書の歴史を臨書する

古今の名磧を臨書、最近は米フツ。
時折、気の向くままに漢詩や詩、俳句などを勝手気侭に書いております。

西行 書状

2007-06-25 06:28:53 | Weblog

西行(1118-1190)
これは数少ない西行の真蹟の一つ。
内容は、高野山が、
造営の為に課せられた木材の免除を清盛に申し入れて聞き入れられた事を報告している。
清盛と西行は同年であり、かって同じ北面の武士であった。
この時期、清盛は太政大臣の職にあったが、
お互いに旧友として接していたのであろう。
奥州に藤原秀衡を訪ねる途中に頼朝とも会っている、
面白い男だ。
保元・平治の乱、平家、奥州藤原の滅亡・・・・
彼の生存中にいろいろな出来事が有り世の流れが変わった。

西行は漂泊の歌人として名高く、勅撰集だけでも252首の歌を残す。
俗名佐藤義清、北面の武士であったが23歳にて突然出家する。
出家の理由は明らかではないが、
一説には、親友の突然死に無常を感じたとか、また、
待賢門院璋子への恋着とも言われる。
・・いにしへをこふる涙の色に似て袂にちるは紅葉なりけり・・
他、恋歌を多く作っているが、待賢門院璋子を偲んだ歌が多いと言う。


淡々と物語るように流れる筆致に深い趣を示す。

義経 書状

2007-06-24 07:03:33 | Weblog

義経(1159-1189)
義朝の九男。
平家追討に一番の功があったが、
頼朝を牽制する後白河法皇の謀略に頼朝と対立し、
終に平泉にて生涯を閉じる。
義朝を父、常盤御前を母とし、
幼名を今若、乙若、牛若と言う三人の兄弟が居た。
牛若が後の義経、今若、乙若は歴史に殆ど名を残さない。
余談だが、私が歩いて行ける距離の所に今若の墓がある。
当時、源の姓を名乗る者は5万といた筈だが、
その中で歴史に名を留めているのは指折数えるほどだ。
父・義朝が平治の乱で破れ、
母・常盤御前は今若、乙若、牛若の命と引き換えに清盛の囲い人となる。
この絶世の美女も又波乱の人生を送ったのだ。

歯切れの良い筆さばき、人を惹き付ける字だ。

高野山阿弓川庄事子細承候了

弁慶 書状

2007-06-23 08:40:30 | Weblog

弁慶(?-1189)
武技に秀でていたが長ずるの及び学に志した。
義経補佐役として仕え、
その主従関係の厚さには多くの伝説が残る。
諸国に怪力弁慶に纏わる逸話も残る。

私が生まれて始めて読んだ小説は少年少女向けの「義経」。
霧の中、
五条の橋の上に白い衣装をはおり横笛を吹いて登場する牛若丸、
弁慶との立ち回り、欄干の上に立つ牛若丸、
その挿絵と共に鮮烈に記憶に焼きついている。

この書には、荒武者弁慶の面影は無く、
暖かい人柄を偲ばせる。

結願之臨幸殊勝

寂然・一品経和歌懐紙

2007-06-22 08:06:03 | Weblog

寂然(1117?-1182?)
寂超(為経)・寂念(為業)の弟で、
いわゆる大原三寂(常磐三寂とも)の一人。
西行と親しく、贈答歌が多い。
讃岐に流された崇徳院を見舞った記録も残る。

こころすむありあけのつきを
みるのみぞおいのねざめのともとこそなる

平宗盛 消息

2007-06-21 06:43:35 | Weblog

平宗盛(1147-1185)
清盛の三男、母は清盛の正妻時子。
兄重盛、父清盛が相次いで逝去し、その後をついで、
平家一門の棟梁となる。
政治手腕に乏しく、愚鈍にして傲慢とも言われる。
殆どなす所無く、壇ノ浦に追い詰められ平家は滅亡する。
本人は生き永らえて助命を乞うが斬首される。。

