どこへ行っても補欠会員

いつでもどこでも補欠人生を歩む自称「補欠会員」の嘆きの日記です。

今日は久しぶりに晴れた

2006年07月26日 | Weblog
 久しぶりに晴れたうえ、地域の所用でアルバイトを休んだのだから百姓をしても良かった。だが百姓はしなかった。雨が降っているときは雨を理由に百姓を休み、今日のように久しぶりに暑くなれば暑いことを理由にさぼる。人間の理屈は都合良くできていますなぁ(笑)。

 さて、今日の日記は何にしようか。題材が浮かばない。と言うことで、これで日記を終わります(笑)。

ネオリベラル・終

2006年07月25日 | Weblog
 ネオリベ(新自由主義)礼賛シリーズはそろそろ終わりにしよう。今年に入って新聞各社の論調が明らかに変化しているので、奴らのいかれた考え方を支持する人もだんだん減ってくるだろう。

 毎日新聞社会部が連載している「縦並び社会」シリーズの第5部が始まった。「格差克服への提言」として各界有識者の提言を乗せている。シリーズ第一弾は経済評論家の内橋克人氏。難しい数式などを駆使して知ったかぶりをする学者と違って、人間生活の視点から経済を論ずる第一人者。私の好きな人だ。
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/tatenarabi/

 ◆「共生経済」へかじを--経済評論家・内橋克人氏
 バブル崩壊後の「長期構造的停滞」をもたらしたものは、狂乱的な土地投機や金融資本の節度喪失、もとをたどれば円高誘導を決めた85年のプラザ合意以降の日本政府の重大な「政策エラー」に真因があった。

 ところが一部の論者は巧みに現実をスリ替え、あたかも公正や平等に価値を求める在来の価値観に不況や停滞の原因があったごとく唱え始めた。彼らは平然と「悪平等主義」とか「ぬるま湯につかる日本人」、ついには「日本型社会主義」なる珍語までひねり出し、長期停滞の責をもっぱら社会一般、とりわけ働く者に転嫁し、糾弾を始めた。

 アメリカ帰りのある学者は「格差ある社会は活力ある社会」などといい、「金持ちにうんと金持ちになってもらうほか、日本が豊かになる選択肢はない」とまで公言している。その後、この人物が経済政策を担った。日本財界、超富裕層の長きにわたる宿願が、すべて見事に達せられた。ごく普通に生きる日本人の「不幸の始まり」だ。

 社会をむしばむ「格差」を一気に深めたものは、小泉政権が完成させた雇用・労働の解体だ。この政権は「改革」の名において、経済界の悲願であった「雇用・労働の規制緩和」の流れを一気に加速させ、不可逆で決定的なものとした。03年改正における差別的派遣労働の全面解禁(期間の上限延長)、製造業への派遣労働の解禁断行などがその核心的なものだろう。まさにここに「格差問題」の起源は発している。

 いま、私たちは「あるべき日本社会」の展望を打ち出さねばならない。時の権力に密着してグローバルスタンダードなる「幻想」をふりまき、「既得権」を糾弾しながら「新規権益」をほしいままにした不公正な「利得者」らをあぶり出すことだ。市場が市民社会を支配するのではなく、社会で暮らし、働く人々を守る新たな「共生経済」へ向けてかじを取るほかにない。(毎日新聞7月24日)
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 ◆名指しこそしていないが、時の権力に密着してグローバルスタンダードなる「幻想」をふりまき・・は竹中平蔵。「既得権」を糾弾しながら「新規権益」をほしいままにした不公正な「利得者」・・は宮内義彦のことを指している。温厚な内橋氏が、「彼らをあぶり出さなければならない」と怒っている。毎日新聞がんばれ。

ネオリベラル・7

2006年07月24日 | Weblog
 ネオリベラリズム(新自由主義)礼賛(?)その7。なんてったってネオリベ。そのダイナミックな思想は他の追随を許さない(笑)。今日はグローバリズム。

 ネオリベ思想はグローバリズムに行き着く。

 グローバリズムとは・・・最近耳にする言葉だが歴史は古い。戦後のIMFガット体制(プレズンウッド体制)スタートが、そもそもグローバリズムの始まりと言ってもいい。ケネディラウンド~東京ラウンド~ウルグアイラウンド~WTOへと、一貫して自由化を推進してきた。

