織田・徳川連合軍と武田軍が戦った長篠の合戦の長篠城へ行きました。
JR飯田線・長篠城駅、もちろん無人駅です。公衆トイレではありません。
長篠城址史跡保存館の案内板。鳥居強右衛門については何かで読んだ記憶がありましたが、地元でこんなにヒーローとして扱われているとは知りませんでした。
長篠城址史跡保存館
保存館に入ると真っ先に鳥居強右衛門の説明があります。
長篠城跡の案内板
長篠城跡の石碑
本丸跡。野球グラウンドくらいの広さです。
本丸土塁
本丸跡のすぐ下を飯田線の線路が通っています。本丸跡を削って線路を敷設したようです。
土塁と飯田線の線路
空堀
武田勝頼由来の「さかさ桑」
徳川方の奥平貞昌が守る長篠城は武田勝頼の大軍に包囲され、孤立しました。奥平の家臣・鳥居強右衛門は援軍を呼ぶために城を脱出、織田・徳川軍と連絡をつけ、城に戻る途中で武田軍につかまりました。鳥居は武田方に「援軍は来ない」と城兵に叫べと強制されましたが、それを拒否したために磔となり、徳川軍の英雄となったのです。
長篠の合戦は長篠城の籠城戦が第1部、織田・徳川連合の援軍がきて設楽原に馬防柵など防衛ラインを構築、そこへ武田軍が押し寄せ、両軍が対峙しました。
第2部の戦闘は織田・徳川軍の別働隊が長篠城包囲に残った武田軍の支隊に対し迂回攻撃を加え籠城軍と合流、武田の支隊は壊滅。
武田軍は西側の織田・徳川の本隊、東側からの長篠城奥平隊と別働隊に挟まれ、ついに織田・徳川本隊との決戦を挑み、織田軍の鉄砲隊により壊滅させられたというのが第3部の本戦です。
武田の騎馬隊は織田の鉄砲隊に敗れた、織田信長は鉄砲を活用し戦法に革命をもたらしたとされています。
そういった定説に意義を唱えるのは「長篠の戦い」(洋泉社歴史新書)の著者・藤本正行氏。氏は信長の戦法が優れていて、勝頼が愚かだったわけではなく、勝敗を分けたのは鉄砲の多い少ないの差であったと主張します。
よく言われている織田軍の鉄砲三千丁三段撃ちは弾込めに個人差が大きいので実戦では無理である、1順目は一斉射撃が可能でも2順目は早く弾を込めた人から先に射撃をしたと考えられる、全員が揃うまで待っているのでは射撃の好機を逸するといいます。
当時弾込めには数分を要し、三段撃ちを可能にするには全員が数十秒で弾込めを完了させなければならない。全員がそんな離れ業を行うのはあり得ないそうです。
武田軍の敗因は時代遅れの騎馬隊にあったのではなく、大量の鉄砲や弾薬用の硝石を入手しにくいという甲斐信濃の地理的なハンディにある。また兵力も織田・徳川軍の38000人に対して武田軍の15000人ではなかなか勝ち目はない。
織田・徳川軍の別働隊が武田の包囲軍を撃破した時にすでに勝負ありで、その時点で武田の選択肢は戦わずに甲斐信濃へ脱出するか織田・徳川の本隊と決戦に挑むかしか残されておらず、織田方には京都など他の地域で波乱が起きない限りは負ける要素はほぼなかったということです。
そもそもは武田勝頼は三河へ進軍したことが間違いだったようです。
設楽原歴史資料館にも行きたかったのですが徒歩だと40分くらいかかるそうなので断念しました。
JR飯田線・長篠城駅、もちろん無人駅です。公衆トイレではありません。
長篠城址史跡保存館の案内板。鳥居強右衛門については何かで読んだ記憶がありましたが、地元でこんなにヒーローとして扱われているとは知りませんでした。
長篠城址史跡保存館
保存館に入ると真っ先に鳥居強右衛門の説明があります。
長篠城跡の案内板
長篠城跡の石碑
本丸跡。野球グラウンドくらいの広さです。
本丸土塁
本丸跡のすぐ下を飯田線の線路が通っています。本丸跡を削って線路を敷設したようです。
土塁と飯田線の線路
空堀
武田勝頼由来の「さかさ桑」
徳川方の奥平貞昌が守る長篠城は武田勝頼の大軍に包囲され、孤立しました。奥平の家臣・鳥居強右衛門は援軍を呼ぶために城を脱出、織田・徳川軍と連絡をつけ、城に戻る途中で武田軍につかまりました。鳥居は武田方に「援軍は来ない」と城兵に叫べと強制されましたが、それを拒否したために磔となり、徳川軍の英雄となったのです。
長篠の合戦は長篠城の籠城戦が第1部、織田・徳川連合の援軍がきて設楽原に馬防柵など防衛ラインを構築、そこへ武田軍が押し寄せ、両軍が対峙しました。
第2部の戦闘は織田・徳川軍の別働隊が長篠城包囲に残った武田軍の支隊に対し迂回攻撃を加え籠城軍と合流、武田の支隊は壊滅。
武田軍は西側の織田・徳川の本隊、東側からの長篠城奥平隊と別働隊に挟まれ、ついに織田・徳川本隊との決戦を挑み、織田軍の鉄砲隊により壊滅させられたというのが第3部の本戦です。
武田の騎馬隊は織田の鉄砲隊に敗れた、織田信長は鉄砲を活用し戦法に革命をもたらしたとされています。
そういった定説に意義を唱えるのは「長篠の戦い」(洋泉社歴史新書)の著者・藤本正行氏。氏は信長の戦法が優れていて、勝頼が愚かだったわけではなく、勝敗を分けたのは鉄砲の多い少ないの差であったと主張します。
よく言われている織田軍の鉄砲三千丁三段撃ちは弾込めに個人差が大きいので実戦では無理である、1順目は一斉射撃が可能でも2順目は早く弾を込めた人から先に射撃をしたと考えられる、全員が揃うまで待っているのでは射撃の好機を逸するといいます。
当時弾込めには数分を要し、三段撃ちを可能にするには全員が数十秒で弾込めを完了させなければならない。全員がそんな離れ業を行うのはあり得ないそうです。
武田軍の敗因は時代遅れの騎馬隊にあったのではなく、大量の鉄砲や弾薬用の硝石を入手しにくいという甲斐信濃の地理的なハンディにある。また兵力も織田・徳川軍の38000人に対して武田軍の15000人ではなかなか勝ち目はない。
織田・徳川軍の別働隊が武田の包囲軍を撃破した時にすでに勝負ありで、その時点で武田の選択肢は戦わずに甲斐信濃へ脱出するか織田・徳川の本隊と決戦に挑むかしか残されておらず、織田方には京都など他の地域で波乱が起きない限りは負ける要素はほぼなかったということです。
そもそもは武田勝頼は三河へ進軍したことが間違いだったようです。
設楽原歴史資料館にも行きたかったのですが徒歩だと40分くらいかかるそうなので断念しました。
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