穏やかな筆勢で、いかにも優しい貴族的な書風である。

おほいとのの申せと

木曾義仲・下文

2007-06-20 09:41:58 | Weblog

木曾義仲(1154-1184)
頼朝に先んじ京に入り平家を追放し、征夷大将軍を名乗るが、
義仲は軍事的には天才だったが、政治家としては凡才だったのだろう。
後白河法皇の勘気を蒙るなど、政権を纏められず、
頼朝派遣の義経、範義軍に破れる。
頼朝とは従兄弟関係にあるが、
祖父の源為義と伯父の源義朝が対立以来、
父義賢が頼朝の兄義平に殺されるなど、
頼朝との因縁は深い。

平家物語の中に、
「色白う眉目(みめ)は好い男にてありけれども、起居のふるまひの無骨さ、もの言ひたる詞続きのかたくななる(みっともない)事限りなし。理かな、二歳より三十に余るまで、信濃國木曾と云ふ片山里に住み馴れておはしければ、なじかはよかるべき。」
とあり義仲は粗野では有るが美男であったらしい。
また、義仲の愛妾巴御前は武勇の誉れが高く、
大の男をひねり潰す大力で知られているが、
同じ平家物語に、
「色白く髪長くして、容顔誠に美麗なり」
とある。どんな人だったのだろう、想像するだけでも楽しい。
義仲が討死すると、一人の尼が墓のある義仲寺に住み着いた。
この尼が巴御前であったという伝説があり、
義仲寺は巴寺ともいう。
この巴御前の書も見付からない。
やはり、架空の人物だろうか。

一癖ある書風、片意地の強さを感じる。

可早如旧令安堵事

平清盛・平家納経願文

2007-06-19 08:41:42 | Weblog

平家納経は、平家の繁栄を願い一族郎等が一人一巻を分担して書写し厳島神社に奉納された。この願文は清盛の自筆と言われている。
この納経の表紙から全文に至り善美を尽くし絶頂期の平家の栄華を物語っている。

一門の棟梁たる自信に溢れ雄々たる書風である。

平清盛・書状

2007-06-18 06:59:53 | Weblog

平清盛(1118-1181)
忠盛の長男。
忠盛の妻が白河法皇に寵愛された祇園女御であり、
清盛は白河法皇の子との説もある。
保元、平治の乱で勝者となり、後白河法皇の信頼を得て、
太政大臣にまで上り詰める。
終には、政治権力を一手に握り、
後白河法皇を幽閉するなど平家の権力を維持したが、
1181年、清盛は熱病にて世を去る。
壇ノ浦に於ける平家滅亡は清盛死後、僅か4年後である。

余談だが、
佐藤義清(後の西行)、遠藤盛遠(後の文覚)、源渡は、
それぞれ同年輩であり、清盛の青年時代、北面の武士として同僚であったらしい。
源平盛衰記によると、
遠藤盛遠は同僚の源渡の妻袈裟御前に懸想し、
渡を殺すつもりが身代わりとなった袈裟を殺してしまう。
盛遠はこれを恥じて出家して文覚を名乗る。

文覚が袈裟御前の菩提を弔うために建てたと言われる恋塚寺、
これが伏見の上伏見、下伏見の二箇所にあるのが不思議だが、
恋塚寺、名前がまたロマンをそそる。
下伏見の恋塚寺には、
文覚上人、袈裟御前、源渡の木像が並んで安置されいるそうだ。

進上之於件郷者

源頼政・書状

2007-06-17 09:08:49 | Weblog

源頼政(1104-1180)
本来は源氏の本流とされる。
保元、平治の乱で後白河法皇に付き、
平家政権下で源氏の長老として中央政界に留まるも、
平氏の専横を不満とし平氏打倒の兵を挙げるが敗れて自害する。
嫡子仲綱が清盛の三男の宗盛にひどい侮辱を受けたのが挙兵の原因とも言われる。
鵺(ぬえ)退治など、武勇の説話が残るが、
歌人としても名を残している。
歌人らしい柔らかさのある書の中に頑固一徹な芯の通りを見る。

来二十二日法勝時常行