 リードしてきたのはアメリカ。そのアメリカを支配するのは、昔は多国籍企業と呼ばれ、今は国際金融資本と呼ばれている無国籍大資本だ。この大資本は、昔は物作りや産業金融などを手掛けていたが、いつの間にか資本が資本を飲み込む方法でコングロマリット(多角的複合企業体)となり、それが金融資本に飲み込まれる形で、今や一握りの国際金融資本に収斂されている。もの作りなどの経済活動は一切しない資本の論理むき出しのハゲタカだ。

 この無国籍国際金融資本の理想は世界単一市場である。「世界は一つ」という美しいお題目(笑)を唱えて、政治力と軍事力をバックに世界中の市場をこじ開けようとしている。それに負けじと我が国の大企業もひたすら合併を行い、飲み込まれないように大きくなろうとしている。それがグローバリズムの正体である。

 グローバリズムは、各国各地の伝統文化や連綿と受け継がれてきた精神文化を破壊する。真面目に物を作り、サービスを提供してきた会社が、ある日突然、資本だけの資本に買収支配されてしまう。買収した資本は会社を解体し、優良部門は高く売り、収支トントンの部門は従業員を解雇して「体質を強化」したうえで売却する。

 利益を上げることが「正義である」という考え方だから始末が悪い。従業員を全員解雇しようが、物作りやサービスを止めようが、それが利益をもたらせば正しいという理屈だ。この狂った理屈を当然であると支持する人が多いのに驚く。構造改革があれだけ支持されるのもなんとなくわかる。そういう人達には、7月21日のNHKスペシャル「ラテンアメリカの挑戦」を見て改心して欲しかったが、見なかったでしょうなきっと(笑)。

 今日もまたネオリベ礼賛じゃなく悪口になっちゃった(笑)。 

久しぶりにGKA

2006年07月22日 | Weblog
 群馬国際アカデミー(群馬県太田市の英語教育特区校)をめぐる、小寺(群馬県知事)VS清水(太田市長)のバトル。

 ◆毎日新聞 2006年7月22日
 ◆太田市の清水聖義市長が理事長を務める私立「ぐんま国際アカデミー」への私学助成問題について、清水市長は21日、県庁で高木勉副知事と会談した。高木副知事は同市が04年に同年から8年間、毎年1000万円を運営経費として同校に補助するという文書が県に提出されていると、清水市長に確認を求めた。これに対し、清水市長は「知らなかった」と回答。だが、同席した同市幹部は文書の提出を認めたという。会談では同校への私学助成については進展はなく、清水市長が1000万円の補助を含めた同校への財政支援を検討し、改めて県に説明するとした。

 ◆会談は約3時間に及び、席上、高木副知事は「太田市は同校の生みの親としての責任を果たしてもらいたい。普通、私立校なら、まず理事長が財政的責任を持つべきだ」と迫り、「経営に関する収支計画を示してもらいたい」と求めた。清水市長は「来週中には(収支)計画を提示したい」と答えたという。

 ◆会談後、清水市長は報道陣に「県が市に対してどのくらいの責任、どのくらいの財政支出を求めているのか分からないが、公立小中学校への補助金などから、今後、どの程度の支出ができるかを検討して、県に説明したい」と述べた。

 ◆一方、記者会見した高木副知事は「まず、市が今後提示する同校の収支計画や、市の財政支出を見た上で、私学助成ができるか否か判断したい」とした。【木下訓明】
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 6月13日の日記で、小寺知事は原則論を曲げないし、清水市長も開き直って「法に定められているのだからそのとおり執行せよ」との原則論を展開したから、「話し合いはなくなった」と書いたが話し合いが始まった。清水市長が膝を屈した形だ。

 弱みがあるのは清水市長側だから清水さんが膝を屈するのは当然だが、水に落ちた犬を叩くのかすくい上げるのか、今度は知事側の対応が注目だ。頭を下げてきた人をむげに追い返すのは日本の文化にはない。

 大人の対応で案外丸く収まるだろう。めでたしめでたしとなりそうですね。無責任なギャラリーとしては、もう一波乱あって楽しませて貰いたいところですが(笑)。

ネオリベラル・6

2006年07月21日 | Weblog
 ネオリベラリズム(新自由主義)礼賛(?)その6。なんてったってネオリベ。そのダイナミックな思想は他の追随を許さない(笑)。今日は労働市場。 

