書の歴史を臨書する

古今の名磧を臨書、最近は米フツ。
時折、気の向くままに漢詩や詩、俳句などを勝手気侭に書いております。

曾侯乙編鐘臨書

2006-04-30 12:49:58 | Weblog

均整の取れた構成、一本一本の線の美しさ、清清しさ、
一字一字もさることながら全体としての淀みない厳しい調和、
当時の書家が命がけで、書かされ書き、美の追求をしたのであろう。
我々の臨ではとても表現し切れない緊張感を覚える。

甲骨文字

2006-04-26 15:22:16 | Weblog

殷王朝の前の王朝、夏王朝の存在も明らかに成りつつある。
1990年までに、合計41回の二里頭遺跡が発掘された。
二カ所の宮殿址、住居址五十余、青銅器の工房址、大量の青銅器、
トルコ石の象嵌を施した青銅製の牌飾などが出土し、
夏王朝が二里頭に存在したとする確度が高まった。
夏王朝の期間は「紀元前2070年から紀元前1600年」とされている。
殷王朝に於ける甲骨の如き、夏王朝の存在を実証するものは見付かっていないようだ。
更に2004年には、
夏王朝の王城と見られる巨大な宮殿址が発見されたと報道されている。
近々、
前述の記号・符号・紋章らしきものと甲骨文との断絶が埋められるかも知れない。


甲骨文字 舞遊

2006-04-25 16:34:52 | Weblog

舞は両脇に羽の様なものをぶら下げて呪文を唱えてる姿らしい。
遊は斿が元々の字、斿は旅先で立てた氏族の簱の下に子供が居る図。
遊は神事に関係した字で、遊女は元々神に仕える女性らしい。
敬語「あそばさる」はここが発生元だとか。
--白川静著「字統」参照--

東巴文字 風

2006-04-21 10:04:11 | Weblog
一寸、脇道にそれる。
これは東巴文字の風、
単純明快だ。
同じ象形文字でも劇的に異なる。
甲骨文字が、ざっと3000年前、
東巴文字は1000年前といわれている。
当時の文化の中心だったであろう黄河流域、
当時の僻地の僻地、現在でも僻地に近い雲南奥地の麗江周辺、
当時当所の文化人達の思考は如何なるものであったのか。
東巴文字は、麗江周辺を生活拠点とする少数民族の納西族に伝えられ、
現在でも実用(祭祀等に限られるが)に供されている。
文字を持つ少数民族は極めて少ない。
納西族は頭脳明晰な民族としても知られている。