糊塗するためであるとしか言いようが
 ない。






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人権を守るはずの憲法が国民の命を奪う。

2016年08月25日 00時07分00秒 | 日記





 自民党の憲法改正草案の作成者たちが、人権を最初から
 無視して、国民の生命を危険にさらそうと考えて草案を
 作成したとは思わない。

 しかし問題はその作成者の意図や善意にあるのではない。
 そんなことなら彼らに異議を申し立てない。
 怖いのは、作成者の意図などとは関係なく、悪用される
 ようになる可能性が大だということである。

 自民党の憲法改正草案には、「緊急事態条項」がある。
 国家緊急権ともいう、この権力を乱用すると何が起こるか考えてほしい。

 かつてナチスが全体主義をほしいままにして、人命を奪っていった。
 ナチスが台頭してきた時代、ドイツにはワイマール憲法という当時としては
 最高の憲法があった。この憲法は民主主義的なものであったのだ。
 しかしワイマール憲法のような民主的な憲法のもとでなぜナチスのような
 政権が誕生したかと言えば、この憲法には残念ながら「国家緊急権」があったのである。
 国家緊急権(緊急事態条項)と戦争はセットである。
 自民党が、国家緊急権はどの国の憲法にもあると言うのは、そこには軍隊があり、
 戦争をするのを前提にしているのだ。

 われわれは戦争をしないと誓ったのではなかったか。
 戦後すぐの文部省は、その教科書に、軍隊のないのは世界に先駆けている「正しい」こと
 なのだと書いた。そして「正しい」ことは強いことだと胸をはった。
 今、時代に即した憲法を考えるならば、現行憲法が最も時代にふさわしいと思う。
 いな、むしろいつまでも古びないのが現行憲法であると私は確信する。






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憲法九条が殺される。

2016年08月24日 00時05分03秒 | 日記



 自民党の憲法改正草案の第九条の二。
 第③項。

 「国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協調して行われる活動
  及び公の秩序を維持し、又は国民の生命若しくは自由を守るための活動
  を行なうことができる」。

 上記の「国際的に協調して行われる活動」とはもちろん戦争のことを指している。
 さて、ひとたび戦争が勃発した時、国家は「国民の生命若しくは自由を守る」ための
 活動をするだろうか。
 かつての戦争を思い起こせば、そんなことが空論であることがわかるはずだ。
 たとえばあの沖縄戦の時、政府や軍部は沖縄の島民の生命を守るどころか
 見殺しにした。それどころか、なんの罪もない人々に自死を強要したのである。

 自民党のこの草案は、国民の自由と生命を守るふりをしているが、吟味して
 読んでみれば全く逆行している。
 自民党員はほんとうに全員、この草案を読んでいるのだろうか。そしてこれが
 真に国民の人権を守るものだと信じているのだろうか。

 この憲法草案を考え出すような政党は、この後にどんな法律を作り出すか分かったもの
 ではない。国家総動員法のような法律も平気で作り出すだろうと思う。

 これに絡めて、「徴兵制」の復活を論じ出すと、飛躍しすぎると論難されがちだが、
 しかし戦争というのは生命を殺すことを前提としているのだ。守るためではない。
 だから国民の命など国家はなんとも思わない。ただの消耗品である。いつの時代のどの
 戦争を見てもわかる。歴史が証明している。「徴兵制」が復活しても不思議ではない。




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国民のためか、国家のためか。

2016年08月23日 00時03分11秒 | 雑感




 さて、大事なことなので、再度申し上げるが、憲法は国民の人権を
 守るために、国家に足枷をはめるものである。
 このことは本当に肝に銘じておかねばならない。

 憲法論議の際に問題になるフレーズが、「国のため」というものだ。
 これは「国家のため」なのか「国民のため」なのかはっきりしない。

 今回の自民党の憲法改正草案には、緊急事態事項(国家緊急権)がある。
 現行憲法にはなかった。
 これはそもそも「国家の」存続のために設けるものである。
 けっして「国民の」ためにあるのではない。
 国家緊急権については、おいおい発言させていただくつもりだが、
 いま認識しておかねばならない重要事項は、自民党の草案が
 「国民の」ための草案ではなく、「国家の」ための草案であるという
 ことである。
 「天皇は元首である」という条項を見ただけでも、国民からそっぽを向いて
 いることがよくわかるというものだ。

 冷静に考えてみよう。
 ひとたび戦争がおきると、国民の命や財産のことを国家が考えてくれるだろうか。
 戦争の勝ち負けではない。傷つくのは国民である。そしてもちろん動植物も傷つく 
 のだ。

 戦力を保持すれば、なんでもOKなんてことはあり得ない。
 軍隊は魔法の杖ではないのだ。
 戦争をすれば人間も自然も傷つく。国土もいのちも死に瀕する。
 これはテレビゲームではないのだから、リセットはきかない。
 ついでに言えば、憲法を改悪すれば、もとのよい憲法には絶対に戻らない。

 どうか騙されないように、慎重に判断してほしい。





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表現の自由②。

2016年08月22日 00時07分29秒 | 日記



 前回も書いたが、自民党の憲法改正草案では政府の意にそわない
 自由を侵害する可能性が大である。

 草案が現実に憲法として発布されれば、それに伴ってさまざまな法律が
 作られることとなるだろう。
 国民の自由はまったく保障されなくなる。
 自由な発言も許されない。

 たとえば原発に反対するデモや集会は許可されなくなる。
 出版社やテレビの報道も、きつい規制がかかることは間違いない。


 1941年(昭和16)。
 言論・出版・集会・結社等臨時取締法が議会を通過した。
 たった一日の審議だった。
 これは言論・出版等の適正化を名目としていた。
 政府の気に入らない言論・表現活動を弾圧するのが目的である。
 これにより政治思想に関する結社は圧迫を受けた。
 集会もほとんど許可が下りなくなった。
 出版物の発行も許可が必要になったのは言うまでもないが、
 廃刊に追い込まれる雑誌も多くあった。

 自民党の憲法改正草案は現実化すれば、昭和初期の悪夢の再来は必至である。
 あまり安穏とかまえてばかりはいられないのではいか。





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