 ◆自民党の「外国人労働者等特別委員会」(木村義雄委員長)は、18日の会合で外国人労働者の受け入れ拡大を目指す方針をまとめた。(2006年7月18日読売新聞)◆

 ↑新自由主義者は活躍していますなぁ(笑)。彼ら(小泉・小泉亜流)が政権を握っている限りは、こうした方向に進むこと間違いなしだ。新自由主義者は基本的にすべての規制に反対する。労働市場も例外なく自由であるべきだと考える。

 政府が余分な法律を制定すると、放っておけば自然に需要と供給が一致する自由な市場を歪め、不効率と無駄が生じて好ましくない。という思想だ。故に、最低賃金制度にも反対する。法律で最低賃金を定めると、最低賃金以下なら雇っても良いと言う会社と、最低賃金以下でも働きたいという人の雇用機会を奪ってしまう。これでは失業問題は解決しないとさ。本音は違うところにあると思うがねぇ(笑)。

 彼らは移民規制にも反対する。人も労働者も国境を越えて自由に移動できるべきだと主張する。民主党前代表の前原も岡田もそうした考え方だ。彼らも小泉同様ネオリベだからね。

 さて、こうした社会が出現すると、企業は、ミャンマーや中国奥地から時給200円の労働者を大量に輸入して、年収800万円の正社員と入れ替えるだろう。1人首にすれば10人以上雇える。タコ部屋に押し込んで1日12時間労働も可能となる途方もない世界だ。大企業にとっては笑いが止まらないだろうが、日本に住む労働者は外国人に職を奪われ、息も絶え絶えになるだろう。

 WTOもGATSも正義ではない。主権は国にあるのだから、労働市場の開放には頑として抵抗すべきだ。あれ?今日はどうしたことか、新自由主義礼賛ではなく抵抗勢力口調になっちゃった(笑)。 

ネオリベラル・5

2006年07月20日 | Weblog
 ネオリベラリズム(新自由主義)礼賛(?)その5。なんてったってネオリベ。そのダイナミックな思想は他の追随を許さない(笑)。今日は、17日の日記でちょっと触れた裁判について述べてみる。

 政府は市場に対して中立でなければならない(規制で市場を歪めない)という考え方に立脚すれば、紛争解決マーケット(司法市場)も規制緩和しなければならない。現在は国家がこの市場を独占している。その結果、著しく排他的な免許制度で守られた司法関係者がカルテルを形成し、新規参入を制限しているから、高額な紛争解決料金を支払わされているうえ、裁判に途方もなく日数が掛かっている。

 これを自由化して免許制度を廃止し、誰でも自由に市場参入できるようにすれば、民間の紛争解決サービス業者が価格とスピードと依頼者の利益確保で競争する。そうなれば、山口県光市の母子殺害事件が7年も経過して未だ結審していないような愚は無くなるだろう。新自由主義者は法的サービスを国家が独占することに反対する。

 そもそも国家が犯罪者に刑罰を与える必要があるのだろうか? 光市母子殺人事件だったら、加害者(福田孝行・当時18歳)と被害者(妻子を殺された本村洋及び親族)の問題であり、国や社会は本来無関係の立場である。その無関係の国が被害者(本村洋氏)を蚊帳の外に置き、延々と公費を使って議論を続けているのは無駄であると同時に、被害者の権利を侵害している。

 本村洋氏は「国が福田孝行を死刑にしなかったら、私が自分の手で殺す」と言った。これ(復讐又は損害賠償)がそもそもの原点だ。国の役割は、こうした復讐ならびに被害者に対する損害賠償を担保する役割を担うべきで、余分な刑事罰などを加えるべきではない。当事者でも何でもない国が、加害者を刑務所に送ることで被害者が損害賠償を得る機会を奪っている。

 殺人などの場合は例外的に復讐(死刑)があっても良いが、基本的にはその被害に相当する損害賠償を被害者が加害者から受け取る方法が良い。刑務所は廃止し、加害者が一定期間(或いは一生)就労によって得た賃金で被害者に賠償するシステムだ。例えば、トヨタ自動車タコ部屋工場(笑)で働かせる。働かない奴には飯をくれないから自然に死ぬ(爆笑)。

 新自由主義者の発想はすごいですなぁ(笑)。部分的には共感するが、次のせりふはいただけない。「博打・売春・麻薬などは被害者がいるわけではないし、誰の権利も侵害していないのだから処罰の対象とすべきではない」。

ネオリベラル・4

2006年07月19日 | Weblog
 ネオリベラリズム(新自由主義)礼賛(?)その4。なんてったってネオリベ。そのダイナミックな思想は他の追随を許さない(笑)。今日は教育です。

