優緋のブログ

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「花を」若年性アルツハイマー病と生きる夫婦の記録

2006-05-09 11:22:40 | 読書
真鍋弘樹著 朝日新聞社 2006年1月30日発行

朝日新聞に掲載された、松本照道さん・恭子さんご夫妻、斉藤朝子さん・清昭さんご夫妻に関する記事とそれに対する反響を加え、それを大幅に加筆されたものです。

アルツハイマーの介護は本当に大変だと思います。
家族が、伴侶が、どんどん出来ないことが増えていく現実を見せられる毎日。
限りなくゼロに向かってゆくのを見守るしかない。

でも、悲観と絶望だけでしょうか?
そうではないことを、この本は教えてくれます。
確かに大変だけれども、失うものも多いけれど、希望もあるし、返って得られるものさえあるのだということを。

松本照道さんは父親の通夜に向かう車の中で夕陽を見て恭子さんに言います。
「見ろ、見ろ、母さん。本当に夕日が綺麗だなあ。」
もう母親の顔も分からず、棺に納められた父親を見ても自分の父とは分からなくなっている夫。
それでも、美しいもとを美しいと感じる心が、夫にはしっかり残っている。
恭子さんにはそのことがうれしかった。

一週間後、実家に夫を迎えに行く車の中で、恭子さんは同じように夕陽を見ます。
この前とまったく同じ風景のはずなのに、一人で見る夕陽はまるで違って見える。一人ではなく、二人で感動することの意味、父さん(照道さん)がそばにいることの意味が夕陽の残像とともに恭子さんの体に染みとおった。


斉藤清昭さんは一日のほとんどを妻の朝子さんを介護する生活を「むしろ幸せでぜいたくな人生ではないか」とさえ言います。
それは、すでに介護期間が20年近くたち、様々な苦悩や葛藤を乗り越えたこそ言える言葉なのかもしれません。

朝子さんはすでに言葉をなくし、排便も食事も一人ではできない要介護5に認定されている状態です。
それでも、寝たきりにならず、清昭さんとヘルパーさん二人がかりですが、毎日の入浴に加え、一日4回の散歩もこなしているのです。

朝子さんはすでに言葉をなくしているため清昭さんと会話をすることが出来ません。それでも、清昭さんの姿が見えないと必死で目で探し、見つけるとふっと笑みを浮かべるといいます。
清昭さんは朝子さんの目と表情で会話をしているのです。


認知症の人はよく「赤ちゃんがえりをする」と言われます。
しかし、認知症の人といえども決して何も分からないわけではなく、記憶力が衰えていくことで本人も苦しんでいる。
そして、うれしい、悲しい、辛いといった感情は生きているのです。

松本照道さんは広島でおこなわれた「痴呆を理解する広島国際会議」で自分の思いを自分で語りました。
「…わたしは、あたまはびょうきでも体はとても元気です。
重いにもつも運べます。
だから、することをいってもらえば、たいていのことはできます。人のやくに立つこともできます。
・・・できたことが、どんどんできなくなっていくくやしさや、あたらしいことをおぼえることのできないなさけなさをわすれて、明るくくらしたいです。
…わたしと同じ病気の人たちも、ささえてくれる人がいればふつうに暮らせます。わたしたちが、ささえてくれる人と、一緒に、笑顔ですごせる時間と場所づくりも、こころからお願いします。」

恭子さんが連日の残業で疲れ、持ち帰った仕事をしながらうたた寝をしてしまったある夜、ふと目を覚ますと肩からタオルケットがかけられています。
傍らを見ると、照道さんもソファでソファカバーに包まって蓑虫のように小さくなって寝ています。
恭子さんが寒いだろうとタオルケットをかけてやったものの、自分の布団か毛布を押入れから持ってくることを思いつけずに・・・。

アルツハイマーになって、いろいろなことができなくなったとしても、長年連れ添った相手のことを思いやる心は残っていることに、胸が熱くなりました。


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