 民でできることは民でやるべきで、官がやるべきではないとなれば、教育はまさしく民の分野だ。それが何より証拠には、官営の教育に満足しない大勢の人たちが高いお金を払って民営の学習塾に通い、塾は大繁盛している。

 そもそも、教育を受けるか受けないかは基本的に個人の自由であって、これを法律で縛り、強制的に子供を学校に収容する権利は政府にはない。人はいかなる身体的・精神的束縛からも自由であるべきだ。例外は未成年の子供であって、子供は自発的に行動できるまでは親の支配下に甘んじなければならないが、親や家族以外に隷属しなければならないものではない。

 勉強するもしないも基本的に個人の自由であるから、政府が学校と言う名の収容所を税金で作る必要はないし、教育を授ける費用を公金から支出する必要もない。当然、一部の高等教育を受ける人に政府が補助金を与えるのはまったく好ましくない。すべて受益者である当人や家族が自己負担すべきものである。

 当然、誰でも教員になれる(学校に就職する)権利があり、それを決定するのは雇用者(学校経営者)側である。教員資格を政府が制定するのは独占的・排他的市場を恣意的に作る行為であるから、本来自由に開かれるべき教員労働市場を歪め、競争をなくしてしまう弊害が大きいので廃止する。

 こうしてすべての学校を民営化し、教員労働市場が開放されれば、学校間には熾烈な競争がおきる。レベルの高い授業を受けたい需要に応える学校が出現する一方、レベルは低いがアットホーム的な教育を売りにする学校も出現するだろう。授業料の高い学校もあれば安い学校もある。山奥にも一定数の子供がいれば、その需要に見合った供給が出現する。かくして神の見えざる手に導かれ、需要に合致した供給が行われるから無駄はまったくない。

 いやあ、素晴らしいですなぁ(笑)。貧乏人の子供は学校に行かずに働けばいいし、金持ちは有り余る金を投下して子供をエリートに育てるチャンスが広がる。税金は安くなるし、構造改革バンザ~イだ(笑)。

ネオリベラル・3

2006年07月18日 | Weblog
 ネオリベラリズム(新自由主義)礼賛(?)、その3です(笑)。

 なんてったってネオリベ。そのダイナミックな思想は他の追随を許さない(笑)。今日はネオリベの立場から医療を採りあげてみる。ケインジアンは今日も真っ青だろう。

 医療は民営を基本としているが、公立の医療機関も存在する。この公立医療機関が問題だ。税金で運営されている公立病院は、私立の医院や病院が手間が掛かる割りには利が薄いから敬遠している「儲からない医療」を無原則に受け入れている。このため慢性的な赤字体質となり、税金を投入して維持されている有様だ。実にけしからん話だ。公立だから、採算を度外視してもつぶれないという「甘え」があるのだ。

 一方、民営の医院は素晴らしい経営を行っている。手間が掛かり、リスクの大きい「本物の病人」は紹介状を書いて公立病院に送り込み、リスクが少なくて手間の掛からない優良顧客(健康な老人)を抱え込む合理的な経営を行っている。公立の病院もこうあるべきだ(笑)。いや、税金を無駄遣いしている公立病院はすべて民営化すべきだ。

 そもそも、政府が余分な法を制定して市場の中立性を歪めているのが間違いだ。医療保険制度と医師国家試験制度は即刻廃止すべきだ。免許制度を廃止し、医者になりたい人は誰でも好き勝手に医者になれるのが正しい姿だ。そうすれば、一流医大を卒業した医者は高級病院に勤務できるし、医学を学んでいないが医者になりたい人は自分で小さな医院を開業し、ボランティア価格で貧乏人を救えばいい。金持ちは一流病院に掛かって高い料金を払えばいいし、貧乏人はボランティア価格の医者に診て貰えばいい。公的医療保険制度は当然廃止する。各々が自分の所得に見合った民間医療保険に加入すればいい。保険屋(オリックス)の宮内さんが待っていますよ(笑)。

 こうして「神の見えざる手」に導かれて需要と供給はバランスする。この市場には、政府の恣意的な法律制定による歪みはない。素晴らしい世の中ですなぁ(笑)。

 明日は教育を採りあげてみよう(笑)。  

ネオリベラル・2

2006年07月17日 | Weblog
 ネオリベラル(新自由主義・市場原理主義)思想はとにかくユニークだ。政府は市場に対して中立でなければならない(規制で市場を歪めない)という考え方だから、現在の世の中に存在するありとあらゆる規制に反対する。

 こうした思想だと、婚姻制度を法律に定めることも「市場を歪める」ことになる。婚姻を法に定めると、自由にくっついたり離れたりする権利を阻害することになる。男と女が、或いは男と男、女と女、又は男と複数の女が共同生活を営むのに法は不要であるという考え方だ。当事者同士が、契約の自由に基づいて自由に契約すればいいだけの話だ。素晴らしいですなぁ(笑)。

 結婚がなければ離婚もない。あるのは共同生活契約の解消だけだ。この契約の解消も、当事者同士で決めてもいいし、裁判所や地域や親族の調停に委ねても良い。

 裁判に対する考え方もユニークだ。裁判所は民営化できるし、そもそも裁判所は誰でも好き勝手に開業できるべきだとなる。もちろん資格などは不要である。誰でも裁判官にも弁護士にもなれる。示談屋業ですね(笑)。

 あまりの素晴らしさに、今晩あたり、生まれ変わってもう一度青春を謳歌する夢を見そうです(笑)。

ネオリベラル

2006年07月16日 | Weblog
 ネオリベラル(新自由主義)は、政府が市場に介入することに基本的に反対する。市場は放っておけば最適に達するのに、政府が介入することで市場の中立性を損ない、歪みを生み出す。と言う。民間の自由意思に基づく取引は(神の見えざる手に導かれて)最善に到達するが、政府の介入(特定の人による恣意的な権力行使)は、往々にして間違った結果に到達する(人は神ではないから)。という考え方だ。

 彼らは例として公共事業を挙げる。税金を徴収して道路建設の公共事業を行うが、いつの間にか公共事業を実施することが目的化して、結果として人の通らない無駄な道路が建設される。一方、この公共事業が実施されなければ、その分の税金は徴収されないから、個人の自由意思に基づく消費に向かう。無駄はない。という考え方だ。

 無駄があったっていいと思いますがね(笑)。例えば図書館。図書館の利用者は最大に見積もっても全体の2割がいいところだ。8割以上の人が利用しない。となると、2割以下の利用者のために8割以上の人の税金が使われ、甚だ不公平であるという理屈が成り立つ。特定の人のために立派な建物を建設し、極めて少数の人が利用するだけか或いは殆ど利用されない書物を毎年購入する。冷暖房費を掛け、多数の公務員を雇って多額の税金を使っている。無駄も甚だしいという理屈になる。

 民で出来ることを官がやるべきではないとなれば、図書館も民営が正しいことになる。受益者負担の有料図書館(又は貸本屋)でいいという話だ。

 公園もそうだ。前橋日吉町公園は、日吉町界隈の人がたまに利用するだけで普段は殆ど人がいない。前橋市民32万人の1%以下の人も利用していない。この維持管理費を税金から払っているのだから、これも構造改革論者・新自由主義者の理屈から言えば無駄であり、民間に売却するのが正しいことになる。民間はこれを買って有料化すればいい話だ。

 こうしてケインズ主義者が税金を無駄に使用していることを止めれば、その無駄遣い分は民間所得として有効に活用されるから資源配分は最適になる。という理屈を大真面目に叫んでいるのが構造改革論者である(笑)。笑い話ではない。

 しかし新自由主義者が唱える地方分権はいまいちわからない。彼らの思想から言えば、地方自治体は大きかろうが小さかろうが問題ではない。余分なことをしない自治体が理想だから、税金は安く、サービスを受けたければ自分でカネを払うシステムになる。或いは高福祉・高負担を選択するのも住民の自由だ。嫌なら引っ越せばいいだけの話だ。

 地方分権などと政府が口出しする考え方が、そもそも新自由主義者には不似合いだ。どうぞ好き勝手に生きてください、というのが基本的な考え方だ。だから太田・本間懇談会で「人口と面積を基準にした歳入保障型交付税」構想が出てきたのだろう。合併するもしないも自治体の住民が決めることで、政府は口出ししないかわりに面倒は見ません。税金を付けてあげるからあとは好き勝手にどうぞ。ってなところだろう。

 構造改革を支持する人達は概ね錯覚している。政府が構造を改革してくれるから世の中が良くなる(政府がよくしてくれる)と思っている人が多い。受け身(国に頼る)の考え方なのだが、これは基本的に間違いだ。「国は何もしませんよ。これからは自分たちで勝手に生きてください。」という社会に作り替えるのが構造改革なのだから。